万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その491)―奈良市神功4丁目 万葉の小径(27)―万葉集 巻十九 四一五九

●歌は、「磯の上のつままを見れば根を延へて年深くあらし神さびにけり」である。

 

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奈良市神功4丁目 万葉の小径(27)万葉歌碑(大伴家持 つまま)

●歌碑は、奈良市神功4丁目 万葉の小径(27)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磯上之 都萬麻乎見者 根乎延而 年深有之 神左備尓家里

               (大伴家持 巻十九 四一五九)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うへ)のつままを見れば根を延(は)へて年深くあらし神(かむ)さびにけり

 

(訳)海辺(うみべ)の岩の上に立つつままを見ると、根をがっちり張って、見るからに年を重ねている。何という神々(こうごう)しさであることか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

 

「つままは、イヌガシやイヌツゲなど異説もあるが、タブノキ(イヌグス)と見る説が多い。タブノキは常緑の大高木で、高さ十メートル、幹一メートルを越えるものもある。大伴家持が題詞にも『渋渓(しぶたに)の崎を通り、厳(いはは)の上の樹を見る歌一首 樹の名は都万麻(つまま)』と述べているように、越中国射水郡渋渓(えっちゅうのくにいみずのこおりしぶたに)の崎(現、富山県高岡市雨晴海岸<あまばらしかいがん>)に茂るつままに、都には見慣れない木に興を覚えて歌っているが、万葉集の中では、この歌一首に歌われているに過ぎない。今日では、大伴家持がかつて執務していた国庁付近に建つ勝興寺(しょうこうじ)の通用門に根を伸ばしているタブノキを見ることができ、渋渓の崎には、江戸時代に建てられ文字も薄れた、この歌の歌碑がある。

 万葉の頃、人々は人間の心というものが、線上に身体の中に宿っていると思っていた。それゆえ、植物でも、見た目に美しいものに惹かれるのはもちろんであるが、線上の根がどこまでも続くところに、自分の心の永遠を認めて歌うことも多かった。」(万葉の小径 つままの歌碑)

 

 序は、「季春三月九日擬出擧之政行於奮江村道上属目物花之詠幷興中所作之歌」<季春三月の九日に、出擧(すいこ)の政(まつりごと)に擬(あた)りて、古江(ふるえ)の村(むら)に行く道の上(ほとり)にして、物花(ぶつくわ)を属目(しょくもく)する詠(うた)、幷(あは)せて興(きよう)の中(うち)に作る歌>である。

 

 題詞は、「過澁谿埼見巌上樹歌一首 樹名都萬麻」<渋谿(しぶたに)の崎(さき)を過ぎて、巌(いはほ)の上(うえ)の樹(き)を見る歌一首 樹の名はつまま>である。

(注)渋谿(しぶたに)の崎:「奈良時代越中国守としてこの地に赴任した大伴家持は、5年間の在任中に多くの歌を万葉集に残しています。また、彼が歌に詠んだ歌枕は「万葉故地」として今も多くの人に愛されています。『渋谿(しぶたに)の崎』もそうした万葉故地の一つです。奈良で青春時代を過ごした家持にとって『鄙(ひな)さかる越中』の風土は新鮮で、彼の持って生まれた歌の才能を瑞々しく開花させるに十分な魅力をもっていました。特に伏木にあった国庁からほど近い渋谿は、彼のお気に入りの散歩コースだったに違いありません。」(「高岡市観光ポータルサイト たかおか道しるべ」 公益社団法人 高岡市観光協会

 

 高岡市の雨晴(あまはらし)海岸は、大伴家持が訪れるたびに絶賛した場所だそうである。冬の晴れの日に見られる立山連峰雄大な眺めは絶景で、その情景を詠んだ数々の家持の歌がある。一例は次の通りである。

 

◆多知夜麻尓 布里於家流由伎乎 登己奈都尓 見礼等母安可受 加武賀良奈良之

               (大伴家持 巻十七 四〇〇一)

 

≪書き下し≫立山(たちやま)に降り置ける雪を常夏(とこなつ)に見れども飽かず神(かむ)からならし

 

(訳)立山に白々と降り置いている雪、この雪は夏の真っ盛りの今、見ても見ても見飽きることがない。神の品格のせいであるらしい。(同上)

 

越中国司として赴任した家持は、病に倒れたが、癒えた後は作歌活動にいそしむのである。越中の風土を次々と長歌に詠み、長歌を「賦」と称したのである。中国の漢の時代に流行した壮麗な漢文が「賦」であり、家持は、長歌を「賦」になぞらえたのである。

例えば、四〇〇〇歌(長歌)の題詞は、「立山の賦一首 併せて短歌 この山は新川の郡に有り」であり、上記の四〇〇一と四〇〇二の短歌という構成になっている。

家持の越中生活は、歌人家持にとっては、大事な時であったといわれている。歌数から見ても、家持の生涯の歌が四百八十五歌ほどであるが、そのうち越中では二百二十首と約半数にのぼるのである。都から、今でいう左遷状態で、単身赴任というやりきれない思いが強かったのであろう。それだけに、中国文学や歌の勉強をしたものと思われる。

 (注)ふ【賦】 の解説:① 詩や歌。「惜別の賦」② 「詩経」の六義 (りくぎ) の一。比喩 (ひゆ) などを用いないで感じたことをありのままによむ詩の叙述法。③ 漢文の文体の一。対句を多用し、句末で韻をふむもの。「赤壁賦」(goo辞書)

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」  中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「別冊國文学 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典 

★「goo辞書」

★「高岡市観光ポータルサイト たかおか道しるべ」 (公益社団法人 高岡市観光協会

★「万葉の小径 つままの歌碑」