万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その562)―神戸市東灘区 処女塚古墳―万葉集 巻九 一八〇二

●歌は、「いにしへの信太壮士の妻どひし菟原娘子の奥つ城ぞこれ」である。

 

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神戸市東灘区 処女塚古墳万葉歌碑(田辺福麻呂

●歌碑は、神戸市東灘区 処女塚古墳にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆古乃 小竹田丁子乃 妻問石 菟會處女乃 奥城叙此

              (田辺福麻呂 巻九 一八〇二)

 

≪書き下し≫いにしへの信太壮士(しのだをとこ)の妻(つま)どひし菟原娘子(うなひをとめ)の奥(おく)つ城(き)ぞこれ

 

(訳)はるか遠くの時代の信太壮士が、はるばると妻どいにやって来た菟原娘子、その娘子の奥つ城なのだ、これは。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)信太壮士:和泉の国信太(大阪府和泉市)の男。

(注)おくつき【奥つ城】名詞:①墓。墓所。②神霊をまつってある所。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。「き」は構え作ってある所の意。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

菟原娘子(うなひをとめ)については、國學院大學デジタル・ミュージアム「万葉神事語事典」に次のような記述がある。

「菟原に住んでいた女性。菟原は摂津国莵原、現在の兵庫県芦屋市あたり。「うなひをとめ」を詠んだものは、万葉集に、田辺福麻呂歌集(「過葦屋処女墓時作歌一首」9-1801~2)、高橋虫麻呂歌集(「見菟原処女墓歌一首」9-1809~11)と、「追同処女墓歌一首」とあるように、福麻呂・虫麻呂に追和した大伴家持の歌(19-4211~12)の3組がある。いずれも「娘子墓」に関する歌に登場する。「うなひをとめ」の表記は、「菟名日処女」(9-1801)・「菟会処女」(9-1802)・「菟名負処女」(9-1809)・「宇奈比処女」(9-1810)がある。福麻呂歌集・虫麻呂歌集とも「葦屋の 菟原処女の」とあり、「葦屋」が大地名で、「菟原」が小地名と考えられる。虫麻呂歌集では、「千沼壮士(ちぬをとこ)」と「菟原壮士(うなひをとこ)」が特に競って求婚した。娘は、この世では結ばれないと自死する。夢でそれを知った千沼壮士は、後を追い、それを知った菟原壮士も負けてはいられないと後追いをする。福麻呂歌集では、「古(いにしへ)の ますら壮士(をとこ)の 相競(きほ)ひ 妻問ひしけむ」とあり、この「妻問ひ」は、結婚の意味であるという説が、近年有力になっている。また、その反歌に「小丈田壮士(しのだをとこ)」(千沼壮士)が「妻問ひ」したとあり、大伴家持の歌では、両者が「妻問ひ」したことになっている。これらの歌は、共同体のために秩序が語り継がれる「神謡」であるという考えがある。村外婚の禁忌を語るもので、子を生産する能力がある女は、共同体を担う重要な位置を占めており、村外の者と結婚することは、共同体を壊すことになる。つまり「をとめ」が村外の千沼壮士と結ばれることは、この禁忌を犯すことになるという考えである。ただ、これには、菟原壮士が死なねばらなぬこと・禁忌を犯し人が死ぬのは同母兄弟姉妹婚や王権争いに限られるなどという意見もある。」

 

 

題詞は、「過葦屋處女墓時作歌一首并短歌」<葦屋(あしのや)の娘子(をとめ)が墓を過ぐる時に作る歌一首并(あは)せて短歌>である。

 長歌(一八〇一歌)と反歌(一八〇二、一八〇三歌)の構成である。

 

 長歌ともう一首の反歌をみてみよう。

 

◆古之 益荒丁子 各競 妻問為祁牟 葦屋乃 菟名日處女乃 奥城矣 吾立見者 永世乃 語尓為乍 後人 偲尓世武等 玉桙乃 道邊近 磐構 作冢矣 天雲乃 退部乃限  此道矣 去人毎 行因 射立嘆日 或人者 啼尓毛哭乍 語嗣 偲継来 處女等賀 奥城所 吾并 見者悲喪  思者

               (田辺福麻呂 巻九 一八〇一)

 

≪書き下し≫いにしへの ますら壮士(をとこ)の 相(あひ)競(きほ)ひ 妻どひしけむ 葦屋(あしのや)の 菟原娘子(うなひをとめ)の 奥(おく)つ城(き)を 我(わ)が立ち見れば 長き世の 語りにしつつ 後人(のちひと)の 偲(しの)ひにせむと 玉桙の 道の辺(へ)近く 岩(いは)構(かま)へ 造れる塚を 天雲(あまくも)の そくへの極(きは)み この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ ある人は 哭(ね)にも泣(な)つつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎくる 娘子(をとめ)らが 奥(おく)つ城(き)ところ 我(わ)れさへに 見れば悲しも いにしへ思へば

 

(訳)はるか遠くの時代の雄々しい若者たちが競い争って求婚したという、葦屋の菟原娘子の奥つ城、この奥つ城の前に立って私が見ると、行く末長くずっと語り草にしてのちの世の人びとが偲ぶよすがにしようと、道端近くに岩を組み合わせて造った塚だものだから、天雲のたなびく遠い果てまでも、この道を行く人の誰もかれもがここに立ち寄り、足をとめて嘆き、ある人は声をあげて泣いたりして、語り継ぎ偲び続けてきた娘子の眠る奥つ城、この墓所を見ると、何のかかわりもない私でさえ悲しくなる。はるか遠くの時代のことを思うにつけても。(同上)

(注)つまどひ【妻問ひ】名詞:異性のもとを訪ねて言い寄ること。求婚すること。特に、男が女を訪ねる場合にいう。また、(恋人や妻である)女のもとに通うこと。(学研)

(注)あまくもの【天雲の】分類枕詞:①雲が定めなく漂うところから、「たどきも知らず」「たゆたふ」などにかかる。②雲の奥がどこともわからない遠くであるところから、「奥処(おくか)も知らず」「はるか」などにかかる。③雲が離れ離れにちぎれるところから、「別れ(行く)」「外(よそ)」などにかかる。④雲が遠くに飛んで行くところから、「行く」にかかる。(学研) 

(注)そく【退く】自動詞:離れる。遠ざかる。退く。逃れる。

(補注)「そくへ」を遠ざかったところと解釈し、「天雲の」は④の意と考える。

 

 

◆語継 可良仁文幾許 戀布矣 直目尓見兼  丁子

              (田辺福麻呂 巻九 一八〇三)

 

≪書き下し≫語り継ぐからにもここだ恋(こひ)しきを直(ただ)目(め)に見けむ古へ壮士(をとこ)

 

(訳)語り継ぐだけでもこんなに恋しくてならないのに、じかに娘子を見たいにしえ壮士の思いはいかばかりであったことか。(同上)

(注)ここだ【幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。  ※上代語。

 

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田辺福麻呂の歌碑と小山田高家の碑

 処女塚古墳は、国道43号線、「東明」交差点北東に位置しているこじんまりした史跡である。「処女塚」交差点の南東、北側と西側のメイン道路の反対側手に「田辺福麻呂の歌碑」と「小山田高家の石碑」がひっそりと建っている。

同古墳は、4世紀前半に造られたと推定されている。この塚の東西2kmあたりに東求女塚古墳、西求女塚古墳があり、菟原娘子(うなひをとめ)の伝説の舞台といわれている。

 「田辺福麻呂の歌碑」の横には、古びた一部崩れ落ちた、「湊川の戦いに敗れた新田義貞を逃すためにこの地で討ち死にした小山田高家の石碑」が建っている。

 

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田辺福麻呂歌碑ならびに小山田高家の碑の説明案内板

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「万葉神事語事典」 (國學院大學デジタル・ミュージアム

★「処女塚古墳」 (フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」