●今日の歌碑は、奈良県生駒市北大和の四季の森公園にある。歌は拙稿ブログ(万葉歌碑を訪ねて―その82―)に紹介したのと同じである。歌碑のロケーションとしては、こちらの方が、歌碑後方にはるか生駒山を望む位置にあるだけに軍配が上がる。
●万葉歌碑を訪ねて―その84―
「君があたり 見つつも居らむ 生駒山雲なたなびき 雨は降るとも」
この歌碑は、生駒市北大和一丁目 四季の森公園にある。
ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて―その82―」と同じ歌である。
四季の森公園は、時々ぶらっと立ち寄ることがあったが、万葉歌碑があるとはこれまで気が付かなかった。歌碑の後方には、遠く生駒山が見え、ロケーションとしてはなかなかのものである。
◆君之當 見乍母将居 伊駒山 雲莫蒙 雨者雖零
(作者未詳 巻十二 三〇三二)
≪書き下し≫君があたり見つつも居(を)らむ生駒山雲なたなびき雨は降るとも
(訳)我が君の家のあたりを見やりながらお待ちしていよう。あの生駒山に、雲よ、たなびかないでおくれ。たとえ雨は降っても。(伊藤 博 著 「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)
昨日、生駒市役所の田邊福麻呂歌集の一〇四七歌(長歌)を紹介した。(ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて―その83―)」
これの題詞は、「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」とあるので、ここで、反歌二首を取り上げてみる。
◆立易 古京跡 成者 道之志婆草 長生尓異煎
(田邊福麻呂歌集 巻六 一〇四八)
≪書き下し≫たち変わり古き都となりぬれば道の芝草長く生(お)ひにけり
(訳)打って変わって、今や古びた都となってしまったので、道の雑草、ああこの草も、丈高く生い茂ってしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)
(注)たちかわる:移り変わる。
◆名付西 奈良乃京之 荒行者 出立毎尓 嘆思益
(田邊福麻呂歌集 巻六 一〇四九)
≪書き下し≫なつきにし奈良の都の荒れゆけば出(い)で立つごとに嘆きし増さる
(訳)すっかり馴染となった奈良の都が日ごとに荒れすさんでゆくので、外に出で立って見るたびに、嘆きはつのるばかりだ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)
(注)なつく【懐く】:慣れ親しむ。親しみ寄る。馴染む。なつく。
田邊福麻呂は宮廷歌人として、天平十二年から十七年までの間は都が奈良から久邇、紫香楽、難波と目まぐるしく往復した時期に、その都度新都賛美や荒都悲傷の歌を作っている。
柿本人麻呂、笠金村、山部赤人と流れて来た宮廷歌の伝統を背負ってるのである。
宮廷歌人の位は低くいわゆる下級官人である。中西 進氏は「万葉の心」(毎日新聞社)のなかで、田邊福麻呂は、「時の左大臣橘諸兄の使者として越中に家持を訪れているから、諸兄とも親しかったらしい。赤人は藤原不比等、虫麻呂は藤原宇合とそれぞれの関係があり、このありかたも、同じである。石上乙麻呂と金村もこれに準じている。天平のころ、和歌としうものは、どうやらこのように大官にしたがった下級官人の中に伝統が保たれていたらしい。」と書いておられる。
宮廷歌人を万葉集の時代区分に整理してみると、万葉集第二期の代表的な宮廷歌人は柿本人麻呂、第三期は、山部赤人、笠金村、高橋虫麻呂、そして第四期は田邊福麻呂となる。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)
★「奈良女子大万葉集データベース」
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
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