●歌は、「塵泥の数にもあらぬ我れゆゑに思ひわぶらむ妹がかなしさ」である。
●歌をみていこう。
◆知里比治能 可受尓母安良奴 和礼由恵尓 於毛比和夫良牟 伊母我可奈思佐
(中臣宅守 巻十五 三七二七)
≪書き下し≫塵泥(ちりひぢ)の数にもあらぬ我(わ)れゆゑに思ひわぶらむ妹(いも)がかなしさ
(訳)塵や泥のような物の数でもないこんな私ゆえに、今頃さぞかししょげかえっているであろう。あの人が何ともいとおしくてならない。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)ちりひぢ【塵泥】〘名〙:① ちりとどろ。② 転じて、つまらないもの、とるに足りないもの。ちりあくた。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注)かず【数】にもあらず=かず(数)ならず
(注の注)かず【数】ならず:数えたてて、とりあげるほどの価値はない。物の数ではない。とるに足りない。つまらない。数にもあらず。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注)おもひわぶ【思ひ侘ぶ】自動詞:思い嘆く。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)かなしさ 名詞:(一)【愛しさ】かわいさ。かわいいこと。(二)【悲しさ・哀しさ】悲しさ。悲しいこと。(学研)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1357)」で紹介している。
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「かなしさ」については、上記の(注)にあるように、愛情表現的な「愛(かな)しさ」と悲哀的な「悲(かな)しさ」・「哀(かな)しさ」があるが、辞書の様に(一)、(二)と明確に分けることは至難の業といわざるをえない。「かなしさ」、「かなしむ」、「かなし」を詠んだ歌をみてその意味合いを探ってみよう。
題詞は、「賀茂女王贈大伴宿祢三依歌一首 故左大臣長屋王之女也」<賀茂女王(かものおほきみ)、大伴宿禰三依(みより)に贈る歌一首 故左大臣長屋王が女なり>である。
◆筑紫船 未毛不来者 豫 荒振公乎 見之悲左
(加茂女王 巻四 五五六)
≪書き下し≫筑紫船(つくしふね)いまだも来(こ)ねばあらかじめ荒(あら)ぶる君を見るが悲しさ
(訳)あなたを乗せて行く筑紫通いの船、その船がまだ来もしないうちから、もう今からよそよそしくするあなた、そんなあなたを見るのはほんとに悲しい。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)あらかじめ【予め】副詞:前もって。かねて。(学研)
(注)荒ぶる あらぶる:荒れる、暴れる、激しく動く、乱暴に振舞う、といった意味で用いられる表現。「荒ぶ」ともいう。なお「荒ぶ」は「あら-ぶ」とも「すさ-ぶ」とも読む。(weblio辞書 実用日本語表現辞典)
筑紫船に乗って行ってしまって残された自分は「悲しい」そして三依の気持ちが筑紫の方に傾いていることから「悲しい」という反面、そこには荒ぶる君への思いが隠されていると見るべきと思う。決して、離れて行ってしまうことを喜ぶ感情は一切ないはずである。
題詞は、「大蔵少輔丹比屋主真人歌一首」<大蔵少輔(おほくらのせうふ)丹比屋主真人(たびひのやぬしのまひと)が歌一首>である。
◆難波邊尓 人之行礼波 後居而 春菜採兒乎 見之悲也
(丹比屋主真人 巻八 一四四二)
≪書き下し≫難波辺(なにはへ)に人の行ければ後(おく)れ居(ゐ)て春菜(はるな)摘(つ)む子を見るが悲しさ
(訳)難波の方へ夫が出かけているので、ひとりあとに残って春菜を摘んでいる子、その子を見ると、いとおしくてならない。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)人:下の「春菜摘む子」の夫(伊藤脚注)
(注)悲しさ:いじらしくてならぬ(伊藤脚注)
春菜を摘んでいる子を見ていて、いじらしく思う、ほのかな恋心を感じるが自分の世界だけの範疇でしかない。相手にはいじらしさを、自分にはそのいじらしさに見合うアクションはとれていない自分への悲しい思いを感じているのである。万葉集の「恋」の表記に「孤悲」があるが、その感覚に近いように思うのである。
歌碑の歌の「塵泥(ちりひぢ)の数にもあらぬ我(わ)れゆゑに思ひわぶらむ妹(いも)がかなしさ(中臣宅守 巻十五 三七二七)」は、娘子の気持ちとして、宅守が目の前からいなくなって「悲しい」と思っているはず、それは宅守に対する深い愛情があると確信できるので娘子の気持ちの「かなしさ」を慮って宅守が詠っているのである。
動詞の「かなしむ」や形容詞の「かなし」の場合もみてみよう。
◆打日指 宮尓行兒乎 真悲見 留者苦 聴去者為便無
(大伴宿麻呂 巻四 五三二)
≪書き下し≫うちひさす宮に行く子をま悲(かな)しみ留(と)むれば苦し遣(や)ればすべなし
(訳)宮仕えに行く子よ、この子がいとおしくてしかたがないので、引きとめるのは心苦しいし、行かせるのはやりきれない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)うちひさす【打ち日さす】分類枕詞:日の光が輝く意から「宮」「都」にかかる。(学研)
(注)ま- 【真】接頭語〔名詞・動詞・形容詞・形容動詞・副詞などに付いて〕:①完全・真実・正確・純粋などの意を表す。「ま盛り」「ま幸(さき)く」「まさやか」「ま白し」。②りっぱである、美しい、などの意を表す。「ま木」「ま玉」「ま弓」(学研)ここでは①の意
(注)すべなし【術無し】形容詞:なすべき方法がない。どうしたらよいかわからない。また、つらい。苦しい。(学研)
目の前にいるあの子はいとおしい、しかし出仕していなくなるは悲しい、引き留めたいが引き留められない気持ちの葛藤をうまく詠いあげた歌である。
ここからは東歌が続きます。
◆筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母
(作者未詳 巻十四 三三五一)
≪書き下し≫筑波嶺(つくはね)に雪かも降(ふ)らるいなをかも愛(かな)しき子(こ)ろが布(にの)乾(ほ)さるかも
(訳)筑波嶺に雪が降っているのかな、いや、違うのかな。いとしいあの子が布を乾かしているのかな。(同上)
(注)降らる:「降れる」の東国形。
(注)いなをかも【否をかも】分類連語:いや、そうではないのかな。違うのだろうか。 ⇒
なりたち 感動詞「いな」+間投助詞「を」+係助詞「かも」(学研)
(注)ニノ:「ヌノ」の訛り。
(注)乾さる:「乾せる」の東国形。
◆相模治乃 余呂伎能波麻乃 麻奈胡奈須 兒良波可奈之久 於毛波流留可毛
(作者未詳 巻十四 三三七二)
≪書き下し≫相模道(さがむぢ)の余綾(よろぎ)の浜の真砂(まさご)なす子らは愛(かな)しく思はるるかも
(訳)相模道の余綾(よろぎ)の浜の真砂のような子、あの子はむやみやたらにいとしく思われてならぬ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
◆多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎
(作者未詳 巻十四 三三七三)
≪書き下し≫多摩川(たまがは)にさらす手作(てづく)りさらさらになにぞこの子のここだ愛(かな)しき
(訳)多摩川にさらす手織の布ではないが、さらにさらに、何でこの子がこんなにもかわいくってたまらないのか。(同上)
(注)上二句は序。「さらさらに」を起こす。
(注)さらす【晒す・曝す】他動詞:①外気・風雨・日光の当たるにまかせて放置する。②布を白くするために、何度も水で洗ったり日に干したりする。③人目にさらす。(学研)ここでは②の意
(注)ここだ【幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。 ※上代語。(学研) ここでは②の意
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1132)」で紹介している。
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◆安我古非波 麻左香毛可奈思 久佐麻久良 多胡能伊利野乃 於久母可奈思母
(作者未詳 巻十四 三四〇三)
≪書き下し≫我(あ)が恋(こひ)はまさかも愛(かな)し草枕(くさまくら)多胡(たご)の入野(いりの)の奥(おく)も愛(かな)しも
(訳)俺のこの愛(う)いやつは今の今もかわいくってならぬ。草を枕の旅というその多胡(たご)の入野谷(いりのや)の奥、そう、これから行く先もずっとずっとかわいくってならぬ。(同上)
(注)恋:ここでは「恋人」の意。(伊藤脚注)
(注)まさか【目前】名詞:さしあたっての今。現在。(学研)
(注)「草枕多胡の入野の」は序。「奥」を起こす。(伊藤脚注)
(注)おく【奥】名詞:①物の内部に深く入った所。②奥の間。③(書物・手紙などの)最後の部分。④「陸奥(みちのく)」の略。▽「道の奥」の意。⑤遠い将来。未来。行く末。⑥心の奥。(学研)ここでは⑤の意
(注)「まさかも愛し」と「奥も愛し」は現在と将来で対になっている。
三三七二、三三七三、三三五一、三四〇三歌は、いずれも東歌である。自分と相手との時間的、空間的隔たりがあって「いとしい」と思うがその隔たりが自分をして「悲し」と言わせしめているまさに「孤悲」に近い心情と思われる。
次の家持の歌は、辞書的な意味ででの「愛(かな)し」(四一〇六歌)と「悲(かな)し」(四二九〇歌)に分けることができるのである。
◆・・・神代欲里 伊比都藝家良之 父母乎 見波多布刀久 妻子見波 可奈之久米具之 宇都世美能 余乃許等和利止・・・
(大伴家持 巻十八 四一〇六)
≪書き下し≫・・・神代(かみよ)より 言ひ継(つ)ぎけらく 父母を 見れば貴(たふと)く 妻子(めこ)見れば 愛(かな)しくめぐし うつせみの 世のことわりと・・・
(訳)・・・遠い神代の時から言い継いできたことは、「父母は見る尊いし、妻子は見るといとしくいじらしい。これがこの世の道理なのだ」と・・・(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その473)」で紹介している。
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◆春野尓 霞多奈▼伎 宇良悲 許能暮影尓 鸎奈久母
(大伴家持 巻十九 四二九〇)
▼は「田+比」➡「多奈▼伎」=たなびき
≪書き下し≫春の野に霞(かすみ)たなびきうら悲(がな)しこの夕影(ゆふかげ)にうぐひす鳴くも
(訳)春の野に霞がたなびいて、何となしに物悲しい、この夕暮れのほのかな光の中で、鴬が鳴いている。(同上)
(注)春たけなわの夕暮れ時につのるうら悲しさが主題。
(注)うらがなし【うら悲し】形容詞:何とはなしに悲しい。もの悲しい。 ※「うら」:心の意。(学研)
(注)ゆふかげ【夕影】名詞:①夕暮れどきの光。夕日の光。 [反対語] 朝影(あさかげ)。②夕暮れどきの光を受けた姿・形。(学研)ここでは①の意
四二九〇から四二九二歌は、「春愁三首」とか「春愁絶唱三首」といわれている。
これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その551)」で紹介している。
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万葉集には「恋」を「孤悲」と表記された歌が三十首ほど収録されているが、いとおしいと思う心をベースにもって「孤り悲しむ」と表記した書き手の万葉仮名の一字一音表記に表意文字を超えた味わいを付加した学識には驚かされる。「愛(かな)し」と「悲(かな)し」の意味合いも、「情熱的な恋」と「自分中心的なほのかな恋」の差をも解きほぐしてくれるのである。
時間的、空間的にいとしく思っている相手がいなくなる、そこに取り残され孤り悲しい思いをしている自分がいる。心の中から泉のように吹き出してくる相手へのどうしようともしがたいいとしい気持ちがさらに自分を悲しくさせる。
「恋」を「孤悲」と書き記したのはひょっとしたら女性なのかなあと勝手に想像してしまう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「weblio辞書 実用日本語表現辞典」