万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その103改)―等彌神社の「霊畤拝所」―万葉集 巻十 二三四六

●「うかねらふ」これも枕詞である。狩猟のとき、鳥獣の足跡をたどってねらうことやねらう人を「跡見(とみ)」ということから、同音の地名「跡見山」にかかるのである。

 

●歌は、「うかねらふ跡見山雪のいちしろく恋ひば妹が名人知らむかも」である。

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等彌神社境内霊畤拝所碑横万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、奈良県桜井市桜井にある等彌神社の「霊畤拝所」にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆窺良布 跡見山雪之 灼然 戀者妹名 人将知可聞

                (作者未詳 巻十 二三四六)

 

≪書き下し≫うかねらふ跡見山(とみやま)雪のいちしろく恋ひば妹(いも)が名(な)人知らむかも

 

(訳)ひそかに獲物をねらうという、あの跡見(とみ)の山の雪がはっきりと目につくように、こんなにおおっぴらに恋い焦がれたら、あの子の名を、他の男たちが知ってしまうのではなかろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

 (注)うかねらふ【窺狙ふ】:<他動詞>(ようすを)うかがってねらう。

              <枕詞>狩猟のとき、鳥獣の足跡をたどってねらうこと

                  やねらう人を「跡見(とみ)」ということか

                  ら、同音の地名「跡見山」にかかる。

(注)いち【一、壱】<副詞>最も。

 

 「霊畤拝所」は」境内の「鳥見山霊畤」の碑の横に鳥見山稲荷の鳥居があるが、これをくぐり、坂を200mほど登ったところにある。

 等彌神社には、万葉歌碑が三つあり、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて―その101―」で、紀朝臣鹿人の歌碑を、同102で、大伴坂上郎女の歌碑を紹介してきた。

 

 歌碑を撮影し終わったので、本社にあたる上津尾神社にお参りし下津尾神社に向かう。境内のあちこちにいろいろな社が点在している。

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上津尾社拝殿を望む

 

 参道の灯篭の数も多く見ごたえのある神社である。万葉歌碑を巡らなければここに来ることはなかったであろう。参道から右手方向の薄暗いところには「神武天皇聖蹟鳥見山中霊畤顕彰碑」が立っている。

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神武天皇聖蹟鳥見山中霊畤顕彰碑

 

 この日(5月17日)の万葉歌碑めぐりの計画は、等彌神社の3つの歌碑についで、向かいの桜井市立図書館、安倍文殊院西古墳前、土舞台の予定であった。

 

 このうち、土舞台は、桜井市HPの「はじめての街桜井市」に、①万葉集巻頭の歌が世生まれた地、②相撲発祥の地、③芸能発祥の地、④仏教伝来の地と紹介されている。

 芸能発祥の地である土舞台以外は万葉歌碑がらみで見て来たので、安倍文殊院の近くであるので計画に組み込んだのである。

 

 

●土舞台

 土舞台については、桜井市観光協会公式HPに、「『日本書紀』の推古天皇20年の記事に、時の摂政聖徳太子に、『又百済味摩之(みまし)帰化けり。曰く呉(くれ)に学びて、伎楽(くれがく)の舞を得たり」といふ。則ち桜井に安置(はべ)らしめて、少年を集へて、伎楽の舞を習わしむ。是に真野首弟子(まののおびとでし)と新漢済文(いまきのあやひとさいもん)ふたりの人、習いて、その舞を伝ふ』とあります。

  伎楽とは、古代チベットやインドの仮面劇のことで、西域を経て中国に伝わり、その舞は滑稽卑俗なたぐいのものであったようです。この土舞台は江戸時代の『大和名所図絵』にも紹介されていますが、一般にはほとんど知られなくなっていたのを桜井市出身の文芸評論家、保田與重郎が、顕彰すべきと考え、土舞台は日本最初の国立劇場で、聖徳太子は国立演劇研究所をも併設して芸能文化のため尽くされた、という趣意書を執筆し広く紹介しました。」とある。

 場所は、安倍文殊院から約500m位のところにある小高い丘の上である。

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「土舞台」の碑

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「桜井市観光協会公式ホームページ」

 

※20230412朝食関連記事削除、一部改訂