●歌は、「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」である。
●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。
●歌をみていこう。
巻十九の巻頭歌である。その題詞は、「天平勝寶二年三月一日之暮眺矚春苑桃李花作二首」<天平勝宝(てんぴやうしようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺矚(なが)めて作る歌二首>である。
(注)天平勝宝二年:750年
◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬
(大伴家持 巻十九 四一三九)
※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」
≪書き下し≫春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)
(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)春の園:桃花の咲く月に入ってその盛りを幻想した歌か。春苑・桃花・娘子の配置は中国詩の影響らしい。(伊藤脚注)
この歌についてはこれまでも幾度となく紹介している。拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2436)」ではこれまで巡って来た同歌の歌碑ならびにプレート一覧とともに紹介している。
➡ こちら2436
伊藤 博氏は、題詞の脚注に「巻十九は、この年三月から天平勝宝五年二月までの歌を収める。家持が自信を誇った歌巻で、末四巻は巻十九を核にしつつ成立したらしい。」と書いておられる。
越中時代の家持について、高岡市万葉歴史館HPの「大伴家持と万葉集」の項に次のように書かれている。
「家持の生涯で最大の業績は『万葉集』の編纂に加わり、全20巻のうち巻17~巻19に自身の歌日記を残したことでしょう。家持の歌は『万葉集』の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位です。しかも家持の『万葉集』で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首であるのに対し、それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首です。その関係で越中は、畿内に万葉故地となり、さらに越中万葉歌330首と越中国の歌4首、能登国の歌3首は、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料となっています。」そして、「越中守在任中の家持は、都から離れて住む寂しさはあったことでしょうが、官人として、また歌人としては、生涯で最も意欲的でかつ充実した期間だったと考えられています。そして越中の5年間は政治的緊張関係からも離れていたためか、歌人としての家持の表現力が大きく飛躍した上に、歌風にも著しい変化が生まれ、歌人として新しい境地を開いたようです。」さらに「国守の居館は二上山(ふたがみやま)を背にし、射水川(いみずがわ)に臨む高台にあり、奈呉海(なごのうみ)・三島野(みしまの)・石瀬野(いわせの)をへだてて立山連峰を望むことができます。また、北西には渋谿(しぶたに)の崎や布勢(ふせ)の水海など変化に富んだ遊覧の地があります。家持はこの越中の四季折々の風物に触発されて、独自の歌風を育んで行きました。『万葉集』と王朝和歌との過渡期に位置する歌人として高く評価される大伴家持の歌風は、越中国在任中に生まれたのです。」と書かれている。
天平勝宝三年7月17日少納言の報せを承け、胸躍らせて都に戻ったのであるが、藤原一族との暗闘に明け暮れ、頼みとした聖武天皇、橘諸兄が相次いで亡くなり、橘奈良麻呂の変に直面することになるのである。
歌の友であり、越中時代家持を支えた大伴池主とも袂を分かち奈良麻呂の変にあって、圏外に身を置き、己を守ったものの、因幡守として左遷され、天平宝字三年(759年)正月一日の因幡の国の庁における新年の宴の歌(四五一六歌)を最後に万葉集は終わりを告げたのである。
この後の家持について、前出の高岡市万葉歴史館HPに次のように書かれている。
「この歌のあと家持の歌は残されていません。家持がこの後、歌を詠まなかったのかどうかもわかりません。家持は晩年の天応元年(781)にようやく従三位の位につきました。また、中納言・春宮大夫などの重要な役職につき、さらに陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍を兼ねます。家持がこの任のために多賀城に赴任したか、遙任の官として在京していたかについては両説があり、したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがあります。」とありさらに家持の没後として、「延暦4年(785)68歳で没しました。埋葬も済んでいない死後20日余り後、藤原種継暗殺事件に首謀者として関与していたことが発覚し、除名され、領地没収のうえ、実子の永主は隠岐に流されます。家持が無罪として旧の官位に復されたのは延暦25年(806大同元年)でした。」
越中をピークに都に戻ってからの家持を待ち受けていた歴史の渦は過酷なものであった。しかしある意味ではしたたかに生き延び、万葉集を完成させ、その時代を現在に伝える偉業を成し遂げたのである。
日々、万葉集に挑んでいるが、よくぞこの万葉集が残されたものであると思うことがしばしばである。
挑みがいがあるというのはおこがましい言い方であるが、毎日毎日少しでもいいので万葉集に触れられる喜びを、(その2501)に記し、次なる課題に挑戦していきたい。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「高岡市万葉歴史館HP」
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)