●歌は、「東の市の植木の木足るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり(門部王 3-310)」である。
【東の市】
「門部王(かどべのおほきみ)(巻三‐三一〇)(歌は省略) 平城京の左右両京の南辺八条二坊のあたりには、東西の市(いち)がおかれていた。東市はいまの奈良市杏(からもも)町・西(さい)九条町のあたりで、西市は大和郡山市九条町市田(いちだ)付近といわれる。・・・この歌の作者の門部王は、天武の子の長(なが)皇子の孫にあたる人ともいわれ、天平六年(七三四)二月の朱雀門の歌垣には頭となり、天平九年には右京大夫となって、後、大原真人(まひと)の姓を賜った人である。当時、市(いち)には橘とか椿とかの街路樹が植えられていた。東市の場合、からももの木であったかもしれない。・・・かつては市なかの緑蔭は群衆のよきいこいの場としてさかんな交易も行われていたのであろう。ながいことその人に逢わないために恋のつのる思いが、市の街路樹の悩ましいほど緑濃くもっくりと茂る実景に誘発されて、時久しい吐息となってうち出されている。『東の市の植木の木垂(こだ)るまで』の『の』の音におくられてゆくはこびも、もくもくと茂る新緑と作者の共鳴してゆく心情のすすみゆきを思わせるようである。」(「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
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巻三 三一〇歌をみていこう。
■巻三 三一〇歌■
題詞は、「門部王詠東市之樹作歌一首 後賜姓大原真人(おほはらのまひと)氏也」<門部王(かどへのおほきみ)、東(ひむがし)の市(いち)の樹(き)を詠みて作る歌一首 後に姓大原真人(おほはらのまひと)の氏を賜はる>である。
(注)門部王:長皇子の孫か。高安王の弟。天平十一年(七三九)臣籍に降下。同一七年四月、従四位上で没。(伊藤脚注)
(注)詠みて作る:与えられた題について詠む意。(伊藤脚注)
◆東 市之殖木乃 木足左右 不相久美 宇倍戀尓家利
(門部王 巻三 三一〇)
≪書き下し≫東(ひむかし)の市(いち)の植木(うゑき)の木垂(こだ)るまで逢(あ)はず久しみうべ恋ひにけり
(訳)東の市の並木の枝がこんなに垂れ下がるようになるまで、あなたに久しく逢っていないものだから、こんなに恋しくなるのも当然だ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より
(注)木垂るまで:枝が垂れ下がるまでずっと長い間。(伊藤脚注)
(注の注)こだる【木垂る】自動詞:木が茂って枝が垂れ下がる。 ⇒参考 一説に、「木足る」で、枝葉が十分に茂る意とする。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)うべ【宜・諾】副詞:なるほど。もっともなことに。▽肯定の意を表す。 ※中古以降「むべ」とも表記する。(学研)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その23改)」で奈良市杏町辰市神社の歌碑とともに紹介している。
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西の市について詠まれた歌をみてみよう。
■巻七 一二六四歌■
◆西市尓 但獨出而 眼不並 買師絹之 商自許里鴨
(作者未詳 巻七 一二六四)
≪書き下し≫西(にし)の市(いち)にただ一人出(い)でて目並(めなら)べず買ひてし絹(きぬ)の商(あき)じこりかも
(訳)西の市にたったひとりで出かけて、見比べもせずに買ってしまった絹、その絹はたいへんな買い損ないであったよ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)西の市:物品売買のために設けられた、都の東西の市の中の西の市。(伊藤脚注)
(注)目並べず:見比べもせずに。(伊藤脚注)
(注の注)めならぶ【目並ぶ】他動詞:並べて見比べる。一説に、多くの人の目を経る。(学研)
(注)商(あき)じこり:買い損ない。歌垣で選んだ相手が見掛け倒しであったことをいう。(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その384)」で「平城京西市跡の碑」とともに紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」