遣新羅使人等の歌碑(プレートを含みます)を旧国歌大観番号順に追っている第2弾である。
●歌は、「我妹子が形見に見むを印南都麻白波高み外にかも見む」である。
●歌をみていこう。
◆和伎母故我 可多美尓見牟乎 印南都麻 之良奈美多加弥 与曽尓可母美牟
(遣新羅使人等 巻十五 三五九六)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が形見(かたみ)に見むを印南(いなみ)都麻(つま)白波(しらなみ)高み外(よそ)にかも見む
(訳)いとしいあの子を偲(しの)ぶよすがに見ようと思うのに、印南都麻、あの印南都麻は、白波が高すぎて、それとはっきり見ることができないのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)印南都麻:加古川河口の三角州か。船は畿内を出て播磨に入った。「都麻」に「妻」を懸けている。(伊藤脚注)
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この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その623)」で紹介している。なお三五九四から三六〇一歌についてもここで紹介している。
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「印南都麻」という地名は、山部赤人の九四二歌にもみられる。
「・・・淡路の野島も過ぎ 印南都麻 唐荷の島の 島の際ゆ・・・」
この九四二(長歌)・反歌三首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その687)」で紹介している。
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■瀬戸内市邑久町尻海 道の駅一本松展望園万葉歌碑:三五九八歌■
●歌をみていこう。
◆奴波多麻能 欲波安氣奴良 多麻能宇良尓 安佐里須流多豆 奈伎和多流奈里
(作者未詳 巻十五 三五九八)
≪書き下し≫ぬばたまの夜(よ)は明けぬらし玉(たま)の浦にあさりする鶴(たづ)鳴き渡るなり
(訳)ぬばたまの夜は今ようやく明けていくらしい。玉の浦で餌(えさ)をあさる鶴が鳴きながら飛んで行く。(同上)
(注)玉の浦:岡山県玉島あたりか。(伊藤脚注)
(注)あさり【漁り】名詞 ※「す」が付いて他動詞(サ行変格活用)になる:①えさを探すこと。②魚介や海藻をとること。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
三五九八歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その799)」で紹介している。
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三五九八歌の歌碑は、倉敷市玉島 玉島公民館にもある。
■笠岡市神島 天神社万葉歌碑:三五九九■
●歌をみていこう。
◆月余美能 比可里乎伎欲美 神嶋乃 伊素末乃宇良由 船出須和礼波
(作者未詳 巻十五 三五九九)
≪書き下し≫月読(つくよみ)の光を清み神島(かみしま)の礒(いそ)みの浦ゆ船出(ふなで)す我(わ)れは
(訳)お月さまの光が清らかなので、それを頼りに、神島の岩の多い入江から船出をするのだ、われらは。(同上)
(注)つくよみ【月夜見・月読み】名詞:月。「つきよみ」とも。(学研)
(注)神島:備後(きびのみちのしり)広島県東部 ※巻十三 三三三九歌の題詞に「備後の国の神島の浜にして」とある。
三五九九歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その803)」で紹介している。
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「神島」については、三三三九歌では、「備後國の神島の浜」とあるので今の福山市神島町で間違いはないと思われるが、三五九九歌の「神島」については、「備後の神島(福山市神島)」と「備中の神島(笠岡市神島)」説がある。備中神島と備後神島は距離にして約14kmの隔たりである。ここでは両説があるという紹介にとどめます。
■和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園(5)万葉歌碑(プレート):三九〇〇歌■
●歌をみていこう。
◆波奈礼蘇尓 多弖流牟漏能木 宇多我多毛 比左之伎時乎 須疑尓家流香母
(遣新羅使人等 巻十五 三六〇〇)
≪書き下し≫離(はな)れ礒(そ)に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも
(訳)離れ島の磯に立っているむろの木、あの木はきっと、途方もなく長い年月を、あの姿のままで過ごしてきたものなのだ。(同上)
(注)むろの木:鞆の浦(広島県福山市鞆町) ※太宰帥大伴旅人が大納言となって帰京する時(この時は妻を亡くした後である)に「鞆の浦を過ぐる日に作る歌三首」(四四六から四四八歌の「鞆の浦のむろの木」)を踏まえている。
(注)うたがたも 副詞:①きっと。必ず。真実に。②〔下に打消や反語表現を伴って〕決して。少しも。よもや。(学研) ここでは①
三六〇〇歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その701)」で紹介している。
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三五九四から三六〇一歌の歌群の左注は、「右八首乗船入海路上作歌」<右の八首は、船に乗りて海に入り、路の上(うへ)にして作る歌>とある。難波津から広島県鞆の浦までの航海上に詠った歌である。
三五九四から三六〇一歌の歌群の前に「発(た)つに臨む時に作る歌」三首があるので、こちらもみてみよう。
◆妹等安里之 時者安礼杼毛 和可礼弖波 許呂母弖佐牟伎 母能尓曽安里家流
(遣新羅使人等 巻十五 三五九四)
≪書き下し≫妹(いも)とありし時はあれども別れては衣手(ころもで)寒きものにぞありける
(訳)あの子と一緒にいた時は時で寒い時はあった、けれども、こうしてはるばる別れて来てみると、衣の袖口というものは何ともまあ肌寒いものであるなあ。
(注)ころもで【衣手】名詞:袖(そで)。(学研)
◆海原尓 宇伎祢世武夜者 於伎都風 伊多久奈布吉曽 妹毛安良奈久尓
(遣新羅使人等 巻十五 三五九二)
≪書き下し≫海原(うなはら)に浮寝(うきぬ)せむ夜(よ)は沖つ風いたくな吹きそ妹もあらなくに
(訳)海原で浮寝をしなければならないような夜、そんな夜には、沖の風よ、ひどくは吹かないでおくれ。いとしいあの子も傍らにいないのだから。(同上)
(注)うきね【浮き寝】名詞:①水鳥が水上に浮いたまま寝ること。②(水上にとめた)船で寝ること。③流す涙に浮くほどの悲しみをいだいて寝ること。また、落ち着かず不安な思いで寝ること。④(夫婦でない男女の)一時的な共寝。転じて、仮の男女関係。(学研)ここでは②の意
◆大伴能 美津尓布奈能里 許藝出而者 伊都礼乃思麻尓 伊保里世武和礼
(遣新羅使人等 巻十五 三五九三)
≪書き下し≫大伴(おほとも)の御津(みつ)に船乗(ふなの)り漕ぎ出(で)てはいづれの島に廬(いほ)りせむ我(わ)れ
(訳)大伴の御津で船に乗りこんで漕ぎだしてしまったそのには、どこのどんな島で、仮の宿りをすることになるのであろうか、われらは。(同上)
(注)みつ【御津・三津】: 難波(大阪)の港津。難波の御津、墨江(住吉)の三津、大伴の御津などとも呼ばれた。官船の出入を尊んでいう。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注)いほりす【庵す】[動サ変]:「いお(庵)る」に同じ。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注の注)いほる【庵る・廬る】自動詞:仮小屋を造って宿る。(学研)
左注は、「右三首臨發之時作歌」<右の三首は、発(た)つに臨む時に作る歌>である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」