万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2649)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―

●歌は、「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(持統天皇 1-28)」である。

 

【春過ぎて】

 「持統天皇(巻一‐二八)(歌は省略)・・・天武・持統、飛鳥に二二年、藤原京にいたって、律令国家としての歩みはいよいよみのり、持統の二年半をへて、文武の五年目(七〇一)には大宝律令の実施をみた。天皇の権威はいやが上にもあがり、未曽有の安定期をむかえて、持統のごとき、吉野に三十数回、紀伊・伊勢・三河への旅をも楽しまれる。万葉の貴族和歌も、人麻呂らの雄渾なしらべを得て、最盛期をむかえる。・・・この歌が藤原遷都の前か後か説があるが、こころみに、東南高殿の村のうしろに強い日射しをうけて緑あざやかに横たわる香具山を望む時、二句で切り、四句で切り、どっしりと地名をすえて、白妙の衣にこまやかな季節の推移をうったえる女帝らしい、しかも悠揚せまらないひびきには、こうした時代気運と景観とが、ぴったりとうらづけられていることを、思わないではいられないだろう。」(「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)

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 二八歌をみてみよう。

■巻一 二八歌■

標題は、「藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇 元年丁亥十一年譲位軽太子 尊号曰太上天皇」<藤原(ふぢはら)の宮(みや)に天の下知らしめす天皇の代 高天原廣野姫天皇 (たかまのはらひろのひめのすめらみこと)、元年丁亥(ひのとゐ)の十一年に位(みくらゐ)を軽太子 (かるのひつぎのみこ)に譲りたまふ。尊号を太上天皇(おほきすめらみこと)といふ>である。

(注)藤原の宮:持統・文武両天皇の皇居。香具山の西方、橿原市高殿町付近。(伊藤脚注)

(注)高天原廣野姫天皇:四一代持統天皇。(伊藤脚注)

(注)軽太子:四二代文武天皇草壁皇子の子。天武・持統両帝の孫。(伊藤脚注)

(注)だいじゃうてんわう【太上天皇】名詞:譲位後の天皇の尊敬語。持統天皇が孫の文武(もんむ)天皇に譲位して、太上天皇と称したのに始まる。太上皇(だいじようこう)。上皇。「だじゃうてんわう」「おほきすめらみこと」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

題詞は、「天皇御製歌」<天皇の御製歌>である。

 

◆春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

    (持統天皇 巻一 二八)

 

≪書き下し≫春過ぎて夏来(きた)るらし白栲(しろたへ)の衣干したり天の香具山

 

(訳)今や、春が過ぎて夏がやってきたらしい。あの香具山にまっ白い衣が干してあるのを見ると。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 (注)しろたへ【白栲・白妙】名詞:①こうぞ類の樹皮からとった繊維(=栲)で織った、白い布。また、それで作った衣服。②白いこと。白い色。(学研)ここでは①の意

(注)衣干したり:白い布を斎衣と見たものか。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その117改)」で、持統天皇歌六首とともに紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

奈良県橿原市醍醐町 醍醐池東畔万葉歌碑(持統天皇 1-28) 20199622撮影

 

 

 

藤原京跡での発掘調査風景 20190622撮影



 

 

 

 

藤原京については、橿原市HP「天武・持統の都づくり」に次のように詳しく書かれているので引用させていただきます。

藤原京天武天皇(てんむてんのう)が都の造営を始め、その妻の持統天皇(じとうてんのう)が完成させた都でした。

天武天皇は壬申(じんしん)の乱の後、新しい国づくりを進めるためには新しい都が必要だと考えたのです。『日本書紀』によると、西暦676年(天武5)には既に藤原京造営に着手したことをうかがわせる記事があります。その後、西暦684年(天武13)には、『宮室之地(みやどころ)』が決定しています。しかし、藤原京の造営は、西暦686年(朱鳥元)に天武天皇崩御(ほうぎょ)したことで一時中断されます。天武天皇の遺志(いし)を継いだ妻の持統天皇(じとうてんのう)は西暦690年(持統4)に藤原京の造営を再開し、ついに西暦694年(持統8)年、藤原京へ遷都(せんと)を果たすのです。

発掘調査でも、天武天皇が早くから藤原京造営を行っていた証拠が見つかっています。それが先行条坊(せんこうじょうぼう)と呼ばれる道路です。例えば、本薬師寺(もとやくしじ)の下層では、本薬師寺の造営(西暦680年発願)の際に先行条坊が埋められたことが分かっています。また、藤原宮の下層でも同様な先行条坊が見つかっています。この先行条坊は宮の建設の際に掘られた運河よりも古く、宮が完成する前には埋められていることが明らかとなっていて、その時代もまた天武天皇の時代と考えられているのです。

また、都づくりは、道路整備、排水路網(はいすいろもう)の整備、土地の造成、資材の調達など全てがこれまでにない大規模なものだったのですが、工事では、古墳を削ったりして平坦な土地を造成することも必要でした。そのため、新しい都づくりでは、掘り起こした遺骸(いがい)の再葬(さいそう)も行われていました。」

 

 万葉集からは離れるが、「先行条坊」が気になったので、検索してみた。

奈良文化財研究所HPの「なぶんけんブログ」に「藤原宮内先行条坊の謎」と書かれているのを見つけたのでこれも転用させていただきます。

 

 「ふしぎなことに、藤原宮の下層では藤原京に敷設されたものと同じ規格の条坊道路が通されています。藤原宮に先行する条坊という意味で『(宮内)先行条坊』とよんでいます。

分かりやすい例で見てみましょう。藤原宮大極殿です。下の写真は、大極殿の北側でおこなった発掘調査の様子で、大極殿址を北から撮影したものです。中央に大きな南北道路が通っています。これは藤原京朱雀大路にそのままつながる道路なのですが、大極殿の基壇の下に消えていくのが分かります。つまり、藤原京条坊は藤原宮部分を含めて一体的に施行され、藤原宮部分では造営にあたって埋めたてられたと考えられます。

 先行条坊は現在、藤原宮下層のいたるところで検出されています。今年おこなった調査でも、やはり想定位置に先行条坊がとおっていたことを確認しています。先行条坊は、藤原宮下層全域に敷設されていたとみてよいのでしょう。なお、先行条坊はいまのところ藤原宮にだけ認められ、平城宮など他の宮殿では確認されていません。

 では、なぜ藤原宮造営予定地には条坊が施工されているのでしょうか?この問いに対して、藤原宮の位置が、条坊敷設当初には厳密に決まっていなかったためとする意見があります(これを宮地未定説と呼びたいとおもいます)。先行条坊が宮外の藤原京条坊とおなじ規格で作られていることに加え、藤原宮の下層でも建物や塀が建てられ、宮外と同じように坪内が利用されていた時期があるため、当初はその場所が藤原宮になることが決定していなかったと考えるのです。『日本書紀』には、条坊施工がある程度すすんだ天武13年(684)3月に、天皇が『宮室の地を定』めたという記事があるのですが、これも宮地未定説では無理なく理解できます。

 これに対し、藤原宮は先行条坊を基準に設計されているのであり、先行条坊は宮・京を設計するための測量成果を土地に記すという意味もあるのだから、宮建設予定地にも条坊施工がなされていることは不自然ではないという意見があります(測量基準説と呼んでおきます)。新しい京の造営という壮大な国家的計画が、宮地も未定のまま進められたというのはあまりに不自然だというのです。根拠があるわけではないとはいえ、確かにこれは宮地未定説には不利な印象があります。

 しかし、先行条坊を厳密に利用しているといえるのは先行朱雀大路計画線(道路中心線)およびこれと先行四条大路計画線との交点だけですので、測量基準説では宮内にくまなく条坊側溝を掘削した理由をうまく説明できないようです。また、藤原宮造営時には、すでに先行条坊の側溝は埋め立てられていますし、埋め立てから藤原宮建物の建設開始までには数年の時間があくことも、測量基準説には不都合な事実に思えます。

 藤原宮・京の造営とは、中国式都城の実現に取り組んだ我が国最初の試みであり、試行錯誤の産物であることを考えれば、先行条坊が存在する理由はおのずと明らかと思われますが、みなさんはどう考えますか?」

 

奈良文化財研究所HPの「なぶんけんブログ」に「藤原宮内先行条坊の謎」より引用させていただきました。



 

 

 万葉集の歌の理解の為に、その歴史の中に、さらに歌が生れた時代や風土に身を置くことが求められている。

 歌碑を求めて旅に出るが、歌碑そのものが目的となって、その地理的アプローチに関心がいってしまっている。後日、歌碑にまつわる事項を例えば、写真等で補足するにしても、ポイントを押さえていないことをいやと思い知らされる。事前の準備不足が明らかで、もっと深く幅広く行うべきと痛感させられる。

 万葉集に一歩近づいたと思っているが、その実、その甘さを万葉集に突き付けられているのである。

 まだまだ数多くの訪れたことにない歌碑がある。どうしてもそちらの方に目が行ってしまうが、年齢的なことなども考えてみると、近場でもいい、今までに訪れた歌碑を、もう一度十二分な事前準備を重ねてアプローチしてみるのもありかなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「天武・持統の都づくり」 (橿原市HP)

★「なぶんけんブログ」 (奈良文化財研究所HP)