万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その47改)―芝運動公園―万葉集 巻一 一八

●歌は、「三輪山をしかもかくすか雲だにも心あらなむかくさふべきしや」である。

 

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芝運動公園万葉歌碑(額田王)背後は三輪山

●歌碑は、芝運動公園にある。歌は、景行天皇陵近くの山の辺の道にあるものも反歌と同じである。

 

●歌をみていこう。

 

三輪山 然毛隠賀 雲谷裳 情有南敏 可苦佐布倍思哉

                   (額田王 巻一 一八)

 

≪書き下し≫三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや

 

(訳)ああ、三輪の山、この山を何でそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠したりしてよいものか。よいはずがない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 芝運動公園は、大神神社の大鳥居の前にある。正月のお参りに時、大鳥居から先の参道沿いの駐車場が満車状態の時、芝運動公園の駐車場に誘導される時がある。

 歌碑は、背後に三輪山がみえる位置に建てられていた。

 「万葉歌碑を訪ねて―その45―」で、「三輪山は、大和の中で最も崇敬された山だから、三輪山が見えなくなる奈良山の道の隈で三輪山と離れる祭りをしている。」と書いたが、この祭りをした場所についても様々な議論があるようである。

 「別冊國文學 万葉集必携 稲岡耕二編(學燈社)」に諸説があるので、見ていく。

 

 額田王万葉集第1期の代表的な歌人である。この期の歌の特徴は、集団性・意欲性・呪的性格、自然との融即性、歌謡や民謡とのつながりの深さであるといわれている。初期万葉の多くが集団的行事、すなわち宮廷儀礼等に際して詠われるものが多いと考えられる。

 この額田王の歌も「祭事」的なものであり、近江遷都に際して、大和の国の魂ともいえる三輪山の神に対する別れの心を詠んだものであるというのは共通認識であるが、場所に関して次のような記述がある。

 西郷信綱氏はその著「万葉私記」のなかで、「奈良山においてなされた、大和に訣れんとする儀礼のなかで作られたものにちがいない」と言い、橋本達雄氏はその著「万葉宮廷歌人の研究」のなかで、「翌年正月に予定していた天智天皇の即位の万全を期し、障りのないことを祈る心が背後にあり(中略)それにふさわしい祭祀儀礼が遷都に先立って執り行われたことを考えうる」としている。これに対して、稲岡耕二氏は「奈良山での祭祀でなく、三輪山近くにおける作だろうことが「見つつ行かむを・・・見放けむ山を」という表現から察せられるのである」としている。

 三輪山の高さは467mである。二上山の高さは、雄岳が517mと雌岳が474mである。奈良市神宮4丁目近くの高台からはどちらも直線距離で約25kmである。建物の関係で三輪山は見えないが、二上山は確認ができるので、当時の状況からすれば、奈良山からも三輪山が見えたのは間違いないとは思う。

 

 額田王の歌は万葉集に十三首がある。ただし、巻四の四八八と巻八の一六〇六の歌は重複しているので十二首となる。

 歌のみあげてみる。

 

◆金野乃(あきののの) 美草苅葺(みくさかりふき) 屋杼礼里之(やどれりし) 兎道乃宮子能(うぢのみやこの) 借五百磯所念(かりほしおもほゆ)

                   (額田王 巻一 七)

◆熟田津尓(みぎたつに) 船乗世武登(ふなのりでむと) 月待者(つきまてば) 潮毛可奈比沼(しほもかなひぬ) 今者許藝乞菜(いまはこぎいでな)

                   (額田王 巻一 八)

◆莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣<上二句定訓がない> 吾瀬子之(わがせこが) 射立為兼(いたたせりけむ) 五可新何本(いつかしがもと)

                   (額田王 巻一 九)

◆冬木成(ふゆこもり) 春去來者(じゃるさりくれば) 不喧有之(なかずありし) 鳥毛来鳴奴 (とりもきなきぬ) 不開有之(さかずありし) 花毛佐家礼抒(はなもさけれど) 山乎茂(やまをしみ) 入而毛不取(いりてもとらず) 草深(くさふかみ) 執手母不見(とりてもみず) 秋山乃(あきやまの) 木葉乎見而者(このはをみては) 黄葉乎婆(もみつはを) 取而曾思努布(とりてぞしのふ) 青乎者(あをきをば) 置而曾歎久(おきてぞなげく) 曾許之恨之(そこしうらめし) 秋山吾者(あきやまわれは)

                   (額田王 巻一 一六)

◆味酒(うまさけ) 三輪乃山(みわのやま) 青丹吉(あをによし) 奈良能山乃(ならのやまの) 山際(やまのまの) 伊隠流萬代尓(いかくるまで) 道隈(みちのくま) 伊積流萬代尓(いつもるまでに) 委曲毛(つばらにも) 見管行武雄(みつつゆかむを) 數ゝ毛(しばしばも) 見放武八萬山を雄(みさけむやまを) 情無雲乃(こころなくくもの) 隠障倍之也(かくさふべしや)

                   (額田王 巻一 一七)

   反歌

三輪山(みわやまを) 然毛隠賀(しかもかくすか) 雲谷裳(くもだにも) 情有南敏(こころあらなも) 可苦佐布倍思哉(かくさふべしや)

                   (額田王 巻一 一八)

◆茜草指(あかねさす) 武良前野逝(むらさきのゆき) 標野行(しめのゆき) 野守者不見哉(のもりはみずや) 君之袖布流れ(きみがそでふる)

                   (額田王 巻一 二十)

◆古尓(いにしへに) 戀良武鳥者(こふらむとりは) 霍公鳥(ほととぎす) 蓋哉鳴之(けだしやなきし) 吾念流碁騰(あがもへるごと)

                   (額田王 巻二 一一二)

◆三吉野乃(みよしのの) 玉松之枝者(たままつがえは) 波思吉香聞(なみしきかも) 君之御言乎(きみがみことを) 持而加欲波久(もちてかよはく)

                   (額田王 巻二 一一三)

◆如是有乃(かからむと) 懐知勢婆(かねてしりせば) 大御船(おほみふね) 泊之登萬里人(はてしとまりに) 標結麻思乎(しめゆはましを) 額田王

                   (額田王 巻二 一五一)

◆八隅知之(やすみしし) 和期大王之(わごおほきみの) 恐也(かしこきや) 御陵奉仕流(みはかつかふる) 山科乃(やまなしの) 鏡山尓(かがみのやまに) 夜者毛(よるはも) 夜之盡(よのことごと) 晝者母(ひるはも) 日之盡(ひのことごと) 哭耳呼(ねのみを) 泣乍在而哉(なきつつありてや) 百礒城乃(ももしきの) 大宮人者(おほみやひとは) 去別南(ゆきわかれなむ)

                    (額田王 巻二 一五五)

◆君待登(きみまつと) 吾戀居者(わがこひをれば)  我屋戸之 (わがやどの) 簾動之(すだれうごかし) 秋風吹(あきのかぜふく)

                    (額田王 巻四 四八八)

◆君待跡(きみまつと) 吾戀居者(わがこひをれば)  我屋戸之 (わがやどの) 簾令動(すだれうごかし) 秋之風吹(あきのかぜふく)

                    (額田王 巻八 一六〇六)

 

額田王は、大海人皇子天武天皇)に嫁ぎ、十市皇女をもうけ、後には、兄の中大兄皇子天智天皇)の後宮に入られたという。壬申の乱(672年)の大動乱期を生き抜いたのである。まさに「月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と、機を見るに敏なる女性であったのだろう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編(學燈社

★「万葉集 一、二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

 

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