●歌は、「筑波嶺の裾みの田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな」である。
●歌をみていこう。
一七五七・一五五八歌の題詞は、「登筑波山歌一首 幷短歌」<筑波山(つくはやま)に登る歌一首 幷せて短歌>である。
◆筑波嶺乃 須蘇廻乃田井尓 秋田苅 妹許将遺 黄葉手折奈
(高橋虫麻呂 巻九 一七五八)
≪書き下し≫筑波嶺の裾(すそ)みの田居(たゐ)に秋田(あきた)刈る妹(いも)がり遣(や)らむ黄葉(もみち)手折(たお)らな
(訳)筑波嶺の山裾の田んぼで秋田を刈っているかわいい子に遣(や)るためのもみじ、そのもみじを手折ろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)すそみ【裾回・裾廻】名詞:山のふもとの周り。「すそわ」とも。 ※「み」は接尾語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)たゐ【田居】名詞:①田。たんぼ。②田のあるような田舎。(学研)
(注)いもがり【妹許】名詞:愛する妻や女性のいる所。 ※「がり」は居所および居る方向を表す接尾語。(学研)
(注)な 終助詞《接続》活用語の未然形に付く。:①〔自己の意志・願望〕…たい。…よう。②〔勧誘〕さあ…ようよ。③〔他に対する願望〕…てほしい。 ※上代語。 ⇒語法:主語の人称による判断(学研)ここでは①の意
この歌については、長歌(一七五七歌)とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2472)」で紹介している。
➡ こちら2472
あらためて高橋虫麻呂をみてみよう。
「コトバンク 朝日日本歴史人物事典((株)朝日新聞出版)」によると次のように書かれている。
「生年:生没年不詳。奈良時代の歌人。微官であったらしく閲歴も不明。『万葉集』中、虫麻呂の作と題するものは天平4(732)年藤原宇合が西海道節度使として遣わされたときの送別の歌(巻6)のみ。ほかに「高橋連虫麻呂の歌集中(歌中)に出づ」とされる年代不明の歌群があり、通常虫麻呂の作品と認められている。あわせて長歌14首、短歌19首、旋頭歌1首。なかで『春三月諸の卿大夫等の難波に下る時の歌』(巻9)は、天平4年もしくは6年とみうることから、およそ天平の前期を中心に活躍したと推定される。また、常陸国に赴任した時期があったようで、『筑波山に登る歌』(巻9)ほか、常陸国をはじめとする東国関係の歌、が目立つ。豊かな想像力と色彩感あふれる精細な描写によって、美的かつ浪漫的な傾向を示し、わけても『水江の浦嶋子を詠む歌』『勝鹿の真間娘子を詠む歌』『菟原処女の墓を見る歌』(巻9)などの伝説歌に本領を発揮している。」
本解説を軸に、虫麻呂の歌をとおしてみてみよう。
■藤原宇合との関係■
山上憶良が大伴旅人の、山部赤人が藤原不比等の、田辺福麻呂が橘諸兄の庇護を受けていたように、高橋虫麻呂は藤原宇合の庇護を受けていたと思われる。
藤原宇合が常陸守であった(養老三年:719年)時に常陸風土記の編纂にもかかわったといわれている。
題詞は、「四年壬申藤原宇合卿遣西海道節度使之時高橋連蟲麻呂作歌一首并短歌」<四年壬申(みづのえさる)に、藤原宇合卿(ふぢはらのうまかひのまへつきみ)、西海道(さいかいどう)の節度使(せつどし)に遣(つか)はさゆる時に、高橋連虫麻呂(たかはしのむらじむしまろ)の作る歌一首幷(あは)せて短歌>である。
(注)天平四年:732年
(注)節度使〘名〙:奈良時代、天平四年(七三二)および天平宝字五年(七六一)の二度設置された職。第一回(天平六年廃止)の設置も対外的要因によったと考えられるが、第二回(天平宝字八年廃止)東海・南海・西海道にそれぞれおかれたものは新羅征討の準備のためであり、軍隊の訓練、軍備充実の役割を果した。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典精選版)
神亀三年(726年)宇合が、知造難波宮事を兼ね、功をなした天平四年三月ごろに、題詞、「春三月諸卿大夫等下難波時歌二首幷短歌」<春の三月に、諸卿大夫等(まへつきみたち)が難波(なには)に下(くだ)る時の歌二首幷せて短歌>の長歌(一七四七歌)と反歌(一七四八歌)の歌群と長歌(一七四九歌)と反歌(一七五〇歌)の二群が詠われている。
これらの歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1365)」で、宇合の歌も含め紹介している。
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■『筑波山に登る歌』(巻9)ほか、常陸国をはじめとする東国関係の歌■
常陸の国の歌十一首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2472)」で紹介している。
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富士山の歌は、同「同(その1525)」で紹介している。
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武蔵の歌は、同「同(その1150)」で紹介している。
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■『水江の浦嶋子を詠む歌』『勝鹿の真間娘子を詠む歌』『菟原処女の墓を見る歌』(巻9)などの伝説歌■
『水江の浦嶋子を詠む歌』については、同「同(その1142)」で紹介している。
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『勝鹿の真間娘子を詠む歌』については、同「同(その2308)」で紹介している。
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『菟原処女の墓を見る歌』については、同「同(その1829)」で紹介している。
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『周淮の珠名娘子を詠む歌』については、同「同(その2088)」で紹介している。
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■豊かな想像力と色彩感あふれる精細な描写によって、美的かつ浪漫的な傾向■
これについては、犬養孝氏のその著「万葉の人びと」(新潮文庫)に次のように書かれている。
「・・・美しい物語の世界を、この世とは別に『第二の現実』として描き上げる。その描く時にはいつも対象との間に距離を置いて描いている。・・・一種の自己韜晦(とうかい)の作家ともいえる・・・なぜ・・・歌の背後に心の深奥の秘密が潜んでいるから・・・一言で言ったら、孤愁・孤独の世界だ・・・だから、逆に、たまない人なつっこさを、しかもこの世の人なつっこさではなくて、自分がこしらえた『第二の現実』・・・を訴える」それが伝説の世界であり、歌の随所にちりばめられた精緻な描写からくみ取れるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」