●歌は、「岩つなのまたをちかえりあをによし奈良の都をまたも見むかも」である。
●歌碑(プレート)は、国分寺市西元町 国分寺万葉庭園(102)にある。

20251122撮影
●歌をみていこう。
■■巻六 一〇四四~一〇四六歌■■
題詞は、「傷惜寧樂京荒墟作歌三首 作者不審」<寧楽(なら)の京の荒墟(くわうきよ)を傷惜(いた)みて作る歌三首 作者審らかにあらず>である。
(注)寧楽の京の荒墟:天平十二年(740年)から同十七年奈良遷都まで古京と化す。(伊藤脚注)
聖武天皇の「彷徨の五年」と呼ばれる時期である。
■巻六 一〇四六歌■
◆石綱乃 又變若反 青丹吉 奈良乃都乎 又将見鴨
(作者未詳 巻六 一〇四六)
≪書き下し≫岩つなのまたをちかへりあをによし奈良の都をまたも見むかも
(訳)這(は)い廻(めぐ)る岩つながもとへ戻るようにまた若返って、栄えに栄えた都、あの奈良の都を、再びこの目で見ることができるであろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)岩つなの:「またをちかへり」の枕詞。「岩つな」は蔓性の植物。(伊藤脚注)
(注の注)岩綱【イワツナ】:定家葛の古名、岩に這う蔦や葛の総称(weblio辞書 植物名辞典)
(注の注の注)「石綱(イワツナ)」は「石葛(イワツタ)」と同根の語で岩に這うツタのことだが、延びてもまた元に這い戻ることから「かへり」にかかる枕詞となる、(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著)
(注)をちかへる【復ち返る】自動詞:①若返る。②元に戻る。繰り返す。(学研)

20230927撮影
一〇四四・一〇四五歌もみてみよう。
■巻六 一〇四四歌■
◆紅尓 深染西 情可母 寧樂乃京師尓 年之歴去倍吉
(作者未詳 巻六 一〇四四)
≪書き下し≫紅(くれなゐ)に深く染(し)みにし心かも奈良の都に年の経(へ)ぬべき
(訳)紅に色深く染まるように都に深くなじんだ気持ちのままで、私はこれから先、ここ奈良の都で年月を過ごせるのであろうか。(同上)
(注)紅に深く染みにし心かも:紅色に深く染まるように馴染んだ心ゆえに。「紅」はキク科の越年草。「呉の藍」の意で、今のベニバナ。(伊藤脚注)
(注の注)くれなゐ 【紅】名詞:①紅花(べにばな)の別名。末摘花(すえつむはな)。花の汁から赤色の染料を作る。②染め色の一つ。①の汁で染め出した鮮明な赤色。紅(べに)色。 (学研)
(注)年の経ぬべき:この先、年月を過す気になるのであろうか。ベキは上のカモの結び。(伊藤脚注)

20211005撮影
■巻六 一〇四五歌■
◆世間乎 常無物跡 今曽知 平城京師之 移徙見者
(作者未詳 巻六 一〇四五)
≪書き下し≫世間(よのなか)を常(つね)なきものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば
(訳)世の中とはなんとはかないものなのかということを、今こそ思い知った。この奈良の都がひごとにさびれてゆくのをみると。(同上)
奈良の都が突然廃都となり、伊勢行幸の後に恭仁京遷都となるが、作者未詳とはいえ、この三首に見られる、無常観、虚無感ははかりしえない。
聖武天皇の「彷徨の五年」をみてみよう。
天平十二年(七四〇年)十月、藤原広嗣が大宰府から反乱を起こした。そのさなか、聖武天皇は伊勢に行幸を強行したのである。或る意味、逃避行である。十月末には反乱は鎮圧されたのであるが、逃避行は続いた。
天平十六年二月、聖武天皇は、難波宮を都と定める勅旨を発するも、翌十七年(七四五年)五月、再び都を平城京に戻すのである。この五年は、「彷徨五年」と呼ばれる
この逃避行には、右大臣橘諸兄が同行し、内舎人大伴家持も従い、行く先々の行宮で歌を残している。
この足取りは次の通りである。

平城京を後にして恭仁京までの足取りはつぎのとおりである。
◎天平十二年 十月二十九日伊勢の国へ出発
◎ 同 十一月 二日河口の行宮到着
◎ 同 十二日出発
(注)河口の行宮:三重県津市白山町川口。
◎天平十二年十一月 二十三日朝明の行宮到着
(注)朝明(あさあけ)の行宮:三重郡朝日町付近か。
(注)狭殘行宮:所在未詳
◎天平十二年 十一月 二十六日から月末ごろまで多芸行宮滞在
(注)多芸(たぎ)の行宮(かりみや):岐阜県養老郡養老町付近か。
◎天平十二年 十二月 一日不破行宮到着
◎ 同 同 六日出発
◎天平十二年 十二月 十五日久邇の宮帰着、ここを都とした。
上で引用させていただいた松浦茂樹氏(建設産業史研究会代表(工学博士))の稿「聖武天皇と国土経営」(水利科学 No.358 2017)は、「彷徨の五年」について、これまで「逃避行」と言われてきたが、水運という国土経営の観点から新たな仮説を論じておられる。
木津川沿いの恭仁京への遷都は,平城京の物資輸送に大きな役割を果たしていた大和川舟運が、天平 六年(734年)四月の畿内の大地震の時の大和川亀ノ瀬峡谷部での地滑りが舟運により支障が生じたため、舟運のための淀川・木津川を,恭仁京遷都に合わせて進めていたと考えられておられる。また、難波京遷都は,海外との文化交流あるいは文物の移入のための表玄関の整備のためという広大な聖武天皇の国土経営によるとされている。そして平城京還都は,天平十七年(745年)四 月の美濃国を震源とした大規模な内陸直下型群発性地震により被害が低度であったことによると考えられている。
東大寺大仏の建立などと考えあわせると「逃避行」は思想軸のずれが甚だ大きく興味深い考え方と思えるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)
★「植物で見る万葉の世界」 (國學院大學「万葉の花の会」発行)
★松浦茂樹氏(建設産業史研究会代表(工学博士))の稿「聖武天皇と国土経営」(水利科学 No.358 2017)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「weblio辞書 植物名辞典」