万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2007~2009)―高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(13~15)―万葉集 巻五書簡、俗道假合即離漢文詩、梅花歌三十二首序、

―その2007―

●歌碑に刻されているのは、「大伴旅人謹状 梧桐の日本琴一面 対馬の結石の山の孫枝なり」で、書簡冒頭部である。

旅人が藤原房前に贈った書簡の冒頭

●歌碑は、高知県大豊町青 土佐豊永万葉植物園(13)である。

 

●旅人が藤原房前に贈った書簡をみてみよう。

 

 書簡は、「大伴旅人謹状 梧桐の日本琴一面 対馬の結石の山の孫枝なり」から始まり、八一〇歌、八一一歌が書かれ前半部と後半部の構成になっている。

 

 書簡の前半部と八一〇歌をみてみよう。

 

書状の書き出しは、「大伴淡等謹状 梧桐日本琴一面 對馬結石山孫枝」<大伴淡等(おほとものたびと)謹状(きんじょう) 梧桐(ごとう)の日本(やまと)琴(こと)一面 対馬の結石(ゆひし)の山の孫枝(ひこえ)なり>である。

(注)ごとう【梧 桐】: アオギリの異名。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)「淡等」:旅人を漢字音で書いたもの。(伊藤脚注)

(注)結石(ゆひし)の山:対馬北端の山。(伊藤脚注)

(注)孫枝(読み)ヒコエ:枝からさらに分かれ出た小枝。(コトバンク デジタル大辞泉

 

 前文は、「此琴夢化娘子曰 余託根遥嶋之崇巒 晞▼九陽之休光 長帶烟霞逍遥山川之阿 遠望風波出入鴈木之間 唯恐 百年之後空朽溝壑 偶遭良匠散為小琴 不顧質麁音少 恒希君子左琴 即歌曰」<この琴、夢(いめ)に娘子(をとめ)に化(な)りて日(い)はく、『余(われ)、根(ね)を遥島(えうたう)の崇巒(すうらん)に託(よ)せ、幹(から)を九陽(きうやう)の休光(きうくわう)に晒(さら)す。長く煙霞(えんか)を帯びて、山川(さんせん)の阿(くま)に逍遥(せうえう)す。遠く風波(ふうは)を望みて、雁木(がんぼく)の間(あひだ)に出入す。ただに恐る、百年の後(のち)に、空(むな)しく溝壑(こうかく)に朽(く)ちなむことのみを。たまさかに良匠に遭(あ)ひ、斮(き)られて小琴(せうきん)と為(な)る。質麁(あら)く音少なきことを顧(かへり)みず、つねに君子の左琴(さきん)を希(ねが)ふ』といっふ。すなはち歌ひて曰はく>である。

 

(訳)この琴が、夢に娘子(おとめ)になって現れて言いました。「私は、遠い対馬(つしま)の高山に根をおろし、果てもない大空の光に幹をさらしていました。長らく雲や霞(かすみ)に包まれ、山や川の蔭(かげ)に遊び暮らし、遥かに風や波を眺めて、物の役に立てるかどうかの状態でいました。たった一つの心配は、寿命を終えて空しく谷底深く朽ち果てることでありました。ところが、偶然にも立派な工匠(たくみ)に出逢い、伐(き)られて小さな琴になりました。音質は荒く音量も乏しいことを顧(かえり)みず、徳の高いお方の膝の上に置かれることをずっと願うております。」と。次のように歌いました。

(注)遥島:はるか遠い島。ここでは対馬のことをいう。(伊藤脚注)。

(注)崇巒:高い嶺。結石山をいう。(伊藤脚注)

(注)九陽(読み)きゅうよう〘名〙:太陽。日。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)(注)休光:うるわしい光。(伊藤脚注)

(注)逍遥(読み)ショウヨウ [名]:気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)雁木の間:古代中国の思想家、荘子が旅の途中、木こりが木を切り倒していた。「立派な木だから、いい材料になる」。しばらく行くと、親切な村人がごちそうしてくれた。「この雁はよく鳴かないので殺しました」。役に立つから切られるものと、役に立たないから殺されるもの。荘子いわく、「役に立つとか立たないとか考えず生きるのが一番いい」(佐賀新聞LIVE)

(注)百年:人間の寿命➡百年の後>寿命を終えて

(注)溝壑(読み)こうがく:みぞ。どぶ。谷間。(コトバンク 大辞林 第三版)

(注)君子の左琴:『白虎通』に「琴、禁也、以禦二止淫邪_、正二人心,.一也。」、つまり琴が君子の身を修め心を正しくする器であるといい、そのゆえに『風俗通義』に「君子の常に御する所のもの、琴、最も親密なり、身より離さず」という、「君子左琴」「右書左琴」などの、“君子の楽器としての琴”という通念が生まれて来た。(明治大学大学院紀要 第28集1991.2)

 

◆伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武

       (大伴旅人 巻五 八一〇)

 

≪書き下し≫いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝(ひざ)の上(へ)我(わ)が枕(まくら)かむ

 

(訳)どういう日のどんな時になったら、この声を聞きわけて下さる立派なお方の膝の上を、私は枕にすることができるのでしょうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)声知らむ人:声を聞きわけて下さる人。琴の名手伯牙がよく琴を弾き、鍾子期がよくその音を聴いたという、いわゆる「知音」の故事による。(伊藤脚注)

(注)まく【枕く】他動詞:①枕(まくら)とする。枕にして寝る。②共寝する。結婚する。※②は「婚く」とも書く。のちに「まぐ」とも。上代語。(学研)

 

書簡全文と八一〇、八一一歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(番外 200513-2)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その2008―

●歌碑には、「天平二年正月・・・梅は鏡前の粉を披く 蘭は珮後の香を薫らす・・・」と「梅花の歌三十二首 幷せて序」の序の一部が刻されている。

「梅花歌卅二首の序」一部

●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(14)である。

 

●序をみていこう。

 

題詞は、「梅花歌卅二首幷序」<梅花(ばいくわ)の歌三十二首幷(あわ)せて序>である。

 

天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧 鳥封縠而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠

 

 

≪序の書き下し≫天平二年の正月の十三日に、師老(そちらう)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会(うたげ)を申(の)ぶ。

時に、初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)く、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(くゆ)らす。しかのみにあらず、曙(あした)の嶺(みね)に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾(かたぶ)く、夕(ゆふへ)の岫(くき)に露結び、鳥は縠(うすもの)に封(と)ぢらえて林に迷(まと)ふ。庭には舞ふ新蝶(しんてふ)あり、空には帰る故雁(こがん)あり。

ここに、天(あめ)を蓋(やね)にし地(つち)を坐(しきゐ)にし、膝(ひざ)を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(げん)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(きん)を煙霞(えんか)の外(そと)に開く。淡然(たんぜん)自(みづか)ら放(ゆる)し、快然(くわいぜん)自ら足る。

もし翰苑(かんゑん)にあらずは、何をもちてか情(こころ)を攄(の)べむ。詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す、古今それ何ぞ異(こと)ならむ。よろしく園梅(ゑんばい)を賦(ふ)して、いささかに短詠(たんえい)を成すべし。

 

(訳)天平二年正月十三日、師の老の邸宅に集まって宴会をくりひろげた。

折しも、初春の佳(よ)き月で、気は清く澄みわたり風はやわらかにそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香のように匂っている。そればかりか、明け方の峰には雲が往き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋(きぬがさ)をさしかけたようであり、夕方の山洞(やまほら)には霧が湧き起り、鳥は霧の帳(とばり)に閉じ込められながら林に飛び交うている。庭には春生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋来た雁が帰って行く。

そこで一同、天を屋根とし地を座席とし、膝を近づけて盃(さかずき)をめぐらせる。一座の者みな恍惚(こうこつ)として言を忘れ、雲霞(うんか)の彼方(かなた)に向かって胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。

ああ、文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうぞ。さあ、この園梅を題として、しばし倭(やまと)の歌を詠むがよい。(同上)

(注)天平二年:西暦七三〇年

(注)れいげつ【令月】:① 何事をするにもよい月。めでたい月。「嘉辰(かしん)令月」② 陰暦2月の異称。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは①の意

(注)鏡前の粉を披く:佳人の鏡台のおしろいのように咲いており。(伊藤脚注)

(注)珮後の香を薫らす:貴人の飾り袋の香りのように匂うている。(伊藤脚注)。

(注の注)はい【佩/珮】[名]:腰に下げる飾り。佩(お)び物。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)ら 【羅】名詞:薄く織った絹布。薄絹(うすぎぬ)。薄物(うすもの)。(学研)

(注)くき(岫):①山のほら穴。②山の峰。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)翰苑(かんえん):①文章や手紙 ②「翰林院」に同じ。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す:漢詩にも好んで落梅の作を詠んでいる。(伊藤脚注)。

(注)園梅(ゑんばい)を賦(ふ)して:この庭園の梅を題として。(伊藤脚注)。

 

 序ならびに宴の主人である大伴旅人の八二二歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(太宰府番外編その1)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

八一五~八二一歌については、同(太宰府番外編その2)で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

八二三~八二九歌については、同その3で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

八三〇~八三七歌については、同その4で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

       

 

八三八~八四五歌については、同その5で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その2009―

●歌碑には、「・・・このゆゑに維摩大士は玉体を方丈に疾ましめ釈迦能仁は金容を双樹に掩したまへり・・・」と、「悲歎俗道假合即離易去難留詩一首幷序」<俗道(ぞくだう)の仮合即離(けがふそくり)し、去りやすく留(とど)みかたきことを悲歎(かな)しぶる詩一首 幷(あは)せて序>の序の一部が刻されている。

俗道假合即離の序一部

●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(15)にある。

 

●序をみてみよう。

 

題詞は、「悲歎俗道、假合即離、易去難留詩一首并序」<俗道(ぞくだう)の、仮合即離(けがふそくり)し、去りやすく留(とど)みかたきことを悲歎(かな)しぶる詩一首 幷(あは)せて序>である。

 

◆竊以 釋慈之示教<謂釋氏慈氏> 先開三歸<謂歸依佛法僧> 五戒 而化法界<謂一不▼1生二不▼2盗三不邪婬四不妄語五不飲酒> 周孔之垂訓、前張三綱 <謂君臣父子夫婦> 五教 以濟邦國<謂父義母慈兄友弟順子孝> 故知 引導雖二 得悟惟一也 但以世無恒質 所以陵谷更變 人無定期 所以壽夭不同 撃目之間百齡已盡 申臂之頃 千代亦空 旦作席上之主 夕為泉下之客 白馬走來 黄泉何及 隴上青松空懸信劍 野中白楊但吹悲風 是知 世俗本無隱遁之室 原野唯有長夜之臺 先聖已去 後賢不留 如有贖而可免者 古人誰無價金乎 未聞獨存遂見世終者 所以維摩大士疾玉體于方丈 釋迦能仁掩金容于雙樹 内教曰 不欲黑闇之後來 莫入德天之先至<德天者生也黑闇者死也> 故知 生必有死 ゝ若不欲不如不生 況乎縱覺始終之恒數 何慮存亡之大期者也

 

俗道變化猶撃目 人事経紀如申臂 空与浮雲行大虚 心力共盡無所寄

       (山上憶良 巻五 この漢詩には新編国歌大観の新番号〔九〇一〕が付されている)

   ▼1 ▼1+生→「殺生」

   ▼2 「『人偏』に『兪』」+盗→「とうとう」

 

≪書き下し≫ひそかにおもひみるに、釈(しやく)・慈(じ)の示教(じけう)は、<釈氏と慈氏をいふ>すでにして三帰<仏・法・僧に帰依することをいふ>五戒を開(と)きて、法界を化(おもぶ)く<一に不殺生、二に不▼2盗(とうとう)、三に不邪婬、四に不妄語、五に不飲酒をいふ>周(しう)・孔(こう)の垂訓(すいくん)は、すでにして三綱(さんかう)<君臣・父子・夫婦をいふ> 五教を張りて、邦国を済(すく)ふ。<父は義に、母は慈に、兄は友に、弟は順に、子は孝にあることをいふ> 故(そゑ)に知りぬ、引導(いんだう)は二つなれども、得悟(とくご)はただ一つのみなりといふことを。ただし、世に恒質(こうしつ)なし。このゆゑに陵谷(りようこく)も更変す。人に定期(ぢやうご)なし、このゆゑに寿夭(じゆえう)も同(ひと)しからず。撃目(げきもく)の間(あひだ)に、百齡すでに尽く、申臂(しんぴ)の頃(あひだ)に、千代も空(むな)し。旦(あした)には席上(せきじやう)の主となり、夕(ゆふへ)には泉下(せんか)の客となる。白馬走り来(きた)るとも、黄泉(くわうせん)には何(いか)にか及(し)かむ、隴上(ろうじょう)の青松(せいしよう)は、空しく信剣(しんけん)を懸(か)く、野中(やちゆう)の白楊(はくやう)は、ただに悲風に吹かゆるのみ。ここに知りぬ、世俗(せぞく)にはもとより隱遁(いんとん)の室なく、原野にはただ長夜の台(うてな)のみありといふことを。先聖(せんせい)すでに去り、後賢(こうけん)も留(とど)まらず。もし贖(あかな)ひて免(まぬか)るべきことあらば、古人誰(た)れか価(あたひ)の金(くがね)なけむ。独り存(はがら)へて、つひに世の終(はて)を見る者ありといふことを聞かず。このゆゑに、維摩大士(ゆいまだいじ)は玉体を方丈(ほうぢやう)に疾(や)ましめ、釈迦能仁(しやかのうにん)は金容(こんよう)を双樹(さうじゆ)に掩(かく)したまへり。内教には「黒闇(こくあん)の後(しりへ)より来むことを欲(ねが)はずは、徳天(とくてん)の先(さき)に至るを入るることなかれ」といふ。<德天は生なり黒闇は死なり>故(そゑ)に知りぬ、生るればかならず死ありということを。死をもし欲(ねが)はずは、生れぬにしかず。いはむや、たとひ始終(しじゆう)の恒数(こうすう)を覚(さと)るとも、何ぞ存亡(そんぼう)の大期(だいご)を慮(おもひはか)らむ。 

俗道の変化(へんくわ)撃目(けきもく)のごとし、 

人事の経紀(けいき)は申臂(しんぴ)のごとし。 

空(むな)しく浮雲(ふうん)と大虚(たいきよ)を行き、 

心力(しんりき)ともに尽きて寄るところなし。

 

(訳)ひそかに思うに、釈・慈の示教は<釈・慈とは釈迦如来弥勒菩薩とをいう>、まぎれもなく三帰<仏・法・僧に帰依することをいう>と五戒とを広く説いて仏法世界を感化したし<五戒とは、一に殺生しない、二に盗みをしない、三に男女の間を乱さない、四に嘘をつかない、五に酒を飲まないことをいう>、周・孔の垂訓、まぎれもなく三綱<君臣・父子・夫婦の道をいう>、五教を広く述べて国家斉(ととの)えた<五教とは、父は義、母は慈、兄は友、弟は順、子は孝であることをいう>。そこで、仏教と儒教と二つ、教導の手段こそ違っているが、人生の悟りを開く要諦(ようてい)はただ一つであることを思い知るのである。ただし、この世には恒久不変の本質を持つものではない、だから、丘が谷になったり谷が丘になったりする。また、人の命には一定不変の期限はない、だから長生の者があったり夭折(ようせつ)する者があったりする。まばたきをする間(ま)にも百年はさっと尽きてしまうし、臂(ひじ)を伸(の)ばす間にも千代はすっと消え果ててしまう。朝には席上の主(あるじ)として振舞っても、夕にはもう黄泉の客となる。白馬がいかに早く走り寄って来ようとも、黄泉からの迎えにどうして及ぼう。墓上の青松は空しく信義の剣を懸け、野中の白楊(はくよう)は徒(いたずら)に悲風にさらされている。こうして、俗世にはもともと死を逃れて隠れ住む室(へや)はなく、原野にはただ永久(とわ)に続く夜の台(うてな)だけがあるということを思い知るのである。先の代(よ)の聖人はとっくに去ってしまったし、あとに続いた賢人もまた世に留まってはいない。もし金を出して死から逃れうるならば、古人の誰しもがそのための金を用意しただろう。ただ一人生きながらえて世のなりゆきを見極めた者があったとは、かつて聞いたことがない。それゆえ、維摩大士は尊い体(からだ)を方丈の室(へや)に横たえたし、釈迦如来尊い姿を沙羅双樹(さらそうじゅ)の中に隠されたのである。仏典には、「黒闇天女(こくあんてんにょ)があとから追い縋(すが)ることを嫌うなら、功徳大天(くどくだいてん)の先立って訪れることを受け入れぬがよい」とある<徳天は生をいい、黒闇は死をいう>。かくして、生まれたからには必ず死ぬということがわかるのである。人間、もし死ぬのがいやだったら、生まれてこなければよかったのである。この生者必滅(しょうじゃひつめつ)の道理を悟ることはむつかしい。まして、たとえ、生あれば死ありという常理は覚りえたにしても、我が身が生きるか死ぬかの重大な瀬戸際について思いをめぐらすことなどどうしてできよう。

現世の道程の変転はまばたくほどの短さであるし、人間の生きる死ぬるの常理は臂(ひじ)を伸ばすほどの短さである。まさに浮雲とともに空しく大空を漂う思いで、心の力も尽き果てて、我が身を寄せる所とてない。(同上)

(注)俗道:世の中の在り方。人生の道程。(伊藤脚注)

(注)仮合即離し:人体を仮に構成している四要素、地水火風がすぐ離れ離れになり。(伊藤脚注)

(注)釈・慈:釈迦如来弥勒菩薩。(伊藤脚注)

(注)法界を化く:仏法世界を感化した。(伊藤脚注)

(注)とうとう【偸盗】〘名〙 (「とう」は「偸」の慣用音) 仏教で、十悪の一つ。盗むこと。また、その人。ぬすびと。どろぼう。

※万葉(8C後)五・悲歎俗道仮合即離易去難留詩序「謂二一不殺生二不偸盗三不邪婬四不妄語五不飲酒一也」(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)周・孔:周公と孔子。(伊藤脚注)

(注)三綱:君臣、父子、夫婦の正しい関係。(伊藤脚注)

(注)引導は:教え導くところは。(伊藤脚注)

(注)得悟:悟りを開く点は。(伊藤脚注)

(注)恒質:恒久不変の本質を持つもの。(伊藤脚注)

(注)更変:互いに入れ替わる。(伊藤脚注)

(注)定期:一定不変の命数。(伊藤脚注)

(注)じゅえう【寿夭】〘名〙:長寿と夭折(ようせつ)。長生きと若死に。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)撃目の間:まばたきの間に。(伊藤脚注)

(注)申臂の頃:ひじを伸ばす間に。(伊藤脚注)

(注)長夜の台:墓所の意。(伊藤脚注)

(注)こんよう【金容】:金色に輝く仏像の容姿。きんよう。(weblio辞書 デジタル大辞泉)釈迦の姿を尊んでいう。(伊藤脚注)

(注)内教:仏典。(伊藤脚注)

(注)黒闇天女:不幸・死の象徴。(伊藤脚注)

(注)功徳大天:黒闇天女の姉。(伊藤脚注)

 

 辰巳正明氏は、その著「山上憶良」(笠間書房)のなかで、「・・・王様にも聖人にも死は必ず訪れ、まして凡人のわれわれには当然である。だから、死がいやなら、初めから生まれなければ良いのだという。これは死に対する悟りではなく、むしろ、死という絶対性にたいしてのはてしない絶望である。その絶望の中で、この詩が詠まれたのである。・・・七十四歳の憶良が死と闘い続けた実感が伝わってくるないようである・・・」と書かれている。

脚注に「七十四歳の憶良―この作は天平五年に作られ、この後まもなく没する。」とある。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「山上憶良」 辰巳正明 著 (笠間書房)

★「明治大学大学院紀要 第28集1991.2」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク 大辞林 第三版」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典