万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その321)―東近江市糠塚町 万葉の森船岡山(62)―万葉集 巻二 九〇

●歌は、「君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」である。

 

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万葉の森船岡山万葉歌碑(62)(軽太郎女)

●歌碑は、東近江市糠塚町 万葉の森船岡山(62)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待  此云山多豆者是今造木者也

                 (軽太郎女 巻二 九〇)

 

≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ  ここに山たづといふは、今の造木をいふ

 

(訳)あの方のお出ましは随分日数が経ったのにまだお帰りにならない。にわとこの神迎えではないが、お迎えに行こう。このままお待ちするにはとても堪えられない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)やまたづの【山たづの】分類枕詞:「やまたづ」は、にわとこの古名。にわとこの枝や葉が向き合っているところから「むかふ」にかかる。(weblio辞書 Wiktionary(日本語版 日本語カテゴリ)

 ※万葉集には、「やまたづ」を詠んだ歌は二首が収録されているが、いずれも「やまたづの迎え」という使われ方になっている。「やまたづ」が、「迎え」の枕詞になっているからである。

(注)みやつこぎ【造木】:① ニワトコの古名。 〔和名抄〕② タマツバキの古名。 〔本草和名〕(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

 

 

 この歌の題詞は、「古事記曰 軽太子姧軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王不堪戀慕而追徃時歌曰」<古事記に曰はく 軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女(かるのおほいらつめ)に奸(たは)く。この故(ゆゑ)にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほのおほきみ)、恋慕(その)ひ堪(あ)へずして追ひ徃(ゆ)く時に、歌ひて曰はく>とある。

(注)巻二の冒頭歌八五から八八歌の連作の四首の校異として古事記を引用したもの。

 

左注は、次のとおりである。

右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じくあらず。歌の主(ぬし)もまた異(こと)なり。よりて日本紀(にほんぎ)に検(ただ)すに、日はく、「難波の高津の宮に天の下知らしめす大鷦鷯天皇(おほさぎきのすめらみこと)の二十二年の春の正月に、天皇、皇后(おほきさき)に語りて、八田皇女(やたのひめみこ)を納(めしい)れて妃(きさき)とせむとしたまふ。時に、皇后聴(うけゆる)さず。ここに天皇歌(みうた)よみして皇后に乞ひたまふ云々(しかしか)。三十年の秋の九月乙卯(きのとう)の朔(つきたち)の乙丑(きのとうし)に、皇后紀伊の国(きのくに)に遊行(いでま)して熊野(くまの)の岬(みさき)に到りてその処の御綱葉(みつなかしは)を取りて還(まゐかえ)る。ここに天皇、皇后の在(いま)さぬを伺(うかか)ひて、八田皇女(やたのひめみこ)を娶(め)して宮(おほみや)の中に納(めしい)れたまふ。時に、皇后難波(まには)の済(わたり)に到りて、天皇の八田皇女を合(め)しつと聞きて大きに恨みたまふ云々」といふ。また曰はく、「遠つ飛鳥(あすか)の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)の二十三年の春の三月甲午(きのえうま)の朔(つきたち)の庚子(かのえね)に、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子となす。容姿(かたち)佳麗(きらきら)しく見る者(ひと)おのづからに感(め)づ。同母妹(いろも)軽太娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)もまた艶妙(かほよ)し云々。つひに竊(ひそ)かに通(あ)ふ。すなはち悒懐(いきどほり)少(すこ)しく息(や)む。二十四年の夏の六月に、御羮(みあつものの)の汁凝(こ)りて氷(ひ)となる。天皇異(あや)しびてその所由(よし)を卜(うら)へしめたまふ。卜者(うらへ)の曰(まを)さく、『内の乱(みだれ)有り。けだしくは親々相姧(はらからどちたは)けたるか云々』とまをす。よりて、太娘皇女を伊予に移す」といふ。今案(かむが)ふるに、二代二時にこの歌を見ず。

(注)八田皇女 :記・紀にみえる仁徳(にんとく)天皇の皇后。

応神天皇と宮主宅媛(みやぬしやかひめ)の皇女。「日本書紀」によれば,皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)の留守中に仁徳天皇の妃となる。磐之媛命死後の仁徳天皇38年皇后となった。矢田皇女ともかく。(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

仁徳天皇の異母妹。当時は、母の違う兄弟姉妹の結婚は認められていた。

(注)妃(きさき):天皇および皇族の配偶者。令制では,天皇の妃については2人で,皇后の次位にあって相当位は四品以上。皇族のなかから選ばれたが,臣下で妃になった者もいた。(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

(注)御綱葉(みつなかしは):ウコギ科の常緑小高木カクレミノの葉ともいうが、未詳。万葉集では「磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌」(1-85~90)の左注に「皇后、紀伊国に遊行(ゆ)きて、熊野の岬に至り、その処の御綱葉(みつながしは)を取りて還へる」とある。皇后磐姫が紀伊国の出かけたことは、記に「大后(おほきさき)、豊楽(とよのあかり)せむと為(し)て、御綱柏を採りに木国(きのくに)に幸出(いでま)しし間」とあり、紀に、この時期を「秋九月」としている。カシハは、「炊葉」の意であり、食物を盛ったり、覆ったりするのに用いたものであった。例えば、「皇祖の遠き御代御代はい敷折り酒飮むといふそこのほほがしは」(19-4205)のように、葉を折って酒器として用いたホホガシハ(もくれん科)のような例もある。当該のミツナガシハは、その採取の時期が秋であることや、皇后自らこれを採るために紀伊国まで出かけている樣子などを考えると、新嘗祭の神饌を盛る器として用いられるためのものであったと考えられよう。(國學院大學デジタル・ミュージアム 万葉神事語辞典)

(注)内の乱れ:同居血縁者の不倫。

(注)二代二時にこの歌を見ず:日本書記には、仁徳・允恭両朝のいずれにも八五・九〇のような歌は見当たらない、の意。八五の歌は、磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の歌で、「君が行き日(け)長くなりぬ山尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」である。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「國學院大學デジタル・ミュージアム 万葉神事語辞典」

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「weblio辞書 Wiktionary(日本語版 日本語カテゴリ)」