●歌は、「いにしへにありけむ人もわが如か三輪の桧原にかざし折りけむ(柿本人麻歌集 7-1118)」である。
【山の辺の道】
「(柿本人麻呂歌集 巻七‐一一一八)(歌は省略) 三輪山の北西麓の細道をのぼりくだりして玄寶庵をすぎ、山麓の小丘をひとつ越えれば檜原社の址に出る。・・・檜原に越えるこの小丘のあたりから、巻向川をはさんで車谷方面にかけては、おそらく美しい檜原の林相が見られたものであろう。この歌の作歌の事情ははっきりしないが、三輪の檜原の檜を手折って山かずらとして頭にかざすのも、三輪の神への信仰を背景にしたものであろう。檜葉をかざす作者(おそらくは人麻呂)の眼にも三山のどれかが映っていただろうし、悠久な時の流れがふっと作者の脳裡をかすめた瞬間の感動が、自分と同じしぐさをしたであろういにしえ人への回想となったものと思われる。」(「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリー)
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(注)玄寶庵:石畳の道と白塀が印象的な玄賓庵は、山の辺の道沿いにあります。平安時代の高僧・玄賓僧都(げんぴんそうず)が修業した場所といわれ元々、三輪山の檜原谷にあり、明治初年の廃仏毀釈で現在の地に遷されたといいます。 玄賓は河内の弓削氏の出身で、桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌って三輪山の麓で、俗世間を逃れて静かに暮らしました。世の交わりを断ったのは、一族から弓削道鏡のごとき暴悪なものが出たことを恥じ、修業に専念したという上田秋成の説もあります。今は真言宗の寺院として、静かに山の辺の道を行き来するハイカーを見守っています。(桜井市観光協会HP)
「玄寶庵」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その74改)」で紹介している。
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一一一八歌をみてみよう。
■巻七 一一一八歌■
◆古尓 有險人母 如吾等架 弥和乃檜原尓 挿頭折兼
(柿本人麻呂歌集 巻七 一一一八)
≪書き下し≫いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の檜原にかざし折けむ
(訳)遠く過ぎ去った時代にここを訪れた人も、われわれのように、三輪の檜原(ひはら)で檜の枝葉を手折って挿頭(かざし)にさしたことであろうか。(伊藤 博著「萬葉集 二」角川ソフィア文庫より)
(注)かざし折けむ:生命力を身につけるため、檜の枝を髪にさしたであろうか。(伊藤脚注)
(注の注)かざし【挿頭】名詞:花やその枝、のちには造花を、頭髪や冠などに挿すこと。また、その挿したもの。髪飾り。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
古代の人は、成長する植物に威大な生命力を感じ、呪力がこもっていると信じていた。祭りなどに参加する人たちは、精進潔斎し、種々の植物の挿頭(黄葉・梅・萩・あざさ・桜・柳・藤など)、蘰(菖蒲草・青柳・桜・稲穂・橘など)をつけて参加した。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その63改)」で紹介している。
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なお檜原神社については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その73改)」で紹介している。
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「桜井市 記・紀 万葉歌碑(第六版)」 (一社 桜井市観光協会)の巻七‐一一一八(万葉歌碑番号九)には、次のような内容が記されている。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「桜井市 記・紀 万葉歌碑(第六版)」 (一社 桜井市観光協会)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」