万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2583の1)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「やすみしし 我が大君の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣隠り 川なみの 清き河内ぞ・・・(山部赤人 6-923)」、「ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く(山部赤人 6-925)」、「やすみしし 我が大君の 見したまふ 吉野の宮は 山高み 雲ぞたなびく 川早み 瀬の音ぞ清き 神さびて 見れば貴く よろしなへ ・・・(山部赤人          6-1005)」、「やすみしし我ご大君の常宮と仕へ奉れる雑賀野ゆそがひに見ゆる沖つ島清き渚に風吹けば白波騒き潮干れば玉藻刈りつつ神代よりしかぞ貴き玉津島山(山部赤人 6-917)」、「沖つ島荒礒の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも(山部赤人 6-918)」、「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(山部赤人 6-919)」、「朝なぎに楫の音聞こゆ御食つ国野島の海人の舟にしあるらし(山部赤人 6-934)」、「みもろの神なび山に五百枝さし繁に生ひたる梅の木の・・・(山部赤人 3-324)」、「明日香川川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに(山部赤人 3-325)」、「すめろきの神の命の・・・み湯の上の木群を見れば臣の木も生ひ継ぎにけり・・・(山部赤人 3-322)」、「やすみしし 我が大君の 神ながら 高知らせる 印南野の 邑美の原の 荒栲の 藤井の浦に 鮪釣ると・・・(山部赤人    3-938)」である。

 

「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「八 百花繚乱」の項「山部赤人」をみていこう。紹介する歌の数の関係で二回にわけて掲載いたします。

 

では、順に歌をみていこう。

 

■■九二三~九二七歌■■

題詞は、「山部宿祢赤人作歌二首幷短歌」<山部宿禰赤人が作る歌二首 幷(あは)せて短歌>である。

(注)前の群は離宮讃美、後の群は天皇讃美。(伊藤脚注)

 

■九二三歌■

◆八隅知之 和期大王乃 高知為 芳野宮者 立名附 青垣隠 河次乃 清河内曽 春部者 花咲乎遠里 秋去者 霧立渡 其山之 弥益ゝ尓 此河之 絶事無 百石木能 大宮人者 常将通

        (山部赤人 巻六 九二三)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ)の 高知(たかし)らす 吉野の宮は たたなづく 青垣隠(おをかきごも)り 川なみの 清き河内(かふち)ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧立ちわたる その山の いやしくしくに この川は 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ

 

(訳)あまねく天下を支配されるわれらの大君が高々とお造りになった吉野の宮、この宮は、幾重にも重なる青い垣のような山々に囲まれ、川の流れの清らかな河内である。春の頃には山に花が枝もたわわに咲き乱れ、秋ともなれば川面一面に霧が立ちわたる。その山の幾重にも重なるように幾度(いくたび)も幾度も、この川の流れの絶えぬように絶えることなく、大君に仕える大宮人はいつの世にも変わることなくここに通うことであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)たかしらす【高知らす】分類連語:立派に造り営みなさる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) ⇒なりたち:動詞「たかしる」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」立派に造り営みなさる。(コトバンク 学研全訳古語辞典)

(注)たたなづく【畳なづく】分類枕詞:①幾重にも重なっている意で、「青垣」「青垣山」にかかる。②「柔肌(にきはだ)」にかかる。かかる理由は未詳。 ⇒参考:(1)①②ともに枕詞(まくらことば)ではなく、普通の動詞とみる説もある。(2)②の歌は、「柔肌」にかかる『万葉集』唯一の例。(学研)ここでは①の意

(注)こもる【籠る・隠る】自動詞:①入る。囲まれている。包まれている。②閉じこもる。引きこもる。③隠れる。ひそむ。④寺社に泊りこむ。参籠(さんろう)する。(学研)ここでは①の意

(注)かはなみ【川並み・川次】名詞:川の流れのようす。川筋。(学研)

(注)ををり【撓り】名詞:花がたくさん咲くなどして、枝がたわみ曲がること。(学研)

(注)いやしくしくに【弥頻く頻くに】副詞:ますますひんぱんに。いよいよしきりに。(学研)

 

 

 

■九二四歌■

◆三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞

        (山部赤人 巻六 九二四)

 

≪書き下し≫み吉野の象山(さきやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒(さわ)く鳥の声かも

 

(訳)み吉野の象山の谷あいの梢(こずえ)では、ああ、こんなにもたくさんの鳥が鳴き騒いでいる。(同上)

(注)象山 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の奈良県吉野郡吉野町にある山。吉野離宮があった宮滝の対岸にそびえる。(学研)

(注)ここだ【幾許】:こんなにもたくさん。こうも甚だしく。(數・量の多い様子)                 (学研)

 

 

 

■九二五歌■

◆烏玉之 夜乃深去者 久木生留 清河原尓 知鳥數鳴

       (山部赤人 巻六 九二五)

 

≪書き下し≫ぬばたまの夜(よ)の更けゆけば久木(ひさぎ)生(お)ふる清き川原(かはら)に千鳥(ちどり)しば鳴く

 

(訳)ぬばたまの夜が更けていくにつれて、久木の生い茂る清らかなこの川原で、千鳥がちち、ちちと鳴き立てている。(同上)

(注)ひさぎ【楸・久木】名詞:木の名。あかめがしわ。一説に、きささげ。(学研)

 

 

 

■九二六歌■

◆安見知之 和期大王波 見吉野乃 飽津之小野笶 野上者 跡見居置而 御山者 射目立渡 朝獦尓 十六履起之 夕狩尓 十里踏立 馬並而 御狩曽立為 春之茂野尓

        (山部赤人 巻六 九二六)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)ご大君(おほきみ)は み吉野の 秋津(あきづ)の小野(をの)の 野の上(へ)には 跡見(とみ)据(す)ゑ置きて み山には 射目(いめ)立て渡し 朝狩(あさかり)に 鹿猪(しし)踏(ふ)み起(おこ)し 夕狩(ゆふがり)に 鳥踏み立て 馬並(な)めて 御狩(みかり)ぞ立たす 春の茂野(しげの)に

 

(訳)安らかに天下を支配されるわれらの大君は、み吉野の秋津(あきづ)の小野の、野あたりには跡見(とみ)をいっぱい配置し、み山には射目(いめ)を一面に設け、朝(あした)の狩りには鹿や猪を追い立て、夕(ゆうべ)の狩には鳥を踏み立たせ、馬を並べて狩場にお出ましになる。春の草深い野に。(同上)

(注)とみ【跡見】:狩猟のとき、鳥や獣の通った跡を見つけて、その行方を推しはかること。また、その役の人。(学研)

(注)いめ【射目】:狩りをするとき、弓を射る人が隠れるところ。 ※上代語。(学研)

(注)ふみおこす【踏み起こす】[動]:①地を踏んで鳥獣などを驚かす。狩りたてる。②再興する。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは①の意

 

 

 

■九二七歌■

◆足引之 山毛野毛 御獦人 得物矢手挟 散動而有所見

      (山部赤人 巻六 九二七)

 

≪書き下し≫あしひきの山にも野にも御狩人(みかりひと)さつ(さつ)矢手挾(たばさ)み散(さ)動(わ)きてあり見ゆ

 

〈訳〉あしひきの山にも野にも、大君の御狩に仕える人たちが、幸矢(さつや)を手挟み持って駆けまわっているのが見える。(同上)

(注)御狩人:天皇の御狩に従う人々。(伊藤脚注)

(注)さつや【猟矢】:獲物を得るための矢。

(注)騒きてあり見ゆ:ひしめきあっている。「見ゆ」は、ここは動詞の終止形を承け、視覚的な断定を婉曲に言い表す。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右不審先後但以便故載於此次」<右は、先後を審(つばひ)らかにせず。ただし、便(たより)をもちての故(ゆえ)に、この次(つぎ)に載(の)す。>

 

 

 九二三~九二七歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その125改)」で紹介している。

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■■一〇〇五・一〇〇六歌■■

題詞は、「八年丙子夏六月幸于芳野離宮之時山邊宿祢赤人應詔作歌一首 幷短歌」<八年人、詔(みことのり)に応(こた)へて作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

(注)八年:天平八年(736年)。年代の知られる、赤人最後の歌。(伊藤脚注)

(注)幸す時:聖武天皇行幸。六月二十七日出発。七月十三日帰京。(伊藤脚注)

 

■一〇〇五歌■

◆八隅知之 我大王之 見給 芳野宮者 山高 雲曽軽引 河速弥 湍之聲曽清寸 神佐備而 見者貴久 宜名倍 見者清之 此山乃 盡者耳社 此河乃 絶者耳社 百師紀能 大宮所 止時裳有目

       (山部赤人 巻六 一〇〇五)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ)の 見(め)したまふ 吉野の宮は 山高み 雲ぞたなびく 川早み 瀬の音(おと)ぞ清き 神(かむ)さびて 見れば貴(たふと)く よろしなへ 見ればさやけし この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮(おほみや)ところ やむ時もあらめ

 

(訳)あまねく天下を支配されるわれらの大君がお治めになる吉野の宮、この宮は、山が高くて雲がたなびいている。川の流れが早くて瀬の音が清らかである。山の姿は神々しくて、見れば見るほど貴く、川の姿も宮所に誂(あつらえ)え向きに、見れば見るほどすがすがしい。この山が尽きてなくなりでもしたら、この川の流れが絶えてなくなりでもしたら、ももしきのこの大宮のなくなる時もあろうけれど・・・。(同上)

(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(学研)

(注)よろしなへ【宜しなへ】副詞:ようすがよくて。好ましく。ふさわしく。 ※上代語(学研)

(注)「この山の」以下が後段。下の「この川」とともに、前段の「山」「川」の叙述を承けて本旨へと展開する。(伊藤脚注)

 

 

 

■一〇〇六歌■

◆自神代 芳野宮尓 蟻通 高所知者 山河乎吉三

       (山部赤人 巻六 一〇〇六)

 

≪書き下し≫神代(かみよ)より吉野の宮にあり通(がよ)ひ高知(たかし)らせるは山川(やまかは)をよみ

 

(訳)神代の昔から吉野の宮に絶えず通って、高々と宮殿をお造りになっているのは、ひとえに山と川のたたずまいがよいからだ。(同上)

(注)ありがよふ【有り通ふ】自動詞:いつも通う。通い続ける。 ※「あり」は継続の意の接頭語。(学研)

(注)たかしる【高知る】他動詞:①立派に造り営む。立派に建てる。②立派に治める。 ※「たか」はほめことば、「しる」は思うままに取りしきる意。(学研)

(注)-み 接尾語:①〔形容詞の語幹、および助動詞「べし」「ましじ」の語幹相当の部分に付いて〕(…が)…なので。(…が)…だから。▽原因・理由を表す。多く、上に「名詞+を」を伴うが、「を」がない場合もある。②〔形容詞の語幹に付いて〕…と(思う)。▽下に動詞「思ふ」「す」を続けて、その内容を表す。③〔形容詞の語幹に付いて〕その状態を表す名詞を作る。④〔動詞および助動詞「ず」の連用形に付いて〕…たり…たり。▽「…み…み」の形で、その動作が交互に繰り返される意を表す。(学研)ここでは①の意

 

 一〇〇五・一〇〇六歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2312)」で紹介している。

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■■九一七~九一九歌■■

題詞は、「神龜元年甲子冬十月五日幸于紀伊國時山部宿祢赤人作歌一首幷短歌」<神亀(じんき)元年甲子(きのえね)の冬の十月五日に、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、山部宿禰赤人が作る歌一首幷せて短歌>である。

(注)神亀元年:724年

(注)幸(いでま)す時:聖武天皇行幸(10月5日から23日まで)

 

■九一七歌■

◆安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 背匕尓所見 奥嶋 清波瀲尓 風吹者 白浪左和伎 潮干者 玉藻苅管 神代従 然曽尊吉 玉津嶋夜麻

        (山辺赤人 巻六 九一七)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)ご大王(おほきみ)の 常宮(とこみや)と 仕(つか)へ奉(まつ)れる 雑賀野(さひかの)  そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚(なぎさ)に 風吹けば 白浪騒(さわ)き 潮干(ふ)れば 玉藻(たまも)刈りつつ 神代(かみよ)より しかぞ貴(たふと)き 玉津島山(たまつしまやま)

 

(訳)安らかに天下を支配されるわれらの大君、その大君のとこしえに輝く立派な宮として下々の者がお仕え申しあげている雑賀野(さいかの)に向き合って見える沖の島、その島の清らかなる渚に、風が吹けば白波が立ち騒ぎ、潮が引けば美しい藻を刈りつづけてきたのだ・・・、ああ、神代以来、そんなにも貴いところなのだ、沖の玉津島は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)とこみや【常宮】名詞:永遠に変わることなく栄える宮殿。貴人の墓所の意でも用いる。「常(とこ)つ御門(みかど)」とも。(学研)

(注)雑賀野:和歌山市南部、和歌の浦の北西に位置する一帯

(注)そがひ【背向】名詞:背後。後ろの方角。後方。(学研)

(注)沖つ島:ここでは「玉津島」をさす。

(注)玉津島 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の和歌山県にある山。和歌の浦にある玉津島神社(玉津島明神)の背後にある、風景の美しい所とされた。古くは島であった。(学研)

 

 九一七歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その733)」で紹介している。

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和歌山市和歌浦中 玉津島神社境内万葉歌碑(山部赤人 6-917) 20200912撮影

 

 

 

■九一八歌■

◆奥嶋 荒礒之玉藻 潮干滿 伊隠去者 所念武香聞

        (山部赤人 巻六 九一八)

 

≪書き下し≫沖つ島荒礒(ありそ)の玉藻(たまも)潮干(しほひ)満ちい隠(かく)りゆかば思ほえむかも

 

(訳)沖の島の荒磯(あらいそ)に生えている玉藻、この美しい藻は、潮が満ちて来て隠れていったら、どうなったかと思いやられるだろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)い 接頭語:動詞に付いて、意味を強める。「い隠る」「い通ふ」「い行く」。 ※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

 

 

■九一七歌■

◆若浦尓 塩滿来者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡

       (山部赤人 巻六 九一九)

 

≪書き下し≫若(わか)の浦(うら)に潮満ち来(く)れば潟(かた)を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る

 

(訳)若の浦に潮が満ちて来ると、干潟(ひがた)がなくなるので、葦の生えている岸辺をさして、鶴がしきりに鳴き渡って行く。(同上)

 

左注は、「右年月不記 但偁従駕玉津嶋也 因今檢注行幸年月以載之焉」<右は、年月を記(しる)さず。ただし、「玉津島に従駕(おほみとも)す」といふ。よりて今、行幸(いでまし)の年月を検(ただ)して載すである>。

 

 

 九一八・九一九歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その734)」で紹介している。

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和歌山市和歌浦中 玉津島神社境内万葉歌碑(山部赤人 6-916 917) 20200912撮影

 

 

■■九三三・九三四歌■■

題詞は、「山部宿祢赤人作歌一首 幷短歌」<山部宿禰赤人が作る歌一首 幷せて短歌>の「反歌一首」である。

 

■九三三歌■

◆天地之 遠我如 日月之 長我如 臨照 難波乃宮尓 和期大王 國所知良之 御食都國 日之御調等 淡路乃 野嶋之海子乃 海底 奥津伊久利二 鰒珠 左盤尓潜出 船並而 仕奉之 貴見礼者

      (山部赤人 巻六 九三三)

 

≪書き下し≫天地(あめつち)の 遠きがごとく 日月(ひつき)の 長きがごとく おしてる 難波(なには)の宮に 我(わ)ご大君(おほきみ) 国知らすらし 御食(みけ)つ国 日の御調(みつき)と 淡路(あはぢ)の 野島(のしま)の海人(あま)の 海(わた)の底(そこ) 沖(おき)つ海石(いくり)に 鰒玉(あはびたま) さはに潜(かづ)き出(で) 舟(ふめ)並(な)めて 仕(つか)へ奉(まつ)るし 貴(たほと)し見れば

 

(訳)天地が無窮であるように、日月が長久であるように、ここ難波の宮で、われらの大君はとこしえに国をお治めになるらしい。大御食(おおみけ)の国の日ごとの貢物として、淡路の野島の海人たちが、沖深い岩礁に潜って鰒玉(あわびだま)をたくさん採り出しては、舟を並べてお仕えしているのは、見るにまことに貴い。(同上)

(注)おしてる【押し照る】分類枕詞:地名「難波(なには)」にかかる。かかる理由未詳。「押し照るや」とも。(学研)

(注)みけつくに【御食つ国】名詞:天皇の食料を献上する国。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。(学研)

(注)みつき【貢・調】名詞:租・庸・調(ちよう)などの租税の総称。▽「調(つき)(=年貢(ねんぐ))」を敬っていう語。 ※「み」は接頭語。のちに「みつぎ」。(学研)

(注)わたのそこ【海の底】分類枕詞:海の奥深い所の意から「沖(おき)」にかかる。(学研)

(注)いくり【海石】名詞:海中の岩石。暗礁。(学研)

(注)鰒玉:食料としての鰒貝をほめていう。(伊藤脚注)

(注)さはに【多に】副詞:たくさん。(学研)

 

 

 

◆朝名寸二 梶音所聞 三食津國 野嶋乃海子乃 船二四有良信

       (山部赤人 巻六 九三四)

 

≪書き下し≫朝なぎに楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ御食(みけ)つ国野島(のしま)の海人(あま)の舟(ふめ)にしあるらし

 

(訳)朝凪に櫓(ろ)の音が聞こえてくる。あれは大御食の国淡路(あわじ)の、野島の海人たちの舟であるらしい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)みけつくに【御食つ国】名詞:天皇の食料を献上する国。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。(学研)

(注)野島:淡路島西岸、北端近くの地名。(伊藤脚注)

 

 

 九三三・九三四歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1945)」で紹介している。

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兵庫県淡路市野島 大川公園万葉歌碑(山部赤人 6-934) 20220818撮影

「野島海人の像」のプレートには九三四歌と九三五歌の一部が書かれている。「万葉集 巻六 山部赤人」とあるが、九三四歌は、山部赤人。九三五歌は、笠金村である。

 

 

 

■■三二四・三二五歌■■

題詞は、「登神岳山部宿祢赤人作歌一首并短歌」<神岳(かみをか)に登りて、山部宿禰赤人が作る歌一首 幷せて短歌>である。

 

■三二四歌■

◆三諸乃 神名備山尓 五百枝刺 繁生有 都賀乃樹乃 弥継飼尓 玉葛 絶事無 在管裳 不止将通 明日香能 舊京師者 山高三 河登保志呂之 春日者 山四見容之 秋夜者 河四清之 且雲二 多頭羽乱 夕霧丹 河津者驟 毎見 哭耳所泣 古思者

      (山部赤人 巻三 三二四)

 

≪書き下し≫みもろの 神(かむ)なび山に 五百枝(いほえ)さし 繁(しげ)に生ひたる 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 玉葛(たまかづら) 絶ゆることなく ありつつも やまず通(かよ)はむ 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見が欲し 秋の夜(よ)は 川しきやけし 朝雲(あさぐも)に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづは騒(さわ)く 見るごとに 音(ね)のみし泣かゆ いにしへ思へば

 

(訳)神の来臨する神なび山にたくさんの枝をさしのべて盛んに生い茂っている栂の木、その名のようにいよいよ次々と、玉葛(たまかずら)のように絶えることなく、こうしてずっといつもいつも通いたいと思う明日香の古い都は、山が高く川が雄大である。春の日は山を見つめていたい、秋の夜は川の音が澄みきっている。朝雲に鶴は乱れ飛び、夕霧に河鹿は鳴き騒いでいる。ああ見るたびに声に出して泣けてくる。栄えいましたいにしえのことを思うと。(伊藤 博 著 「万葉集一」 角川ソフィア文庫より)

 

 

 

■三二五歌■

◆明日香河 川余藤不去 立霧乃 念應過 孤悲尓不有國

       (山部赤人 巻三 三二五)

 

≪書き下し≫明日香川川淀(かはよど)さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに

 

 

 

 

(訳)明日香川の川淀を離れずにいつも立こめている霧、なかなか消え去らぬその霧と同じく、すぐ消えてしまうようなちっとやそっとの思いではないのだ、われらの慕情は。

(注)とほしろし:形容詞 ①大きくてりっぱである。雄大である。②けだかく奥深い。

 

 三二四・三二五歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その176)」で紹介している。

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奈良県高市郡明日香村 飛鳥寺境内万葉歌碑(山部赤人 3-324 325) 20190717撮影

 

 

 

■■三二二・三二三歌■■

題詞は、「山部宿祢赤人至伊豫温泉作歌一首幷短歌」<山部宿禰赤人、伊予(いよ)の温泉(ゆ)に至りて作る歌一首幷せて短歌>である。

(注)伊予の温泉:愛媛県松山市道後温泉

 

■三二二歌■

◆皇神祖之 神乃御言乃 敷座 國之盡 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宣國跡 極是疑 伊豫能高嶺乃 射狭庭乃 崗尓立而 敲思 辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生継尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備将徃 行幸

        (山部赤人 巻三 三二二)

 

≪書き下し≫すめろきの 神(かみ)の命(みこと)の 敷きいます 国のことごと 湯(ゆ)はしも さわにあれども 島山(しまやま)の 宣(よろ)しき国と こごしかも 伊予の高嶺(たかね)の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして 歌(うた)思ひ 辞(こと)思ほしし み湯(ゆ)の上(うへ)の 木群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生(お)ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代(よ)に 神(かむ)さびゆかむ 幸(いでま)しところ

 

(訳)代々の天皇がお治めになっている国のどこにでも、温泉(ゆ)はたくさんあるけれども中でも島も山も足り整った国と聞こえる、いかめしくも険しい伊予の高嶺、その嶺に続く射狭庭(いざにわ)に立たれて、歌の想いを練り詞(ことば)を案じられた貴い出で湯の上を覆う林を見ると、臣の木も次々と生い茂っている。鳴く鳥の声もずっと盛んである。遠い末の世まで、これからもますます神々しくなってゆくことであろう、この行幸(いでまし)の跡所(あとどころ)は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しきます【敷きます】分類連語:お治めになる。統治なさる。 ※なりたち動詞「しく」の連用形+尊敬の補助動詞「ます」(学研)

(注)ことごと【尽・悉】副詞:①すべて。全部。残らず。②まったく。完全に。(学研) ここでは①の意

(注)さはに【多に】副詞:たくさん。 ※上代語。(学研)

(注)こごし 形容詞:凝り固まってごつごつしている。(岩が)ごつごつと重なって険しい。 ※上代語。(学研)

(注)射狭庭の岡:温泉の裏にある岡の名

 

 

 

■三二三歌■

百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乗将為 年之不知久

        (山部赤人 巻三 三二三)

 

≪書き下し≫ももしきの大宮人(おほみやひと)の熟田津(にぎたつ)に船乗(ふなの)りしけむ年の知らなく

 

(訳)ももしきの大宮人が熟田津で船出をした年がいつのことかわからなくなってしまった。(同上)

 

 三二二・三二三歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その700)」で紹介している。

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和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園万葉歌碑(プレート)(山部赤人 3-322  323) 20200819撮影

 

 

 

■■九三八~九四一歌■■

九三八~九四一歌の題詞は、「山部宿祢赤人作歌一首 并短歌」<山部宿禰赤人が作る歌一首 并せて短歌>である。

 

■九三八歌■

◆八隅知之 吾大王乃 神随 高所知流 稲見野能 大海乃原笶 荒妙 藤井乃浦尓 鮪釣等 海人船散動 塩焼等 人曽左波尓有 浦乎吉美 宇倍毛釣者為 濱乎吉美 諾毛塩焼 蟻徃来 御覧母知師 清白濱

        (山部赤人 巻六 九三八)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ)の 神(かむ)ながら 高知(たかし)らせる 印南野(いなみの)の 邑美(おふみ)の原の 荒栲(あらたへ)の 藤井(ふぢゐ)の浦に 鮪(しび)釣ると 海人舟(あまぶね)騒(さわ)き 塩焼くと 人ぞさはにある 浦をよみ うべも釣(つ)りはす 浜をよみ うべも塩焼く あり通(がよ)ひ 見(め)さくもしるし 清き白浜

 

(訳)あまねく天下を支配されるわれらの大君が、神そのままに高々と宮殿をお造りになっている印南野の邑美(おうみ)の原の藤井の浦に、鮪(しび)を釣ろうとして海人の舟が入り乱れ、塩を焼こうとして人がいっぱい浜に集まっている。浦がよいのでなるほどこのように釣りをするのだ。さればこそ、わが大君はこうしてたびたびお通いになって御覧になるのだな。ああ、何と清らかな白浜であろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)たかしる【高知る】他動詞①立派に造り営む。立派に建てる。②立派に治める。(学研)

(注)邑美(おうみ)の原:明石市北西部。大久保町周辺の平野

(注)荒妙の・荒栲の(読み)あらたえの( 枕詞 ):「藤原」「藤井」「藤江」など「藤」のつく地名にかかる。(コトバンク 三省堂大辞林第三版)

(注)藤井の浦:明石市藤江付近

(注)しび【鮪】名詞:魚の名。まぐろの大きなもの。(学研)

(注)さはに【多に】副詞:たくさん。(学研)

(注)うべも【宜も】分類連語:まことにもっともなことに。ほんとうに。なるほど。道理で。 ※なりたち 副詞「うべ」+係助詞「も」(学研)

(注)ありがよふ【有り通ふ】自動詞:いつも通う。通い続ける。 ※「あり」は継続の意の接頭語。(学研)

(注)みさく【見放く】他動詞:①遠くを望み見る。②会って思いを晴らす。(学研)

(注)しるし【著し】形容詞①はっきりわかる。明白である。②〔「…もしるし」の形で〕まさにそのとおりだ。予想どおりだ。(学研)ここでは②の意

 

 

 

■九三九歌■

◆奥浪 邊波安美 射去為登 藤江乃浦尓 船曽動流

       (山部赤人 巻六 九三九)

 

≪書き下し≫沖つ波辺(へなみ)波静けみ漁(いざ)りすと藤江(ふじえ)の浦に舟ぞ騒(さわ)ける

 

(訳)沖の波も、岸辺の波も静かなので、魚を捕ろうとして、藤江の浦に舟が賑わい騒いでいる。(同上)

 

 

 

■九四〇歌■

◆不欲見野乃 淺茅押靡 左宿夜之 氣長在者 家之小篠生

        (山部赤人 巻六 九四〇)

 

≪書き下し≫印南野(いなみの)の浅茅(あさぢ)押しなべさ寝(ぬ)る夜(よ)の日(け)長くしあれば家し偲はゆ

 

(訳)印南野の浅茅(あさじ)を押し靡(なび)かせて、共寝を願いながら旅寝する夜が幾日も続くので、家の妻のことが偲(しのば)れてならない。(同上)

(注)浅茅:丈の低いかや

(注)さぬ【さ寝】自動詞①寝る。②男女が共寝をする。 ※「さ」は接頭語。(学研)

 

 

 

■九四一歌■

◆明方 潮干乃道乎 従明日者 下咲異六 家近附者

        (山部赤人 巻六 九四一)

 

≪書き下し≫明石潟(あかしがた)潮干(しほい)の道を明日よりは下笑(したゑ)ましけむ家近づけば

 

(訳)あの明石潟の干潟(ひがた)の道を、明日からは心もはずんでいくことであろう。妻の待つ家がだんだん近づくので。(同上)

(注)明石潟:明石川河口の干潟

(注)したゑまし【下笑まし】形容詞:心の中でうれしく思う。 ◇「したゑましけ」は上代の未然形。(学研)

 

 九三八~九四一歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その628)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

高砂市曽根 曽根天満宮万葉歌碑(山部赤人 6-940)<写真右端> 20200702撮影

 

 

 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)によると、「一般の世情はけっして明るくはなかったけれども、都城の繁栄そのままに、この時代には絢爛(けんらん)たる文学の花がひらいた。そのなかでも先代を承(う)ける宮廷歌人の群があり、そのもっともすぐれた作者だと思われるのは、山部赤人である。・・・宮廷における立場も人麻呂と似たものがあるが、しかしまったく同一ではない。人麻呂は宮廷日常の場で歌を献上したと思われるのだが、赤人の宮廷歌は、行幸供奉(ぐぶ)など必ず何か特別な機会に際して歌われている。和歌は7世紀ほどには恒常の宮廷に興を供するものではなくなっていた。」(同著)

 「赤人の献呈歌は、すべて賛歌である。長歌は吉野が二回三首(巻六、九二三~九二七。一〇〇五・一〇〇六)、紀伊が一首(巻六、九一七~九一九)、難波(なにわ)が一首(巻六、九三三・九三四)で、飛鳥故京(巻三、三二四・三二五)・伊予の温泉(巻三、三二二・三二三)・印南野(いなみの)(巻六、九三八~九四一)の三長歌行幸従駕(じゅうが)ではなくとも、そこが天皇行幸先だったり、かつて居住した土地としての感情のなかによまれたものである。・・・長歌八首はすべて天皇賛仰のなかに歌われている。ところがあの人麻呂において類型的ですらあり、かつそれに先立って伝統的に賛歌が踏襲して来た『やすみしし わご大君』という冒頭は、吉野三首のほか紀伊・印南野の二首、計五首にしか用いられていない。そしてこれに代わるものが、

 天地の 遠きが如く 日月の 長きが如く 推し照る  難波の宮に(難波の歌)

 三諸(みもろ)の 神名備(かむなび)山に 五百枝(いほえ)さし 繁(しじ)に生(お)ひたる(飛鳥故京の歌)

 皇神祖(すめろき)の 神の命の 敷きいます 国(くに)のことごと(伊予の温泉の歌)

という冒頭である。これらの内容はすべて『やすみしし わご大君』に代わるべきもので、じつは赤人は故意にこの常套句を避けたのである。この技巧に、人麻呂の伝統からの脱却を試みようとした八世紀宮歌人の面目があった。」(同著) <2583の2に続く>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 三省堂大辞林第三版」