●歌は、「我が心ゆたにたゆたに浮蒪辺にも沖にも寄りかつましじ」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(72)にある。
●歌をみていこう。
◆吾情 湯谷絶谷 浮蒪 邊毛奥毛 依勝益士
(作者未詳 巻七 一三五二)
≪書き下し≫我(あ)が心ゆたにたゆたに浮蒪(うきぬなは)辺にも沖(おき)にも寄りかつましじ
(訳)私の心は、ゆったりしたり揺動したりで、池の面(も)に浮かんでいる蒪菜(じゅんさい)だ。岸の方にも沖の方にも寄りつけそうもない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)ゆたに>ゆたなり 【寛なり】形容動詞ナリ活用:ゆったりとしている。(webliok古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)たゆたふ【揺蕩ふ・猶予ふ】①定まる所なく揺れ動く。②ためらう。(学研)
(注)かつましじ 分類連語:…えないだろう。…できそうにない。 ※上代語。 ⇒
なりたち 可能の補助動詞「かつ」の終止形+打消推量の助動詞「ましじ」(学研)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その281)」で紹介している。
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「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」によると、「『ぬなは』は水中で泥の中に根を伸ばし、縄のように這う長い茎や葉柄の姿から昔は『沼縄(ヌナハ)』と呼ばれていたが、今は『蒪菜(ジュンサイ)』と呼ばれる古い池や沼に生える多年生の水草である。
蒪菜(ジュンサイ)の名は『和名』で、この草の中国名『蒪(ジュン)』に食べる草の意味の『菜(サイ)』を重ねたものである。(中略)若い茎や巻いた新葉は寒天(カンテン)のような透明な粘膜質に覆われ、ヌルヌルしている。(後略)」と書かれている。
蒪(ぬなは)を詠った歌はこの一首のみである。浮草とは違い、根があるので、ゆらゆらと漂うので、自らの恋の行方の定まらない中途半端な状態を重ねて嘆いた歌である。するどい自然の観察を通して揺れ動くジュンサイに恋心を重ね合わせている。
「ゆたにたゆたに」と声に出すだけで、ジュンサイのゆったりと漂う光景が目に浮かんでくる。
この歌は、巻七 題詞「草に寄す」に収録されている。
どの歌も「草」の特徴を上手くとらえ、そこに思いを重ね合わせた歌が多い。万葉びとの自然観察力のするどさと、そこへ自分の思いを重ね合わせるみごとさに引き込まれるのである。
草そのものではないが、草を野焼きしているいとしく思う相手の一挙一動に胸キュンになる女心を詠っている歌をみてみよう。
◆冬隠 春乃大野乎 焼人者 焼不足香文 吾情熾
(作者未詳 巻七 一三三六)
≪書き下し≫冬こもり春の大野(おほの)を焼く人は焼き足(た)らねかも我(わ)が心焼く
(訳)春の原野、この野を焼く人は、野を焼くだけでは物足りないというのか、私の心まで焼いている。(同上)
(注)ふゆごもり【冬籠り】分類枕詞:「春」「張る」にかかる。かかる理由は未詳。 ※古くは「ふゆこもり」。(学研)
次は、「つちはり」を自分の娘に喩え、「心ゆも思はぬ人」と結ばれることがないようにと、戒める親の気持ちを詠っている歌をみてみよう。
◆吾屋前尓 生土針 従心毛 不思人之 衣尓須良由奈
(作者未詳 巻七 一三三八)
≪書き下し≫我(わ)がやどに生(お)ふるつちはり心ゆも思はぬ人の衣に摺(す)らゆな
(訳)我が家の庭に生えているつちはりよ、お前は、心底お前を思ってくれぬ人の衣(きぬ)に摺られるなよ。(同上)
(注)ゆ 格助詞 《接続》:体言、活用語の連体形に付く。〔起点〕…から。…以来。(学研)
(注)つちはり【土針】植物の名。メハジキとも、ツクバネソウとも、エンレイソウともいわれる。諸説があるが、メハジキが有力。シソ科の越年草。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)
「つちはり」を詠んだ歌は、万葉集ではこの1首だけである。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その675)」で紹介している。
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相手のことを早くから思っていたものの、思いを告げようか告げまいか迷っている間に、思い人は他の誰かと契りを結んでしまった後悔の念を詠っている歌をみてみよう。
◆葛城乃 高間草野 早知而 標指益乎 今悔拭
(作者未詳 巻七 一三三七)
≪書き下し≫葛城(かづらき)の高間(たかま)の草野(かやの)早(はや)知りて標(しめ)刺(さ)さましを今ぞ悔(くや)しき
(訳)葛城の高間の萱野(かやの)、そこをいち早く見つけて刈標(かりしめ)を刺しておけばよかったものを。それができなくて、今になって悔やまれてならぬ。(同上)
(注の注)高間山は、今の金剛山をいう。
(注)しめ【標・注連】名詞:①神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。②「標縄(しめなは)」の略。(学研)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その440)」で紹介している。
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枯れ朽ちて行く大荒木野の「篠竹」に喩えて、良い男に巡り合うことなく年老いてゆく女の嘆きを詠っている歌もある。これもみてみよう。
◆如是為而也 尚哉将老 三雪零 大荒木野乃 小竹尓不有九二
(作者未詳 巻七 一三四九)
≪書き下し≫かくしてやなほや老(お)いなむみ雪降る大荒木野(おほあらきの)の小竹(しの)にあらなくに
(訳)こうしてまあ、私もだんだんと年を取っていくのだろうか。雪の降り積もる大荒木野の篠竹(しのだけ)ではないつもりだったのに。(同上)
こちらの歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その516)」で紹介している。
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いろいろなシチュエーションがあり、それぞれの思いがあるが、それを植物に重ね合わせて心情を吐露しているのである。
万葉集の懐の深さ、それによって形成される裾野の広がりに・・・。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」