万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2380)―

■わた■

「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)より引用させていただきました。

●歌は、「しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ」である。

千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園万葉歌碑(プレート)(沙弥満誓) 20230926撮影

●歌碑(プレート)は、千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「沙弥満誓詠綿歌一首  造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也」<沙弥満誓(さみまんぜい)、綿(わた)を詠(よ)む歌一首  造筑紫觀音寺別当、俗姓は笠朝臣麻呂なり>

(注)べったう【別当】名詞:①朝廷の特殊な役所である、検非違使庁(けびいしちよう)・蔵人所(くろうどどころ)・絵所・作物所(つくもどころ)などの長官。②院・親王家・摂関家大臣家などで、政所(まんどころ)の長官。③東大寺興福寺法隆寺などの大寺で、寺務を総括する最高責任者。 ※もと、本官のある者が別の職を兼務する意。「べたう」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典より)

 

◆白縫 筑紫乃綿者 身箸而 未者伎袮杼 暖所見

          (沙弥満誓 巻三 三三六)

 

≪書き下し≫しらぬひ筑紫(つくし)の綿(わた)は身に付けていまだは着(き)ねど暖(あたた)けく見ゆ

 

(訳)しらぬひ筑紫、この地に産する綿は、まだ肌身に付けて着たことはありませんが、いかにも暖かそうで見事なものです。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しらぬひ 分類枕詞:語義・かかる理由未詳。地名「筑紫(つくし)」にかかる。「しらぬひ筑紫」。 ※中古以降「しらぬひの」とも。(学研)

(注)筑紫も捨てたものではないと私見を述べている。

 

 

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感想(1件)

この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その920)」で、沙弥満誓の歌七首とともに紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 万葉集には「綿」を詠んだ歌は四首収録されている。他の三首をみてみよう。

 

■八九二歌■

◆・・・人皆可 吾耳也之可流 和久良婆尓 比等々波安流乎 比等奈美尓 安礼母作乎 綿毛奈伎 布可多衣乃 美留乃其等 和々氣佐我礼流 可々布能尾 肩尓打懸・・・

       (山上憶良 巻五 八九二)

 

≪書き下し≫・・・人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け・・・

 

(訳)・・・世の人みんながそうなのか。私だけがそうなのか。幸いにも人と生まれたのに、人並みに私も働いているのに、綿もない布の袖無の海松(みる)のように破れ下がったぼろだけを肩にうちかけ、・・・(同上)

(注)わくらばなり【邂逅なり】形容動詞:たまたまだ。偶然だ。まれだ。▽多く「わくらばに」の形で副詞的に用い、めったにないさまを表す。 ⇒参考:「わくらばに」の形で副詞とする説があるが、これは、用例がほとんど「わくらばに」という連用形であること、しかも、和歌によく用いられる歌語であって、他の活用形がほとんどないことによる。しかし、「わくらばの立ち出(い)でも絶えて」(『更級日記』)〈まれな外出もなくなって。〉のような例も、少ないながら見られるので、形容動詞とする。(学研)

(注)我れも作るを:せっせと働いているのに。(伊藤脚注)

(注)わわく 自動詞:破れ乱れる。ぼろぼろになる。 ※上代語。(学研)

(注)かかふ【襤褸】名詞:ぼろ布。(学研)

 

 

■九〇〇歌■

 

◆富人能 家能子等能 伎留身奈美 久多志須都良牟 絁綿良波母

山上憶良 巻五 九〇〇)

 

≪書き下し≫富人(とみひと)の家の子どもの着る身なみ腐(くた)し捨つらむ絹綿(きぬわた)らはも

 

(訳)物持ちの家の子どもが着余して、持ち腐れにしては、捨てている、その絹の綿の着物は、ああ。(同)

(注)富人:漢語「富人」の翻読語。(伊藤脚注)

(注)着る身なみ:着物の量に対して子供の少ない状態。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その44改)」で紹介している。

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■三三五四歌■

◆伎倍比等乃 萬太良夫須麻尓 和多佐波太 伊利奈麻之母乃 伊毛我乎杼許尓

      (作者未詳 巻十四 三三五四)

 

≪書き下し≫伎倍人(きへひと)のまだら衾(ぶすま)に綿(わた)さはだ入(い)りなましもの妹(いも)が小床(をどこ)に

 

(訳)伎倍人(きへひと)の斑(まだら)模様の蒲団(ふとん)に真綿がたっぷり。そうだ、たっぷり入りこみたいものだ。あの子の床の中に。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)伎倍:所在未詳。(伊藤脚注)

(注)まだらぶすま【斑衾】:まだら模様のある夜具。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)上三句は序。「入り」を起こす。(伊藤脚注)

(注)さはだ【多だ】副詞:たくさん。多く。 ※「だ」は程度を表す接尾語。(学研)

(注)なまし 分類連語:①〔上に仮定条件を伴って〕…てしまっただろう(に)。きっと…てしまうだろう(に)。▽事実と反する事を仮想する。②〔上に疑問語を伴って〕(いっそのこと)…たものだろうか。…してしまおうか。▽ためらいの気持ちを表す。③〔終助詞「ものを」を伴って〕…してしまえばよかった(のに)。▽実現が不可能なことを希望する意を表す。 ⇒注意:助動詞「まし」の意味(反実仮想・ためらい・悔恨や希望)に応じて「なまし」にもそれぞれの意味がある。 ⇒なりたち:完了(確述)の助動詞「ぬ」の未然形+反実仮想の助動詞「まし」(学研)ここでは③の意

(注) をどこ【小床】〘名〙: (「お」は接頭語) 床。寝床。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 左注は、「右二首遠江國歌」<右の二首は遠江(とほつあふみ)の国の歌>である。

(注)遠江静岡県西部(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1510)」で紹介している。 

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 「綿」というと江戸時代から明治時代にかけて、南山城(京都府南部)では綿がさかんに栽培されており、特に祝園(精華町)や上狛(木津川市)などは主要な産地であったが、廃れお茶の生産に転身していったのである。

 下記「精華町HP 『せいか社』古文書にみる近世精華町域の綿作」を参照して下さい。

 

http://seikasya.town.seika.kyoto.jp/essays/sericulture02

 

 山城の国で綿の生産が盛んであったことは、かなり以前に信楽の骨とう品屋で購入した茶壷の文字が読めず、山城郷土資料館(京都府木津川市山城町上狛)で「茶どころ南山城ー茶園景観と歴史」特別展をやっていたので見に行った時に、学芸員さんに解読していただき、いろいろお教えいただことで知ったのである。


 「当時は、茶壷を送る場合、今のような送り状はなく、信楽焼の窯元の名と送り先を直接、壷に墨書きした」、「信楽焼の窯元『善右衛門』から『城州上こま 椿井 綿屋忠右衛門』に送ったと思われる」、「城州は山城国の別称であり、上狛(かみこま)近辺では綿花の栽培が盛んであったので『綿屋』名が存在し、時代が進むにつれ、綿花問屋から茶問屋に転じた者が多かった」などを教わったのである。

 

 綿屋は苗字か、綿屋の忠右衛門さんかはわからないがロマンを掻き立てる。

 信楽焼について調べてみると、信楽焼の窯元で有名なところでは「小川善右衛門」の名が資料にあった。ここに記された「善右衛門」が該当するのかは不明であるが、この壷の端正とれた形と大きさからもそれなりの窯元であったと思われる。

 文字解読一つで、山城国の綿業から茶業への歴史にまで及ぶことができたのである。

 

 このことについては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その181改)」でふれております。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「『せいか社』古文書にみる近世精華町域の綿作」 (精華町HP)