前稿(その2121)で、国土交通省の資料「万葉集と明日香について」に、万葉故地は、6つの地域すなわち、①大和(奈良県)、②中央の大和に最も近い周辺諸国を含む地域、③山陰の石見に赴任していた柿本人麻呂によるものを中心とする地域、④筑紫で、大宰府の影響下の地や大伴旅人、山上憶良によるものを中心とする地域、⑤越中で、中央から派遣された大伴家持によるものを中心とする地域、⑥東国で、高橋虫麻呂・山部赤人らによるものや、自然発生的な要素が多い地域、に分布していることがわかった。
さらに前稿では、①大和(奈良県)のなかで特に故地の多い明日香に焦点を絞って万葉歌碑を見て来た。
明日香を除く大和(奈良県)を、①―1生駒市、①―2奈良市、①―3天理市、①―4宇陀市、①―5桜井市、①―6橿原市、①―7吉野町、①―8御所市・五條市の順で万葉歌碑をみていこう。
■■①―1 生駒市の万葉歌碑■■
■奈良県生駒市東新町 生駒市役所前庭万葉歌碑(巻六 一〇四七)■
●歌をみていこう。
題詞は、「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」<寧楽の故郷を悲しびて作る歌一首 并(あは)せて短歌>である。
(注)故郷:古京の意。(伊藤脚注)
(注)天平十三年(741年)七月十日、元正天皇が新都久邇に移る折りの詠か。(伊藤脚注)
◆八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼将座 御子之嗣継 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 櫻花 木晩牢■鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀▲丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男壮鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思煎敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮将徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃真尓真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞
■は「白」に「八」である
▲はやまへんに鬼である
(田邊福麻呂之歌集中出也とある 巻六 一〇四七)
≪書き下し≫やすみしし 我が大君の 高敷(たかし)かす 大和の国は すめろきの 神の御代(みよ)より 敷きませる 国にしあれば 生(あ)れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天(あめ)の下(した) 知らしまさむと 八百万(やほよろづ) 千年(ちとせ)をかねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 三笠の野辺(のへ)に 桜花(さくらばな) 木(こ)の暗隠(くれがく)り 貌鳥(かほどり)は 間(ま)なくしば鳴く 露霜の 秋去り来れば 生駒山 飛火(とぶひ)が岳に 萩の枝(え)を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響(とよ)む 山見れば 山も見が欲(ほ)し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)の うちはへて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの極(きは)み 万代(よろづよ)に 栄え行かむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代(あらたよ)の ことにしあれば 大君の 引きのまにまに 春花(はるはな)の うつろひ変はり 群鳥(むらとり)の 朝立ち行けば さす竹の 大宮人の 踏み平(なら)し 通ひし道は 馬もいかず 人も行かねば 荒れにけるかも
(訳)あまねく天下を支配されるわれらの大君が治められている日の本の国は、皇祖の神の御代以来ずっとお治めになっている国であるから、この世に現れ給う代々の御子が次々にお治めになるべきものとして、千年にも万年にもわたるとこしえの都としてお定めになったこの奈良の都は、陽炎の燃える春ともなると、春日山の麓の御笠の野辺で、桜の花の木陰に隠れて、貌鳥(かほどり)はとくに絶え間なく鳴き立てる。露が冷たく置く秋ともなると、生駒山の飛火が岳で、萩の枝をからませ散らして、雄鹿は妻呼び求めて声高く鳴く。山を見れば山も見飽きることがないし、里を見れば里も住み心地がよい。もろもろの大宮人がずっと心に思っていたことには、天地の寄り合う限り、万代ののちまでも栄え続けるであろうと、そう思っていた大宮であるのに、そのように頼りにしていた奈良の都であったのに、新しい御代(みよ)になったこととて、大君のお指図のままに、春の花が移ろうように都が移り変わり、群鳥が朝立ちするように人びとがいっせいに去って行ってしまったので、今まで大宮人たちが踏み平(な)らして往き来していた道は、馬も行かず人も通わないので、今はまったく荒れ放題になってしまった。(伊藤 博著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)やすみしし 【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている 意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)たかしく【たかしく】他動詞:立派に治める(学研)
(注)すめろき【天皇】:天皇。「すめろぎ」「すめらぎ」「すべらき」とも。(学研)
(注)かほとり【貌鳥・容鳥】鳥の名。未詳。顔の美しい鳥とも。 「かっこう」とも諸説ある。「かほどり」とも。(学研)
(注)とぶひがたけ【飛火が岳】:合図のための烽火台のある峰。
(注)しがらむ【柵む】他動詞:①からみつける。からめる。②「しがらみ」を作りつける。(学研)
(注)やそ【八十】名詞:八十(はちじゅう)。数の多いこと。(学研)
(注)とも【伴】名詞:(一定の職能をもって朝廷に仕える)同一集団に属する人々。(学研)
※太字は、歌碑に刻された文言箇所である。
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平城京から恭仁京に遷都した後に平城京のさびれた様を歌った歌であり、その中に生駒山がうたわれている。田邊福麻呂(たなべのさきまろ)の歌集にある歌である。旧都平城京のさびれた様も、テンポ良いリズムでまさに儀礼的に詠っており逆に遷都をたたえる雰囲気を醸し出している。
この歌については、反歌二首とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その83改)」で紹介している。
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■生駒市小瀬町 大瀬中学校正門近くの万葉歌碑(巻十五 三五八九)■
●歌をみていこう。
◆由布佐礼婆 比具良之伎奈久 伊故麻山 古延弖曽安我久流 伊毛我目乎保里
(秦間満 巻十五 三五八九)
≪書き下し≫夕(ゆふ)さればひぐらし来(き)鳴(な)く生駒山(いこまやま)越えてぞ我(あ)が来る妹(いも)が目を欲(ほ)り
(訳)夕方になると、ひぐらしが来て鳴くものさびしい生駒山、生駒の山を越えて私は大和へと急いでいる。もう一目あの子に逢いたくて。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)めをほる【目を欲る】:連語 見たい、会いたい。(学研)
左注は、「右一首秦間満」<右の一首は秦間満(はだのはしまろ)>である。
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この歌について、「奈良県HP はじめての万葉集 vol.41」に「・・・今回の歌は、遣新羅使人(けんしらぎしじん)たちの歌を収録している巻十五の中の一首です。遣新羅使人とは、古代の朝鮮半島南東部にあった新羅国(しらぎのくに)への使節のことで、派遣されれば最低でも半年は帰ることのできない長旅でした。作者の秦間満は伝未詳の人物ですが、この使節の一員であったと考えられています。この使節は奈良を出発してから難波津(なにわつ)へ向かい、そこから船で新羅国へ旅立ちました。ただし、海上の天候などによっては、難波津でしばらく足止めされることもありました。そんな時、下級官人たちは一時的な帰宅が許されることもあったようです。この歌からは、奈良にいる妻のもとへと帰る、間満の浮き立つような気持ちが読み取れます。それは、彼が生駒山を越えていることとも関係しています。
古代の奈良・難波間の交通路は、生駒山脈南部の龍田山(たつたやま)を越える道(龍田越(たつたご)え)が多く利用され、急峻(きゆうしゆん)な生駒山を越える道は最短ルートとして使われていたようです。夕暮れの生駒山を越えて行くというのは、人目につかない時間に、最短距離で愛する妻のもとへと急いだことを意味しているのでしょう。」と書かれている。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その448)」で紹介している。
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歌をみていこう。
◆奈尓波刀乎 己嶬埿弖美例婆 可美佐夫流 伊古麻多埿可祢尓 久毛曽多奈妣久
(大田部三成 巻二十 四三八〇)
≪書き下し≫難波津(なにはと)を漕(こ)ぎ出(で)て見れば 神(かみ)さぶる生駒高嶺(いこまたかね)に雲そたなびく
(訳)難波津を漕ぎ出して振り返ってみると、神々しい生駒の高嶺に、雲がたなびいている。(伊藤 博著「万葉集 四」角川ソフィア文庫より)
左注は「右一首梁田郡上丁大田部三成」<右の一首は梁田(やなだ)の郡の上丁(じゃうちゃう)大田部三成(おほたべのみなり>とある。
(注)梁田郡:栃木県足利郡の南部
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この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その447)」で紹介している。
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■生駒市高山町 高山竹林園万葉歌碑(巻十五 三五九〇)
この歌碑と歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その449)」で紹介している。
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生駒山は、平城京から恭仁京への遷都、遣新羅使、防人と歴史的な事案にかかわっているのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」