万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2602)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも(藤原部等母麻呂 20-4423)」、「色深く背なが衣は染めましをみ坂給らばまさやかに見む(物部刀自売 20-4424)」、「松の木の並みたる見れば家人の我れを見送ると立たりしもころ(物部真島 20-4375)」である。

 

 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「防人(さきもり)の歌」の項である。

 「東国から防人とよばれる兵たちが徴集された。万葉集(巻二〇)にも勝宝七歳(七五五)二月に集められた防人たちの歌がのせられているが、・・・北九州で防備に赴く途中での歌うたで・・・一六六首、うち半数の八四首が万葉集にとどめられている。・・・この防人の歌も作者は同じ東国の農民だから、内容は東歌(あずめうた)にひとしい。ただ彼らの歌には作者名が記されている。・・・(巻二〇、四四二三)(巻二〇、四四二四)(歌は省略)これは武蔵の国の防人とその妻との贈答だが、・・・妻は埼玉県(いまの行田市あたり)にいるから肉眼では箱根の峠は見えない。事情は先の碓氷峠の袖にひとしいのである。」(同著)

古代史で楽しむ万葉集 (角川ソフィア文庫) [ 中西 進 ]

価格:836円
(2024/7/20 21:11時点)
感想(3件)

 

 巻二十 四四二三歌ならびに四四二四歌をみてみよう。

■巻二十 四四二三歌■

◆安之我良乃 美佐可尓多志弖 蘇埿布良波 伊波奈流伊毛波 佐夜尓美毛可母

       (藤原部等母麻呂 巻二十 四四二三)

 

≪書き下し≫足柄(あしがら)の御坂(みさか)に立(た)して袖(そで)振らば家(いは)なる妹(いも)はさやに見もかも

 

(訳)足柄の御坂に立って袖を振ったら、家にいるそなたは、はっきり見てくれるであろうか。

(注)立して:「立ちて」の東国形。(伊藤脚注)

(注)見もかも:見てくれるであろうか。「見も」は「見む」の東国形(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首埼玉郡上丁藤原部等母麻呂」<右の一首は埼玉(さきたま)の郡(こほり)上丁(じやうちやう)藤原部等母麻呂(ふぢはらべのともまろ)>である。

 

 

 

 

■巻十四 四四二四歌■

◆伊呂夫可久 世奈我許呂母波 曽米麻之乎 美佐可多婆良婆 麻佐夜可尓美無

       (物部刀自売 巻二十 四四二四)

 

≪書き下し≫色深(いろぶか)く背(せ)なが衣(ころも)は染(そ)めましをみ坂(さか)給(たま)らばまさやかに見む

 

(訳)色濃くうちの人の着物は染めておけばよかったなあ。足柄の御坂を通していただく時、はっきり見られるだろうに。(同上)

(注)まし 助動詞特殊型:《接続》活用語の未然形に付く。①〔反実仮想〕(もし)…であったら、…であるだろうに。…であっただろう。…であるだろう。▽実際には起こり得ないことや、起こらなかったことを想像し、それに基づいて想像した事態を述べる。②〔悔恨や希望〕…であればよいのに。…であったならばよかったのに。▽実際とは異なる事態を述べたうえで、そのようにならなかったことの悔恨や、そうあればよいという希望の意を表す。③〔ためらい・不安の念〕…すればよいだろう(か)。…したものだろう(か)。…しようかしら。▽多く、「や」「いかに」などの疑問の語を伴う。④〔単なる推量・意志〕…だろう。…う(よう)。 ⇒語法:(1)未然形と已然形の「ましか」已然形の「ましか」の例「我にこそ開かせ給(たま)はましか」(『宇津保物語』)〈私に聞かせてくださればよいのに。〉(2)反実仮想の意味①の「反実仮想」とは、現在の事実に反する事柄を仮定し想像することで、「事実はそうでないのだが、もし…したならば、…だろうに。(だが、事実は…である)」という意味を表す。(3)反実仮想の表現形式反実仮想を表す形式で、条件の部分、あるいは結論の部分が省略される場合がある。前者が省略されていたなら、上に「できるなら」を、後者が省略されていたなら、「よいのになあ」を補って訳す。「この木なからましかばと覚えしか」(『徒然草』)〈この木がもしなかったら、よいのになあと思われたことであった。〉(4)中世以降の用法 中世になると①②③の用法は衰え、推量の助動詞「む」と同じ用法④となってゆく。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)給らば:タバルはタマハルの約。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首妻物部刀自賣」<右の一首は妻(め)の物部刀自売(もののべのとぢけ)

 

 この二首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2537)」で、埼玉県行田市藤原町 八幡山公園万葉歌碑とともに紹介している

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

埼玉県行田市藤原町 八幡山公園万葉歌碑(藤原部等母麻呂 20-4423・物部刀自売 20-4424) 20231119撮影

 

 

 「またある防人は、こんなことを歌う。(巻二〇、四三七五)(歌は省略) 防人たちは部領使(ことりづかい)とよばれる引率者につれられて隊伍(たいご)を組んで都へ向かう。・・・がやがやと笑い合い喋(しゃべ)り合いながら隊列が進んでゆく。おそらく彼らはそんな集団であったにちがいない。・・・しかし、ひょうきんに見立てて笑うにしろ、家人の見送りにたとえたところに、彼らの本音が透けて見える。それでいて笑い合うところに東歌人や防人の姿がある。」(同著)

 

 四三七五歌をみてみよう。

■巻二十 四三七五歌■

◆麻都能氣乃 奈美多流美礼波 伊波妣等乃 和例乎美於久流等 多々理之母己呂

       (物部真島 巻二十 四三七五)

 

≪書き下し≫松の木(け)の並(な)みたる見れば家人(いはびと)あの我れを見送ると立たりしもころ

 

(訳)松の木が立ち並んでいるのを見ると、家の衆がおれを見送ろうと立ち並んでいたのとそっくりだ。(同上)

(注)立たりしもころ:立ち並んでいたのとそっくり。モロコは・・・のようだ、の意。(伊藤脚注)

(注の注)もころ【如・若】名詞:〔連体修飾語を受けて〕…のごとく。…のように。▽よく似た状態であることを表す。(学研)

 

 

 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の最終の項「古今集への流れ」を読み進もう。

 「万葉集は、現在われわれが見るような形に一度にでき上ったものではない。つぎつぎと少しづつ資料が集まり集まりしてできたものだが、奈良朝のおわり、宝亀(ほうき)年間あたりから現在の形へ向かいはじめたと思われる。万葉集と密接に関係のある大伴氏がふたたび朝廷に重んじられるようになるのも宝亀年間であり、家持が紆余曲折(うよきょっくせつ)の不遇時代から解放されて朝廷の中心に戻ってくるのも、この時代であった。そしてこの時代の天皇光仁(こうにん)は、志貴皇子の子なのである。そこで整備を開始された万葉集がまさに現在の形のようになるのは、平安時代もずっと降(くだ)ったころであろう。万葉集は古くは数十巻あったと記されている。その万葉集はむしろ、全奈良時代の歌を集めるものだったろう。古今集にすぐつながるような無名歌が万葉の中におさめられるのも、実はこうした事情がひとつあったからである。・・・いまは二十巻の万葉集しかないが、その中でもしこの無名歌を欠いていたとしたら、万葉集はどれほどか不完全なものとなっていただろう。また古今集への流れという、古代日本人の魂の遍歴のあとを失って、どれほどか困却するに相違ない。」(同著)

 

 

 万葉歌碑を追っかけ、その歌の背景を理解しそれを通して万葉集にすこしでも近づこうとしてきたが、「古代史で楽しむ 万葉集」を改めて読み進んで行くと、結局何もわかっていない自分に気づかされたのである。

 今一度、これまでに自分なりの集めて来た情報を整理し次なる段階に一歩踏み出したいものである。

 

 

 次稿からは、原点にもどり、これまでの情報を整理しまた、次なる発見へと繋げて行きたい思いから、書籍掲載歌を中軸にの第二弾として、「万葉集の旅 上中下」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)に挑戦していくつもりである。

 お目を通しいただける皆様方の叱咤、叱咤、叱咤を引きつづきお願い申し上げます。

 ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」