万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その608,609,610)―明石市人丸町 柿本神社、月照寺―万葉集 巻三 二五五、巻三 二三五、巻三 二五四

 コロナ騒動も、外出自粛等少し緩和されたこともあって、マスク着用はもちろんであるが、アルコール消毒スプレー、消毒用シート等持参で、久しぶりに万葉歌碑めぐりを行った。(2020年7月3日)

 

コースは、柿本神社明石市)➡月照寺明石市)➡住吉神社明石市)➡曽根天満宮高砂市)➡国安天満宮加古川市)➡稲美中央公園(加古川市)である。

 

―その608―

●歌は、「天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」である。

 

●歌碑は、明石市人丸町 柿本神社にある。

 

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明石市人丸町 柿本神社万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その560)」で紹介している。

 

◆天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見  一本云家門當見由

               (柿本人麻呂 巻三 二五五)

 

≪書き下し≫天離(あまざか)る鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石(あかし)の門(と)より大和島(やまとしま)見ゆ  一本には「家のあたり見ゆ」といふ。

 

(訳)天離る鄙の長い道のりを、ひたすら都恋しさに上って来ると、明石の海峡から大和の山々が見える。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)明石の門(読み)あかしのと:明石海峡のこと。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

題詞「柿本朝臣人麻呂羇旅歌八首」<柿本朝臣人麻呂が羇旅の歌八首>(二四九から二五六歌)の一首である。

 

柿本神社については、同社HPによると、元和六年(1620年)当時、明石城主であった小笠原忠政が柿本人麻呂を歌聖として崇敬、この地に祀ったことを起源とする。

 

 

―その609―

●歌は、「大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海をなすかも」である。

 

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明石市人丸町 柿本神社万葉歌碑②(柿本人麻呂


●歌碑は、明石市人丸町 柿本神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆皇者 神二四座者 雷之上尓 廬為流鴨 

             (柿本人麻呂 巻三 二三五)

 

≪書き下し≫大王(おほきみ)は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上(うへ)に廬(いほ)らせるかも

 

(訳)天皇は神であらせられるので、天雲を支配する雷神、その神の上に廬(いおり)をしていらっしゃる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)いほる 【庵る・廬る】:仮小屋を造って宿る。

 

 題詞は、「天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首」<天皇(すめらみこと)、雷(いかづち)の岳(おか)に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首>である。

(注)天皇持統天皇か。天武天皇とも文武天皇ともいう。

 

 左注は、「右或本云獻忍壁皇子也 其歌日 王 神座者 雲隠 伊加土山尓 宮敷座」<右は、或本には「忍壁皇子(おさかべのみこ)に献(たてまつ)る」という。その歌は「大君は神にしませば雲隠(くもがく)る雷山(いかづちやま)に宮(みや)敷きいます」といふ。>

 

(或本の歌の訳)大君は神であらせられるので、雲に隠れる雷、その雷山に宮殿を造って籠(こも)っておられます。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌は、万葉集巻三の冒頭歌である。

 

 犬養孝氏は「万葉の大和路」(旺文社文庫)の中で、「壬申の乱をわずか一か月で勝ちとった大海人皇子(おおあまのみこ)(天武天皇)は当時の宮廷人からみればまさに「神」であり、持統・文武天皇天皇権の伸張につれて、天皇即神の意識がひろまってゆく時代気運であってみれば、持統女帝はまさに神であり、だから天雲の中で也とどろく雷をも征服しておられると考える。天皇絶対礼讃の人麻呂の心は、躍如と出てくるといえるのではなかろうか。低い丘を、凄い山地に感じさせるところに、人麻呂の天皇讃歎の心が見られるというべきであろう。」と述べておられる。

 

天皇即神」の考え方に結びつけるには無理があるという考え方もある

 

 

―その610―

●歌は、「燈火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」である。

 

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明石市人丸町 月照寺万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、明石市人丸町 月照寺にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その561)」で紹介している。

題詞「柿本朝臣人麻呂羇旅歌八首」<柿本朝臣人麻呂が羇旅の歌八首>(二四九から二五六歌)の一首である。同ブログでは、八首すべてを紹介している。

 

◆留火之 明大門尓 入日哉 榜将別 家當不見

               (柿本人麻呂 巻三 二五四)

 

≪書き下し≫燈火(ともしび)の明石大門(あかしおほと)に入らむ日や漕ぎ別れなむ家(いへ)のあたり見ず

 

(訳)燈火明(あか)き明石、その明石の海峡にさしかかる日には、故郷からまったく漕ぎ別れてしまうことになるのであろうか。もはや家族の住む大和の山々を見ることもなく。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ともしびの【灯し火の】分類枕詞:灯火が明るいことから、地名「明石(あかし)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

月照寺については、もとは明石城本丸のあった場所にあったが、元和四年(1618年)年に明石城築城に伴い柿本神社とともに現在の位置に移ったという。

 

 

≪歌碑めぐり:柿本神社月照寺

 柿本神社境内の駐車場に車を止める。社務所のほぼ正面、参道をはさんだ反対側に万葉歌碑が二つならんでいた。

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柿本神社参道と鳥居

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柿本神社社殿

 境内からは明石市立天文科学館がすぐ近くに見える。山門を出て見ると、明石大橋が眼下に。まさに「明石の門より大和島見ゆ」のロケーションである。

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神社境内からみた明石市立天文科学館

 

 

 柿本神社のすぐ隣が、柿本山月照寺である。本堂正面の入り口の右手に子午線上の「子午線大梵鐘」がある。

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柿本神社楼門と月照寺(左奥)

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月照寺

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月照寺子午線大梵鐘

 本堂前のコンパクトな庭園のつくりはなかなかのものである。境内には万葉歌碑が見当たらず、山門を出る。墓地の近くに歌碑が建っていた。

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月照寺山門

 柿本神社の方へ戻る時に、「日本標準時子午線標示柱」と「同説明案内板」があった。足元の道には子午線のラインが示されていた。

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日本標準時子午線標示柱と同説明案内板

 柿本神社月照寺、天文科学館、明石大橋日本標準時子午線標示柱とこれだけ見て帰っても十分満足できるレベルであった。ミニ観光ができるのも万葉歌碑めぐりの大きな副産物である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の大和路」 犬養 孝 著 (旺文社文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「柿本神社HP」

★「月照寺HP」

★「明石市立天文科学館HP」