万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2702)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―

●歌は、「夕されば雁の越え行く竜田山しぐれに競ひ色づきにけり(作者未詳 10-2214)」である。

 

【龍田山】

 「作者未詳(巻十‐二二一四)(歌は省略)竜田(たつた)山は生駒山脈の南のはしが、大和川の渓谷をはさんで葛城山脈の北のはしと相対する一部の山地の称で、こんにちこの山名はないが、生駒郡三郷町立野の竜田本宮西方の山である。・・・古道は、竜田本宮の裏から山越をして八尾(やお)市恩智(おんぢ)に出たとする説もあるが、竜田本宮から南へ高山に出て、・・・柏原市域・・・に入り、峠(字名)・亀瀬岩上方の山道・雁多尾畑(かりんどばた)の南方・青谷を経て、高井田方面に出たものではなかろうか。こんにち古道をここと定めることはできないが、歌(巻九‐一七五一)に『島山をい行き巡(めぐ)れる川沿(かはそ)ひの丘部の道』といい、『峯(を)の上の桜の花は滝(たぎ)の瀬ゆ落ちて流る』というにふさわしい山の小道はいちおうたどることができる。字峠からさきは、川べりから山の上までほとんどぶどう畑になっていて、山道から大和川の川筋も望まれ、往古の『河内大橋』をも仮想できる。」(「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)

 

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巻十 二二一四歌をみていこう。

■巻十 二二一四歌■

◆夕去者 鴈之越徃 龍田山 四具礼尓競 色付尓家里

       (作者未詳 巻十 二二一四)

 

≪書き下し≫夕されば雁の越え行く竜田山しぐれに競ひ色づきにけり

 

(訳)夕方になると、雁の飛び越えて行く竜田山、この山は、時雨と先を争うようにして、色づいてきた。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

 次に、巻九 一七五一歌をみてみよう。

■巻九 一七五一歌■

◆嶋山乎 射徃廻流 河副乃 丘邊道従 昨日己曽 吾超来壮鹿 一夜耳 宿有之柄二 峯上之 櫻花者 瀧之瀬従 落堕而流 君之将見 其日左右庭 山下之 風莫吹登 打越而 名二負有社尓 風祭為奈

       (高橋虫麻呂 巻九 一七五一)

 

≪書き下し≫島山(しまやま)を い行き廻(めぐ)れる 川沿(かはそ)ひの 岡辺(をかべ)の道ゆ 昨日(きのふ)こそ 我(わ)が越え来(こ)しか 一夜(ひとよ)のみ 寝たりしからに 峰(を)の上(うへ)の 桜の花は 滝の瀬ゆ 散らひて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと 打ち越えて 名(な)に負(お)へる社(もり)に 風祭(かざまつり)せな

 

(訳)島山を行き巡って流れる川沿いの、岡辺の道を通って私が越えて来たのはほんの昨日のことであったが、たった一晩旅宿(たびやど)りしただけなのに、尾根の桜の花は滝の早瀬をひらひら散っては流れている。我が君が帰り道のご覧になるその日までは、山おろしの風など吹かせ給うなと、馬打ちながらせっせと越えて行って、その名も高い風の神、竜田の社に風祭りをしよう。(同上)

(注)島山:蛇行する川に山が突出して島のようにみえるところ。(伊藤脚注)

(注の注)しまやま 【島山】名詞:①島の中の山。また、川・湖・海などに臨む地の    島のように見える山。②庭の池の中に作った山。築山(つきやま)。 (weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)こそ・・・しか:逆説条件。(伊藤脚注)

(注)君:ここでは 藤原宇合をさす。(伊藤脚注)

(注)打ち越えて:国境の峠を越えて。(伊藤脚注)

(注)名に負える社に:風の神として聞える竜田の社に。(伊藤脚注)

(注)風祭:風の災いを防ぐための祭り。(伊藤脚注)

 

 一七五一・一七五二歌の題詞は、「難波經宿明日還来之時歌一首并短歌」<難波(なには)に経宿(やど)りて明日(あくるひ)の還(かへ)り来(く)る時の歌一首幷せて短歌>である。

 

 一七五一歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その187改)」で奈良県生駒郡三郷町 龍田大社境内万葉歌碑とともに紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

奈良県生駒郡三郷町 龍田大社境内万葉歌碑(高橋虫麻呂 9-1751) 20190723撮影



龍田神社社号碑 20190723撮影

 

 

拝殿 20190723撮影



 

 

 

 「竜田本宮」と「竜田古道」について

 「竜田本宮」に関しては、「龍田大社(たつたたいしゃ)」(三郷町HP)に、「奈良県三郷町立野(たつの)にある旧官幣大社で、斑鳩町龍田にある龍田神社が『新宮』と呼ばれるのに対し、『本宮』と呼ばれている。古代より風の神として信仰されており、日本書紀では天武天皇4年(675年)以来、廣瀬の大忌神(おおみかみ)と共に朝廷より勅使を遣わし祀っていたことが記されている。平安時代に朝廷の祭事を記した『延喜式』にはすでに『風神祭』の記載があり、この時代にはすでに4月4日と7月4日に祭祀が定着していたことが分かる。これらの祭祀は現在においても4月を例大祭(れいたいさい)、7月を風鎮大祭(ふうちんたいさい)として続けられている。龍田大社は、大阪府柏原市域にあたる龍田山伝承地や亀の瀬の地すべり地などの広範囲において信仰されてきたことから、龍田古道(龍田越え)とは龍田大社の神域を越えていくことから呼称され、古代の人々は龍田の神に旅の安全を祈願していたと考えられている。」と書かれている。

 

 龍田古道については、「龍田古道って知ってるかな」(三郷町HP)に、「龍田道は奈良時代において平城京と河内、難波を結ぶ官道として置かれ、天皇行幸遣唐使遣新羅使が大和に入る玄関口として利用されていた古道ですが、官道の始まりについては、『日本書紀』の中に推古21年(613年)11月に『難波より京に至る大道を置く』とあり、諸説あるものの、これが龍田道のことと云われています。道の整備には聖徳太子が関わっていたとも云われており、龍田道から太子道を経て飛鳥の京へと向かうルートが想定され、沿道に古代寺院が建ち並んでいることからも蓋然性が高いといえます。

 奈良時代には、龍田道の河内側(現在の柏原市)では仏教に帰依する人々(智識)により智識寺をはじめとする河内六寺や河内国分寺、河内大橋が置かれ、大陸からの使者を迎えるに相応しい大道として利用されていました。亀の瀬を越えるルートについては大和川沿いの道のほか、三室山・雁多尾畑(柏原市)を抜ける山越え道など、幾つかのルートが考えられています。奈良時代に編纂された『万葉集』でも多くの歌人がこの龍田道を通った際に多くの歌を残しており、当時の人々の心情的にも重要な地であったことが窺えます。・・・」と書かれている。

 

 

 

 「龍田大社(竜田本宮)」、「龍田神社(竜田新宮)」、「雁多尾畑」、「河内大橋」については、下記の地図を参照してください。

グーグルマップより引用・加筆させていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「グーグルマップ」

★「三郷町HP」