―その1890―
●歌は、「春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ 野をなつかしみ一夜寝にける」である。
●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(55)にある。
●歌をみていこう。
◆春野尓 須美礼採尓等 來師吾曽 野乎奈都可之美 一夜宿二来
(山部赤人 巻八 一四二四)
≪書き下し≫春の野にすみれ摘(つ)みにと来(こ)しわれぞ野をなつかしみ一夜寝(ね)にける
(訳)春の野に、すみれを摘もうとやってきた私は、その野の美しさに心引かれて、つい一夜を明かしてしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)なつかし【懐かし】形容詞:①心が引かれる。親しみが持てる。好ましい。なじみやすい。②思い出に心引かれる。昔が思い出されて慕わしい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
題詞は、「山部宿祢赤人歌四首」<山部宿禰赤人が歌四首>である。
この四首については、東近江市下麻生の山部神社の明治十二年に立てられた歌碑と共にブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その417)」で紹介している。
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―その1891―
●歌は、「紅の花にしあらば衣手に染め付け持ちて行くべく思ほゆ」である。
●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(56)にある。
●歌をみていこう。
◆紅 花西有者 衣袖尓 染著持而 可行所念
(作者未詳 巻十一 二八二七)
≪書き下し≫紅(くれなゐ)の花にしあらば衣手(ころもで)に染(そ)め付け持ちて行くべく思ほゆ
(訳)お前さんがもし紅の花ででもあったなら、着物の袖に染め付けて持って行きたいほどに思っているのだよ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)ころもで【衣手】名詞:袖(そで)。(学研)
この歌は、巻十一の「問答歌」の収録されている。二八二六歌もみてみよう。
◆如是為乍 有名草目手 玉緒之 絶而別者 為便可無
(作者未詳 巻十一 二八二六)
≪書き下し≫かくしつつあり慰めて玉(たま)の緒(を)の絶(た)えて別ればすべなかるべし
(訳)このようにおそばに居続けながら、ずっと心を慰めてきたのに、玉の緒の切れるように、仲が絶えて別れ別れになったなら、何とも遣(や)る瀬ないことでしょう。(同上)
(注)あり慰めて:ずっとあなたの側にいて心を慰めているのに。(伊藤脚注)
(注)たまのをの【玉の緒の】分類枕詞:玉を貫き通す緒の状態から「絶ゆ」「長し」「短し」「思ひ乱る」などにかかる。(学研)
(注)この二首は、「旅別れ」の問答。(伊藤脚注)
二八二七歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その992)」において、いくつかの「くれない」を詠んだ歌のひとつとして紹介している。
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「問答歌」は、ある意味掛け合いの面白さもある。二八〇八、二八〇九歌と二八二〇、二八二一歌をみてみよう。
◆眉根掻 鼻水紐解 待八方 何時毛将見跡 戀来吾乎
(作者未詳 巻十一 二八〇八)
≪書き下し≫眉根(まよね)掻(か)き鼻(はな)ひ紐解(ひもと)け待てりやもいつかも見むと恋ひ来(こ)し我(あ)れを
(訳)眉(まゆ)の根元を掻いたり、くしゃみをしたり、紐が解けたりして、待っていてくれましたか。一刻も早く逢いたいと心引かれてやって来たこの私なのだが。(同上)
(注)やも 分類連語:①…かなあ、いや、…ない。▽詠嘆の意をこめつつ反語の意を表す。②…かなあ。▽詠嘆の意をこめつつ疑問の意を表す。 ※上代語。 ⇒語法:「やも」が文中で用いられる場合は、係り結びの法則で、文末の活用語は連体形となる。 ⇒参考:「やも」で係助詞とする説もある。 ⇒なりたち:係助詞「や」+終助詞「も」。一説に「も」は係助詞。(学研)
◆今日有者 鼻火鼻火之 眉可由見 思之言者 君西在來
(作者未詳 巻十一 二八〇九)
≪書き下し≫今日(けふ)なれば鼻の鼻ひし眉可(まよ)かゆみ思ひしことは君にしありけり
(訳)お見えになるのが今日だったからですね 鼻がむずむずしてくしゃみが出、眉もむずかゆくて、もしやおいでかと思っていたのは、あなただったのですね。(同上)
二八〇八、二八〇九歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その7改)」で紹介している。
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◆如是谷裳 妹乎待南 左夜深而 出来月之 傾二手荷
(作者未詳 巻十一 二八二〇)
≪書き下し≫かくだにも妹(いも)を待ちなむさ夜(よ)更(ふ)けて出(い)で来(こ)し月のかたぶくまでに
(訳)これほどまでにじらされてもあなたを待つことになるのか。夜が更けてから昇ってきた月が傾く頃までも。(同上)
(注)かくだにも:これほどにじらされても。(伊藤脚注)
◆木間従 移歴月之 影惜 俳徊尓 左夜深去家里
(作者未詳 巻十一 二八二一)
≪書き下し≫木(こ)の間(ま)より移ろふ月の影(かげ)を惜(を)しみ立ち廻(もとほ)るにさ夜(よ)更(ふ)けにけり
(訳)木の間隠れに移って行く月の光に見惚(みと)れて、あちこち歩き廻(まわ)っているうちに、すっかり夜が更けてしまっていたのでした。(同上)
(注)影を惜しみ:光に見惚れて。じらされて見ると嘆く相手の月に転じて言い訳をした。はぐらかし。(伊藤脚注)
―その1892―
●歌は、「忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため」である。
●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(57)にある。
●歌をみてみよう。
◆萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 忘之為
(大伴旅人 巻三 三三四)
≪書き下し≫忘れ草我(わ)が紐(ひも)に付(つ)く香具山の古(ふ)りにし里を忘れむがため
(訳)忘れ草、憂いを忘れるこの草を私の下紐に付けました。香具山のあのふるさと明日香の里を、いっそのこと忘れてしまうために。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
この歌については、「忘れてしまうため」と「忘れてしまわないため」の二通りの解釈がなされてきた。しかし、万葉びとが詠っている「わすれ草」とは、中国の「忘憂草(しなかんぞう)」のことで、効用として、憂さを忘れさせるとされていた。断ち切り難い恋の思いをすっきり忘れさせてくれるものとして受け入れられてきたのである。
三二八から三三七歌までの歌群は、小野老が従五位上になったことを契機に大宰府で宴席が設けられ、その折の歌といわれている。そのうちの、題詞「帥大伴卿が歌五首」の一首である。この歌群の歌すべてを、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介しているので参考にしていただければと思います。
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「忘れ草」については、万葉集では五首詠まれている。忘れ草は名ばかりでちっとも忘れられないので「醜(しこ)の醜草(しこくさ)」と八つ当たりに詠った歌が二首ある。
これらについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その334)」で紹介している。
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■■■11月29日~12月2日 高知県・山口県・広島県万葉歌碑巡り■■■
■■11月29日高知県■■
≪旅程≫自宅→高知県東洋町 伏越(ふしごえ)の万葉歌碑→同奈半利町 奈半利町活性化センター→高知市内ホテル
≪旅程≫高知市内ホテル→高知県大豊町 土佐豊永万葉植物園→山口県周南市若草町 周南緑地公園西緑地万葉の森→下松市内ホテル
≪旅程≫下松市内ホテル→山口県熊毛郡平生町 佐賀地域交流センター尾国分館→大島郡周防大島町 塩竈神社→同 大多満根神社→岩国市桂野小学校→広島県廿日市市大野高畑 高庭駅家跡→広島市安芸区上瀬野町 万葉歌碑→福山市鞆町 医王寺→福山市内ホテル
■■12月2日広島県■■
≪旅程≫福山市内ホテル→自宅
※歌碑の紹介は順次行ってまいります
走行距離1462km。前回の鳥取・島根・山口・岡山コース同様、後期高齢者にとっては結構厳しいドライブとなった。しかも11月29日の土砂降りの雨には閉口した。
11月29日午前3時前に家を出発。神戸淡路鳴門自動車道から国道55号線をひた走る。四国に渡ると次第に雨がきつくなる。ワイパーを最速にしても前が見えづらいほどの雨である。幸いに高知県東洋町の「伏越(ふしごえ)の万葉歌碑」に到着した時は傘がいらない程度であった。
雨のひどさを考え、遠回りになるが室戸岬ルートで次の目的地へ。
降り続く雨。奈半利町活性センター横の歌碑は国道493号線に面しているので、車を横付けにして撮影することが出来た。助手席窓を開けるや撮影、すぐに窓を閉めるという初めての体験であった。
翌日は、曇りがちであったが雨があがり、土佐豊永万葉植物園の歌碑を100基超撮影することが出来た。先代の御住職様とお話をする機会があり、定福寺の境内に万葉歌碑が立てられた経緯などを伺った。
次の目的地は、山口県周南市の周南緑地公園西緑地万葉の森である。途中、大歩危・小歩危の祖谷蕎麦もみじ亭で昼食。
そこまでは良かったが、ナビは国道319号線から高知自動車道軽油瀬戸大橋ルートを指示している。土地勘がないのでナビの言うとおり走るが、くねくねの狭い左山右谷の山道である。すれちがった車わずかに3台。ほとんど利用されていない道であろう。不安に駆られながらも進まざるをえない。岐阜の時もそうであったが、辺鄙な山道を指示するナビ。
ようやく周南緑地公園西緑地に到着したのは16時30分ごろであった。ここも土地勘の無さ。ファインチューニングがうまくいかない。迷いこんだのが「万葉プラザ・遠石市民センター」であった。ここで万葉歌碑の場所を尋ねる。職員の方が親切にも案内してくださる。有り難いことであった。ブログ紙面を借りて改めて御礼申し上げます。万葉歌碑巡りでは、幾たびとなくご親切な方に巡り合えるのが本当に奇跡であり、有り難いことである。
12月1日はまず、山口県熊毛郡平生町 佐賀地域交流センター尾国分館横の歌碑からのスタートである。海岸沿いにあり、案内板も出ておりすぐに見つけることが出来た。
次は、周防大橋を渡り、周防大島内の塩竈神社と大多満根神社の歌碑である。これもグーグルストリートビューで事前探索をしておいたのでスムーズに見つけることが出来た。
岩国市桂野小学校にお邪魔をし、校庭の歌碑の写真を撮らせていただく。
広島県廿日市に移動、大野高畑の高庭駅家跡を巡り、安芸区上瀬野町万葉歌碑を撮影したのである。ストリートビューでは、複雑な場所のイメージであったが、なんと国道2号線沿いにあり現地で驚いてしまった。
最後は福山市鞆町へ。車幅一杯の細い坂道を上る。途中の駐車場で車を停め歩いて行くが、傾斜のきつさに息が切れる。医王寺に到着、そこからの鞆の浦の光景に癒された。
ホテルからのチームラボ福山城光の祭りにさらに癒されたのである。
今回は、当初高知県のみを計画していたが、旅行支援の延長が決まったので、山口・広島で撮り残していた歌碑も計画に組み込んだのである。
旅行支援のおかげであった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」