●歌は、「向つ峰の若桂の木下枝取り花待つい間に嘆きつるかも」である。
●歌をみていこう。
◆向岳之 若楓木 下枝取 花待伊間尓 嘆鶴鴨
(作者未詳 巻七 一三五九)
≪書き下し≫向(むか)つ峰(ね)の若桂(わかかつら)の木下枝(しづえ)取り花待つい間(ま)に嘆きつるかも
(訳)向かいの高みの若桂の木、その下枝を払って花の咲くのを待っている間にも、待ち遠しさに思わず溜息(ためいき)が出てしまう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「寄木」<木に寄す>である。
この歌にある「楓」は、こんにちの楓(かえで)を指すものではない。楓(かえで)はヲカツラといい、桂はメカツラといって対になっている。いずれも良い香りがするカツラの木のことである。カツラは、落葉大高木で初夏に葉よりも早く紅色の花を咲かせる。
カツラの花期は4月。高木の割には小さな花なので注意しなければ気づかないのである。それだけに、カツラの下枝を取り払って、何とか世話をして、早く花が咲かないかと待ち望むわけである。
上二句「向つ峰の若桂木」は、男が恋する少女を喩えているのである。この歌はカツラの木の美しさを歌ったものではなく、この歌の題詞にあるように、「寄木」<木に寄す>、すなわち、カツラの木によせて恋心を述べた比喩の歌である。この歌も、巻七の部立「譬喩歌」の中の一首である。
花が咲くというのは、その少女が成人した女性になることをいう。だから、男の溜め息は、少女が成人するまで待ち遠しく、さらには、ほかの男のいろいろな妨害が入ることを恐れているのである。
美しい幼い少女を、将来の妻にと心に決めていながら、一人前の女性になる間が待ち遠しいので、ついついため息が出てくる男の心情を綴った歌である。
「譬喩歌」とは、「万葉集における歌の分類の一。表現技法に基づく分類で、心情を直接表現せず、何かにたとえて詠んだ歌。内容は主として、恋歌。巻三・巻七等に部立てとしても見られる。たとえ歌。」(コトバンク 大辞林第三版)
万葉集巻七の部立「譬喩歌」をみてみると、次のような事柄に「寄せて」心情を詠っているのである。
衣:三首、玉:五首、木:二首、花:一首、川:一首、海:三首
「右一五首柿本朝臣人麻呂之歌集出」とある
衣:五首、絲:一首、玉:十一首、日本琴:一首、弓:二首、山:五首、
草一七首、稲:一首、木:六首、花:六首、鳥:一首、獣:一首、雲:一首、
雨:二首、月:四首、赤土:一首、神:二首、河:六首、埋木:一首、
梅:六首、浦沙:二首、藻:四首、船:五首となっている。
複雑な問題を、「喩えて云うなら」と一言で、他の人に、真髄を理解させることに長けた人がいる。真髄を理解しているからこそ、うまく喩えることができるのであろう。
一途な気持ちを、何かにたとえて、ほほえましくそれでいて逆に強烈に心情を訴える見事さ、万葉人のこのような感覚は、歌垣などにおいても他の人との差異化を図る必要性から研ぎ澄まされていったのかもしれない。
古代歌謡や歌垣での優れた歌などは、当然、口誦によって伝えられてきたものである。万葉集という形において、記載歌として定着をみるのであるが、万葉集編纂という形で、そこにおける「口誦から記載」の作業を考えると「情報収集」の過程がどれほどの工数がかかっていたのかを考えると想像がつかない。「情報量」といった点で、可能であったのかもしれない。
「口誦から記載」に果たした万葉集の位置づけも、万葉集の万葉集たるとろかもしれない。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「かつら」 (奈良市万葉の小径歌碑)
★「万葉の恋歌」 堀内民一 著 (創元社)
●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート
サンドイッチは、フランスパンを使った。オープンサンドである。レタスと焼き豚、トッピングはニンジンである。デザートはバナナの輪切りの二分の一カットを歯車のように並べ少しずらし積み上げた。上には、キウイのカットを並べ、中央に赤ブドウの半分を飾った。