万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2752)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―

●歌は、「春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣船の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江の浦の島子の 鰹釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海境を 過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の女に たまさかに い漕ぎ向ひ 相とぶらひ 言成りしかば かき結び 常世に至り 海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり ふたり入り居て 老もせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間の 愚か人の 我妹子に 告りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告らひ 明日のごと 我れは来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この櫛笥開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あらしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年の間に 垣もなく 家失せめやと この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り 臥いまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若ありし 肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける 水江の 浦の島子が 家ところ見ゆ(高橋虫麻呂歌集 9-1740)」である。

万葉の旅(中)改訂新版 近畿・東海・東国 (平凡社ライブラリー) [ 犬養孝 ]

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【浦島伝説地】

 「“時は春、所は住吉(すみのえ)の海岸、釣舟のゆれているのを見ているうちにむかしの事が思われてくる”と、現実から“夢”の世界への序曲をのべて、さて、“水江(みずのえ)の浦島さんは釣れるままに海上をゆくうち偶然に海の神女にあってともに手に手をとりあって、不老不死の海神の御殿にいった”ことを第一段とし、ついでしばらくの帰郷を訴える浦島の問と、“それならこの櫛笥(くしげ)を決してひらいてはいけない”という堅い約束の神女の答えで第二段とし、さて帰郷した浦島が家郷のあまりの変化に、もしやとタブーを破った瞬間の狂乱を急迫した調子で描いた破局の第三段となり、“とうとう死んでしまったというその浦島さんの家のあったところが、ほらあそこに見える”と、ふたたび夢から現実にうかびあがったところで終曲とする。まさに第三期の作歌虫麻呂が空想力を駆使して写実のうでで劇的構築をこころみた浪漫美の世界である。いわゆる浦島伝説を素材として、“夢”と耽美の世界へのあこがれを見せた虫麻呂の創作である。・・・その伝承地にはいろいろ説があるが、天の橋立の北方、奥丹後半島の北東部の海岸に与謝(よさ)郡伊根(いね)町本庄(ほんじょう)浜があってそこと伝え、・・・一方、半島の西北部の<現京丹後市網野(あみの)町>の北の浜を水之江(みずのえ)と称し・・・浦島伝説地はここだと称している。・・・この歌の『住吉(すみのえ)』を摂津の住吉と見る説がある。大阪の住吉に浦島伝説があったという記録はないが、住吉にもあり得る話である。しかし、作者は『書紀』も風土記も読んでいたはずだから記録のある丹後の地を考えるのが自然ではなかろうか。・・・すくなくも丹後の伝承を頭にいれていて作者の世界を展開してみせたものであろう。」(「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)

 巻九 一七四〇歌をみていこう。

■■巻九 一七四〇・一七四一歌■■

題詞は、「詠水江浦嶋子一首 幷短歌」<水江みづのえ)の浦(うら)の島子(しまこ)を詠む一首 幷(あは)せて短歌>である。

(注)水江の浦の島子:摂津(大阪)の住吉の人か。(伊藤脚注)

 

■巻九 一七四〇歌■

◆春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得乎良布見者 古之 事曽所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝趍 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不為 死不為而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人乃 吾妹兒尓 告而語久 須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者来南登 言家礼婆 妹之答久 常世邊 復變来而 如今 将相跡奈良婆 此篋 開勿勤常 曽己良久尓 堅目師事乎 墨吉尓 還来而 家見跡 宅毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久 従家出而 三歳之間尓 垣毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯 如本 家者将有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 ▼袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴 由奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見

  ▼は「口偏にリ」=「叫(さけ)ぶ」

       (高橋虫麻呂 巻九 一七四〇)

 

≪書き下し≫春の日の 霞(かす)める時に 住吉(すみのへ)の 岸に出で居(い)て 釣船‘つりぶね)の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江(みづのへ)の 浦(うら)の島子(しまこ)の 鰹(かつを)釣り 鯛(たひ)釣りほこり 七日(なぬか)まで 家にも来(こ)ずて 海境(うなさか)を 過ぎて漕(こ)ぎ行くに 海神(わたつみ)の 神の女(をとめ)に たまさかに い漕ぎ向(むか)ひ 相(あひ)とぶらひ 言(こと)成りしかば かき結び 常世(とこよ)に至り 海神の 神(かみ)の宮(みや)の 内のへの 妙(たへ)なる殿(との)に たづさはり ふたり入り居(ゐ)て 老(おひ)もせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間(よのなか)の 愚(おろ)か人ひと)の 我妹子(わぎもこ)に 告(の)りて語らく しましくは 家に帰りて 父母(ちちはは)に 事も告(の)らひ 明日(あす)のごと 我(わ)れは来(き)なむと 言ひければ 妹(いも)が言へらく 常世辺(とこよへ)に また帰り来て 今のごと 逢(あ)はむとならば この櫛笥(くしげ) 開くなゆめと そこらくに 堅(かた)めし言(こと)を 住吉(すみのへ)に 帰り来(きた)りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あらしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年(みとせ)の間(あひだ)に 垣もなく 家失(う)せめやと この箱を 開(ひら)きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉(たま)櫛笥(くしげ) 少(すこ)し開くに 白雲(しらくも)の 箱より出(い)でて 常世辺(とこよへ)に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り 臥(こ)いまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失(けう)せぬ 若ありし 肌(はだ)も皺(しわ)みぬ 黒くありし 髪(かみ)も白(しら)けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後(のち)つひに 命(いのち)死にける 水江(みづのへ)の 浦(うら)の島子(しまこ)が 家ところ見ゆ

 

(訳)春の日の霞んでいる時などに、住吉の崖(がけ)に佇(たたず)んで沖行く釣り舟が波に揺れているさまを見ていると、過ぎ去った遠い世の事どもがひとしお偲(しの)ばれるのであります。あの水江の浦の島子が、鰹を釣り鯛を釣って夢中になり、七日経っても家にも帰らず、はるか彼方(かなた)わたつみの国との境までも越えて漕いで行って、わたつみの神のお姫様にひっこり行き逢い、言葉を掛け合っい話がきまったので、行末を契って常世の国に至り着き、わたつみの宮殿の奥の奥にある神々しい御殿に、手を取り合って二人きりで入ったまま、年取ることも死ぬこともなくいついつまでも生きていられたというのに、この世の愚か人島子がいとしい人にうち明けたのであった。「ほんのしばらく家に帰って父さんや母さんに事情を話し、明日にでも私は帰って来たい」と。こううち明けると、いとしい人が言うには、「ここ常世の国にまた帰って来て、今のように過ごそうと思うのでしたら、この櫛笥、これを開けないで下さい。けっして」と。ああ、そんなにも堅く堅く約束したことであったのに、島子は住吉に帰って来て、家を探しても家も見つからず、里を探しても里も見当たらないので、これはおかしい、変だと思い、そこで思案を重ねたあげく、「家を出てからたった三年の間に、垣根ばかりか家までもが消え失せるなんていうことがあるものか」と、「この箱を開けて見たならば、きっと元どおりの家が現われるにちがいない」と。そこで櫛笥をおそるおそる開けたとたんに、白い雲が箱からむくむくと立ち昇って常世の国の方へたなびいて行ったので、飛び上がりわめき散らして袖を振り、ころげ廻(まわ)って地団駄を踏み続けてうちに、にわかに気を失ってしまった。若々しかった肌も皺だらけになってしまった。黒かった髪もまっ白になってしまった。そしてそのあとは息も絶え絶えとなり、あげくの果てには死んでしまったという、その水江の浦の島子の家のあった跡がここに見えるのであります。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)とをらふ【撓らふ】自動詞:揺れ動く。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ほこる【誇る】自動詞:得意げにする。自慢する。(学研)

(注)七日まで:日数の多いことをいう。(伊藤脚注)

(注)うなさか【海境・海界】名詞:海上遠くにあるとされる海神の国と地上の人の国との境界。海の果て。(学研)

(注)わたつみ【海神】名詞:①海の神。②海。海原。 ⇒参考:「海(わた)つ霊(み)」の意。「つ」は「の」の意の上代の格助詞。後に「わだつみ」とも。(学研)

(注)たまさかなり【偶なり】形容動詞:①偶然だ。たまたまだ。②まれだ。ときたまだ。③〔連用形を仮定条件を表す句の中に用いて〕万一。(学研)ここでは①の意

(注)とぶらふ【訪ふ】他動詞:①尋ねる。問う。②訪れる。訪ねる。訪問する。③慰問する。見舞う。④探し求める。⑤追善供養する。冥福(めいふく)を祈る。◇「弔ふ」とも書く。(学研)ここでは①の意

(注)いひなる【言ひ成る】:話のゆきがかりで言ってしまう。話のなりゆきで、そうなる。(学研)

(注)とこよ【常世】名詞:①永久不変。永遠。永久に変わらないこと。②「常世の国」の略。(学研)ここでは②の意→不老不死の国。ここは海神の国

(注)たづさはる【携はる】自動詞:①手を取り合う。②連れ立つ。③かかわり合う。関係する。(学研)ここでは①の意

(注)世間の愚か人の:俗世の。「常世」に対していう。以下二句、作者の批判。この姿勢が、反歌にはっきり現れて全体が結ばれる。(伊藤脚注)

(注の注)せけん【世間】名詞:①俗世。俗人。生き物の住むところ。◇仏教語。②世の中。この世。世の中の人々。③あたり一面。外界。④暮らし向き。財産。(学研)ここでは①の意。

(注)しましく【暫しく】副詞:少しの間。 ※上代語。(学研)

(注)明日のごと:明日にでも。(伊藤脚注)

(注)くしげ【櫛笥】名詞:櫛箱。櫛などの化粧用具や髪飾りなどを入れておく箱。(学研)

(注)そこらくに堅めし:そんなにも堅く約束したのに。(伊藤脚注)

(注の注)そこらくに 副詞:あれほど。十分に。たくさんに。しっかりと。(学研)

(注)白雲の:女の霊魂の化したもの。(伊藤脚注)

(注)立ち走り:以下「命死にける」まで、誓いを果たさなかったことの酬い。(伊藤脚注)

(注)こいまろぶ【臥い転ぶ】自動詞:ころげ回る。身もだえてころがる。(学研)

 

 

 

反歌もみてみよう。

■巻九 一七四一歌■

常世邊 可住物乎 劔刀 己之行柄 於曽也是君

        (高橋虫麻呂 巻九 一七四一)

 

≪書き下し≫常世辺(とこよへ)に住むべきものを剣大刀(つるぎたち)汝(な)が心からおそやこの君

 

(訳)常世の国にいついつまでも住める身の上であったのに、自分自身の浅はかさからそんなことになって、何とまあ愚か者であることか、この浦の島子の君は。(同上)

(注)剣大刀:「汝」の枕詞。剣大刀の「刃」(な)の意。「汝」は二人称に関する再帰代名詞。(伊藤脚注)

(注の注)つるぎたち【剣太刀】分類枕詞:①刀剣は身に帯びることから「身にそふ」にかかる。②刀剣の刃を古くは「な」といったことから「名」「汝(な)」にかかる。③刀剣は研ぐことから「とぐ」にかかる。(学研)

(注)おそや:何と愚かなことか。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1142)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 与謝郡伊根町本庄浜にそそぐ筒井川畔に「浦嶋神社」がある。同神社HPに「浦島太郎発祥の社」として、「当社は浦島太郎発祥の社で、浦嶋神社、または宇良神社ともいう。

我が国に伝存する最古の正史『日本書紀』には当地の浦嶋伝承が記され、その伝承は、今なおこの地に脈々と受け継がれている。」と書かれている。

 

「浦島神社」 同神社HPより引用させていただきました。

 

 

 

 

 一方の京丹後市網野町の「嶋児神社」をみてみよう。京丹後市観光公社HPに、「網野町には浦島子や乙姫を祀る神社が多数あり、浦島太郎に関する伝承が色濃く残されています。八丁浜の西端、浅茂川漁港に隣接する小さな丘に、浦島太郎(浦嶋子※)を祀る嶋児神社があります。このほかにも、浦島太郎が竜宮城から帰り着いたとされる万畳浜や乙姫を祀る福島神社があります。嶋児神社の左遠方に見える福島は、浦島太郎と乙姫がはじめて出会った場所といわれています。※「丹後国風土記」では水江浦嶋子と呼ばれています」と書かれている。

 

 

京丹後市観光公社HPより引用させていただきました。



 

 

 

網野町の「網野神社」については、京丹後市観光公社HPに「日子坐王(ひこいますのみこ)、住吉大神(すみよしおおかみ)、浦島伝説ゆかりの水江浦嶋子神(みずのえのうらしまこのかみ)の三柱の神さまを祀った神社。延喜式内社(えんぎしきないしゃ)であるので創立は10世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座されていたものを享徳(きょうとく)元年(1452)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。  現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正11年(1922)に建てられたものです。拝殿は入母屋造(いりもやづくり)の正面千鳥破風(しょうめんちどりはふ)と軒唐破風(のきからはふ)付きで、こちらも大正11年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和2年の丹後大震災の被災により、昭和4年(1929)に再建されました。本殿や拝殿など8棟の建築物が国の有形登録文化財に選定されています。(後略)」と書かれている。

 

 

京丹後市観光公社HPより引用させていただきました。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「浦島神社HP」

★「京丹後市観光公社HP」