●歌は、「いにしへにありけむ人も我がごとか妹に恋ひつつ寐寝かてずけむ」である。
●歌をみていこう。
◆古尓 有兼人毛 如吾歟 妹尓戀乍 宿不勝家牟
(柿本人麻呂 巻四 四九七)
≪書き下し≫いにしへにありけむ人も我(あ)がごとか妹(いも)に恋ひつつ寐寝(いね)かてずけむ
(訳)いにしえ、この世にいた人も、私のように妻恋しさに夜も眠れぬつらさを味わったことであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)かてぬ 分類連語:…できない。…しにくい。 ※なりたち補助動詞「かつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の連体形(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
四九六から四九九歌の歌群の題詞は、「柿本朝臣人麻呂歌四首」<柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)が歌四首>である。
歌碑の歌を含め四首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1187)」で紹介している。
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「いにしへにありけむ人も我(わ)がごとか」ではじまる歌がもう一首収録されている。こちらは、左注に「柿本朝臣人麻呂が歌集に出(い)づ」とある。
歌をみてみよう。
◆古尓 有險人母 如吾等架 弥和乃檜原尓 挿頭折兼
(柿本人麻呂歌集 巻七 一一一八)
≪書き下し≫いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の檜原にかざし折けむ
(訳)遠く過ぎ去った時代にここを訪れた人も、われわれのように、三輪の檜原(ひはら)で檜の枝葉を手折って挿頭(かざし)にさしたことであろうか。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)
(注)いにしへ【古へ・古】名詞:①遠い昔。▽経験したことのない遠い過去。②以前。▽経験したことのある近い過去。③昔の人。過去のこと。 ⇒参考 「いにしへ」と「むかし」の違い 「いにしへ」は遠い昔・以前(=近い過去)のように時間の経過を意識しているが、類義語の「むかし」は、漠然とした過去(=ずっと以前・かつて)を表している。(学研)
(注)かざし折けむ:生命力を身につけるため、檜の枝を髪にさしたであろうか。
(注の注)かざし【挿頭】名詞:花やその枝、のちには造花を、頭髪や冠などに挿すこと。また、その挿したもの。髪飾り。(学研)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1124)」で紹介している。
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両歌とも「古(いにしえ)」の時代の人に思いを馳せているが、時鳥(ほととぎす)を中国の故事にならい懐古の悲鳥とみた「いにしへに恋ふる鳥」として詠った歌がある。
こちらもみてみよう。
◆古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴濟遊久
(弓削皇子 巻二 一一一)
≪書き下し≫いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆずるは)の御井(みゐ)の上(うへ)より 鳴き渡り行く
(訳)古(いにしえ)に恋い焦がれる鳥なのでありましょうか、鳥が弓絃葉の御井(みい)の上を鳴きながら大和の方へ飛び渡って行きます。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)古(いにしえ)に恋い焦がれる鳥:時鳥を懐古の悲鳥と見る中国の故事による。
この歌の題詞は、「幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王(ぬかたのおほきみ)に賜与(おく)る歌一首>である。
題詞は、「額田王奉和歌一首 従倭京進入」<(額田王、和(こた)へ奉る歌一首 倭の京より進(たてまつ)り入る>である。
◆古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰
(額田王 巻二 一一二)
≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我(あ)が思(も)へるごと
(訳)古に恋い焦がれて飛び渡るというその鳥はほととぎすなのですね。その鳥はひょっとしたら鳴いたかもしれませんね。私が去(い)にし方(かた)を一途に思いつづけているように。(同上)
(注)けだし【蓋し】副詞:①〔下に疑問の語を伴って〕ひょっとすると。あるいは。②〔下に仮定の表現を伴って〕もしかして。万一。③おおかた。多分。大体。(学研) ※ここでは①の意
この両歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その110改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂致しております。ご容赦下さい。)
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両歌の歴史的背景についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1041)」で紹介している。
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「古(いにしえ)」という言葉一つで、ノスタルジックな雰囲気がただよう。少し歌にふれて「いにしえ」に浸ってみよう。まさに「往(い)にし:過ぎ去った」「方(え):方向」にタイムスリップしてみよう。
高市黒人の歌である。
題詞は、「高市古人感傷近江國舊堵作歌 或書云高市連黒人」<高市古人(たけちのふるひと)、近江の旧(ふる)き都(みやこ)を感傷(かな)しびて作る歌 或書には「高市連黒人」といふ>である。
◆古 人尓和礼有哉 樂浪乃 故 京乎 見者悲寸
(高市古人 巻一 三二)
≪書き下し≫古(いにしえ)の人に我(わ)れあれや楽浪(ささなみ)の古き都を見れば悲しき
(訳)遥(はる)かなる古(いにしえ)の人で私はあるのであろうか、まるで古の人であるかのように、楽浪の荒れ果てた都、ああ、この都を見ると、悲しくてならぬ。(同上)
(注)我れあれや:私はあるのか、いやそうではないのに。反語表現。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その235)」で紹介している。
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次は山部赤人の歌である。
題詞は、「山部宿祢赤人詠故太政大臣藤原家之山池歌一首」<山部宿禰赤人、故太政大臣藤原家の山池(しま)を詠(よ)む歌一首>である。
(注)しま【島】名詞:①周りを水で囲まれた陸地。②(水上にいて眺めた)水辺の土地。③庭の泉水の中にある築山(つきやま)。また、泉水・築山のある庭園。◇「山斎」とも書く。④遊廓。色町。▽周囲から隔てられた特定の地域の意から。◇近世語。(学研)ここでは③の意
◆昔者之 奮堤者 年深 池之瀲尓 水草生家里
(山部赤人 巻三 三七八)
≪書き下し≫いにしへの古き堤(つつみ)は年(とし)深(ふか)み池の渚(なぎさ)に水草(みずくさ)生(い)ひけり
(訳)ずっとずっと以前からのこの古い堤は、年の深みに加えて、池の渚に水草がびっしり生い茂っている。(同上)
(注)水草生ひけり:神さびた様を述べて鎮魂の意を示す。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その3改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。
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大伴旅人の歌もみてみよう。
◆古之 七賢 人等毛 欲為物者 酒西有良師
(大伴旅人 巻三 三四〇)
≪書き下し≫いにしえの七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし
(訳)いにしえの竹林の七賢人たちさえも、欲しくて欲しくてならなかったものはこの酒であったらしい。(同上)
(注)七賢>竹林の七賢:中国の後漢(ごかん)末から魏(ぎ)を経て西晋(せいしん)に至る間(2世紀末から4世紀初め)に、文学を愛し、酒や囲碁や琴(こと)を好み、世を白眼視して竹林の下に集まり、清談(せいだん)を楽しんだ、阮籍(げんせき)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、阮咸(げんかん)(以上河南省)、嵆康(けいこう)(安徽(あんき)省)、劉伶(りゅうれい)(江蘇(こうそ)省)、王戎(おうじゅう)(山東省)の7人の知識人たちに与えられた総称。彼らは、魏晋の政権交替期の権謀術数の政治や社会と、形式に堕した儒教の礼教を批判して、偽善的な世間の方則(きまり)の外に身を置いて、老荘の思想を好んだ方外の士である。彼らの常軌を逸したような発言や奇抜な行動は、劉義慶(ぎけい)の『世説新語』に記されている。そこには、たとえば、阮籍は、母の葬式の日に豚を蒸して酒を飲んでいたが、別れに臨んでは号泣一声、血を吐いた、とある。彼らの態度は、人間の純粋な心情をたいせつにすべきことを訴える一つの抵抗の姿勢であり、まったくの世捨て人ではなかった。すなわち、嵆康は素志を貫いて為政者に殺され、山濤は出仕して能吏の評判が高かった。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その898-1)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」