●歌は、「道の辺の茨のうれに延ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」である。
●歌をみていこう。
◆美知乃倍乃 宇万良能宇礼尓 波保麻米乃 可良麻流伎美乎 波可礼加由加牟
(丈部鳥 巻二十 四三五二)
≪書き下し≫道の辺(へ)の茨(うまら)のうれに延(は)ほ豆(まめ)のからまる君をはかれか行かむ
(訳)道端の茨(いばら)の枝先まで延(は)う豆蔓(まめつる)のように、からまりつく君、そんな君を残して別れて行かねばならないのか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)うまら【茨・荊】名詞:「いばら」に同じ。※上代の東国方言。「うばら」の変化した語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)うれ【末】名詞:草木の枝や葉の先端。「うら」とも。
(注)「延(は)ほ」:延フの東国系。(伊藤脚注)
(注)君:作者が仕えた屋敷の若様か。(伊藤脚注)
左注は、「右一首天羽郡上丁丈部鳥」<右の一首は天羽(あまは)の郡(こほり)上丁(じやうちゃう)丈部鳥(はせつかべのとり)
(注)天羽郡:千葉県富津市南部一帯。(伊藤脚注)
四三四七から四三五九歌までの歌群(十三首)に対する左注は「二月九日上総國防人部領使少目従七位下茨田連沙弥麻呂進歌數十九首 但拙劣歌者不取載之」<二月の九日、上総(かみつふさ)の国(くに)の防人部領使(さきもりのことりづかひ)少目(せうさくわん)従七位下茨田連沙弥麻呂(まむだのむらじさみまろ)。進(たてまつ)る歌の数十九首、ただし、拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず>である。
上総国(千葉県中央部)からの防人達は、防人部領使(さきもりのことりづかひ)に連れてこられ、難波の国で中央の役人に引き継がれるのである。
大伴家持は、中央の役人、兵部少輔としての仕事をしていたので、防人達の歌は家持の手に渡ったのである。この上総国の場合は、十九首が家持の手に渡ったのであるが、「拙劣の歌」六首は没になり、十三首が収録されたのである。
十三首すべてを通してみてみよう。
■四三四七歌■
◆伊閇尓之弖 古非都ゝ安良受波 奈我波氣流 多知尓奈里弖母 伊波非弖之加母
(日下部使主三中父 巻二十 四三四七)
≪書き下し≫家にして恋ひつつあらずは汝(な)が佩(は)ける大刀(たち)になりても斎(いは)ひてしかも
(訳)家に残って恋い焦がれてなどいないで、お前がいつも腰に帯びる大刀、せめてその大刀にでもなって見守ってやりたい。(同上)
(注)てしかも 終助詞 《接続》活用語の連用形に付く。:〔詠嘆をこめた自己の願望〕…(し)たいものだなあ。 ※上代語。願望の終助詞「てしか」に詠嘆の終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)
左注は、「右一首國造丁日下部使主三中之父歌」<右の一首は国造丁(くにのみやるこのちやう)日下部使主三中(くさかべのおみみなか)が父の歌>である。
(注)父の歌は、防人歌中、この一首のみ。(伊藤脚注)
■四三四八歌■
◆多良知祢乃 波々乎和加例弖 麻許等和例 多非乃加里保尓 夜須久祢牟加母
(日下部使主三中 巻二十 四三四八)
≪書き下し≫たらちねの母を別れてまこと我れ旅の仮廬に安く寝むかも
(訳)母さん、ああ母さんと別れて、ほんとうにこのおれは、旅の仮小屋なんぞで、気安く眠ることができるであろうか。(同上)
日下部使主三中は、母のことをこれほどに思った歌を詠んでおり、父の歌まで持参しているので、母が詠った歌は、「拙劣(せつれつ)の歌」として「取り載せず」であったかもしれない。
父の歌の「・・・も」が二カ所あるが「・・・母」としているのは、書き手の遊び心「加母」しれない。
■四三四九歌■
◆毛母久麻能 美知波紀尓志乎 麻多佐良尓 夜蘇志麻須藝弖 和加例加由可牟
(刑部直三野 巻二十 四三四九)
≪書き下し≫百隈(ももくま)の道は来(き)にしをまたさらに八十島(やそしま)過ぎて別れか行かむ
(訳)多くの曲がりくねった道をはるばるここまでやって来たのに、この上まだ、たくさんの島々を漕ぎ過ぎて別れて行かねばならぬのか。(同上)
(注)百隈:たくさんの曲り角。「隈」は奥まった恐ろしいところ。(伊藤脚注)
(注の注)くま 【隈】名詞:①曲がり角。曲がり目。②(ひっこんで)目立たない所。物陰。③辺地。片田舎。④くもり。かげり。⑤欠点。短所。⑥隠しだて。秘密。⑦くまどり。歌舞伎(かぶき)で、荒事(あらごと)を演じる役者が顔に施す、いろいろな彩色の線や模様。(学研)
(注)八十島過ぎて別れか行かむ:難波から瀬戸内を渡って故郷遠く別れ行くこと。(伊藤脚注)
(注の注)やそしま【八十島】名詞:たくさんの島。(学研)
左注は、「右一首助丁刑部直三野」<右の一首は助丁(じようちやう)刑部直三野(おさかべのあたひみの)>である。
■四三五〇歌■
◆尓波奈加能 阿須波乃可美尓 古志波佐之 阿例波伊波々牟 加倍理久麻泥尓
(作者未詳 巻二十 四三五〇)
≪書き下し≫庭中(にはなか)の阿須波(あすは)の神に小柴(こしば)さし我(あ)れは斎(いは)はむ帰り来(く)までに
(訳)庭の真ん中にまします阿須波(あすは)の神に小柴を捧(ささ)げ、私は潔斎して無事を祈ろう。無事に帰って来られるその日まで。(同上)
(注)阿須波(あすは)の神:農業神。古事記に大年神の子とする。(伊藤脚注)
(注)小柴:神の憑り代としてさす木の枝。(伊藤脚注)
(注の注)こしば【小柴】名詞:①小さい柴。細い雑木の枝。②「小柴垣(がき)」の略。(学研)
(注)帰り来までに:私が帰ってくるその日までに。(伊藤脚注)
左注は、「右一首主帳丁若麻續部諸人」<右の一首は主帳丁(しゆちゃうのちやう)若麻續部諸人(わかをみべのもろひと)>である。
■四三五三歌■
◆伊倍加是波 比尓々々布氣等 和伎母古賀 伊倍其登母遅弖 久流比等母奈之
(丸子連大歳 巻二十 四三五三)
≪書き下し≫家風(いへかぜ)は日に日に吹けど我妹子(わぎもこ)が家言(いへごと)持ぢて来る人もなし
(訳)家の方からの風は日ごとに吹いて来るけれど、いとしいあの子の、家の便りを持って来てくれる人とてない。(同上)
(注)家風:我が家のある東の方から吹く風。(伊藤脚注)
(注)いへごと【家言】:わが家からの便り。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注)持ぢて:持チテの訛り。(伊藤脚注)
左注は、「右一首朝夷郡上丁丸子連大歳」<右の一首は朝夷(あさひな)の郡(こほり)上丁(じやうちやう)丸子連大歳(まろこのむらじおほとし)>である。
■四三五四歌■
◆多知許毛乃 多知乃佐和伎尓 阿比美弖之 伊母加己々呂波 和須礼世奴可母
(丈部与呂麻呂 巻二十 四三五四)
≪書き下し≫たちこもの立(た)ちの騒(さわ)きに相見(あひみ)てし妹(いも)が心は忘れせぬかも
(訳)飛び立つ鴨の羽音のような。門出の騒ぎの中で、そっと目を見交わしてくれた子、その心根は、忘れようにも忘れられない。(同上)
(注)たちこもの:「立ちに騒ぎ」の枕詞。「たちこも」は立ツ鴨の訛り。(伊藤脚注)
(注の注)たちこもの:枕 「発(た)ち」または「発ちの騒き」にかかる。語義、かかり方は未詳。 ⇒[補注]:「立ち鴨の」の上代東国方言形で、鴨の群がいっせいに飛び立つ時の騒がしさをあらわして「発ちの騒き」に続くと見る説が有力であるが、「立薦(たつこも)」の上代東国方言と見て、同音で「立つ」にかかるとする説もある。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
左注は、「右一首長狭郡上丁丈部与呂麻呂」<右の一首は長狭(ながさ)の郡の上丁丈部与呂麻呂(はせべのよろまろ)>である。
■四三五五歌■
◆余曽尓能美 々弖夜和多良毛 奈尓波我多 久毛為尓美由流 志麻奈良奈久尓
(丈部山代 巻二十 四三五五)
≪書き下し≫よそにのみ見てや渡らも難波潟(なにはがた)雲居(くもゐ)に見ゆる島ならなくに
(訳)自分とはただ無関係なものとして眺めるだけで早(はや)海を渡っていかねばならぬのか。ここ難波潟の地は、雲の彼方はるか離れた縁もゆかりもない島であるわけでもないのに。(同上)
(注)よそにのみ:ただ自分とは無縁のものとして(広辞苑無料検索より)
(注)渡らも:渡らねばならぬのか。モはムの訛り。上のヤに応じる。(伊藤脚注)
左注は、「右一首武射郡上丁丈部山代」<右の一首は武射(むざ)の郡上丁丈部山代(はせべのやましろ)>である。
■四三五六歌■
◆和我波々能 蘇弖母知奈弖氐 和我可良尓 奈伎之許己呂乎 和須良延努可毛
(巻二十 四三五六)
≪書き下し≫我が母の袖もち撫(な)でて我がからに泣きし心を忘らえのかも
(訳)おっ母(か)さんが袖(そで)でおれの頭を掻き撫でながら、おれなんかのために泣いてくれた気持ち、その気持ちが忘れようにも忘れられない。(同上)
(注)別れ際に頭を撫でて無事を祈る習俗があった。(伊藤脚注)
左注は、「右一首山邊郡上丁物部乎刀良」<右の一首は、山辺(やまのへ)の郡上丁物部乎刀良(もののべのをとら)
■四三五七■
◆阿之可伎能 久麻刀尓多知弖 和藝毛古我 蘇弖母志保ゝ尓 奈伎志曽母波由
(刑部直千國 巻二十 四三五七)
≪書き下し≫葦垣(ひしがき)の隈処(くまと)に立ちて我妹子(わぎもこ)が袖もしほほに泣きしぞ思(も)はゆ
(訳)菱垣の隅っこに立って、いとしいあの子が袖も絞るばかりに泣き濡れていた姿、その姿が思い出されてならない。(同上)
(注)隈処:隣家と境をなす垣根の隅か。(伊藤脚注)
(注の注)くまと【隈所・隈処】名詞:物陰。隠れた所。(学研)
(注)しほほに 副詞:びっしょりと。ぐっしょりと。▽涙などにぬれるようすを表す。(学研)
■四三五八歌■
◆於保伎美乃 美許等加志古美 伊弖久礼婆 和努等里都伎弖 伊比之古奈波毛
(物部竜 巻二十 四三五八)
≪書き下し≫大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み出で来(く)れば我の取り付きて言ひし子(こ)なはも
(訳)大君の仰せを恐れ畏んで、門出をして来た時、おれにしがみついてあれこれ言ったあの子は、ああ。(同上)
(注)「我の」は我ニの訛りか。(伊藤脚注)
(注)「子な」は「子ろ」の東国語。ここは妻であろう。(伊藤脚注)
■四三五九歌■
◆都久之閇尓 敝牟加流布祢乃 伊都之加毛 都加敝麻都里弖 久尓々閇牟可毛
(若麻続部羊 巻二十 四三五九)
≪書き下し≫筑紫辺(つくしへ)に舳(へ)向(む)かる船のいつしかも仕(つか)へまつりて国に舳(へ)向(む)かも
(訳)筑紫の方へ舳先を向けているこの船は、いつになったら、勤めを終えて故郷(くに)の方に舳先をむけるのであろうか。(同上)
(注)舳向かる船に:舳先を向けているこの船は。「向かる」は「向ける」の東国形。(伊藤脚注)
(注の注)へ 【舳】名詞:(船の)へさき。船首。[反対語] 艫(とも)。(学研)
(注)国に舳向かも:故郷に舳を向けるであろうか。「向かも」は「向かむ」の東国形。難波で船上の人となった時の感慨。(伊藤脚注)
(注)いつしかも【何時しかも】分類連語:〔下に願望の表現を伴って〕早く(…したい)。今すぐにも(…したい)。 ⇒なりたち:副詞「いつしか」+係助詞「も」(学研)
左注は、「右一首長柄部上丁若麻續部羊」<右の一首は長柄(ながら)の郡の部上丁若麻續部羊(わかをみべのひつじ)>である。
歌群左注は、「二月九日上総國防人部領使少目従七位下茨田連沙弥麻呂進歌數十九首 但拙劣歌者不取載之」<二月の九日、上総(かみつふさ)の国の防人部領使(さきもりのことりづかひ)少目(せうさくわん)従七位下茨田連沙弥麻呂(まむたのむらじさみまろ)。進(たてまつ)る歌の数十九首。ただし、拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず>である。
防人歌にあって、唯一の父親の歌が収録され、母親に対する気持ち、妻への思いなど、様々な別れの歌がある。
防人としての思いや言立てなど一首もないところもユニークな歌群である。
四三五七歌のように、別れの場面が手に取るようにわかる歌には胸が打たれる。
奈良麻呂の変に際して、一人圏外に身を置き己の身を守った家持、やはりここでも、国の制度である「防人」よりむしろ防人の前に人としての防人たちを前に立たせたのではなかろうか。
万葉集万歳である。
四三四七、四三四八、四三五二,四三五八、四三五九歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1098)」で紹介している。
➡
四三五〇歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1949)」で紹介している。
➡
四三五一歌については、同「同(その2447)」で紹介している。
➡
四三五七歌については、同「同(その394)」で紹介している。
➡
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「広辞苑無料検索」