万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2407)―

■すぎ■

「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)より引用させていただきました。

●歌は、「いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし」である。

千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園万葉歌碑(プレート)(柿本人麻呂歌集) 20230926撮影

●歌碑(プレート)は、千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆古 人之殖兼 杉枝 霞霏▼ 春者来良之

     (柿本人麻呂歌集 巻十 一八一四)

   ※ ▼は、「雨かんむり+微」である。「霏▼」で「たなびく」と読む。

 

≪書き下し≫いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞(かすみ)たなびく春は来(き)ぬらし

 

(訳)遠く古い世の人が植えて育てたという、この杉木立の枝に霞がたなびいている。たしかにもう春はやってきたらしい。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いにしへのひと【古への人】分類連語:①古人。昔の人。②古風な人。昔風な家柄の人。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意              

(注の注)いにしへ【古・往古】〘名〙 (「往(い)にし方(へ)」の意。時間の経過を観念にもつ):① 久しい以前。過ぎ去った時。往時。② 過去の事。過去の事跡。過去の経歴。③ 亡き人。故人。 ⇒[語誌](1)「いにしえ」と「むかし(昔)」とは同じ意味にも用いられているが、しかし、基本的にはとらえ方に違いがあるとみられる。「いにしえ」は、「往にし方」の原義が示すように、「時間的」にものをとらえる場合に用いて「今」と連続的にとらえられるのに対して、「むかし」は、そのような「過ぎ去る」という時間的経過の観念が無く、「今」とは対立的に過去をとらえる場合に用いる。

(2)語源的には、「過ぎ去った昔」の意で、直接に体験していないはるか以前について使われることが多い。これに対して「むかし」は、奈良・平安時代を通して、直接体験した懐かしく、忘れがたい、近い過去を多く意味した。

(3)鎌倉時代以降になると、はるか以前を意味する「むかし」が急増し、「いにしへ」の意味領域を侵していった。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1785)」で紹介している。

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 現代と万葉の時代の間には、(柿本人麻呂が活躍したのは万葉集第2期であるので、およそ1300年という絶対的な時間軸が存在しているが、歌をとおして「いにしへ」を見てみると不思議にも「いにしえのいにしえ」といった心情や感情にはそのギャップを感じさせない不思議な力がある。

 あらためて「いにしへ」を詠った歌をみてみよう。

 

犬養 孝著「万葉の人びと」(新潮文庫)から引用させていただきました。



 

 

 「いにしえ」というと、柿本人麻呂の二六六歌と弓削皇子額田王の贈答歌(一一一、一一二歌)が頭に浮かぶ。

 

■二六六歌■

◆淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 所念

     (柿本人麻呂    巻三 二六六)

 

≪書き下し≫近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

 

(訳)近江の海、この海の夕波千鳥よ、お前がそんなに鳴くと、心も撓(たわ)み萎(な)えて、いにしえのことが偲ばれてならぬ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆふなみちどり【夕波千鳥】名詞:夕方に打ち寄せる波の上を群れ飛ぶちどり。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)しのに 副詞:①しっとりとなびいて。しおれて。②しんみりと。しみじみと。③しげく。しきりに。(学研)ここでは②の意

(注)いにしへ:ここでは、天智天皇の近江京の昔のこと。(伊藤脚注)

 

梅原 猛氏が、その著「水底の歌 柿本人麿論(上)」(新潮文庫)に書かれているように、「近江以後、彼は四国の狭岑島(さみねのしま)、そして最後には石見の鴨島(かもしま)へ流される。流罪は、中流から遠流へ、そして最後には死へと、だんだん重くなり、高津(たかつ)の沖合で、彼は海の藻くずと消える」という流罪の身で時間軸的には、自己の経験を踏まえることができる過去であるが、そこに「いにしえ」なる言葉を選んでいる点に「いにしへ思ほゆ」と心情的深さを歌いあげているのである。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1288)」で紹介している。

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■一一一、一一二歌■

尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴嚌遊久

      (弓削皇子 巻二 一一一)

 

≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥かも弓絃葉(ゆずるは)の御井(みゐ)の上(うへ)より鳴き渡り行く

 

(訳)古(いにしえ)に恋い焦がれる鳥なのでありましょうか、鳥が弓絃葉の御井(みい)の上を鳴きながら大和の方へ飛び渡って行きます。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)こふ【恋ふ】他動詞:心が引かれる。慕い思う。なつかしく思う。(異性を)恋い慕う。恋する。 ⇒注意 「恋ふ」対象は人だけでなく、物や場所・時の場合もある。(学研)

(注)弓絃葉の御井:吉野離宮の清泉の通称か。

 

 

 

尓 戀流鳥者 霍公鳥 蓋哉鳴之 吾念流碁騰

         (額田王 巻二 一一二)

 

≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我(あ)が思(も)へるごと

 

(訳)古に恋い焦がれて飛び渡るというその鳥はほととぎすなのですね。その鳥はひょっとしたら鳴いていたかもしれませんね。私が去(い)にし方(かた)を一途に思いつづけているように。(同上)

(注)いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎす:時鳥を懐古の悲鳥とみる中国の故事によっている。同じような孤愁に暮れているのではと謎をかけたもの。(伊藤脚注)

(注)けだし【蓋し】副詞:①〔下に疑問の語を伴って〕ひょっとすると。あるいは。②〔下に仮定の表現を伴って〕もしかして。万一。③おおかた。多分。大体。(学研)

 

 持統天皇のある意味恐怖政治の犠牲になったとも思われる弓削皇子の「いにしえ」も単に時間軸的なものでなく、心情的な深いまで含んでいるといえるのである。

 

この両歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1041)」で紹介している。

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 次に三一歌をみてみよう。

■三一歌■

 人尓和礼有哉 樂浪乃 故 京乎 見者悲寸

        (高市古人 巻一 三二)

 

≪書き下し≫古(いにしえ)の人に我(わ)れあれや楽浪(ささなみ)の古き都を見れば悲しき

 

(訳)遥(はる)かなる古(いにしえ)の人で私はあるのであろうか、まるで古の人であるかのように、楽浪の荒れ果てた都、ああ、この都を見ると、悲しくてならぬ。(同上)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その235)」で紹介している。

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 この「いにしえ」は、人麻呂の二六六歌と同じく「大津宮」を偲んで詠っているが、時間軸が主軸の歌であり、人麻呂のそれとは心情的深さが異なっている。

 

 

 

 「いにしえ」を単なる時間軸的にとらえている歌と時間軸に心情的深さを掛けた三次元的歌をみていくのも今後の課題としたい。

 万葉集の奥の深さにまた引きずり込まれようとしている。

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝著 (新潮文庫

★「水底の歌 柿本人麿論(上)」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典