●歌は、「住吉の遠里小野の真榛もち摺れる衣の盛り過ぎゆく」である。
●歌をみていこう。
◆住吉之 遠里小野之 真榛以 須礼流衣乃 盛過去
(作者未詳 巻七 一一五六)
≪書き下し≫住吉(すみのえ)の遠里小野(とほさとをの)の真榛(まはり)もち摺(す)れる衣(ころも)の盛(さか)り過ぎゆく
(訳)住吉の遠里小野の榛(はんのき)で摺染(すりぞ)めにした衣、その衣の色がしだいに褪(あ)せてゆく。ああ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)遠里小野:書き下しでは、「とほりをの」となっているが、大阪市住吉区には「遠里小野」という地名があり、「おりおの」と読む。
(注)ま-【真】接頭語:〔名詞・動詞・形容詞・形容動詞・副詞などに付いて〕①完全・真実・正確・純粋などの意を表す。「ま盛り」「ま幸(さき)く」「まさやか」「ま白し」。②りっぱである、美しい、などの意を表す。「ま木」「ま玉」「ま弓」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その794-3)」で住吉大社反り橋西詰め北万葉歌碑、「榛」を詠った歌十四首とともに紹介している。
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この住吉大社反り橋西詰め北にある歌碑は、「住吉万葉歌碑」と言われ、万葉時代を推定する住吉地形図とともに万葉歌十七首が刻されている。
■■角柱碑正面上部(二首)・同裏面上部(四首)■■
■角柱碑正面上部(二首)■
住吉に斎く祝が神言と行くとも来とも船は早けむ 多治比真人土作 19-4243
草枕旅行く君と知らませば岸の埴生ににほはさましを 清江娘子 1-69
■角柱碑裏面上部(四首)■
住吉の遠里小野の真榛もち摺れる衣の盛り過ぎゆく 作者未詳 7-1156
住吉の岸の松が根うちさらし寄せ来る波の音のさやけさ 作者未詳 1-1159
馬の歩み抑え留めよ住吉の岸の埴生ににほいて行かむ 安倍豊継 6-1002
住吉の浅沢小野のかきつはた衣に摺り付け着む日知らずも 作者未詳 7-1361
■角柱碑裏面下部(四首)■
暇あらば拾ひに行かむ住吉の岸に寄るという恋忘れ貝 作者未詳 7-1147
住吉の里行きしかば春花のいやめづらしき君にあへるかも 作者未詳 10-1886
住吉の岸に田を墾り蒔きし稲かくて刈るまで逢はぬ君かも 作者未詳 10-2244
住吉の波豆麻の君が馬乗衣さひづらふ漢女を据ゑて縫へる衣ぞ作者未詳 7-1273
■角柱碑正面下部(万葉時代の住吉地形と七首)■
住吉の得名津に立ちて見渡せば武庫の泊りゆ出づる船人 高市黒人 3-283
茅渟みより雨ぞ降り来る四極の海人網干したり濡もあへむかも守部王 6-999
住吉の小田を刈らす子奴かもなき奴あれど妹がみために私田刈る作者未詳 7-1275
夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅香の浦に玉藻刈りてな 弓削皇子 2-121
住吉の敷津の浦のなのりその名は告りてしを逢はなくもあやし 作者未詳 12-3076
住吉の出見の浜の柴刈りそね娘子らが赤裳の裾の濡れて行かむ見む 作者未詳 7-1274
白波の千重に来寄する住吉の岸の埴生にびほひて行かな 車持千年 6-932
一つの歌碑に多数の歌が刻されたものとしては、広島県呉市倉橋町宮浦桂浜の「萬葉集史蹟長門之島碑」がある。遣新羅使人等の歌が八首刻されている。
石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ 大石蓑麻呂 15-3617
山川の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも 遣新羅使 15-3618
礒の間ゆたぎつ山川絶えずあらばまたも相見む秋かたまけて 遣新羅使 15-3619
恋繁み慰めかねてひぐらしの鳴く島蔭に廬りするかも 遣新羅使 15-3620
我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神さびわたる 遣新羅使 15-3621
月読の光を清み夕なぎに水手の声呼び浦み漕ぐかも 遣新羅使 15-3622
山の端に月傾けば漁りする海人の燈火沖になづさふ 遣新羅使 15-3623
我れのみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺の方に楫の音すなり 遣新羅使 15-3624
この歌碑ならびに歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1618)」で紹介している。
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個性的な歌碑に巡りあえるのも万葉歌碑巡りの醍醐味である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」