万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1191)―田辺市秋津町 宝滿禅寺―万葉集 巻七 一三六八

●歌は、「岩倉の小野ゆ秋津に立ちわたる雲にしもあれや時をし待たむ」である。

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田辺市秋津町 宝滿禅寺万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、田辺市秋津町 宝滿禅寺にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「寄雲」<雲に寄す>である。

 

◆石倉之 小野従秋津尓 發渡 雲西裳在哉 時乎思将待

                   (作者未詳 巻七 一三六八)

 

≪書き下し≫岩倉(いはくら)の小野(をの)ゆ秋津(あきづ)に立ちわたる雲にしもあれや時をし待たむ

 

(訳)岩倉の小野から秋津にかけて立ちわたる雲ででもあるというのですか、そんなはずはないのに、あなたは時期が来るのを待つのですか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆ 格助詞:《接続》体言、活用語の連体形に付く。①〔起点〕…から。…以来。②〔経由点〕…を通って。…を。③〔動作の手段〕…で。…によって。④〔比較の基準〕…より。 ⇒参考 上代の歌語。類義語に「ゆり」「よ」「より」があったが、中古に入ると「より」に統一された。(学研)

(注)しも 副助詞:《接続》体言、活用語の連用形・連体形、副詞、助詞などに付く。①〔多くの事柄の中から特にその事柄を強調する〕…にかぎって。②〔強調〕よりによって。折も折。ちょうど。▽多く「しもあれ」の形で。③〔逆接的な感じを添える〕…にもかかわらず。かえって。▽活用語の連体形に付く。④〔部分否定〕必ずしも…(でない)。▽下に打消の語を伴う。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは②の意

 

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「巖倉山 寶満禅寺」の銘碑

 宝満禅寺は、和歌山県田辺市秋津町にある。山号は「巖倉山」である。

恐らく岩倉の小野に住んでいる男が、女の住んでいる秋津までなかなか通ってくれないことを立ちわたる雲に喩えてなじっている歌であろう。

雲の発生状況を踏まえめったにかからない雲に譬え「一定の時に立ち渡る雲でもないのに、時が来るのを待つのですか」とするどく突っ込んでいる歌である。

 

 

白浜町 綱不知桟橋前➡田辺市秋津町 宝満禅寺

 海岸から離れ、山手に。本堂の下が駐車場になっている。

 本堂の脇から境内に。山の中にこのような立派なお寺があることにまず驚かされる。

歌碑探しである。それなりの大きさをイメージしながら、ザ~っと見わたせどそれらしきものが見当たらない。境内から少し上ったところに墓地がある。

墓地の中途くらいまで上ってみたが見つからない。

墓地に上がる石段の側に説明案内板がある。近づいてみてみると「厳倉山新四国八十八箇所道標」と書かれている。ちなみに、この道標は、文政十一年に建てられたもので、公共工事のため撤去されることになったのでここに移転したものであると書かれている。

「古くから下万呂小泉の熊野古道に面して建てられ多くの旅人を巖倉山八十八箇所に案内してきた。」とある。

ネット検索では、「巖倉山」は見つからなかったが、お寺の山号やこの道標から、巖倉山はこの近くにあったに違いない。

案内板を読み終え、その横の碑に目をやると何と探していた万葉歌碑ではないか。

比較的小振りの石碑である。周りの墓標などに同化してしまっている。

歌の内容は、詰問調であるが、女性である作者に慮り小振りの歌碑にしたのかもしれない。

見つけることができてほっと胸をなでおろす。

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万葉歌碑と道標説明板ならびに道標



 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その1190)―和歌山県白浜町 綱不知桟橋前―万葉集 巻九 一六七三

●歌は、「風莫の浜の白波いたづらにここに寄せ来る見る人なしに」である。

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和歌山県白浜町 綱不知桟橋前万葉歌碑(作者未詳)



●歌碑は、和歌山県白浜町 綱不知桟橋前にある。

 

●歌をみていこう。

 

 一六六七から一六七四歌の歌群の題詞は、「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>である。

(注)ここでは太上天皇持統天皇大行天皇文武天皇をさす。

 

 

◆風莫乃 濱之白浪 徒 於斯依久流 見人無  <一云 於斯依来藻>

               (作者未詳 巻九 一六七三)

 

≪書き下し≫風莫(かぎなし)の浜の白波いたづらにここに寄せ来(く)る見る人なしに  <一には「ここに寄せ来も」と云ふ>

 

(訳)風莫(かざなし)の浜の静かな白波、この波はただ空しくここに寄せてくるばかりだ。見て賞(め)でる人もないままに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)風莫(かざなし)の浜:黒牛潟の称か。

 

左注は、「右一首山上臣憶良類聚歌林曰 長忌寸意吉麻呂應詔作此歌」<右の一首は、山上臣憶良(やまのうえおみおくら)が類聚歌林(るいじうかりん)には「長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)、詔(みことのり)に応(こた)へてこの歌を作る」といふ>である。

 

 この歌群の十三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その742)」で紹介している。

 ➡ 

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 大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の紀伊の国への行幸の折に詠われた歌が他にも収録されているのでみてみよう。

 

題詞は、「大寶元年辛丑幸于紀伊國時見結松歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集中出也」<大宝元年辛丑(かのとうし)に、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、結び松を見る歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集の中に出づ>である。

 

◆後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞

              (柿本人麻呂歌集 巻二 一四六)

 

≪書き下し≫後(のち)見むと君が結べる岩代の小松(こまつ)がうれをまたも見むかも

 

(訳)のちに見ようと、皇子が痛ましくも結んでおかれた岩代の松の梢(こずえ)よ、この梢を、私は再び見ることがあろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かも 終助詞:〔詠嘆を含んだ疑問〕…かなあ。(学研)

 

 

 題詞は、「大寳元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の秋の九月に、太上天皇(おほきすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌>である。

(注)太上天皇:持統上皇

 

左注は「右一首坂門人足」<右の一首は坂門人足(さかとのひとたり)>である。

 

 

◆巨勢山乃 列ゝ椿 都良ゝゝ尓 見乍思奈 許湍乃春野乎

                (坂門人足 巻一 五四)

 

≪書き下し≫巨勢山(こせやま)のつらつら椿(つばき)つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を

 

(訳)巨勢山のつらつら椿、この椿の木をつらつら見ながら偲ぼうではないか。椿花咲く巨勢の春野の、そのありさまを。(同上)

(注)こせやま【巨勢山】:奈良県西部、御所(ごせ)市古瀬付近にある山。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

(注)つらつらつばき 【列列椿】名詞:数多く並んで咲いているつばき。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)しのぶ 【偲ぶ】:①めでる。賞美する。②思い出す。思い起こす。思い慕う。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その441)」で紹介している。

 ➡ 

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 題詞、「大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首」のなかに、有間皇子が絞殺されたという悲話を踏まえた歌がある。これもみてみよう。

 

 

◆藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣乎者 所沾香裳

               (作者未詳 巻九 一六七五)

 

≪書き下し≫藤白(ふぢしろ)の御坂(みさか)を越ゆと白栲(しろたへ)の我(わ)が衣手(ころもで)は濡(ぬ)れにけるかも

 

(訳)藤白の神の御坂を越えるというので、私の着物の袖は、雫(しずく)にすっかり濡れてしまった。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)藤白の神の御坂:海南市藤白にある坂。有間皇子の悲話を背景に置く歌。

 

 

 今回の歌碑巡りルートが、有間皇子が生駒の一分から護送され白浜に連れていかれ尋問の後、岩代で松枝を結び、無事を祈るも藤白坂で絞殺されたルートに重なるのでついつい有間皇子の話に脱線してしまうが、ご容赦下さい。

 

 歌碑の歌に話を戻します。

 

 「風莫(かざなし)」というのは、特定の地名をさすわけではなく、一般的な呼称なのであろう。「綱不知(つなしらず)」は、一般的な呼称から地名に定着していったのではないかと考えられる。

 風莫(かざなし)も綱不知(つなしらず)も波が穏やかというイメージであるから、入江の奥まったところであろう。このイメージを踏まえて綱不知桟橋前交差点「桟橋」のT字路の脇に置かれたのであろう・

 

 

白浜町 バス停「瀬戸の浦」そば➡白浜町綱不知桟橋前

 

 バス停「瀬戸の浦」をあとにし綱不知桟橋前に進む。ここも事前にストリートビューで確認をしておいたのである。

 すぐ近くに白浜温泉外湯「綱の湯」があるが、今年3月に閉店となった。その前に車を停めさせてもらい歌碑を撮影すべく小走り。

 T字路交差点「桟橋」の「綱の湯」側のコーナーにある。タクシー乗り場になっており、1台が客待ちをしていた。

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綱不知桟橋のアーチ

 綱不知桟橋のアーチの下から海面を見ると、波一つなく、穏やかなここだけ時が止まったようにさえ感じたのである。

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綱不知港の穏やかさ



 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1189)―和歌山県白浜町 バス停「瀬戸の浦」傍―万葉集 巻十二 三一六四

●歌は、「室の浦の瀬戸の崎なる鳴島の磯越す波に濡れにけるかも」である。

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和歌山県白浜町 バス停「瀬戸の浦」傍万葉歌碑(作者未詳)



●歌碑は、和歌山県白浜町 バス停「瀬戸の浦」傍にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆室之浦之 瑞門之埼有 鳴嶋之 磯越浪尓 所沾可聞

               (作者未詳 巻十二 三一六四)

 

≪書き下し≫室(むろ)の浦(うら)の瀬戸(せと)の崎(さき)なる鳴島(なきしま)の磯(いそ)越す波に濡れにけるかも

 

(訳)室の浦の瀬戸の崎にある鳴島、その島の泣く涙だというのか、磯を越す波にすっかり濡れてしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)室の浦:兵庫県たつの市御津町

(注)鳴島:「泣く島」を懸ける。

 

相生市HP「万葉の岬」には、この歌に関して「『室の浦』は室津藻振鼻から金ヶ崎にかけての湾入。『鳴島』は金ヶ崎眼下の君島、金ヶ崎と鳴島の間が『湍門』、磯波のしぶきに濡れる舟行旅愁の歌。」と解説が記されている。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その686)」で紹介している。

 ➡ 

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 この歌碑が白浜町にあるので何故と思ってしまう。

 地名と思われる語句をみていこう。

 「室之浦」は、兵庫県たつの市御津町室津藻振鼻から金ヶ崎にかけての湾入とする説が有力である。白浜町周辺の歌碑案内のパンフレットには、「室➡牟婁」と書かれている。

「瀬戸」は、コトバンク デジタル大辞泉によると、「せと【瀬戸】《「狭門(せと)」の意。「せど」とも》: 相対した陸地の間の、特に幅の狭い海峡。潮汐(ちょうせき)の干満により激しい潮流が生じる。」とある。

 「瀬戸」は特定の地名を表す場合もあるが、ここでは一般的な「瀬戸」という意味であろう。

 「鳴島」は相生市の場合は、金ヶ崎眼下の「君島」を指すと言われているが、白浜町の場合は明確な島が見当たらない。

 このように見て来ると、「室の浦」を「牟婁の浦」と解釈して、当地に歌碑を設置したものと考えらえる。

 

 歌に戻ろう。

 この歌は、妻のことを思う「羇旅の歌」である。

 「妻のことを思う歌」というくくりで、三一六二から三一六四歌が収録されている。他の二首をみてみよう。

 

 

◆水咫衝石 心盡而 念鴨 此間毛本名 夢西所見

                  (作者未詳 巻十二 三一六二)

 

≪書き下し≫みをつくし心尽(つく)して思へかもここにももとな夢(いめ)にし見ゆる

 

(訳)みおつくしの名のように、心を尽くして、家の妻が私のことばかりを思っているせいか、旅先のここにも、むやみやたらに妻の姿が夢に出てくる。(同上)

(注)みをつくし【澪標】名詞:往来する舟のために水路の目印として立ててある杭(くい)。⇒参考 「水脈(みを)つ串(くし)」の意。「つ」は「の」の意の古い格助詞。難波の淀(よど)川河口のものが有名。昔、淀川の河口は非常に広がっていて浅く、船の航行に難渋したことから澪標が設けられた。歌では、「わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢(あ)はむとぞ思ふ」(『後撰和歌集』)〈⇒わびぬればいまはたおなじ…。〉のように、「身を尽くし」にかけ、また、「難波」と呼応して詠まれることが多い。(学研)

(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)

 

 

◆吾妹兒尓 觸者無二 荒礒廻尓 吾衣手者 所沾可母

                  (作者未詳 巻十二 三一六三)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)に触(ふ)るとはなしに荒礒(ありそ)みに我(わ)が衣手(ころもで)は濡れにけるかも

 

(訳)いとしいあの子に触れるということはないまま、荒々しい磯から磯へのこの旅で、私の着物の袖はすっかり濡れてしまった。(同上)

 

 今と違い旅そのものがリスキーである。そして孤独である。リスクに強く立ち向かう味方は、遠く離れたいとしい妻である。孤独であればあるほど、離れれば離れるほどに思いがつのるのであろう。思いがつのり「ここにももとな夢(いめ)にし見ゆる」と詠うのだろう。

 万葉の時代、庶民は徒歩である。食べ物も潤沢でなく、簡単に買えるものではない。肉体的にも精神的にもタフであったのだろう。

 

 

■「有間皇子之碑」➡白浜町バス停「瀬戸の浦」そば

 

 左手に白良浜を見ながら海岸線を円月島方面に進む。バス停「瀬戸の浦」はストリートビューで確認し、歌碑も見つけておいた。

 現実は、車を停める適当な場所が見当たらす、ここもまた一旦通り過ごし、戻って来て、閉鎖されている駐車場入口ぎりぎりに停める。

 空き地の片隅に蔦の帽子をかぶったように佇んでいる歌碑である。

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バス停と歌碑

 

 「瀬戸の浦」をいろいろと検索していて、何と「真白良媛」が胸に抱いていた「ホンカクジヒガイ」の名の貝の寺といわれる「本覚寺」はこのバス停のすぐ近くにあるということが分かったのである。

 事前の調査不足といえばそれまでだが。せっかく傍まで行っていたのにとの思いである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「相生市HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1188、白浜番外)―白浜町フィッシャーマンズワーフ真白良媛像、有間皇子之碑―万葉集 巻一 一四一

―その1188―

●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。

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真白良媛の像台座歌碑プレート(有間皇子



●歌碑(プレート)は、フィッシャーマンズワーフに立つ真白良媛像の台座にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

             (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む

 

(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。

 

 一四一ならびに一四二歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その197)」をはじめ、これまで幾度となく紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

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真白良媛の像

 

■平草原公園➡フィッシャーマンズワーフ

 平草原公園から少し遠回りになるが白浜スカイラインをくだり「三段壁」近くの交差点を右折、海岸沿いの道を進む。やがて左手前方に「真白良媛像」らしきものが見えて来る。

フィッシャーマンズワーフの駐車場の出口付近に立つホンカクジヒガイを抱いた真白良媛像の台座に、「万葉悲話」と題し、この歌と有間皇子の死を知らずに待ち続けたという真白良媛に関する次のような話を刻したプレートがある。

「岩代の浜松が枝えを引き結び  まさきくあらばまた帰り見む 有間皇子

真白良媛は肌の白い美しい乙女だった。斉明天皇牟婁のいで湯に行幸のとき、有間皇子は謀反の罪に問われて誅せられたが、真白良媛はそのことも知らずに皇子を思いつつ、いつまでも待ち続けていたという。白浜の海にのみ産するホンカクジヒガイという真白く艶やかな貝は媛の悲恋をいまもなおしのばせるものがある」

(注)ホンカクジヒガイ:本覚寺HPに「貝寺とも言われる本覚寺は、元禄より漁師たちから貝殻の寄進を受け、珍奇珍種の貝を含め千種類・約3万点の貝を所蔵しています。所蔵中には当寺院の名前がついた『ホンカクジヒガイ』もあります。昭和4年(1929年)に京都帝大理学部の故・黒田徳米博士によって発見された、乳白色でつるんとした貝です。」と書かれている。

 

 今回の万葉歌碑巡りの計画の中で、「真白良媛」について初めて知ったのである。有間皇子の悲劇に寄り添う形でこのような秘話が作られたか、他の物語と結びつけられたのだろう。 

 

 

―白浜番外―

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有間皇子之碑



■フィッシャーマンズワーフ➡有間皇子之碑

 

 場所は地図上でわかっているが、現地に来て見ると車を停める所がない。公園前の駐車場は閉鎖されている。行過ごしUターンして、閉鎖されている駐車場の入口ぎりぎりに車を停め、急いで碑の写真を撮りに小走り。

有間皇子之碑」は、ホテル三楽荘北側小公園にある。

和歌山県公式サイトHPには次のように書かれている。

「日本三古湯として古くから世に知られる白浜温泉だが、きっかけとなったのは、有間皇子斉明天皇に温泉地のよさをすすめたという故事による。その功績を称える顕彰碑が白浜の中心地・白良浜近くに建てられており、悲劇の皇子は町の恩人として、今もこの地では大切な存在とされている。」

 

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有間皇子之碑背面碑文

 碑の背後のプレートには、有間皇子の悲劇の経緯などが次のように書かれている。

 「有間皇子は第三十六代孝徳天皇の皇子である。三十七代斉明天皇の即位三年九月(千三百余年前)氣保養と稱ってこの地に遊び、其の風光絶佳なるに深く感嘆し歸りて帝に奏上した。帝はきこしめし悦びたまひて一度みそなわさむと、御言葉があって、其の翌年遂に牟婁温泉行幸となる。左大臣蘇我赤兄留守を守る。或日赤兄、時の失政を挙げて有間皇子に語る。話の最中に皇子の倚れる椅子が故なく折れくづれたのでこれは不祥だと言って皇子は話を止めて直ちに舘に歸る。

其夜、赤兄は、部下を率ひて市經第の皇子邸を囲み有間皇子謀反したと帝に訴報する。皇子護送されて白浜の行在所に来り、天皇、皇太子の反状を問ふに、答えて曰く、「天と赤兄とのみ知る、吾は知らざるなりと」。のち、連国襲をして有間皇子を藤白坂に絞殺せしむ、と日本書記に有り。時に、御年十九才であった。時の皇太子は中大兄皇子。赤兄は蘇我入鹿の従兄。当時最も厳しき皇位継承論議の中に野心家赤兄の為に計られ、千古の悲劇の御最期として史家は傳へている。略記、白浜温泉に残した皇子の絶句、「讒渉斯境則疾自蠲消」

建碑世話人 白濱観光協会 白良浜保勝會 浦政吉

 

昭和五十年七月吉日 建之             」

 

(注)「讒渉斯境則疾自蠲消」(わずかにききょうにわたれば、すなわちやまいおのずからげんしょうす)

意味は、「少しだけ彼の地の景色を見ただけで、すぐに病気も治ってしまいました」

 なお、読みや意味が分からなかったので、南紀白浜観光協会に問い合わせしたところ、白浜町教育委員会学芸員さんから速やかなるご回示をいただきました。

 皆様方のご対応の速さに驚くとともに改めて御礼申し上げます。

 感謝感激です。(20211008追記)

 

 市經(いちふ)は、生駒山の東側、近鉄「一分(いちぶ)駅」がある界隈である。そこからここ白浜まで護送されて来た道中の有間皇子の胸中や如何。

 白浜から岩代で「結び松」をして複雑な心境を詠い、そして藤白坂で最期を迎える。

 

 藤白神社境内社有間皇子神社、藤白坂の有間皇子の墓ならびに歌碑についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その746、747)」で紹介している。

 ➡ 

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「真白良媛像の台座『万葉悲話』」

★「有間皇子之碑碑文」

★「本覚寺HP」

★「和歌山県公式サイトHP」

万葉歌碑を訪ねて(その1187)―和歌山県白浜町 平草原公園―万葉集 巻四 四九六~四九九

●歌は、

「み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも(巻四 四九六)、

「いにしへにありけむ人も我がごとか恋ひつつ寐寝か(巻四 四九七)、

「今のみのわざにはあらずいにしへの人ぞまさりて音にさへ泣きし(巻四 四九八)、

「百重にも来及かぬかもと君が使の見れど飽かずあらむ(巻四 四九九)」である。

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和歌山県白浜町 平草原公園万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、和歌山県白浜町 平草原公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「柿本朝臣人麻呂歌四首」<柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)が歌四首>である。

 

◆三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨

               (柿本人麻呂 巻四 四九六)

 

≪書き下し≫み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思(も)へど直(ただ)に逢はぬかも

 

(訳)み熊野(くまの)の浦べの浜木綿(はまゆう)の葉が幾重にも重なっているように、心にはあなたのことを幾重にも思っているけれど、じかには逢うことができません。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)み熊野の浦:紀伊半島南部一帯。「み」は美称。

(注)はまゆふ【浜木綿】名詞:浜辺に生える草の名。はまおもとの別名。歌では、葉が幾重にも重なることから「百重(ももへ)」「幾重(いくかさ)ね」などを導く序詞(じよことば)を構成し、また、幾重もの葉が茎を包み隠していることから、幾重にも隔てるもののたとえともされる。よく、熊野(くまの)の景物として詠み込まれる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)上三句は「心は思へど」の譬喩

 

 続く三首もみてみよう。

 

 

◆古尓 有兼人毛 如吾歟 妹尓戀乍 宿不勝家牟

               (柿本人麻呂 巻四 四九七)

 

 

≪書き下し≫いにしへにありけむ人も我(あ)がごとか妹(いも)に恋ひつつ寐寝(いね)かてずけむ

 

(訳)いにしえ、この世にいた人も、私のように妻恋しさに夜も眠れぬつらさを味わったことであろうか。(同上)

(注)かてぬ 分類連語:…できない。…しにくい。 ※なりたち補助動詞「かつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の連体形(学研)

 

 

◆今耳之 行事庭不有 古 人曽益而 哭左倍鳴四

               (柿本人麻呂 巻四 四九八)

 

≪書き下し≫今のみのわざにはあらずいにしへの人ぞまさりて音(ね)にさへ泣きし

 

(訳)恋に悩むのは今の世だけのことではありません。それどころか、いにしえの人は、堪えかねて声をさえ立てて泣いては、もっともっと苦しんだものです。(同上)

(注)まさる 自動詞:(数量や程度などが)多くなる。ふえる。(学研)

(注)ね【音】名詞:音。なき声。ひびき。▽情感のこもる、音楽的な音。(人や動物の)泣(鳴)き声や、楽器などの響く音。 ※参考「ね」と「おと」の違い 「ね」が人の心に響く音であるのに対して、「おと」は雑音的なものを含め、風や鐘の音など比較的大きい音をいう。(学研)

 

 

◆百重二物 来及毳常 念鴨 公之使乃 雖見不飽有武

               (柿本人麻呂 巻四 四九九)

 

≪書き下し≫百重(ももへ)にも来(き)及(し)かぬかもと思へかも君が使(つかひ)の見れど飽かずあらむ

 

(訳)幾重にも重ねてひっきりなしに来て欲しいと思うせいで、あなたのお使いを見ても見ても見飽きないのでしょうか。(同上)

(注)ぬかも 分類連語:〔多く「…も…ぬかも」の形で〕…てほしいなあ。…てくれないかなあ。▽他に対する願望を表す。 ※上代語。 なりたち:打消の助動詞「ず」の連体形+疑問の係助詞「か」+詠嘆の終助詞「も」(学研)

 

 

 この四首は、四九六、四九七歌が、夫の贈歌であり、四九八、四九九歌が妻の答歌である。人麻呂の創作によるものである。

 なお、四九六と四九九歌が、四九七と四九八歌が対応し合っている。並べて読んでみるとぐっと歌の思いに近づけるように思える。

 

(四九六歌)み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思(も)へど直(ただ)に逢はぬかも

(四九九歌)百重(ももへ)にも来(き)及(し)かぬかもと思へかも君が使(つかひ)の見れど飽かずあらむ

 

(四九七歌)いにしへにありけむ人も我(あ)がごとか妹(いも)に恋ひつつ寐寝(いね)かてずけむ

(四九八歌)今のみのわざにはあらずいにしへの人ぞまさりて音(ね)にさへ泣きし

 

 犬養 孝氏は、その著「万葉の人びと」のなかで、四九六歌について、「今ここにある浜木綿、その葉が幾重にも重なるように、心では思うけれどじかには逢えないという深い情熱、しかもその情熱がみごとな客観の上に乗っかかって主観がうたわれている。」と書かれている。

浜木綿の群落自生地で見た緑濃い溢れる葉が、よじれるぐらいに幾重ねも、幾重ねもある姿を見て「百重なす」ものは「葉」だと確信したと熱く語っておられる。

 

 

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「和具大島の浜木綿」 伊勢志摩観光ナビHPから引用させていただきました。

 

 

■9月13~14日白浜、みなべ、加太万葉歌碑巡り

 

春日大社神苑萬葉植物園の万葉歌碑(プレート)のネタ在庫も9月末でほぼ無くなる見通しであったので9月13,14日、1泊2日の歌碑巡りを計画した。

 

9月13日(月)

 和歌山県白浜町「平草原公園」➡白浜町フィッシャーマンズワーフ「真白良媛像」➡ホテル三楽荘北側北側ポケットパーク「有間皇子之碑」➡白浜町「バス停『瀬戸の浦』そば」➡白浜町「綱不知桟橋前」➡田辺市秋津町「宝満寺」➡日高郡みなべ町国民宿舎紀州路みなべ」➡日高郡みなべ町西岩代「光照寺」➡「有間皇子結松記念碑➡日高郡印南燈印南原「おたき瀧法寺」➡はし長水産直販部駐車場➡御坊市名田町「三尾海岸」

 

9月14日(火)

 海南市下津町方「粟島神社」➡和歌山市雑賀崎番所鼻「番所庭園」➡和歌山市加太「田倉崎燈台」➡和歌山市加太「城ケ崎海岸」➡大阪府泉南郡岬町「深日漁港北」

 

 取りこぼしがないように、先達のブログに目を通し、位置情報をネット検索し、可能な限りストリートビューを駆使して計画を練り上げた。

 

和歌山県白浜町「平草原公園」

 

久しぶりの万葉歌碑巡りである。

パーキングエリア「紀ノ川SA」「紀州路ありだPA」、「印南SA」などで物産みがてらの休憩をとりながら約3時間のドライブ。

平草原公園に到着。駐車場すぐの事務棟近くに歌碑があった。表面の風化が進んでおり読みづらい。しかし時間の重みを感じさせる。

 文字を拾い読みし資料の歌と確認する。これもまた楽しい作業である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「伊勢志摩観光ナビHP」

万葉歌碑を訪ねて(その1186)―奈良県天理市萱生町―万葉集 巻七 一〇八八

●歌は、「あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳にい雲立ちわたる」である。

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奈良県天理市萱生町万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌碑は、奈良県天理市萱生町(かようちょう)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は「雲を詠む」であり、一〇八八の左注に「右二首柿本朝臣人麻呂之歌集出」(右の二首は柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ)とある。

 

◆足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡

                 (柿本人麻呂歌集 巻七 一〇八八)

 

≪書き下し≫あしひきの山川(やまがは)の瀬の鳴るなへに弓月(ゆつき)が岳(たけ)にい雲立ちわたる

 

(訳)山川(やまがわ)の瀬音(せおと)が高鳴るとともに、弓月が岳に雲が立ちわたる。

(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)弓月が岳:三輪山東北の巻向山の最高峰、

(注)なへ 接続助詞 《接続》活用語の連体形に付く。:〔事柄の並行した存在・進行〕…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。 ※上代語。中古にも和歌に用例があるが、上代語の名残である。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 題詞は「雲を詠む」である。左注は、「右の二首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ」とある。

 

 一〇八七歌もみてみよう。

 

◆痛足河 ゝ浪立奴 巻目之 由槻我高仁 雲居立有良志

                  (柿本人麻呂歌集 巻七 一〇八七)

 

≪書き下し≫穴師川(あなしがは)川波立ちぬ巻向(まきむく)の弓月が岳(ゆつきがたけ)に雲居(くもゐ)立てるらし

 

(訳)穴師の川に、今しも川波が立っている。巻向の弓月が岳に雲が湧き起っているらしい。(同上)

 一〇八七,一〇八八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その69改)で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 「弓月が岳」を詠んだ歌をもう一首みてみよう。

 

◆玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏▼

                  (柿本人麻呂歌集 巻十 一八一六)

  ▼は「雨かんむり」に「微」である。「霞霏▼」で{かすみたなびく}

 

≪書き下し≫玉かぎる夕(ゆふ)さり来(く)ればさつ人(ひと)の弓月が岳に霞たなびく

 

(訳)玉がほのかに輝くような薄明りの夕暮れになると、猟人(さつひと)の弓、その弓の名を負う弓月が岳に、いっぱい霞がたなびいている。(同上)

(注)たまかぎる【玉かぎる】分類枕詞:玉が淡い光を放つところから、「ほのか」「夕」「日」「はろか」などにかかる。また、「磐垣淵(いはかきふち)」にかかるが、かかり方未詳。(学研)

(注)さつひとの【猟人の】分類枕詞:猟師が弓を持つことから「弓」の同音を含む地名「ゆつき」にかかる。「さつひとの弓月(ゆつき)が嶽(たけ)」 ※「さつひと」は猟師の意。(学研)

 

 

 一〇八八歌の(注)に弓月が岳について「三輪山東北の巻向山の最高峰」となっていたが、巻向山を調べてみよう。

 「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」に次のように書かれている。

「まきむくやま【巻向山】:奈良県桜井市の北部,三輪山の北東にある山。標高567m。〈纏向山〉とも書く。2峰からなり,《万葉集》に詠まれる弓月ヶ嶽(ゆつきがたけ)(由槻ヶ嶽)はこの一峰にあてられる。またこの付近の山を含めて巻向山とよぶ。西麓は垂仁天皇の纏向珠城(たまき)宮,景行天皇の纏向日代(ひしろ)宮が置かれたと推定される地。付近には山辺(やまのべ)の道が通り,巻向山に発し南西流して初瀬(はせ)川に注ぐ巻向川とともに古来,歌に詠まれている。」

 

 「巻向山」や「三室の山」を詠んだ、題詞「山を詠む」として一〇九二から一〇九四歌が収録されている。左注に「右の三首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ」とある。

 歌をみてみよう。

 

◆動神之 音耳聞 巻向之 檜原山乎 今日見鶴鴨

               (柿本人麻呂歌集 巻七 一〇九二)

 

≪書き下し≫鳴る神の音のみ聞きし巻向の檜原(ひはら)の山を今日(けふ)見つるかも

 

(訳)噂にだけ聞いていた纏向の檜原の山、その山を、今日この目ではっきり見た。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)なるかみの【鳴る神の】分類枕詞:「雷の」の意から、「音(おと)」にかかる。(学研)

(注の注)なるかみ【鳴る神】名詞:かみなり。雷鳴。[季語] 夏。 ⇒参考 「かみなり」は「神鳴り」、「いかづち」は「厳(いか)つ霊(ち)」から出た語で、古代人が雷を、神威の現れと考えていたことによる。(学研)

 

 当時、巻向の檜原の山と言えば、誰一人知らないものはいないほどであったのだろう。雷鳴のような評判を聞いているとの歌いだしが物語っている。

 

 

◆三毛侶之 其山奈美尓 兒等手乎 巻向山者 継之宜霜

               (柿本人麻呂歌集 巻七 一〇九三)

 

≪書き下し≫みもろのその山なみに子らが手を巻向山(まきむくやま)は継(つ)ぎのよろしも

 

(訳)三輪山のその山並(やまなみ)にあって、いとしい子が手をまくという名の巻向山は、並び具合がたいへんに好ましい。(同上)

(注)みもろ【御諸・三諸・御室】:神が降臨して宿る神聖な所。磐座(いわくら)(=神野語座所)のある山や、森・岩窟(がんくつ)など、特に、「三輪山(みわやま)にいうこともある。また、神坐や神社。「みむろ」とも。 ※「み」は接頭語(学研)

(注)こらがてを【児等が手を】[枕]妻や恋人の腕を巻く(=枕にする)の意から、「巻く」と同音の部分を含む地名「巻向山(まきむくやま)」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)つぎ【継ぎ・続ぎ】名詞:①続くこと。続きぐあい。②跡継ぎ。世継ぎ。(学研)ここでは①の意

 

◆我衣 色取染 味酒 三室山 黄葉為在

               (柿本人麻呂歌集 巻七 一〇九四)

 

≪書き下し≫我が衣ににほひぬべくも味酒(うまさけ)三室(みむろ)の山は黄葉(もみち)しにけり

 

(訳)私の着物が美しく染まってしまうほどに、三輪の山は見事に黄葉している。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)ぬべし 分類連語:①〔「べし」が推量の意の場合〕きっと…だろう。…てしまうにちがいない。②〔「べし」が可能の意の場合〕…できるはずである。…できそうだ。③〔「べし」が意志の意の場合〕…てしまうつもりである。きっと…しよう。…てしまおう。④〔「べし」が当然・義務の意の場合〕…てしまわなければならない。どうしても…なければならない。 ⇒なりたち 完了(確述)の助動詞「ぬ」の終止形+推量の助動詞「べし」(学研)

 

 一〇九三歌では、山並の重なり具合を、一〇九四歌では黄葉する情景を詠い上げている。

 

 この三首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その66改)で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦ください。)

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

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「巻向山」の位置 (グーグルマップから引用作成いたしました)



 

 

 次の二首もみてみよう。

 

◆兒等手乎 巻向山者 常在常 過徃人尓 徃巻目八方

                  (柿本人麻呂歌集 巻七 一二六八)

 

≪書き下し≫子らが手を巻向山(まきむくやま)は常(つね)にあれど過ぎにし人に行きまかめやも

 

(訳)いとしい子の手を枕(ま)くという名の巻向山は昔と変わらずに聳(そび)えているけれど、この世をあとにした人を訪れてその手を枕にすることはもうできない。(同上)

(注)こらがてを【児等が手を】[枕]妻や恋人の腕を巻く(=枕にする)の意から、「巻く」と同音の部分を含む地名「巻向山(まきむくやま)」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)過ぎにし人:巻向山にいいた亡き妻。

 

 

◆巻向之 山邊響而 徃水之 三名沫如 世人吾等者

                  (柿本人麻呂歌集 巻七 一二六九)

 

≪書き下し≫巻向(まきむく)の山辺(やまへ)響(とよ)みて行く水の水沫(みなわ)のごとし世の人我(わ)れは

 

(訳)巻向の山辺を鳴り響かせ流れ行く川、その川面の水泡のようなものだ。うつせみの世の人であるわれらは。(同上)

(注)みなわ【水泡】名詞:水の泡。はかないものをたとえていう。 ※「水(み)な泡(あわ)」の変化した語。「な」は「の」の意の上代の格助詞(学研)

 

 一二六八歌では、「山」に、一二六九歌では「水」に即して思いを述べている。

 

 人麻呂の生活圏を考えると巻向あたりに「隠れ妻」がいたのではと思われる。

 柿本人麻呂歌集の万葉集における位置づけについても、また歌集歌が人麻呂作かなど諸説がある。人麻呂の終焉の地とされる「石見」についてもしかりである。

 折に触れ、このような難題にも少しは向き合っていきたいものである。

 まだまだ歌碑の歌を通して見るのが精いっぱいであるが挑戦していきたいものである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「グーグルマップ」

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その1185)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(145)―万葉集 巻二十 四一〇六

●歌は、「・・・世の人の立てる言立てちさの花咲ける盛りにはしきよしその妻と子と・・・」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(145)万葉歌碑<プレート>(大伴家持



●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(145)にある。

 

●歌をみていこう。

春日大社神苑萬葉植物園シリーズ最終歌碑(プレート)である。

 

◆於保奈牟知 須久奈比古奈野 神代欲里 伊比都藝家良久 父母乎 見波多布刀久 妻子見波 可奈之久米具之 宇都世美能 余乃許等和利止 可久佐末尓 伊比家流物能乎 世人能 多都流許等太弖 知左能花 佐家流沙加利尓 波之吉余之 曽能都末能古等 安沙余比尓 恵美ゝ恵末須毛 宇知奈氣支 可多里家末久波 等己之へ尓 可久之母安良米也 天地能 可未許等余勢天 春花能 佐可里裳安良牟等 末多之家牟 等吉能沙加利曽 波奈礼居弖 奈介可須移母我 何時可毛 都可比能許牟等 末多須良无 心左夫之苦 南吹 雪消益而 射水河 流水沫能 余留弊奈美 左夫流其兒尓 比毛能緒能 移都我利安比弖 尓保騰里能 布多理雙坐 那呉能宇美能 於支乎布可米天 左度波世流 支美我許己呂能 須敝母須敝奈佐   言佐夫流者遊行女婦之字也

              (大伴家持 巻十六 四一〇六)

 

≪書き下し≫大汝(おほなむち) 少彦名(すくなひこな)の 神代(かみよ)より 言い継(つ)ぎけらく 父母を 見れば尊(たふと)く 妻子(めこ)見れば 愛(かな)しくめぐし うつせみの 世のことわりと かくさまに 言ひけるものを 世の人の 立つる言立(ことだ)て ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の子(こ)と 朝夕(あさよひ)に 笑(ゑ)みみ笑まずも うち嘆き 語りけまくは とこしへに かくしもあらめや 天地(あめつち)の 神(かみ)言寄(ことよ)せて 春花の 盛もあらむと 待たしけむ 時の 盛りぞ 離れ居て 嘆かす妹(いも)が いつしかも 使(つかひ)の来(こ)むと 待たすらむ 心寂(さぶ)しく 南風(みなみ)吹き 雪消(ゆきげ) 溢(はふ)りて 射水川(いみづかは) 流る水沫(みなわ)の 寄るへなみ 佐夫流(さぶる)その子に 紐(ひも)の緒(を)の いつがり合ひて にほ鳥の ふたり並び居(ゐ) 奈呉(なご)の海の 奥(おき)を深めて さどはせる 君が心の すべもすべなさ   左夫流と言ふは遊行女婦が字なり

 

(訳)大汝命と少彦名命(みこと)が国土を造り成したもうた遠い神代の時から言い継いできたことは、「父母は見ると尊いし、妻子は見るといとしくいじらしい。これがこの世の道理なのだ」と、こんな風(ふう)に言ってきたものだが、それが世の常の人の立てる誓いの言葉なのだが、言葉どおりに、ちさの花の真っ盛りの頃に、いとしい奥さんと朝に夕に、時にほほ笑み時に真顔で、溜息まじりに言い交した、「いつまでもこんな貧しい状態が続くということがあろうか、天地の神々がうまく取り持って下さって、春の花の盛りのように栄える時もあろう」という言葉をたよりに奥さんが待っておられた、その盛りの時が今なのだ。離れていて溜息ついておられるお方が、いつになったら夫の使いが来るのだろうとお待ちになっているその心はさぞさびしいことだろうに、ああ、南風が吹き雪解け水が溢れて、射水川の流れに浮かぶ水泡(みなわ)のように寄る辺もなくてうらさびれるという、左夫流と名告るそんな娘(こ)なんぞに、紐の緒のようにぴったりくっつきあって、かいつぶりのように二人肩を並べて、奈呉の海の底に深さのように、深々と迷いの底にのめりこんでおられるあなたの心、その心の何とまあ処置のしようのないこと。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)ちさ【萵苣】名詞:木の名。えごのき。初夏に白色の花をつける。一説に「ちしゃのき」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)はしきやし【愛しきやし】分類連語:ああ、いとおしい。ああ、なつかしい。ああ、いたわしい。「はしきよし」「はしけやし」とも。※上代語。(学研) ⇒参考 愛惜や追慕の気持ちをこめて感動詞的に用い、愛惜や悲哀の情を表す「ああ」「あわれ」の意となる場合もある。「はしきやし」「はしきよし」「はしけやし」のうち、「はしけやし」が最も古くから用いられている。 ⇒なりたち 形容詞「は(愛)し」の連体形+間投助詞「やし」(学研)

(注)ゑむ 【笑む】①ほほえむ。にっこりとする。微笑する。②(花が)咲く。(学研)

(注)ことよす【言寄す・事寄す】①言葉や行為によって働きかける。言葉を添えて助力する。②あるものに託す。かこつける。③うわさをたてる。➡ここでは①の意(学研)

(注)はるはなの【春花の】分類枕詞:①春の花が美しく咲きにおう意から「盛り」「にほえさかゆ」にかかる。②春の花をめでる意から「貴(たふと)し」や「めづらし」にかかる。③春の花が散っていく意から「うつろふ」にかかる。(学研)

(注)ひものおの【紐の緒の】 枕詞 :① 紐を結ぶのに、一方を輪にして他方をその中にいれるところから、「心に入る」にかかる。 ② 紐の緒をつなぐことから、比喩的に「いつがる」にかかる。(コトバンク 三省堂大辞林

(注)いつがる【い繫る】つながる。自然につながり合う。「い」は接頭語。(学研)

(注)にほどりの【鳰鳥の】枕詞:かいつぶりが、よく水にもぐることから「潜(かづ)く」および同音を含む地名「葛飾(かづしか)」に、長くもぐることから「息長(おきなが)」に、水に浮いていることから「なづさふ(=水に浮かび漂う)」に、また、繁殖期に雄雌が並んでいることから「二人並び居(ゐ)」にかかる。(学研)

(注)さどはす【文語】ハ行四段活用の動詞「さどう」の未然形である「さどは」に、使役の助動詞「す」が付いた形。(weblio辞書 日本語活用形辞書)>さどふ:〔自ハ四〕 迷う、また、愛におぼれる、の意か。(weblio辞書 精選版日本国語大辞典

(注)すべもすべなさ【術も術なさ】分類連語:どうにもしようがないことだ。

※「すべなし」を強めたもの。(学研)

 

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その473)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『やまぢさ』は山に生えている『ちさ』の意味で『岩煙草(イワタバコ)』・『えごの木』などの説が措定される。

 『えごの木』は山地や雑木林などに多い落葉高木で、高さは7~15メートルになる。初夏に小枝の先に5~6個の5弁の星型の白い小花が下に垂れて咲く。花は一度に咲き乱れ、咲き終わると楕円形のかわいい小粒の実がぶら下がる。名の由来はこの実の皮に『エゴサポニン』という成分が含まれており、のどを刺激して『えぐい』ことに由来する。(中略)又『えごの木』は昔、傘の『ろくろ』を作る材料になっていたことから『ろくろの木』の別名がある。別名に『ちさ』・『ちさのき』・『ずさのき』・『ちしゃ』・『ちしゃのき』などの呼び名も残っている。」と書かれている。

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エゴノキ」 weblio辞書 デジタル大辞泉より引用させていただきました。

 

この歌ならびに反歌三首、「同じき月の十七日」の家持の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その123改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦ください。)

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 上司として家持は、淡々と尾張少咋(をはりのをくひ)の不倫の不条理を詠い、奥さんの気持ちを「いつしかも 使(つかひ)の来(こ)むと 待たすらむ 心寂(さぶ)しく」と代弁し、「さどはせる 君が心の すべもすべなさ」と一刀両断している。

 結句の重みは少咋には相当の効き目であっただろう。

 

 かかる顛末まで万葉集には収録されている。歌物語としての側面と万葉集としての裾野の広さ、懐の深さを感じざるをえない。

 ますます引き込まれている。

 

 今回で、春日大社神苑萬葉植物園シリーズは終わりである。

 植物が中心であるので、どうしてもこれまでの歌と重複してくる。しかし歌を読み返し、関連事項を掘り下げて行けばなんとかブログとして体をなしたのではないかと自負している。

 これからも重複する歌が結構登場してくるが、歌を見る角度、歌の視線の先、隠れているであろう事柄などにせまり、楽しく付き合って行きたいものである。

 

 拙いブログにお付き合いいただいている皆様方の温かい思いやりを励みの前に前に進んでまいります。

 これからもよろしくお付き合いくださいますようお願い申し上げます。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物説明板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 精選版日本国語大辞典

★「weblio辞書 日本語活用形辞書」