万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1106)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(66)―万葉集 巻一 六四

●歌は、「葦辺行く鴨の羽交ひに霜振りて寒き夕は大和し思ほゆ」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(66)万葉歌碑<プレート>(志貴皇子

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(66)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆葦邊行 鴨之羽我比尓 霜零而 寒暮夕 倭之所念

                (志貴皇子 巻一 六四)

 

≪書き下し≫葦辺(あしへ)行く鴨(かも)の羽交(はが)ひに霜振(しもふ)りて寒き夕(ゆうへ)は大和し思ほゆ

 

(訳)枯葦のほとりを漂い行く羽がいに霜が降って、寒さが身にしみる夕暮は、とりわけ故郷大和が思われる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)はがひ【羽交ひ】名詞:鳥の左右の翼が重なり合う部分。また、転じて、鳥の翼。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)おもほゆ【思ほゆ】自動詞:(自然に)思われる。 ※動詞「思ふ」+上代の自発の助動詞「ゆ」からなる「思はゆ」が変化した語。「おぼゆ」の前身。(学研)

 

 

題詞は、「慶雲三年丙午幸于難波宮時 志貴皇子御作歌」<慶雲(きやううん)三年丙午(ひおえうま)に、難波(なには)の宮に幸(いでま)す時 志貴皇子(しきのみこ)の作らす歌>である。

(注)慶雲三年:706年、文武天皇時代。

 

 

「葦」を詠みこんだ歌は万葉集では五〇首にのぼる。

 

「植物で見る万葉の世界」 (國學院大學 萬葉の花の会 著)には、「アシはイネ科の多年草で、根茎を縦横に張り、高さ1~3mになる。(中略)発音が『悪し』と同じであることを嫌い、その反対の意味の『良し』=ヨシに言い変えられている。日本人の暮らしに深く根を張っている葦は、生活材、祭事等に広く使われている。葦簀(よしず)や簾(すがれ)、葦葺き屋根の材料や壁材、和楽器の笙やひちりきにも使われる。若芽は食用となり、葉は粽(ちまき)を包む笹の代わりにも使われる。根茎は、漢方薬で、健胃・利尿に、あるいは、消炎剤として使われる」とある。

 

 日本の美称は「豊葦原の瑞穂の国」である。

 

 この歌ならびに、「あしはらのみずほのくに」で始まる歌のさわりについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その272)」で紹介している。

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志貴皇子の子供には、万葉歌人湯原王、白壁皇子(後の光仁天皇)、春日王らがいるが、春日王ならびに湯原王の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1077)」で紹介している。

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 志貴皇子の歌は万葉集では六首収録されているが、五一、六四、一四一八歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その28改)」で紹介している。(28、29改いずれも、初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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 二六七、五一三、一四六六歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その29改)」で紹介している。

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 五一三歌については、奈良県高市郡明日香村の大原で詠まれている。明日香村     万葉文化館入口交差点近くにあるこの歌碑については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その179改)」で紹介している。

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 大原の里は、藤原鎌足の誕生の地と言われている。

 

 大原の里に降った大雪を巡って、天武天皇と藤原夫人のユーモアあふれる贈答歌が微笑ましい。歌をみてみよう。

 

標題は、「明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛真人天皇天武天皇」<明日香(あすか)の清御原(きよみはら)の宮(みや)に天の下知らしめす天皇の代 天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)謚(おくりな)して天武天皇(てんむてんのう)といふ>である。

 

 題詞は、「天皇賜藤原夫人御歌一首」<天皇、藤原夫人(ふぢはらのぶにん)に賜ふ御歌一首>である。

(注)藤原夫人:藤原鎌足の女(むすめ)、五百重娘(いおえのいらつめ)

 

 

◆吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落巻者後

                (天武天皇 巻二 一〇三)

 

≪書き下し≫我(わ)が里に大雪(おほゆき)降(ふ)れり大原(おほはら)の古(ふ)りにし里に降(ふ)らまくは後(のち)

 

(訳)わがこの里に大雪が降ったぞ。そなたが住む大原の古ぼけた里に降るのは、ずっとのちのことでござろう。(同上)

(注)まく :…だろうこと。…(し)ようとすること。 ※派生語。 ⇒ 語法 活用語の未然形に付く。 ⇒ なりたち 推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」(学研)

 

 

 次に、藤原夫人の歌をみてみよう。

 

題詞は、「藤原夫人奉和歌一首」<藤原夫人、和(こた)へ奉(まつ)る歌一首>である。

 

 

◆吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武

              (藤原夫人 巻二 一〇四)

 

≪書き下し≫我が岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ

 

(訳)私が住むこの岡の水神に言いつけて降らせた雪の、そのかけらがそちらの里に散ったのでございましょう。(同上)

(注)おかみ:水を司る龍神

(注)ふじん【夫人】名詞:①天皇の配偶者で、皇后・妃に次ぐ位の女性。②貴人の妻。 ※「ぶにん」とも。(学研)

 

  この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その158改)」で紹介している。

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 「大原(おほはら)の古(ふ)りにし里に降(ふ)らまくは後(のち)」との揶揄に対して、藤原夫人は、「おかみに言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ」と言い返している。相手の突っ込みに、知的にうまく反発していく「ああ言えばこう言う」式のやり取りは、お互いの距離を近づけるようである。

 

万葉集は口誦歌を記録するという意味で画期的なプロジェクトである。また、それを支えるインフラとして膨大な歌が、「歌垣」で生み出されていたと考えられるのである。「歌垣」は個人的に見れば人生を左右する場であり、よき伴侶を得られる機会であるので、当然、人となりが注目される場である。衆目の眼の中で、自分のこれという相手を選び、また相手からも認めてもらわないといけない。こういう真剣勝負的な場であったから、大勢のライバルの中で際立ち周りを納得させた歌は、口誦され、さらに磨きがかけられて、やがては万葉集に収録されるという結果になったのであろう。

 歌垣は「歌掛き」であり、東国では「カガヒ」と言った。「掛ケ合ヒ」あるいは「掛キ合ヒ」である。歌垣の本質は、歌を掛け合うことにあったのである。

 万葉集を支えたであろう膨大な口誦された歌が生まれたであろう歌垣についても機会があれば調べて行きたい。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「万葉集の心を読む」 上野 誠 著 (角川文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」