島根県立万葉公園人麻呂展望広場をぶらつき歌碑を見て周った後、車で東口駐車場へ移動、万葉植物園を散策し、高津柿本神社へと向かった。
島根県立万葉公園HP園内ガイドには、「万葉植物園」について、次のように書かれている。「万葉集に詠まれた植物が、歌を紹介する歌板とともに、多数紹介されており、気軽に散策しながら万葉歌に親しむことができます。植物園は高津柿本神社に隣接しており、鎮守の森の古い木々に囲まれた静かな場所です。」
これまでのブログで「鴨山五首」を梅原 猛氏の「水底の歌 柿本人麿論 上下」を踏まえて紹介してきたが、万葉公園を訪れた時は、不勉強でこのような見解があるということを知らなかったのである。パンフレット「令和の万葉公園を楽しむ」のMAPを眺めていて、そこに「万葉一人者・梅原猛先生 鴨島展望台1.5m石碑」と海上の「鴨島跡」が記されていた。ノーチェックであった。機会があればもう一度訪れて見てみたいものである。
しばし、人麻呂から離れ、万葉歌に接してみよう。
●歌は、「紅の花にしあらば衣手に染め付け持ちて行くべく思ほゆ」である。
●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P12)にある。
●歌をみていこう。
◆紅 花西有者 衣袖尓 染著持而 可行所念
(作者未詳 巻十一 二八二七)
≪書き下し≫紅(くれなゐ)の花にしあらば衣手(ころもで)に染(そ)め付け持ちて行くべく思ほゆ
(訳)お前さんがもし紅の花ででもあったなら、着物の袖に染め付けて持って行きたいほどに思っているのだよ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)ころもで【衣手】名詞:袖(そで)。(学研)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その992)」で紹介している。
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いとしい人と一時も離れたくないが故に、肌身離さず身に着けている着物に摺り付けて持って行きたいという切なる気持ちを詠っている。
東国から防人として任につく場合は、長きにわたり別れなければならず、それだけに一緒にいたいという切実な気持ちを、自分の持っている弓束であったらずっと離れなくてよいのにと詠った歌もある。こちらもみてみよう。
巻十四「東歌」の「防人歌」の問答歌をみてみよう。
◆於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈之 母知弖由久 安都佐能由美乃 由都可尓母我毛
(作者未詳 巻十四 三五六七)
≪書き下し≫置きて行(い)かば妹(いも)はま愛(かな)し持ちて行(ゆ)く梓(あづさ)の弓の弓束(ゆづか)にもがも
(訳)家に残して行ったら、お前さんのことはこの先かわいくってたまらないだろう。せめて握り締めて行く、この梓(あずさ)の弓の弓束であってくれたらな。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より
(注)まかなし【真愛し】形容詞:切ないほどいとしい。とてもいじらしい。 ※「ま」は接頭語。上代語。(学研)
(注)ゆつか【弓柄・弓束】名詞:矢を射るとき、左手で握る弓の中ほどより少し下の部分。また、そこに巻く皮や布など。「ゆづか」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)
この歌に対して、妻が答えた歌、三五六八歌をみてみよう。
◆於久礼為弖 古非波久流思母 安佐我里能 伎美我由美尓母 奈良麻思物能乎
(作者未詳 巻十四 三五六八)
≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て恋(こ)ひば苦しも朝猟(あさがり)の君が弓にもならましものを
(訳)あとに残されていて恋い焦がれるのは苦しくてたまりません。毎朝猟にお出かけのあなたがお持ちの弓にでもなりたいものです。(同上)
(注)おくれゐる【後れ居る】自動詞:あとに残っている。取り残される。(学研)
三五六七、三五六八歌の左注は、「右二首問答」<右の二首は問答>である。
この問答歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その996」」で紹介している。
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巻二十の防人歌には、両親が花であったら一緒に行けるのにといった、親孝行の鑑のような歌もある。こちらもみてみよう。
◆知ゝ波ゝ母 波奈尓母我毛夜 久佐麻久良 多妣波由久等母 佐々己弖由加牟
(丈部黒当 巻二十 四三二五)
≪書き下し≫父母(ちちはは)も花にもがもや草枕旅は行くとも捧(さき)ごて行かむ
(訳)父さん母さんがせめて花ででもあってくれればよい。そしたら草を枕の旅なんかに行くにしても、捧げ持って行こうものを。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1174)」で紹介している。
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もう一首みてみよう。
◆阿母刀自母 多麻尓母賀母夜 伊多太伎弖 美都良乃奈可尓 阿敝麻可麻久母
(津守宿禰小黒栖 巻二十 四三七七)
≪書き下し≫母刀自(あもとじ)も玉にもがもや戴(いただ)きてみづらの中(なかに合(あ)へ巻かまくも
(訳)お袋様がせめて玉ででもあったらよいのにな。捧(ささ)げ戴いて角髪(みずら)の中に一緒に巻きつけように。(同上)
(注)みづら【角髪・角子】名詞:男性の髪型の一つ。髪を頭の中央で左右に分け、耳のあたりで束ねて結んだもの。上代には成年男子の髪型で、平安時代には少年の髪型となった。(学研)
家族と離れて生活するのは、やはり寂しいものである。
話は脱線するが、携帯電話やLINEなどがなかった時代に、小生が単身赴任をしていた時には、家族の写真を定期入れに忍ばせ、辛い時など写真と話をしていたものであった。
人を思う気持ちは、万葉の世も現代も変わらない。万葉びとの思いも歌を通して現代にも響くのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「水底の歌 柿本人麿論 上下」 梅原 猛 著 (新著文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「島根県立万葉公園HP」