万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2571)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈みに標結へ我が背(但馬皇女 2-115)」、「人言を繁み言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る(但馬皇女 2-116 )」、ならびに「降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒くあらまくに(穂積皇子 2-203)」、「家に有る櫃に鏁さし収めてし恋の奴がつかみかかりて(穂積皇子 16-3816)」である。

大津市唐崎 唐崎苑湖岸緑地万葉歌碑(但馬皇女) 20191009撮影

奈良県桜井市出雲 初瀬街道沿い万葉歌碑(但馬皇女) 20190515撮影

奈良県桜井市吉隠 吉隠公民館広場万葉歌碑(穂積皇子) 20190515撮影

●歌碑は、但馬皇女 2-115が、大津市唐崎 唐崎苑湖岸緑地に、同2-116が、奈良県桜井市出雲 初瀬街道沿いに、穂積皇子 2-203が、同吉隠 吉隠公民館広場にある。

 

●それぞれ歌をみていこう。

但馬皇女 2-115■

題詞は、「勅穂積皇子遣近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首」<穂積皇子に勅(みことのり)して、近江(あふみ)の志賀の山寺に遣(つか)はす時に、但馬皇女(たぢまのひめみこ)の作らす歌一首>である。

(注)山寺:天智天皇が大津の宮の西北に建てた崇福寺。(伊藤脚注)

(注の注)崇福寺については、「滋賀・びわ湖観光情報 崇福寺跡」(公益社団法人びわこビジターズビューロー)によると、「天智天皇(626-671)が大津京の鎮護(ちんご)のために建立した寺です。大津へ都を遷した翌年に建立され、幻の大津京の所在地を探る手がかりとして注目されています」とある。

(注)遣はす時:恋の噂を耳にした持統天皇が法会などの勅使の事寄せて穂積を一時崇福寺に閑居させ、高市と穂積との間をつくろったものか。(伊藤脚注)

 

◆遺居而 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢

       (但馬皇女 巻二 一一五)

 

≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て恋ひつつあらずは追ひ及(し)かむ道の隈(くま)みに標結(しめゆ)へ我(わ)が背(せ)      

 

(訳)あとに一人残って恋い焦がれてなんかおらずに、いっそのこと追いすがって一緒に参りましょう。道の隈の神様ごとに標(しめ)を結んでおいてください。いとしき人よ。

(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)隈:奥まった、邪神のいる所。(伊藤脚注)

(注)標:邪神を祭るための標識。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その243)」で紹介している。

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但馬皇女 2-116■

 題詞は、「但馬皇女高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首」<但馬皇女(たぢまのひめみこ)、高市皇子の宮に在(いま)す時に、竊(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)ひ、事すでに形(あら)はれて作らす歌一首>である。

 

 ◆人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡

     (但馬皇女 巻二 一一六)

 

≪書き下し≫人事(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)みおのが世にいまだ渡らぬ朝川(あさかは)渡る。

 

(訳)世間の噂が激しくうるさくてならないので、それに抗して自分は生まれてこの方渡ったこともない、朝の冷たい川を渡ろうとしている―この初めての思いを私は何としてでも成し遂げるのだ。(伊藤 博 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ひとごと【人言】名詞:他人の言う言葉。世間のうわさ。(学研)

(注)こちたし【言痛し・事痛し】形容詞:①煩わしい。うるさい。②甚だしい。度を越している。ひどくたくさんだ。③仰々しい。おおげさだ。(学研)

(注)あさかはわたる【朝川渡る】:世間を慮り、女ながら未明の川を渡って逢いに行く。「川」は恋の障害を表すことが多い。世間の堰に抗して初めての情事を全うするのだという意もこもる。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その99改)」で紹介している。

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■穂積皇子 2-203■

題詞は、「但馬皇女薨後穂積皇子冬日雪落遥望御墓悲傷流涕御作歌一首」<但馬皇女の薨ぜし後(のち)に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓(みはか)を遥望(ようぼう)し悲傷(ひしょう)流涕(りうてい)して作らす歌一首>である。

 

◆零雪者 安播尓勿落 吉隠之 猪養乃岡之 寒有巻弐

           (穂積皇子 巻二 二〇三)

 

≪書き下し≫降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の岡の寒くあらまくに

 

(訳)降る雪よ、たんとは降ってくれるな。吉隠の猪養の岡が寒いであろうから。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)あはに:数量の多いことをいう副詞。(伊藤脚注)

(注の注)あはに 副詞:多く。深く。(学研)

(注)吉隠の猪養の岡:但馬皇女の墓地。初瀬の東(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その100改)」で紹介している。

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■穂積皇子 16-3816■

題詞は、「穂積親王御歌一首」<穂積親王(ほづみのみこ)の御歌一首>である。

 

◆家尓有之 櫃尓鏁刺 蔵而師 戀乃奴之 束見懸而

       (穂積皇子 巻十六 三八一六)

 

≪書き下し≫家にありし櫃(ひつ)に鏁(かぎ)さし収(をさ)めてし恋の奴(やっこ)がつかみかかりて

 

(訳)家にある櫃(ひつ)に錠前(じょうまえ)を下ろして、ちゃんとしまいこんでおいたはずなのに、あの恋の奴(やっこ)めが、しつっこくまたまたつかみかかりおって・・・(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)櫃:蓋のついた、長方形の大型の箱。衣料、財貨などを収める。(伊藤脚注)

(注)恋といふ奴:恋を罵倒した表現。「奴」は奴婢。(伊藤脚注)

 

左注は、「右歌一首穂積親王宴飲之日酒酣之時好誦斯歌以為恒賞也」<右の歌一首は、穂積親王、宴飲(えんいん)の日に、酒酣(たけなは)にある時に、好(この)みてこの歌を誦(よ)み、もちて恒(つね)の賞(めで)と為(な)す>である。

(注)恒の賞:お定まりの芸。(伊藤脚注)

 

 

 

 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「穂積皇子(ほづみのみこ)と但馬皇女(たじまのひめみこ)」の項をみていこう。

 前稿でみた「高市皇子十市皇女」の高市皇子は「但馬皇女を妻としていたらしい。そしてその但馬は穂積皇子を恋したのである。但馬は天武の皇女で鎌足の娘氷上娘(ひがみのいらつめ)を母とした。穂積も同じく天武の皇子、母は蘇我赤兄(あかえ)の娘、大蕤娘(おおぬのいらつめ)である。但馬は高市皇子の宮にあって穂積を恋う歌を三首のこしている。そのひとつ、これは穂積が近江の志賀の山寺に遣わされたときの歌である。巻二、一一五(歌は省略)・・・この情熱の強さにおいて、われわれはすぐに磐姫(いわひめ)皇后を思い出すだろうが、この歌には、いっそうの現実性がある。衣の裾を乱して後を追う女人の姿を生なましく思いおこすことができる。・・・やがて但馬が『竊(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)』った。そのことは、世の知るところとなった。しかし但馬はけっして弱音をはいていない。巻二、一一六(歌は省略)・・・事露(あら)われてからは、宵闇の中で穂積と逢うということは監視されたのか、そのために朝、しかも皇女の方から出かけるという異常な出逢いとなったのかもしれない。何事にも負けない恋の強さが皇女にはある。」(同著)

 「しかしこの但馬の熱情に対して穂積は一首の返歌もかえしていない。それでは穂積にその愛が薄かったのか。そうではない。但馬がずっと後、和銅元年(七〇八)六月に死んだのちに、穂積は、冬の日雪の乱れ降る中にその墓を望み見て、悲傷し涙を流して一首をよんだ。巻二、二〇三(歌は省略) 皇女の墓は吉隠の猪養の岡に営まれたのだった。・・・穂積の心づかいは、この不幸な愛の重荷に堪えて来た悲しみが、皇女の死を契機として一度にほとばしり出たかのようにわれわれを打つ。この歌の沈んで思いしらべは、不幸でしかない愛の運命の避けがたさの中に懊悩(おうのう)を重ねて来た人間の、苦渋にみちた愛の強さを示している。穂積をして但馬の愛に答えさせなかったものは、この懊悩であった。」(同著)

 「だから以後の穂積はけっして恋をしようとしなかった。のちに初老のころ、初ういしい坂上郎女(さかのうえのいらつめ)をめとっても、恋をしない。「寵愛(ちょうあい)」したと万葉集ではいう。」(同著)

 「穂積が酒宴に好んで口ずさんだという戯れ歌、巻十六、三八一六(歌は省略)は、けっして恋をしようとはしない、寂しげな穂積の微笑のしぐさを教えてくれるではないか。」(同著)

 

 穂積皇子と坂上郎女については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その6改)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「公益社団法人びわこビジターズビューローHP」