●歌は、「明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし」である。
●歌碑は、愛知県豊明市新栄町 大蔵池公園(10)にある。
●歌をみてみよう。
◆明日香河 黄葉流 葛木 山之木葉者 今之落疑
(作者未詳 巻十 二二一〇)
≪書き下し≫明日香川(あすかがは)黄葉(もみちば)流る葛城(かづらぎ)の山の木(こ)の葉は今し散るらし
(訳)明日香川にもみじが流れている。この分では、葛城(かつらぎ)の山の木の葉は、今頃しきりに散っていることであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)明日香川>飛鳥川(大阪府):太子町大字山田の神山付近を水源とし、ほぼ全域が国道166号(竹内街道)に沿って北西方向へ流れ、途中の羽曳野市飛鳥では集落の中を国道に張り付くように流れる。羽曳野市川向で石川に合流する。飛鳥川沿岸の地域は通称「河内飛鳥(近つ飛鳥)」とよばれる。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その455、456)」で紹介している。その455は、羽曳野市飛鳥 上ノ太子駅前の歌碑である。456は、大阪府南河内郡 太子町役場の歌碑である。
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「近つ飛鳥」については、大阪府立近つ飛鳥博物館HPに次のように記されている。
「『近つ飛鳥』という地名は、712年口述筆記された『古事記』に記載があります。履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を『近つ飛鳥』、遠い方を『遠つ飛鳥』と名付けたというものです。『近つ飛鳥』は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、『遠つ飛鳥』は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさします。この『近つ飛鳥』の地は、難波の津と大和飛鳥を結ぶ古代の官道-竹内街道の沿線にあたり、周辺には大陸系の遺物を出土する6世紀中葉以降の群集墳が広がっています。(後略)」
「竹内街道」については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その463)」で紹介している。
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「太子町」は、同町HPによると「昭和三十一年九月三十日に、当時の磯長村と山田村が合併し、聖徳太子にちなんで太子町と名付けられて、現在に至っています。」と書かれている。
聖徳太子は、日本書紀によると推古二十九年(621年)に亡くなったといわれている。太子のご廟は、太子町の叡福寺にある。
叡福寺に関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その461)」で紹介している。
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聖徳太子が生まれ育ったといわれる橘寺については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その142改)」で触れている。
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◆家有者 妹之手将纏 草枕 客尓臥有 此旅人 ▼怜
(聖徳太子 巻三 四一五)
▼は「『りっしんべん』に『可』」である。 「▼怜」で「あはれ」と読む。
≪書き下し≫家ならば妹(いも)が手まかむ草枕旅に臥(こ)やせるこの旅人(たびと)あはれ
(訳)家にいたなら、いとしい妻の腕(かいな)を枕にしているであろうに、草を枕に旅先で一人倒れ臥しておられるこの旅のお方は、ああいたわしい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その114改)で紹介している。
(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)
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飛鳥時代に、聖徳太子が斑鳩宮から三宅の原を経て、飛鳥の小墾田宮を往来したといわれている道が「太子道」と呼ばれている。途中の磯城郡三宅町伴堂のポケットパークにある歌碑を、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その432)で紹介している。
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新古今集の巻5、秋歌下に、題しらず柿本人麿として「あすか川 もみじ葉ながる 葛城の 山の秋風 吹きぞしぬらし」が掲載されている。
この歌の元歌が、歌碑の二二一〇歌であるという。
新古今集の歌碑は、羽曳野市駒ヶ谷 飛鳥川にかかる月読橋上流50mのところに建てられている。
この歌碑は、なんと文化2年(1805年)歳次乙丑夏五月に建てられたという。
歌ならびに歌碑については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その番外編)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」
★「大阪府立近つ飛鳥博物館HP」
★「太子町HP」
★「竹内街道・横大路(大道)HP」
★「三宅町HP」