●歌は、「夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてぞ我が来る妹が目を欲り(秦間満 15-3589)」である。
本稿から、「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)の「生駒・龍田」である。
順に読み進んでいこう。
【生駒山】
「秦間満(はたのはしまろ)(巻十五‐三五八九)(歌は省略)・・・この歌は、天平八年(七三六)六月、遣新羅使人の一行の一人秦間満の歌で、おそらく難波津出船までに間があるのを見て、奈良の妻のもとへ近道の生駒越をして帰ってゆくときのものであろう。『妹が目を欲(ほ)り』は『妻の目を欲して』で、『妻に逢いたくて』の意である。前途はるばるの海路を背負っているこの人が、わずかのあいまを見て奈良の家に帰ってゆくおりからの、幽林のあいだに鳴くひぐらしの声はひとしお心にしみとおるものがあったであろう。
生駒越えが奈良・難波間の要路であったばかりでなく、山頂が東西の見通しをほしいままにするところだっただけに、和銅五年(七一二)には最高峯のすこし南に高見の烽火(とぶひ)台が置かれた。海上からもどこからも望まれる高峯だから、旅の往還につけて抒情の託される山であった。(巻二十‐四三八〇)(歌は省略)と、遠い旅路に向う防人の一人にも、郷愁の山として印象づけられるのだ。」(「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
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巻十五 三五八九歌をみていこう。
■巻十五 三五八九歌■
◆由布佐礼婆 比具良之伎奈久 伊故麻山 古延弖曽安我久流 伊毛我目乎保里
(秦間満 巻十五 三五八九)
≪書き下し≫夕さればひぐらし来(き)鳴(な)く生駒山越えてぞ我(あ)が來る妹が目を欲(ほ)り
(訳)夕方になると、ひぐらしが来て鳴くものさびしい生駒山、生駒の山を越えて私は大和へと急いでいる。もう一目あの子に逢いたくて。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)めをほる 【目を欲る】分類連語:見たい。会いたい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
左注は、「右一首秦間満」<右の一首は秦間満(はだのはしまろ)>である。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その88改)」で、生駒市俵口町生駒山麓公園万葉歌碑とともに紹介している。
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生駒山麓公園「万葉のこみち」には、生駒市内の万葉歌碑を一堂に紹介する形で歌碑が建てられている。オリジナルな歌碑は生駒市小瀬町大瀬中学校正門近くにある。
生駒市小瀬町大瀬中学校正門近くの万葉歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その448)」で紹介している。
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生駒山麓公園「万葉のみち」にある歌碑のオリジナルな生駒市内の万葉歌碑は下記の六基である。
巻二十 四三八〇歌をみてみよう。
■巻二十 四三八〇歌■
◆奈尓波刀乎 己嶬埿弖美例婆 可美佐夫流 伊古麻多埿可祢尓 久毛曽多奈妣久
(大田部三成 巻二十 四三八〇)
≪書き下し≫難波津(なにはと)を漕(こ)ぎ出(で)て見れば 神(かみ)さぶる生駒高嶺(いこまたかね)に雲そたなびく
(訳)難波津を漕ぎ出して振り返ってみると、神々しい生駒の高嶺に、雲がたなびいている。(伊藤 博著「万葉集 四」角川ソフィア文庫より)
左注は「右一首梁田郡上丁大田部三成」<右の一首は梁田(やなだ)の郡の(じゃうちゃう)大田部三成(おほたべのみなり>とある。
(注)梁田郡:足利市北西部付近一帯。(伊藤脚注)
四三七三歌から四三八三歌十一首の内の一首である。この歌群の左注は、「二月十四日下野國防人部領使正六位上田口朝臣大戸進歌數十八首 但拙劣歌者不取載之」<二月の十四日、下野(しもつけ)の国(くに)の防人部領使(さきもりのことりづかひ)正六位上田口朝臣大戸(たぐちのあそみおほへ)。進(たてまつ)る歌の数十八首。ただし、拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず>とある。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その86改)」で、生駒山麓公園「万葉のみち」の歌碑とともに紹介している。
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この歌碑のオリジナルは、生駒市西畑町 暗峠奈良街道沿いにある。これについては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その447)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」