―その942―
●歌は、「磯影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも」である。
●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(13)にある。
●歌をみていこう。
◆伊蘇可氣乃 美由流伊氣美豆 氐流麻泥尓 左家流安之婢乃 知良麻久乎思母
(大蔵大輔甘南備伊香真人 巻二十 四五一三)
≪書き下し≫磯影(いそかげ)の見ゆる池水(いけみづ)照るまでに咲ける馬酔木(あしび)の散らまく惜しも
(訳)磯の影がくっきり映っている池の水、その水も照り輝くばかりに咲きほこる馬酔木の花が、散ってしまうのは惜しまれてならない。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
左注は、「右一首大蔵大輔甘南備伊香真人」<右の一首は大蔵大輔(おほくらのだいふ)甘南備伊香真人(かむなびのいかごのまひと)>である。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(475)」で紹介している。
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この歌は、巻二十 四五一三である。
いよいよ万葉集はその幕を閉じようとしている。
そして、八月に天平宝字に改められたのである。
その十一月の宮中での肆宴(とよのあかり)で、藤原仲麻呂は、権勢を手中に収めたことを誇らしげに次の歌を詠っているのである。
◆伊射子等毛 多波和射奈世曽 天地能 加多米之久尓曽 夜麻登之麻祢波
(藤原仲麻呂 巻二十 四四八七)
≪書き下し≫いざ子どもたはわざなせそ天地(あめつち)の堅(かた)めし国ぞ大和(やまと)島根(しまね)は
(訳)皆々の者よ、狂(たわ)けた振舞いだけはして下さるな。天地の神々が造り固めた国なのだ。この大和島根は。
(注)いざ子ども:宴で目下の者を呼ぶ慣用語
(注)たはわざ(狂業):たわけた振舞い ⇒橘奈良麻呂の変のことを背景に言っている。
(注)やまとしまね【大和島根】名詞:日本国の別名。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
十二月十八日には、「三形王(みかたのおほきみ)が宅」、同二十三日には「大原今城真人が宅」で宴が開かれた。家持も参加している。
そして翌年正月三日には肆宴が開かれ、「藤原仲麻呂が勅(みことのり)を奉じ『歌を作り、詩を賦せ』とのりたまふ」も、家持は歌を作っておいたが「奉し堪へず」である。巻二十の終盤は、このような宴会の歌が収録されているのである。
天平宝字二年(758年)二月には、中臣清麻呂宅で宴が開かれ、四四九六から四五一三間での歌が収録されている。宴に参加し歌が収録されているのは、中臣清麻呂、市原王、甘南備伊香真人、大原今城真人、三形王と大伴家持である。家持の交友関係は、このような政治の主流から外れた王族達であった
六月に家持は、因幡守に任じられる。かつて家持が赴任した越中守よりは格が低く、藤原仲麻呂による左遷人事であることは明らかであろう。
天平宝字三年正月の、
「新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の今日(けふ)降う雪のいやしけ吉事(よごと」(四五一六歌)」で、万葉集は幕を閉じているのである。
―その943―
●歌は、「一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも」である。
●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(14)にある。
●歌をみていこう。
◆一松 幾代可歴流 吹風乃 聲之清者 年深香聞
(市原王 巻六 一〇四二)
≪書き下し≫一つ松幾代(いくよ)か経(へ)ぬる吹く風の声(おと)の清きは年深みかも
(訳)この一本(ひともと)の松は幾代を経ているのであろうか。吹き抜ける風の音がいかにも清らかなのは、幾多の年輪を経ているからなのか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首」<同じ月の十一日に、活道の岡(いくぢのおか)に登り、一株(ひともと)の松の下(した)に集ひて飲む歌二首>である。
左注は、「右一首市原王作」<右の一首は市原王(いちはらのおほきみ)が作>である。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(601)」で紹介している。
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題詞にある「活道岡」に関しては、京都府相楽郡和束町に「活道が丘公園」があり、大伴家持が安積皇子(あさかのみこ)が薨(こう)ぜし時に作った歌(四七六歌)の歌碑がある。
四七六歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その183)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」