●歌は、「梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く」である。
●歌をみていこう。
◆成棗 寸三二粟嗣 延田葛乃 後毛将相跡 葵花咲
(作者未詳 巻十六 三八三四)
≪書き下し≫梨(なし)棗(なつめ)黍(きみ)に粟(あは)つぎ延(は)ふ葛(くず)の後(のち)も逢(あ)はむと葵(あふひ)花咲く
(訳)梨、棗、黍(きび)、それに粟(あわ)と次々に実っても、早々に離れた君と今は逢えないけれど、延び続ける葛のようにのちにでも逢うことができようと、葵(逢ふ日)の花が咲いている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)はふくずの「延(は)ふ葛(くず)の」枕詞:延びていく葛が今は別れていても先で逢うことがあるように、の意で「後も逢はむ」の枕詞になっている。
この歌には、植物が六種類、詠まれている。梨(なし)・棗(なつめ)・黍(きみ)・粟(あは)・葛(くず)・葵(あおい)である。
「きみ」は、現在のイネ科のキビのことで五穀(米・麦・黍<きび><または稗≪ひえ>>・粟<あわ>・豆)の一つである。秋に実をなす。実は球形で淡黄色をしているので「黄実(きみ)」と呼ばれた。
この歌には、植物の名前にかけた言葉遊びが隠されている。「黍(きみ)」は「君(きみ)」に、「粟(あは)」は「逢(あ)ふ」に、そして「葵(あふひ)」には「逢(あ)ふ日(ひ)」の意味が込められている。このような言葉遊びは、後の時代に「掛詞(かけことば)」という和歌の技法として発展していくのである。
秋の宴席で出された食材の植物の名前を詠み込んだこの歌は、きわめて技巧的ともいえるが、逆に、自然と共にある万葉びとならではのセンスといえよう。技巧に走る、いわば目的的に作られた歌でなく、万葉人の素朴な自然密着型の生き方がなせる業と考える方が万葉集たる所以がそこにあると言えると思う。いずれにしても脱帽である。
この歌の題詞は、「作主未詳歌一首」<作主未詳の歌一首>である。
万葉集巻十六の巻頭には「有由縁幷雑歌」とあり、他の巻と比べても特異な位置づけにあること、次の六つのグループ分けることができる。(神野志隆光 著 「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 東京大学出版会を参考にFグループを追加)
Aグループ:題詞が他の巻と異なり物語的な内容をもつ歌物語の類(三七八六~三八〇五歌)
Bグル―プ:同じく歌物語的ではあるが、左注が物語的に述べる類(三八〇六~三八一五歌)
Ⅽグループ:いろいろな物を詠みこむように題を与えられたのに応じた類(三八二四~三八三四歌、三八五五~三八五六歌)
Dグループ:「嗤う歌」という題詞をもつ類(三八三〇~三八四七歌、三八五三~三八五四歌)
Eグループ:国名を題詞に掲げる歌の類(三八七六~三八八四歌)
Fグループ:その他特異な歌の類(「乞食者詠二首」(三八八五、三八八六歌)と「怕物歌三首」(三八八七~三八八九歌))
三八三四歌は、Ⅽグループの歌である。このグループの歌は、目の前の食材などをテーマとして、即興的に作られるので、極論すれば、物を並べた「歌にもならない歌」といった類である。しかし、これらの歌も、万葉集には収録されている。ここにも万葉集の万葉集たる所以があるといえよう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)