―その2088―
●歌は、「ますらをの呼び立てしかばさを鹿の胸別け行かむ秋野萩原」である。
●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(94)である。
●歌をみていこう。
◆麻須良男乃 欲妣多天思加婆 左乎之加能 牟奈和氣由加牟 安伎野波疑波良
(大伴家持 巻二十 四三二〇)
≪書き下し≫ますらをの呼び立てしかばさを鹿(しか)の胸(むね)別(わ)け行かむ秋野萩原(はぎはら)
(訳)男子(おのこ)たちが大声で追い立てたりすると、雄鹿が胸で押し分ける遠ざかって行ってしまう、萩咲き乱れる秋の野よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)呼び立てしかば:追い立てたなら。シカバは経験的過去を仮定的に言った語法か。(伊藤脚注)。
(注)むなわけ【胸分け】名詞:①(鹿(しか)などが)胸で草を押し分けること。
②胸。胸の幅。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意
四三一五から四三二〇歌の歌群の左注は、「右歌六首兵部少輔大伴宿祢家持獨憶秋野聊述拙懐作之」<右の歌六首は、兵部少輔(ひやうぶのせうふ)大伴宿禰家持、独り秋野を憶(おも)ひて、いささかに拙懐(せつくわい)を述べて作る>である。
この歌群の歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1069)」で紹介している。
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「胸分け」と詠んだ歌をみてみよう。
■一五九九歌■
◆狭尾壮鹿乃 胸別尓可毛 秋芽子乃 散過鶏類 盛可毛行流
(大伴家持 巻八 一五九九)
≪書き下し≫さを鹿(しか)の胸別(むなわ)けにかも秋萩の散り過ぎにける盛(さか)りかも去(い)ぬる
(訳)秋の野を行く雄鹿の胸別けのせいで、萩の花が散ってしまったのであろうか。それとも、花の盛りの時期が過ぎ去ってしまったせいなのであろか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)むなわけ【胸分け】名詞:①(鹿(しか)などが)胸で草を押し分けること。②胸。胸の幅。(学研) ここでは①の意
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1203)」で紹介している。
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■一七三八歌■
題詞は、「詠上総末珠名娘子一首 幷短歌」<上総(かみつふさ)の周淮(すゑ)の珠名娘子(たまなをとめ)を詠む一首 幷(あは)せて短歌>である。
(注)上総:千葉県中部。(伊藤脚注)。
(注)周淮:東京湾沿いにあった郡名。安房から常陸へ向かう道筋。(伊藤脚注)
◆水長鳥 安房尓継有 梓弓 末乃珠名者 胸別之 廣吾妹 腰細之 須軽娘子之 其姿之 端正尓 如花 咲而立者 玉桙乃 道徃人者 己行 道者不去而 不召尓 門至奴 指並 隣之君者 預 己妻離而 不乞尓 鎰左倍奉 人皆乃 如是迷有者 容艶 縁而曽妹者 多波礼弖有家留
(高橋虫麻呂 巻九 一七三八)
≪書き下し≫しなが鳥(どり) 安房(あは)に継(つ)ぎたる 梓弓(あづさゆみ) 周淮(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むなわ)けの 広き我妹(わぎも) 腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)の その姿(なり)の きらきらしきに 花のごと 笑(ゑ)みて立てれば 玉桙(たまほこ)の 道行く人は おのが行く 道は行かずて 呼ばなくに 門(かど)に至りぬ さし並ぶ 隣(となり)の君は あらかじめ 己妻(おのづま)離(か)れて 乞(こ)はなくに 鍵(かぎ)さへ奉(まつ)る 人皆(ひとみな)の かく惑(まと)へれば たちしなひ 寄りてぞ妹(いも)は たはれてありける
(訳)東は安房の国に地続きの、上総の国周淮(すえ)の郡(こおり)の珠名娘子は、胸乳(むなち)の豊かなかわいい女、すがれ蜂のように腰の細い娘子だが、その姿かたちがすっきりしている上に、花のようにほほえんで立っているので、道を行き交う人はといえば、自分の行くべき道は行かずに、呼びもせぬのについその門口に来てしまう。まして、軒を並べる隣のお主(ぬし)にいたっては、前もって妻と縁を切って、頼みもせぬのに大事な鍵さえ差し出す始末。世の男という男がみんなこれほどまでに血迷うものだから、ますます品(しな)を作ってしなだれかかり、この女(ひと)はただはしたなく振舞っていたという。(同上)
(注)しながとり【息長鳥】分類枕詞:①鳥が「ゐならぶ」ことから地名「猪那(ゐな)」にかかる。②地名「安房(あは)」にかかる。かかる理由未詳。 ※息の長い鳥の意で、具体的な鳥名には諸説ある。(学研)ここでは②の意
(注)あづさゆみ【梓弓】分類枕詞:①弓を引き、矢を射るときの動作・状態から「ひく」「はる」「い」「いる」にかかる。②射ると音が出るところから「音」にかかる。③弓の部分の名から「すゑ」「つる」にかかる。(学研)ここでは①の意
(注)胸別けの広き我妹:乳房の胸が張り出した女。「我妹」は主人公への愛称。(伊藤脚注)。
(注)すがる【蜾蠃】名詞:①じがばちの古名。腹部がくびれていることから、女性の細腰にたとえる。②鹿(しか)の別名。 ⇒参考:細腰は、万葉時代の女性の容姿の美しさの一つの基準である。『古今和歌集』以降は、もっぱら「鹿」の意で用いられるが、これも鹿の腰が細いことからの呼び方である。(学研)ここでは①の意
(注)きらきらし 形容詞:①光り輝いている。きらきらしている。②端正で美しい。③堂々としている。威厳がある。④際立っている。目立っている。 ※「きらぎらし」とも。(学研)ここでは②の意
(注)おのづま【己夫・己妻】名詞:自分の夫。自分の妻。 ※古くは夫も「つま」と言った。(学研)ここでは①の意
(注)鍵:財産を収める櫃の鍵。(伊藤脚注)。
(注)しなふ【撓ふ】自動詞:①しなやかにたわむ。美しい曲線を描く。②逆らわずに従う。(学研)ここでは①の意
(注)たはれてありける:はしたなく振舞うてばかり。ゾ・・・ケルは伝誦的事実を語り聞かせる語法。(伊藤脚注)。
(注の注)たはる【戯る・狂る】自動詞:①みだらな行為をする。色恋におぼれる。②ふざける。たわむれる。③くだけた態度をとる。(学研)ここでは①の意
高橋虫麻呂は、「珠名(たまな)は 胸別(むなわ)けの 広き我妹(わぎも) 腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)の その姿(なり)の きらきらしきに 花のごと 笑(ゑ)みて立てれば」と、珠名娘子の絵を写実的に描いているかのように詠っているのである。
虫麻呂は一七四二歌では、「さ丹塗の大橋の上ゆ紅の赤裳裾引き山藍もち摺れる衣着てただひとり渡らす子」と色彩鮮やかに写実的な絵画タッチで詠っている。
一七四二歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1033)」他で紹介している。
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犬養 孝氏は、その著「万葉の人びと」(新潮文庫)のなかで、「・・・ひとつの浪漫美の世界を作り上げ、その美の世界に陶酔する思いをうたいあげてゆく・・・」と書かれている。
さらに、虫麻呂が伝説の世界を好んで詠うことに関しては、「虫麻呂という人は、一言でいえば、徹底的な“美”の使徒・・・この世を現実とすれば、『第二の現実』というものを、自分の好きなように自らのうでで作り出していく・・・それは必ず、いつも人間の世界です。けれどもそれは、この世の人間と違う。そういう彼の“美”の意識に一番ぴったり合うのは、内容的には伝説だと思う」と書かれている。
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上述の上総の珠名娘子伝説のほかに、住吉の浦島伝説(一七四〇,一七四一歌)、下総の真間の手児奈伝説(一八〇七、一八〇八歌)、摂津の菟原娘子伝説(一八〇九~一八一一歌)がる。
住吉の浦島伝説については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1142)」で紹介している。
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摂津の菟原娘子伝説については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1088)」で紹介している。
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―その2089―
●歌は、「父母が殿の後方のももよ草百代いでませ我が来たるまで」である。
●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(95)である。
●歌をみていこう。
◆父母我 等能々ゝ志利弊乃 母ゝ余具佐 母ゝ与伊弖麻勢 和我伎多流麻弖
(壬生部足国 巻二十 四三二六)
≪書き下し≫父母が殿(との)の後方(しりへ)のももよ草(ぐさ)百代(ももよ)いでませ我(わ)が来(きた)るまで
(訳)父さん母さんが住む母屋(おもや)の裏手のももよ草、そのよももよというではないが、どうか百歳(ももよ)までお達者で。私が帰って来るまで。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)ももよ草:未詳 上三句は序。「百代」を起こす。
左注は、「右一首同郡生玉部足國」<右の一首は、同(おな)じき郡(こほり)の壬生部(みぶべ)足国(たりくに)>である。
(注)みぶべ【壬生部】〔名〕 令制前、王子の養育に奉仕するために設定された部(べ)。壬生。(weblio辞書 精選版日本国語大辞典)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1509)」で、四三二一から四三二七歌の歌群の左注にある「二月の六日、防人部領使(さきもりのことりづかひ)遠江國史生坂本朝臣人上進歌數十八首 但有拙劣歌十一首不取載之」<二月六日に、防人(さきもりの)部領使(ことりつかひ)遠江 (とほつあふみ)の国の史生(ししやう)坂本朝臣人上(さかもとのあそみひとかみ)。進(たてまつ)る歌の数(かず)十八首。ただし拙劣(せつれつ)の歌十一首有るは取り載(の)せず>の七首とともに紹介している。
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―その2090―
●歌は、「笹が葉のさやぐ霜夜に七種着る衣に増せる子ろが肌はも」である。
●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(96)である。
●歌をみていこう。
◆佐左賀波乃 佐也久志毛用尓 奈々弁加流 去呂毛尓麻世流 古侶賀波太波毛
(作者未詳 巻二十 四四三一)
≪書き下し≫笹(ささ)が葉(は)のさやぐ霜夜(しもよ)に七重(ななへ)着(か)る衣(ころも)に増(か)せる子(こ)ろが肌(はだ)はも
(訳)笹の葉のそよぐこの寒い霜夜に、七重も重ねて着る衣、その衣にもまさるあの子の肌は、ああ。(同上)
(注)「着(か)る」:「着(け)る」の東国形。(伊藤脚注)。
この歌については、万葉集で収録されている「笹」を詠った歌五首とともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1817)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」