万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1362)―福井県越前市 万葉の里味真野苑(4)―万葉集 巻八 一四六一

●歌は、「昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木の花君のみ見めや戯奴さへに見よ」である。

 

●歌碑(プレート)は、福井県越前市 万葉の里味真野苑(4)にある。

 

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福井県越前市 万葉の里味真野苑(4)万葉歌碑<プレート>(紀女郎)


●歌をみていこう。

 

◆晝者咲 夜者戀宿 合歡木花 君耳将見哉 和氣佐倍尓見代

      (紀女郎 巻八 一四六一)

 

≪書き下し≫昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ね)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ

 

(訳)昼間は花開き、夜は葉を閉じ人に焦がれてねむるという、ねむの花ですよ。そんな花を主人の私だけが見てよいものか。そなたもご覧。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)きみ【君・公】名詞:①天皇。帝(みかど)。②主君。主人。③お方。▽貴人を敬っていう語。④君。▽人名・官名などの下に付いて、「…の君」の形で、その人に敬意を表す。(学研) ここでは、②の意

(注)わけ【戯奴】代名詞:①私め。▽自称の人称代名詞。卑下の意を表す。②おまえ。▽対称の人称代名詞。目下の者にいう。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌を含め紀女郎の歌は万葉集には十二首が収録されている。十二首すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1114)」で紹介している。

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 十二首の中にある六四三から六四五歌の題詞は、「紀郎女怨恨歌三首 鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也」<紀郎女(きのいらつめ)が怨恨歌(えんこんか)三首 鹿人大夫が女(むすめ)、名を小鹿といふ。安貴王(あきのおほきみ)が妻なり>である。

安貴王が因幡の八上采女(やかみのうねめ)を娶(めと)り不敬の罪に問われた後、安貴王と離婚した時の歌と思われる。

 

この三首をみてみよう。

 

◆世間之 女尓思有者 吾渡 痛背乃河乎 渡金目八

      (紀女郎 巻四 六四三)

 

≪書き下し≫世の中の女(をみな)にしあらば我(わ)が渡る痛背(あなせ)の川を渡りかねめや

 

(訳)私がもし世の常の女であったなら、渡るにつけて「ああ、あなた」と私が胸を痛める痛背(あなせ)の川、この川を渡りかねてためらうなどということはけっしてありますまい。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)痛背(あなせ)の川:三輪山北麓の穴師川。「あな(感動詞)背」と嘆く意をこめる。(伊藤脚注)

(注)めや 分類連語:…だろうか、いや…ではない ⇒なりたち 推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)渡りかねめや:世の普通の女のような恋もできぬ嘆き。(伊藤脚注)

 

 

◆今者吾羽 和備曽四二結類 氣乃緒尓 念師君乎 縦左久思者

     (紀女郎 巻四 六四四)

 

≪書き下し≫今は我(わ)はわびぞしにける息(いき)の緒(を)に思ひし君をゆるさく思へば

 

(訳)今となっては私はもう心がうちひしがれるばかり。あれほど命の綱と思いつめて来たあなたなのに、引き留めることができなくなったことを思うと。(同上)

(注)わび【侘び】名詞:わびしく思うこと。気がめいること。気落ち。(学研)

(注)いきのを【息の緒】名詞:①命。②息。呼吸。 ⇒ 参考「を(緒)」は長く続くという意味。多くは「いきのをに」の形で用いられ、「命がけで」「命の綱として」と訳される。

学研)

(注)ゆるす【緩す・許す・赦す】他動詞:①ゆるめる。ゆるくする。ゆるやかにする。②解放する。自由にする。逃がす。③許す。承諾する。承認する。④認める。評価する。▽才能や技量などについていう。(学研)ここでは②の意

 

 

◆白細乃 袖可別 日乎近見 心尓咽飯 哭耳四所泣

     (紀女郎 巻四 六四五)

 

≪書き下し≫白栲(しろたへ)の袖別(わか)るべき日を近み心にむせひ音(ね)のみし泣かゆ

                 

(訳)交わし合った袖(そで)を引き離して別れなければならない日が近づいたので、悲しみがこみ上げ、ただもう泣けてくるばかりです。(同上)

(注)白栲の袖別るべき日:交わし合った袖を引き離して別れなければならぬ日。(伊藤脚注)

 

 離婚の原因ともなった安貴王の歌も収録されているのでこちらもみてみよう。

 

題詞は、「安貴王歌一首 幷短歌」<安貴王(あきのおほきみ)が歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

 

◆遠嬬 此間不在者 玉桙之 道乎多遠見 思空 安莫國 嘆虚 不安物乎 水空徃 雲尓毛欲成 高飛 鳥尓毛欲成 明日去而 於妹言問 為吾 妹毛事無 為妹 吾毛事無久 今裳見如 副而毛欲得

     (安貴王 巻四 五三四)

 

≪書き下し≫遠妻(とほづま)の ここにしあらねば 玉桙(たまほこ)の 道をた遠(どほ)み 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 苦しきものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日(あす)行きて 妹(いも)に言(こと)どひ 我(あ)がために 妹も事なく 妹がため 我(あ)れも事なく 今も見るごと たぐひてもがも

 

(訳)遠くにいる妻がこの地にはいないので、といって妻のいる所へは道のりが遠いので、逢(あ)う手だてもないまま、妻を思ってとても平静ではいられないし、嘆きに胸を苦しめるばかりでどうにもできない。ああ、大空を流れて行く雲にでもなりたい、空高く飛ぶ鳥にでもなりたい。明日にでも行き着いてあの子と語り合い、私のためにあの子もとがめられることなく、あの子のために私もとがめられることなく、今も面影に見えるようにぴったり寄り添っていたいものだ。(同上)

(注)とほづま【遠妻】:遠く離れている妻。会うことのまれな妻。また七夕の織女星。(weblio

辞書 デジタル大辞泉

(注)そら【空】名詞:①大空。空。天空。②空模様。天気。③途上。方向。場所。④気持ち。心地。▽多く打消の語を伴い、不安・空虚な心の状態を表す。 ⇒参考 地上の広々とした空間を表すのが原義。(学研)ここでは④の意

(注)ことどひ【言問ひ】名詞:言葉を言い交わすこと。語り合うこと(学研)

(注)ことなし【事無し】形容詞:①平穏無事である。何事もない。②心配なことがない。③取り立ててすることがない。たいした用事もない。④たやすい。容易だ。⑤非難すべき点がない。欠点がない。(学研)ここでは①の意

 短歌もみてみよう。

 

◆敷細乃 手枕不纒 間置而 年曽經来 不相念者

     (安貴王 巻四 五三五)

 

≪書き下し≫敷栲(しきたへ)の手枕(たまくら)まかず間(あひだ)置きて年ぞ経(へ)にける逢はなく思へば

 

(訳)あの子の手を枕にして寝ることのないままに長い時間が経って、とうとう年を越してしまったものだ。あの子に逢えないでいることを思うと・・・。(同上)

 

 左注は、「右安貴王娶因幡八上釆女 係念極甚愛情尤盛 於時勅断不敬之罪退却本郷焉 于是王意悼怛聊作此歌也」<右、安貴王、因幡(いなば)の八上釆女(やかみのうねめ)を娶(めと)る。 係念(けいねん)きはめて甚しく、愛情(あいじやう)もとも盛りなり。時に勅(みことのり)して、不敬の罪に断(さだ)め、本郷(もとつくに)に退却(しりぞ)く。ここに、王の意(こころ)悼(いた)び悲(かな)しびて、いささかにこの歌を作る>である。

(注)因幡八上釆女:因幡の国八上郡出身の采女。(伊藤脚注)

(注)係念:懸想すること。(伊藤脚注)

(注)もとも【尤も・最も】副詞:「もっとも」に同じ。(学研)

(注)不敬の罪に断め:二人の恋を不敬罪と断じ。采女天皇に所属する女性で、臣下との結婚は禁じられていた。(伊藤脚注)

 

 安貴王の因幡八上釆女に対する思いは相当のものである。紀女郎にとってはたまったもんではない。女郎の性格からすれば今日的な「怨恨」に近い思いを持っていたであろう。

 しかし六四五歌のように心を押し殺ししとやかに詠っているのは、読む人の心を引き付けるのである。

 

 なお、万葉集には「罪」という言葉が使われているのは三例しかないという。「万葉神事語事典」(國學院大學デジタルミュージアムHP)に次のように書かれている。

 「(前略)万葉集に罪は3例。丹波大女娘子の歌(4-712)に、愛するあなたに逢えないのは、大神神社の神人が大事に祀っている神木の杉に手を触れた『罪』だろうかとあり、ここでは罰(ばつ)の意で用いられている。また、山上憶良は沈痾自哀文のなかで、私のこの重病はいったいどんな『罪過』を犯した結果なのかと述べている。この罪の概念は仏教思想によるものであり、因果応報の思想と結びついて、苦の報いを招く、非難されるべき行為の意である。一方、律として定められていた犯罪の種類とその刑罰があり、重罪としての八虐(謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義)が定められていた。万葉集には、安貴王の歌一首(4-534)と反歌(4-535)の左注に、安貴王が因幡の八上采女を娶ったことが『不敬之罪』にあたり、本郷に帰されたとある。)

 

 丹波大女娘子の歌(巻四 七一二)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その950)」で紹介している。

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 山上憶良の「沈痾自哀文」の第1段に「・・・ああ媿(はづか)しきかも、我(わ)れ何の罪を犯(をか)せばかこの重き疾(やまひ)に遭(あ)へる。<いまだ、過去に造れる罪か、もしは現前に犯せる過なるかを知らず、罪過を犯すことなくは、何ぞこの病を獲むといふ>・・・」とある。

(訳)「・・・私はどんな罪過を犯した報いでこんな重い病に襲われることになったのか<過去に造った罪なのか、今現に犯している過ちなのかはわからないが、罪過を犯すことがなかったら、どうしてこんな病にとりつかれようか、という意味である>。・・・」(同上)

 

 万葉集に、安貴王と紀女郎の歌にある今日的週刊誌ネタのような側面もあるのには驚かされる。万葉集の多様的な奥深さが感じられるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉神事語事典」 (國學院大學デジタルミュージアムHP)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉