万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1184)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(144)―万葉集 巻十二 三一〇一、三一〇二

●歌は、「紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の衢に逢へる児や誰(三一〇一歌)」と

「たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(三一〇二歌)」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(144)万葉歌碑(作者未詳)



●歌碑は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(144)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十衢尓 相兒哉誰

              (作者未詳 巻十二 三一〇一)

 

≪書き下し≫紫(むらさき)は灰(はい)さすものぞ海石榴市(つばきちの)の八十(やそ)の衢(ちまた)に逢(あ)へる子や誰(た)れ

 

(訳)紫染めには椿の灰を加えるもの。その海石榴市の八十の衢(ちまた)で出逢った子、あなたはいったいどこの誰ですか。(伊藤 博著「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)

(注)上二句「紫者 灰指物曽」は懸詞の序で、「海石榴市」を起こす。 ※紫染には、媒染材として椿の灰をつかった。

(注)はひさす【灰差す】分類連語:紫色を染めるのに椿(つばき)の灰を加える。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)海石榴市:桜井市金屋。著名な歌垣の地。

(注)衢(ちまた):分かれ道や交差点のことで、道がいくつにも分かれている所は「八衢(やちまた)」と呼ばれていた。海石榴市は四方八方からの主要な街道が交差している場所なので、「八十(やそ)の衢(ちまた)」と表現された。(「万葉のうた 第3回 海石榴市(つばいち)」 奈良県HP) 

 

 部立「問答歌」とあり、この歌と次の歌がセットになっている。

 

◆足千根乃 母之召名乎 雖白 路行人乎 孰跡知而可

                (作者未詳 巻十二 三一〇二)

 

≪書き下し≫たらちねの母が呼ぶ名を申(まを)さめど道行く人を誰と知りてか

 

(訳)母さんの呼ぶたいせつな私の名を申してよいのだけれど、道の行きずりに出逢ったお方を、どこのどなたと知って申し上げたらよいのでしょうか。(伊藤 博著「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)

(注)母が呼ぶな名:母が呼ぶ本名。

(注)む 助動詞:《接続》活用語の未然形に付く。〔意志〕…(し)よう。…(する)つもりだ。(学研)

 

三一〇一歌は、歌垣で求婚を申し出ている。当時は名前を尋ねることは求婚を意味し、女性が名前を教えることは結婚を承諾するということである。三一〇二歌で、教えたいけど教えられない、と申し込みをやんわりことわっている。

 

「紫(むらさき)は灰(はい)さすものぞ海石榴市(つばいちの)の」と染の技術に関わることをさらっと歌うことに驚きを隠せない。当時としては、歌垣での歌と考えると、洒落た言い回しとしてある程度定着していたのかもしれない。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その

 

 「海石榴市」を詠んだ歌がもう一首収録されているのでみてみよう。

 

◆海石榴市之 八十衢尓 立平之 結紐乎 解巻惜毛

                  (作者未詳 巻十二 二九五一)

 

≪書き下し≫海石榴市(つばきち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し結びし紐(ひも)を解(と)かまく惜(を)しも

 

(訳)海石榴市のいくつにも分かれる辻(つじ)に立って、広場を踏みつけ踏みつけして躍った時に結び合った紐、この紐を解くのは惜しくてならない。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)まく:…だろうこと。…(し)ようとすること。 ※派生語。 ⇒語法 活用語の未然形に付く。 ⇒なりたち 推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」(学研)

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その59改、60改)」で紹介している。

ここでは、桜井市金屋の歌碑とともに紹介している。

 ➡ 

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 「市」について、古橋信孝氏は、その著「古代の恋愛生活 万葉集の恋歌を読む」(NHKブックス)の中で、「八十の衢とは、いくつもの道が出会う場所である。市とは本来そういう所にたった。・・・それぞれの道の先にはいくつかの共同体があるということで、共同体同志が出会う特殊な場所ということである。・・・ある共同体にとって別の共同体は異界だった。・・・市では、たがいの共同体を象徴する物を交換することで、それぞれが異界との交流を明確にした。そういう特殊な空間が市だったのである。だから市での出逢いは特殊なもので、異郷の男との出逢い」の場であった。血が遠い者との結婚がなりたっていたのである。

市での歌垣は、そういう出逢いの場を提供する役目も果たしていたのである。

 

 大和には古道の衢に海石榴市や軽市があったと知られているが、平城京の成立とともに官市が設けられた。東市と西市があった。

(注)軽市:奈良県橿原市石川町付近にあった古代の市。大化の改新以後奈良時代にかけて最も繁栄。畝傍 (うねび) 山南部一帯は軽と呼ばれ、古くから開発が進んで集落が発達し、経済的先進地域で市も繁栄した。(コトバンク 旺文社日本史事典 三訂版)

 

平城京の東市に関わる歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その23改)」で紹介している。

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同様に西市についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その384)」で紹介している。

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柿本人麻呂が、亡妻を偲んで「軽市」の雑踏にたたずむ歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その140改)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「古代の恋愛生活 万葉集の恋歌を読む」 古橋信孝 著 (NHKブックス

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 旺文社日本史事典 三訂版」                                        

万葉歌碑を訪ねて(その1183)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(143)―万葉集 巻二 九十歌左注

●巻二 九十歌の左注は、「・・・三十年の秋の九月乙卯の朔の乙丑に、皇后紀伊国に遊行まして熊野の岬に到りてその処の御綱葉を取りて還る・・・」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(143)万葉歌碑<プレート>(巻二 九十歌左注)

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(143)にある。

 

●左注をみていこう。

 

 左注の原文は、「右一首歌古事記与類聚歌林所説不同歌主亦異焉 因檢日本紀曰 難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰天皇歌以乞於皇后云ゝ 卅年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之御綱葉而還 於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中 時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女大恨之云ゝ 亦曰 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春三月甲午朔庚子木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女亦艶妙也云ゝ 遂竊通乃悒懐少息廿四年夏六月御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親ゝ相奸乎云ゝ 仍移太娘皇女於伊豫者 今案二代二時不見此歌也」である。

 

≪左注の書き下し≫右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じくあらず、歌の主(ぬし)もまた異(こと)なり。よりて日本紀(にほんぎ)に検(ただ)すに、曰はく、『難波の高津の宮に天の下知らしめす大鷦鷯天皇(おほさぎきのすめらみこと)の二十二年の春の正月に、天皇、皇后(おほきさき)に語りて、八田皇女(やたのひめみこ)を納(めしい)れて妃(きさき)とせむとしたまふ。時に、皇后聴(うけゆる)さず。ここに天皇、歌(みうた)よみして皇后に乞ひたまふ云々(しかしか)。三十年の秋の九月乙卯(きのとう)の朔(つきたち)の乙丑(きのとうし)に、皇后紀伊国(きのくに)に遊行(いで)まして熊野(くまの)の岬(みさき)に到りてその処の御綱葉(みつなかしは)を取りて還(まゐかへ)る。ここに天皇、皇后の在(いま)さぬを伺(うかか)ひて八田皇女(やたのひめみこ)を娶 (め)して宮(おほみや)の中(うち)に納(めしい)れたまふ。時に、皇后難波(なには)の済(わたり)に到りて、天皇の八田皇女を合(め)しつと聞きて大きに恨みたまふ云々』といふ。また曰はく、『遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)の二十三年の春の三月甲午(きのえうま)の朔(つきたち)の庚子(かのえね)に、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子(ひつぎのみこ)となす。容姿(かほ)佳麗(きらきら)しく見る者(ひと)おのずから感(め)づ。同母妹(いろも)軽太娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)もまた艶妙(かほよ)し云々。つひに竊(ひそ)かに通(あ)ふ。すなはち悒懐(いきどほり)少しく息(や)む。二十四年の夏の六月に、御羮(みあつもの)の汁凝(こ)りて氷(ひ)となる。天皇異(あや)しびてその所由(よし)を卜(うら)へしめたまふ。卜者(うらへ)の曰(まを)さく、『内の乱(にだれ)有り。けだしくは親々(はらから)相(どち)奸(たは)けたるか云々』とまをす。よりて、太娘皇女を伊与に移す」といふ。今案(かむが)ふるに、二代二時(ふたとき)にこの歌を見ず。

(注)おおさざきのみこと【大鷦鷯天皇】:仁徳天皇の名。

(注)八田皇女(やたのひめみこ):仁徳天皇の異母妹。当時は、母の違う兄弟姉妹の結婚は認められた。

(注)きさき【后・妃】: 天皇の配偶者。皇后。中宮。また、女御などで天皇の母となった人。律令制では特に称号の第一とされた。 → 夫人・嬪(ひん)と続く。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)熊野の岬:和歌山県南方の海岸。熊野は古代人にとっては聖地。

(注)みつながしは【御綱柏】〘名〙 (「みつなかしわ」とも):① =みつのかしわ(三角柏)※古事記(712)下「大后豊楽したまはむと為て、御綱柏(みつながしは)を採りに、木国に幸行でましし間に」② 植物「おおたにわたり(大谷渡)」の古名。③ 植物「かくれみの(隠蓑)」の異名。〔日本植物名彙(1884)〕(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注の注)古事記の読みは、「大后(おほきさき)豊楽(とよのあかり)したまはむと為(し)て、御綱柏(みつながしは)を採りに、木国(きのくに)に幸行(いでまし)し間に・・・」

(注)内の乱れ:同居血縁者の不倫。

(注)二代二時にこの歌を見ず:日本書記には、仁徳・允恭両朝のいずれにも八五・九〇のような歌は見当たらない、の意。八五の歌は、磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の歌で、「君が行き日(け)長くなりぬ山尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」である。

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「カクレミノ」 熊本市動植物園HPより引用させていただきました。

 

 この左注については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1143)」で紹介している。この時は、歌碑(プレート)には、左注の「みつながしわ」については、「タニワタリ」と紹介していた。

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 「かしは」は、本来炊葉(かしば)の意味で、「食べ物を盛る葉」の総称であった。大きくて丈夫な葉は食物を盛り、包むのに有用であった。

 万葉集では、「かしは」、「あからがしは」、「このてがしは」、「ほほがしは」という形で詠まれている。

 

 これらをみてみよう。

 

■「かしは」は三首収録されている。

 

◆能野川 石迹柏等 時齒成 吾者通 万世左右二

                  (作者未詳 巻七 一一三四)

 

≪書き下し≫吉野川(よしのがは)巌(いはほ)と柏(かしは)と常磐(ときは)なす我(わ)れは通(かよ)はむ万代(よろづよ)までに

 

(訳)吉野川に根を張る巌(いわお)と柏(かや)の木とが変わることがないように、われらは変わりなくここに通おう。いついつまでも。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)柏:鶴 久・森山 隆 編 「萬葉集」 (桜楓社)では「かしは」と読んでいるが、伊藤 博氏は、「かへ」と読み、常緑高木の「榧(かや)」とされている。

 

 これは、歌の内容からいっても「榧(かや)」に軍橋が上がりそうである。

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「カヤ」 男鹿市HPより引用させていただきました。

 

◆秋柏 潤和川邊 細竹目 人不顏面 公无勝

                  (作者未詳 巻十一 二四七八)

 

≪書き下し≫秋柏(あきかしは)潤和川(うるはかは)辺(へ)の小竹(しの)の芽(め)の人には忍(しの)び君に堪(あ)へなくに

 

(訳)潤和川のほとりの小竹(しの)の芽ではないが、他の人の目なら忍び隠すことができても、あの方の前では、とても溢(あふ)れる心を抑えることはできない。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)秋柏:潤和川(所在未詳)の枕詞。

(注)上三句は序。「忍び」を起こす。

 

 

◆朝柏 閏八河邊之 小竹之眼笶 思而宿者 夢所見来

                  (作者未詳 巻十一 二七五四)

 

≪書き下し≫朝柏(あさかしは)潤八川(うるはちかわ)辺(へ)の小竹(しの)の芽(め)の偲(しの)ひて寝(ぬ)れば夢(いめ)に見えけり

 

(訳)潤八川の川辺の小竹(しの)の芽ではないが、あの人を偲んで寝たところ、その姿が夢に見えた。(同上)

(注)上三句は序。「偲ふ」を起こす。

 

 

■赤ら柏

 

◆伊奈美野之 安可良我之波ゝ 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之

               (安宿王 巻二十 四三〇一)

 

≪書き下し≫印南野(いなみの)の赤ら柏(がしは)は時はあれど君を我(あ)が思(も)ふ時はさねなし

 

(訳)印南野の赤ら柏は、赤らむ季節が定まっておりますが、大君を思う私の気持ちには、いついつと定まった時など、まったくありません。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 (注)印南野 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の兵庫県加古川市から明石市付近。「否(いな)」と掛け詞(ことば)にしたり、「否」を引き出すため、序詞(じよことば)的な使い方をすることもある。稲日野(いなびの)。(学研)

(注)さね 副詞:①〔下に打消の語を伴って〕決して。②間違いなく。必ず。(学研)

 

 この歌については直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1120)」で紹介している。

 ➡ こちら1120

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カシワ 20210523万葉の小径で撮影

 

■児手柏(このてかしは)二首

 

◆奈良山乃 兒手柏之 兩面尓 左毛右毛 ▼人之友

               (消奈行文大夫 巻十六 三八三六)

 ※ ▼は、「イ+妾」となっているが、「佞」が正しい表記である。➡以下、「佞人」と書く。読みは、「こびひと」あるいは「ねぢけびと」➡以下、「こびひと」と書く。

 

≪書き下し≫奈良山(ならやま)の児手柏(このてかしは)の両面(ふたおも)にかにもかくにも佞人(こびひと)が伴(とも)

 

(訳)まるで奈良山にある児手柏(このてかしわ)のように、表の顔と裏の顔とで、あっちにもこっちにもいい顔をして、いずれにしても始末の悪いおべっか使いの輩よ。(同上)

(注)上二句「奈良山乃 兒手柏之」は、「兩面尓」を起こす序。

(注)かにもかくにも 副詞:とにもかくにも。どうであれ。(学研)

(注)ねいじん【佞人】:心がよこしまで人にへつらう人。(weblio辞書 三省堂大辞林 第三版)

 

今でも干物などを盛り付けるヒノキ科のコナノテカシワがある。こちらは、両面同じで裏表の区別がつかない。

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「コノテガシワ」(ヒノキ科) みんなの趣味と園芸(NHK出版HP)より引用させていただきました。

 三八三六歌は、ヒノキ科のコナノテカシワを喩えに用いて、「表の顔と裏の顔とで、あっちにもこっちにもいい顔をして、いずれにしても始末の悪いおべっか使いの輩よ。」と批判しているのである。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その540)」で紹介している。

 ➡ 

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◆知波乃奴乃 古乃弖加之波能 保ゝ麻例等 阿夜尓加奈之美 於枳弖他加枳奴

       (大田部足人 巻二十 四三八七)

 

≪書き下し≫千葉(ちば)の野(ぬ)の子手柏(このてかしは)のほほまれどあやに愛(かな)しみ置きてたか来(き)ぬ

 

(訳)千葉の野の児手柏の若葉のように、まだ蕾(つぼみ)のままだが、やたらにかわいくてならない。そのままにしてはるばるとやって来た、おれは。(同上)

(注)ほほまる【含まる】自動詞:つぼみのままでいる。(学研)

(注)たか-【高】接頭語:〔名詞や動詞などに付いて〕高い。大きい。立派な。「たか嶺(ね)」「たか殿」「たか知る」「たか敷く」(同上)

 

左注は、「右一首千葉郡大田部足人」<右の一首は千葉(ちば)の郡(こほり)の大田部足人(おほたべのたりひと)>である。

「防人歌」である。

 

 この「児の手柏」は、文字通り椎葉を子供の掌に見立てたもので、ブナ科のカシワの若葉と考えられている。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その983)」で紹介している。

 ➡ 

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■ほほがしは二首

 

 四二〇四、四二〇五歌の題詞は、「見攀折保寳葉歌二首」<攀(よ)ぢ折(を)れる保宝葉(ほほがしは)を見る歌二首>である。

 

◆吾勢故我 捧而持流 保寶我之婆 安多可毛似加 青盖

               (講師僧恵行 巻十九 四二〇四)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)が捧(ささ)げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋(きぬがさ)

 

(訳)あなたさまが、捧げて持っておいでのほおがしわ、このほおがしわは、まことにもってそっくりですね、青い蓋(きぬがさ)に。(同上)

(注)我が背子:ここでは大伴家持をさす。

(注)あたかも似るか:漢文訓読的表現。万葉集ではこの一例のみ。

(注)きぬがさ【衣笠・蓋】名詞:①絹で張った長い柄(え)の傘。貴人が外出の際、従者が背後からさしかざした。②仏像などの頭上につるす絹張りの傘。天蓋(てんがい)。(学研)

 

 

 「厚朴(ほおがしわ)は、今日のホホノキ、またはホオガシワノキ、ホオガシワを指している。落葉高木で、葉は大きく、若葉の頃は赤みを帯びている。万葉集では二度歌われているきりで、講師(国分寺の僧)である僧恵行と越中国大伴家持とが同じ宴会の「ほほがしわ」を歌っているに過ぎない。二人の歌では、保宝我之波、保宝我之婆と書き表され、題詞では保宝葉と表されている。一字一首の万葉仮名は、漢字の持つ意味を考えなくてはよいとはいうものの。孤悲(こひ)が恋を表すとき、逢えぬ思いで一人つらい悲しい思いをする意味を宿しているのと同様に、ホオを保宝(ほほ)と書くことによって、宝を保つようなめでたい木の意味まで見ていたようだ。

とあり、歌碑の僧恵行の歌と大伴家持の歌が収録されている。大伴家持奈良時代越中国(今の富山県)に赴任していた時の歌である。

 

家持の歌もみてみよう。

 

◆皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曽 此保寳我之波

               (大伴家持 巻十九 四二〇五)

 

≪書き下し≫すめろきの遠御代御代(とほみよみよ)はい重(し)き折り酒(き)飲(の)みきといふぞこのほおがしは

 

(訳)古(いにしえ)の天皇(すめらみこと)の御代御代(みよみよ)では、重ねて折って、酒を飲んだということですよ。このほおがしわは。(同上)

 

 「蓋(きぬがさ)」は、上述の(注)にあったように、「絹で張った長い柄(え)の傘。貴人が外出の際、従者が背後からさしかざした。(学研)」

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その486)」で紹介している。

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ホホノキ 20210523万葉の小径で撮影




 

 今日では「柏」といえば「柏餅」を包む「柏」(ブナ科)をさすが、もともとは炊葉(かしば)の意味で、大きくて丈夫な葉は食物を盛り、包むのに有用だったのでこういった植物の総称であった。

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「柏餅」 「クラシルHP」より引用させていただきました。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林 第三版」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「クラシルHP」

★「みんなの趣味と園芸」 (NHK出版HP)

★「熊本市動植物園HP」

★「男鹿市HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1182)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(142)―万葉集 巻十四 三四四四

●歌は、「伎波都久の岡の茎韮我れ摘めど籠にも満たなふ背なと摘まさね」

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(142)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)



●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(142)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 

◆伎波都久乃 乎加能久君美良 和礼都賣杼 故尓毛美多奈布 西奈等都麻佐祢

               (作者未詳 巻十四 三四四四)

 

≪書き下し≫伎波都久(きはつく)の岡(おか)の茎韮(くくみら)我(わ)れ摘めど籠(こ)にも満(み)たなふ背(せ)なと摘まさね

 

(訳)伎波都久(きわつく)の岡(おか)の茎韮(くくみる)、この韮(にら)を私はせっせと摘むんだけれど、ちっとも籠(かご)にいっぱいにならないわ。それじゃあ、あんたのいい人とお摘みなさいな。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)茎韮(くくみら):ユリ科のニラの古名。コミラ、フタモジの異名もある。中国の南西部が原産地。昔から滋養分の多い強精食品として知られる。

(注)なふ 助動詞特殊型:《接続》動詞の未然形に付く。〔打消〕…ない。…ぬ。 ※上代の東国方言。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

上四句と結句が二人の女が唱和する形になっている。韮摘みの歌と思われる。

東歌には、このような生活に密着した歌が多いのである。同じ働くなら明るく楽しくといった感じで、歌われ、共感に価する歌は歌い継がれ、また伝播していったものと思われる。

掛け合い的な歌やリズミカルな歌が多いのは、集団で作業することが多かったからであろう。今では機械化されて歌どころではないが、田植え歌や茶摘み歌といったものを思い浮かべるとその背景が少しは理解できるのである。

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その322)」で紹介している。

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次の歌をみてみよう。

 

◆筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母

                 (作者未詳 巻十四 三三五一)

 

≪書き下し≫筑波嶺(つくはね)に雪かも降(ふ)らるいなをかも愛(かな)しき子(こ)ろが布(にの)乾(ほ)さるかも

 

(訳)筑波嶺に雪が降っているのかな、いや、違うのかな。いとしいあの子が布を乾かしているのかな。(同上)

(注)降らる:「降れる」の東国形。

(注)いなをかも【否をかも】分類連語:いや、そうではないのかな。違うのだろうか。 ⇒

なりたち 感動詞「いな」+間投助詞「を」+係助詞「かも」(学研)

(注)ニノ:「ヌノ」の訛り。

(注)乾さる:「乾せる」の東国形。

 

 この歌(常陸国の歌)に関して、犬養 孝氏は、その著「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で「昔の常陸国武蔵国というのは、貢物として布を多く出していたところなんです。だからこれは、そういう布を晒す人たちの間でうたわれた歌であり、生活の必要が生んだ歌、(中略)だからこれは労働作業歌。」と書かれている。

 

 

 

 

◆多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎

                  (作者未詳 巻十四 三三七三)

 

≪書き下し≫多摩川(たまがは)にさらす手作(てづく)りさらさらになにぞこの子のここだ愛(かな)しき

 

(訳)多摩川にさらす手織の布ではないが、さらにさらに、何でこの子がこんなにもかわいくってたまらないのか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「さらさらに」を起こす。

(注)さらす【晒す・曝す】他動詞:①外気・風雨・日光の当たるにまかせて放置する。②布を白くするために、何度も水で洗ったり日に干したりする。③人目にさらす。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは②の意

(注)ここだ【幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。 ※上代語。(学研) ここでは②の意

 

 リズミカルで、心情そのままの思いを詠っている。労働作業歌であろう。

 もう一首みてみよう。

 

◆可美都氣努 安蘇能麻素武良 可伎武太伎 奴礼杼安加奴乎 安杼加安我世牟

                  (作者未詳 巻十四 三四〇四)

 

≪書き下し≫上つ毛野(かみつけの)安蘇(あそ)のま麻群(そむら)かき抱(むだ)き寝(ぬ)れど飽(あ)かぬをあどか我(あ)がせむ

 

(訳)上野の安蘇の群れ立つ麻、その麻の群れを抱きかかえて引き抜くように、しっかと抱いて寝るけれど、それでも満ち足りない。ああ、俺はどうしたらいいのか。(同上)

(注)上野 分類地名:旧国名東山道十三か国の一つ。今の群馬県。古くは「下野(しもつけ)」と共に毛野(けの)の国に属していたが、大化改新のとき分かれて「上毛野」となった。上州(じようしゆう)。 ※「かみつけの(上毛野)」↓「かみつけ」↓「かうづけ」と変化した語。(学研)

(注)安蘇:安蘇は麻緒(アサオ)の略かもしれません。麻を産するため、この名前があると和名抄は解しています。下野国志にも安蘇の名前は麻より出でしとあり、現に馬門に麻田明神があります。(佐野市HP)

(注)あど 副詞:どのように。どうして。 ※「など」の上代の東国方言か。(学研)

 

  麻の産地安蘇の労働作業歌であろう。

 「安蘇のま麻群(そむら)」「かき抱(むだ)き」「寝(ぬ)れど飽(あ)かぬをあどか我(あ)がせむ」のこのリズム感が心地良い。

 歌の内容は、麻の大きな束をしっかりと抱きかかえているように、いとしい子を抱きしめて寝ても、寝ても、寝ても寝たりない、わたしゃどうしたらいいのかね、と詠っている。実際の体験そのものをある意味素直に詠っているのである。露骨と言えばそれまでであるが、生き生きとして、それでいて下品さをみじんも感じさせない。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1071)」で紹介している。

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 これらの歌は、東国の地名、方言や訛り、発想の素朴性など。「東歌」の要件は満たしている。民謡とか労働歌を考えてみると「五七五七七」という枠に必ずしも捉われていない。

しかし、巻十四の「東歌」は完璧なまでに「五七五七七」にはまっている。ここに労働歌や民謡が「五七五七七」枠に東歌ぽく再構築されたのではないかと言う疑問が生じて来る。

 

神野志隆光氏は、その著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」(東京大学出版会)のなかで、「決定的なのは、東歌が定型短歌に統一されているという動かしがたい事実」と、ズバッと言い切られ、労働に結びついた、あるいは素朴な性愛表現や方言などを有していることについては、「古代宮廷が、世界の組織の証として東国の風俗歌舞をもとめたものであって、東国性をよそおうことがそこでは必要だった」(同著)と書かれておられる。

 労働に結びついた等の特異な内容に、東国の地名、さらには方言といった要素を「東国の在地性」という言葉で表現されている。

 そして、万葉集における「巻十四の位置づけ」について、「東国にも定型の短歌が浸透しているのを示すということです。それは中央の歌とは異なるかたちであらわれて東国性を示しますが、東歌によって、東国までも中央とおなじ定型短歌におおわれて、ひとつの歌の世界をつくるものとして確認されることとなります。そうした歌の世界をあらしめるものとして東歌の本質を見るべきです。それが『万葉集』における巻十四なのです」と述べられている。

 

 万葉集の一つの力を見せつけられたように思う。

 万葉集は、単なる歌集ではない。秘めたる力を垣間見たように感じられた。

 

 

 春日大社神苑萬葉・植物解説板によると、「『みら』は『韮(ニラ)』の古名で『コミラ』・『フタモジ』の異名もあり中国の南西部が原産地で、古来より葉を野菜として食べるために畑で栽培された多年草である。ニンニク・ネギ・ヒルラッキョウと共に『五葷(ゴクン)』と呼ばれ、匂いの強い5種の野菜の一つである。『くくみら』はニラの花茎のことで『茎韮(クキニラ)』の意味である。(後略)」と書かれている。

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「ニラ」:「園芸通信」(サカタのタネHP)より引用させていただきました。

 

 話がそれますが、ニラといえば、以前、岡山に出張した時に、黄ニラ寿司を食べたことがあった。やわらかく甘みがあっておいしかった記憶がある。あれ以来、めったにお目にかからないが、店頭で見つけた時は買い求めるようにしている。

黄ニラは、トンネル栽培などで日光を遮断して作るそうである。

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「黄ニラ」 JA晴れの国岡山より引用させていただきました。

 廣野 卓氏は、その著「食の万葉集」(中公新書)の中で、三四四四歌に関して、「籠一杯つんだニラは、その日のうちに食べきれるものではない。塩漬けなどにして貯蔵するためにつんでいるのである。(中略)古代では主食にかぎらず、漬けものや魚介類の干ものなど、収穫期に一年間の食料を確保するという切実な問題をかかえていた。そのために青菜の漬けものなどが底をつく早春は、若菜の芽生えがまたれるのである。」と書かれている。

 

 歌を通して当時の生活様式などを知ることができる。口誦から記録への過渡期にあった万葉集は、っと思わずうなってしまう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「食の万葉集」 廣野 卓 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「園芸通信」(サカタのタネHP)

★「JA晴れの国岡山」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1181)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(141)―万葉集 巻十 一九七四

●歌は、「春日野の藤は散りにて何をかもみ狩の人の折りてかざらむ」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(141)万葉歌碑<プレーと>(作者未詳)



●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(141)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆春日野之 藤者散去而 何物鴨 御狩人之 折而将挿頭

               (作者未詳 巻十 一九七四)

 

≪書き下し≫春日野(かすがの)の藤(ふぢ)は散りにて何(なに)をかもみ狩(かり)の人の折りてかざさむ

 

(訳)春日野の藤はとっくに散ってしまったことなのに、これからは何をまあ、み狩の人びとは、折ろ取って髪に挿すのであろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)にて 分類連語:…てしまって(いて)。 ⇒なりたち 完了の助動詞「ぬ」の連用形+接続助詞「て」(学研)

(注)み狩;五月五日の薬狩。この狩を春日野における成年式とみる説も。藤の花は成年式の挿頭には必須のものであった。

 

 万葉集には、「藤」を詠んだ歌は二十六首収録されている。

藤の花房の風に揺れるさまを波に見立てて「藤波」いう語が十八首で使われているがなかなかに美しい響きの言葉である。

 「ときじきふじ」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1161)」で紹介している。

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 一九七四歌ならびに「み狩」を詠んだ歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1064)」で紹介している。

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 春日野や高円山では「み狩」が行われていたようである。

 

高円山の「み狩」において「むささび」を捕まえたことに関する大伴坂上郎女の歌がある。おもしろいのでみてみよう。

 

題詞は、「十一年己卯 天皇遊獦高圓野之時小獣泄走都里之中 於是適値勇士生而見獲即以此獣獻上御在所副歌一首<獣名俗曰牟射佐妣>」<十一年己卯(つちのとう)に、天皇(すめらみこと)、高円(たかまと)の野に遊猟(みかり)したまふ時に、小さき獣(けもの)都里(みやこ)の中に泄走(せつそう)す。ここにたまさかに勇士に逢ひ、生きながらにして獲(と)らえぬ。すなはち、この獣をもちて御在所(いましところ)に献上(たてまつ)るに副(そ)ふる歌一首<獣の名は、俗には「むざさび」といふ>

(注)高円の野:奈良市東南部の丘陵地帯。春日山の南。聖武天皇離宮があった。

(注)泄走:囲みから逃走する意。「泄」は去る。

(注)むざさび:むささび

 

◆大夫之 高圓山尓 迫有者 里尓下来流 牟射佐毗曽此

              (大伴坂上郎女 巻六 一〇二八)

 

≪書き下し≫ますらをの高円山(たかまとやま)に迫(せ)めたれば里に下(お)り来(け)るむざさびぞこれ

 

(訳)お手許(てもと)のますらお方(かた)が高円山で追いつめましたので、この里に下りて来たむささびでございます、これは。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右一首大坂上郎女作之也 但未逕奏而小獣死斃 因此獻歌停之」<右の一首は、大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)作る。 ただし、いまだ奏(そう)を経(へ)ずして小さき獣死斃(し)ぬ。 これによりて歌を献(たてまつ)ること停(や)む。>である。

 

 むささび一匹を捕まえたので、天皇にお見せしようとしたが、肝心のむささびが死んでしまい、お見せできずまた歌を添える心づもりをしていたがこれもかなわずという、なんともほほえましいことが起こったのである。

 

 このような顛末も万葉集には収録されているのである。

 

 「むささび」を詠んだ歌は万葉集には三首が収録されている。この歌ならびに他の二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1039)」で紹介している。

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 奈良公園には、今もむささびは生息しているようである。

 

奈良公園でいちばん太いクロマツは、興福寺国宝館近くのクロマツだそうである。

環境省HP「古都の文化財を楽しみながら 巨樹めぐり」には、次のように書かれている。

奈良公園内には、黒っぽくて亀の甲羅のように六角形に割れた樹皮が特徴のクロマツがたくさんありますが、いちばん太いのがこの木。江戸時代後期の奈良名所東山一覧之図(1850年頃)には、興福寺東大寺大仏殿の一帯にクロマツが多く描かれており、当時の人々にも親しまれていたことがうかがえます。木の下には、ムササビが食べた後の、まるでエビフライのような姿になったマツボックリがたくさん落ちています。運が良ければムササビの可愛い顔が見られるかもしれません。」

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「むささび」に食べられエビフライのようになった松ぼっくり」 「奈良倶楽部通信 PART:Ⅱ」より引用させていただきました。



 

機会を見て、奈良公園に出かけ、むささびの滑空は一度は見てみたいものである。いな、エビフライのような松ぼっくりをまず探しに行きたいものである。

 

 大きく話がむささびの滑空のように飛んでしまったが、春日大社神苑萬葉植物園を訪れたのは、4月27日であったので、満開の藤を堪能したことは言うまでもない。

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春日大社神苑萬葉植物園の満開の藤 20210427撮影



 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「奈良倶楽部通信 PART:Ⅱ」

★「古都の文化財を楽しみながら 巨樹めぐり」 (環境省HP)

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その1180)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(140)―万葉集 巻四 五二四

●歌は、「むし衾なごやが下に伏せれども妹とし寝ねば肌し寒しも」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(140)万葉歌碑<プレート>(藤原麻呂



●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(140)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆蒸被 奈胡也我下丹 雖臥 与妹下宿者 肌之寒霜

             (藤原大夫 巻四 五二四)

 

≪書き下し≫むし衾(ぶすま)なごやが下に伏せれども妹とし寝(ね)ねば肌(はだ)し寒しも

 

(訳)むしで作ったふかふかと暖かい夜着にくるまって横になっているけれども、あなたと一緒に寝ているわけではないから、肌寒くて仕方がない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ふすま【衾・被】名詞:寝るときに身体にかける夜具。かけ布団・かいまきなど。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)なごや【和や】名詞:やわらかいこと。和やかな状態。※「や」は接尾語。(学研)

 

「むし」が詠われているのはこの歌のみである。「むし」について、春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板の説明を紹介しようとしたが、「むし」が自己主張しており、説明文が読み取れない所が多いので割愛させていただきます。

weblio辞書 小学館 デジタル大辞泉」によると、次のように書かれている。

「むし【苧/枲/苧麻】:イラクサ科の多年草。原野にみられ、高さ1~2メートル。茎は木質。葉は広卵形で先がとがり、裏面が白い。夏、淡緑色の小花を穂状につける。茎から繊維をとって織物にする。真麻(まお)。ちょま。」

(補注)「むし」は「虫」すなわち「蚕」のことで、それから作った絹の夜具という説もある。

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「むし」 weblio辞書 小学館 デジタル大辞泉から引用させていただきました。

 

 五二二から五二四歌までの三首の題詞は、「京職藤原大夫贈大伴郎女歌三首 卿諱日麻呂也」<京職(きやうしき)藤原大夫が大伴郎女(おほとものいらつめ)に贈る歌三首 卿、諱を麻呂といふ>である。

(注)藤原大夫:藤原麻呂藤原不比等の第四子

(注の注)藤原不比等(ふじわらのふひと)の子四人とは、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)である。それぞれ南家、北家、式家、京家の四家(藤原四家<ふじわらよんけ>)に分かれた。

(注)大伴郎女:大伴坂上郎女のことである。この歌に和(こた)えた歌四首の左注に「大伴坂上郎女」と書かれている。

(注)諱【いみな】:① 生前の実名。生前には口にすることをはばかった。② 人の死後にその人を尊んで贈る称号。諡(おくりな)。③ 《①の意を誤って》実名の敬称。貴人の名から1字もらうときなどにいう

 

 

この歌ならびに他の二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その345)」で紹介している。

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 この藤原大夫の歌に対して、大伴坂上郎女が「和(こた)ふる歌」(五二五から五二八歌)をみてみよう。

 

 題詞は、「大伴郎女和歌四首」<大伴郎女が和(こた)ふる歌四首>である。

 

◆狭穂河乃 小石踐渡 夜干玉之 黒馬之来夜者 年尓母有糠

                    (大伴坂上郎女 巻四 五二五)

 

 

≪書き下し≫佐保川(さほがは)の小石(こいし)踏み渡りぬばたまの黒馬(くろま)来る夜(よ)は年にもあらぬか

 

(訳)佐保川の小石の飛石を踏み渡って、ひっそりとあなたを乗せた黒馬が來る夜は、 せめて年に一度でもあってくれないものか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)年にもあらぬか:七夕並にせめて年に一度はあってほしい。

 

 

◆千鳥鳴 佐保乃河瀬之 小浪 止時毛無 吾戀者

                     (大伴坂上郎女 巻四 五二六)

 

≪書き下し≫千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし我(あ)が恋ふらくは

 

(訳)千鳥がなく佐保の河瀬のさざ波のように、とだえる時とてありません。私の恋心は、(同上)

(注)上三句は序。第四句を起こす。

 

 

◆将来云毛 不來時有乎 不來云乎 将来常者不待 不來云物乎

                     (大伴坂上郎女 巻四 五二七)

 

≪書き下し≫来(こ)むと言ふも来(こ)ぬ時あるを来(こ)じと言ふを来(こ)むとは待たじ来(こ)じと言ふものを

 

(訳)あなたは、来(こ)ようと言っても来(こ)ない時があるのに、まして、来(こ)まいと言うのにもしや来(こ)られるかと待ったりはすまい。来(こ)まいおっしゃるのだもの。(同上)

(注)「こ」の音で頭韻を、さらに、ひとつだけずれるものの「O」の音で脚韻を踏んでいるのでリズミカルな歌になっている。

 

 

◆千鳥鳴 佐保乃河門乃 瀬乎廣弥 打橋渡須 奈我来跡念者

                    (大伴坂上郎女 巻四 五二八)

 

≪書き下し≫千鳥鳴く佐保の川門(かはと)の瀬を広み打橋(うちはし)渡す汝(な)が来(く)と思へば

 

(訳)千鳥が鳴く佐保川の渡り場の瀬が広いので、板の橋を渡しておきます。あなたがやって来るかと思って。(同上)

(注)女が男に「汝」というのはからかい。また、「汝が来」は「長く」を懸けている。

 

この四歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その6改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦ください。)

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 左注は、「右郎女者佐保大納言卿之女也 初嫁一品穂積皇子 被寵無儔而皇子薨之後時 藤原麻呂大夫娉之郎女焉 郎女家於坂上里 仍族氏号日坂上郎女也」<右、郎女は佐保大納言卿(さほのだいなごんのまへつきみ)が女(むすめ)なり。初(は)じめ一品(いっぽん)穂積皇子(ほづみのみこ)に嫁(とつ)ぎ、寵(うつくしび)を被(かがふ)ること儔(たぐひ)なし。しかして皇子の薨(こう)ぜし後に、藤原麻呂大夫(ふぢはらのまろのまへつきみ)、郎女を娉(つまど)ふ。郎女、坂上(さかうへ)の里(さと)に家居(いへい)す。よりて族氏(やから)号(なづ)けて坂上郎女といふ。

(注)佐保大納言:大伴安麻呂

(注)一品:皇子皇女の官位四品中の筆頭

(注)坂上の里:佐保西方の歌姫越に近い地らしい。

 

 大伴安麻呂の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その900)」で紹介している。

 ➡ 

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大伴坂上郎女についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(1059)」で人となりを紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物説明板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 小学館 デジタル大辞泉

万葉歌碑を訪ねて(1179)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(139)―万葉集 巻九〇二

●歌は、「水沫なす微き命も拷縛の千尋にもがとねがひくらしつ」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(139)万葉歌碑<プレート>(山上憶良



●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(139)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 ◆水沫奈須 微命母 栲縄能 千尋尓母何等 慕久良志都

                    (山上憶良 巻五 九〇二)

 

≪書き下し≫水沫(みなわ)なす微(もろ)き命も栲縄(たくなは)の千尋ちひろ)にもがと願ひ暮らしつ

 

(訳)水の泡にも似たもろくはかない命ではあるものの、楮(こうぞ)の綱のように千尋ちひろ)の長さほどもあってほしいと願いながら、今日もまた一日を送り過ごしてしまった。(伊藤博著「万葉集 一」(角川ソフィア文庫)より)

(注)みなわ【水泡】:水の泡。はかないものをたとえていう。

(注)たくなわ【栲縄】:楮(こうぞ)などの繊維で作った縄。

(注)ちひろ千尋】:両手を左右に広げた長さ。非常な深さ・長さにいう語。

 

 

 この歌は、題詞、「老身重病經年辛苦及思兒等歌七首  長一首短六首」(老身に病を重ね、経年辛苦し、児等を思ふに及(いた)る歌七首 長一首短六首)のある短歌六首のうちの一つである。

 

 長歌(八九七歌)ならびに短歌(八九八から九〇三歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その44改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦ください。)

 ➡ 

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 この歌群(倭歌)は、漢文「沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)」と題詞「悲歎俗道假合即離易去難留詩一首幷序」<俗道(ぞくだう)の仮合即離(けがふそくり)し、去りやすく留(とど)みかたきことを悲歎(かな)しぶる詩一首幷(あは)せて序>とある漢詩の三部作になっている。

 山上憶良の生涯の総決算ともいうべき作品群である。

 老齢の身の憶良を襲った病魔、老いたる姿も「言語」というツールのみでリアルに描き、自暴自棄的な心境を客観的に見て、苦しみの中で悶絶しつつも子供に思いをめぐらし冷静さを呼び戻している。

 これ程まで重い歌が世に存在するのであろうか。

 

 「沈痾自哀文」をかいつまんでみてみよう。

 

 「我れ胎生(たいしやう)より今日(このひ)までに、自ら修善(しゆぜん)の志あり、かつての作悪(さあく)の心なし。≪私は母の胎内を出てこの方、みずから修業をして善行を積もうとする志を持ち、ついぞ悪事をなそうという心を抱いたことがない。≫」・・・「三宝を礼拝し」「百神を敬重し」てきたのに、「我れ何の罪を犯(をか)せばかこの重き疾(やまひ)に遭(あ)へる。≪私はどんな罪悪を犯した報いでこんな重い病に襲われることになったのか≫」・・・「ただに年老いたるのみにあらず、またこの病を加ふ。≪単に年老いたばかりか、さらにこんな病を加える身となった≫」・・・「四支(しし)動かず、百節(ひやくせつ)みな疼(いた)み、身体はなはだ重きこと、鈞石(きんせき)を負えるがどとし。≪手足は動かず、関節という関節は悉く痛み、体中の甚だ重いことは、鈞石(おもり)を背負っている感じだ。≫」・・・「布に懸りて立たむと欲(おも)へば、折翼(せつよく)の鳥(とり)のごとし、杖(つゑ)に倚(よ)りて歩(あゆ)まむとすれば、跛足(ひそく)の驢(うさぎうま)のごとし。≪天井からの布にすがって立とうとすると、翼の折れた鳥のようだし、杖を頼りに歩こうとすると、足を披(ひ)きずる驢馬(ろば)のようだ。≫」・・・「今し吾れ、病に悩まさえ、臥坐(ぐわざ)することを得ず。かにかくに、なすところを知ることなし。福(さき)はひなきことの至りて甚だしき、すべて我に集まる。≪今や、私は、病に悩まされ、臥(ふ)したり座ったりすることもままならない。どうにもこうにも、なすすべを知らない。不幸の最たるものが、すべてこの私に集まっている。≫」(訳は「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫によっている)

(注)跛足(ひそく)>「跛」:片方の足に故障があって、歩くときに釣り合いがとれないこと。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)ろ【驢】〘名〙 =ろば(驢馬)(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 

 続いて漢詩をみてみよう。

 

◆俗道變化猶撃目 人事経紀如申臂 空与浮雲行大虚 心力盡共無所寄

 

≪書き下し≫俗道の変化(へんくわ)は撃目(けきもく)のごとし、

      人事の経紀(けいき)は申臂(しんび)のごとし。

      空(むな)しく浮雲(ふうん)と大虚(たいきよ)を行き、

      心力(しんりき)ともに尽きて寄るところなし。

 

(訳)現世の道程の変転はまばたくほどの短さであるし、人間の生きる死ぬる常理は臂(ひじ)を伸ばすほどの短さである。まさに浮雲とともに空しく大空を漂う思いで、心の力も尽き果てて、我が身を寄せる所とてない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)二

 

 

 そして、倭歌で「・・・老尓弖阿留 我身上尓 病遠等 加弖阿礼婆 晝波母 歎加比久良志 夜波母 息豆伎阿可志 年長久 夜美志渡礼婆 月累 憂吟比 許等ゝゝ波 斯奈ゝ等思騰 五月蝿奈周 佐和久兒等遠 宇都弖ゝ波 死波不知 見乍阿礼婆 心波母延農 可尓久尓 思和豆良比 祢能尾志奈可由」と詠っているのである。

 

≪書き下し≫・・・老(お)いにてある 我(あ)が身の上(うへ)に 病(やまひ)をと 加へてあれば 昼はも 嘆かひ暮らし 夜(よる)はも 息(いき)づき明(あ)かし 年長く 病(や)みしわたれば 月重ね 憂(う)へさまよひ ことことは 死ななと思へど 五月蝿(さはえ)なす 騒(さわ)く子どもを 打棄(うつ)てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃(も)えぬ かにかくに 思ひ煩(わづら)ひ 音(ね)のみし泣かゆ

 

 

(訳)・・・老いさらばえて息づくこの私の身の上に病魔まで背負わされている有様なので、昼は昼で嘆き暮らし、夜は夜で溜息(ためいき)ついて明かし、年久しく思い続けてきたので、幾月も愚痴ったりうめいたりして、いっそのこと死んでしまいたいと思うけれども、真夏の蠅(はえ)のように騒ぎ回る子供たち、そいつをほったらかして死ぬことはとてもできず、じっと子供たちを見つめていると、逆に生への熱い思いが燃え立ってくる。こうして、あれやこれやと思い悩んで、泣けて泣けてしょうがない。(同上)

 

 「年長く 病(や)みしわたれば 月重ね 憂(う)へさまよひ ことことは 死ななと思へど 五月蝿(さはえ)なす 騒(さわ)く子どもを 打棄(うつ)てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃(も)えぬ」少しはほっとさせらえるが、憶良の経済力を考えるとやるせない気持ちになる。それにしても重い重い重い歌群である。

 

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『たく』・『たへ』・『ゆふ』は『楮(コウゾ)』のことで、野生種の高さは3~5メートルあり、山野に自生の雌雄同株の落葉低木で栽培も栽培もされる。(中略)古くは樹皮の繊維で楮布(コウゾフ)を織ったが、今では和紙の原料としてなくてはならない物である。『たく』は万葉集では『たへ』・『ゆふ』という言葉と同じ使い方がされており、それらを合わせると140首以上もの歌に登場する。観光地の『由布院(ユフイン)町』の命名奈良時代この地に『栲(タク)』の木が多く群生し、その木の皮で作った『木綿(ユウ)』に由来するらしい。」と書かれている。

 

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楮(コウゾ) weblio辞書 デジタル大辞泉より引用させていただきました。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「古代十一章」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

 

万葉歌碑を訪ねて(その1178)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(138)―万葉集 巻十 二一一五

●歌は、「手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも」

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(138)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)



●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(138)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆手取者 袖并丹覆 美人部師 此白露尓 散巻惜

                   (作者未詳 巻十 二一一五)

 

≪書き下し≫手に取れば袖(そで)さへにほふをみなへしこの白露(しらつゆ)に散らまく惜(を)しも

 

(訳)手に取れば袖までも染まる色美しいおみなえしなのに、この白露のために散るのが今から惜しまれてならない。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)にほふ【匂ふ】自動詞:①美しく咲いている。美しく映える。②美しく染まる。(草木などの色に)染まる。③快く香る。香が漂う。④美しさがあふれている。美しさが輝いている。⑤恩を受ける。おかげをこうむる。(学研) ここでは②の意

(注)白露:漢語「白露」の翻読語。普通秋の露にいう。

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『女郎花(オミナエシ)』は草丈が約1メートル前後の日当たりのよい山野に生える多年草で、秋の七種の一つである。(中略)『女郎花(オミナエシ)』の名の由来は若い女性を意味する『オミナ』にちなんだもので、美女の中でもなお美しい姿の意味であるという説・白い花の『男郎花(オトコエシ)』に対して名付けられた説・黄色い花のオミナエシを『粟花(アワバナ)』・白い花のオトコエシを『米花(コメバナ)』とした説なそがある。(後略)」と書かれている。

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オミナエシとオトコエシ 「みんなの趣味と園芸」 (NHK出版HP)より引用させていただきました。

「をみなえし」を詠んだ歌は十四首収録されている。全てをみてみよう。

 

◆娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺可聞

                  (中臣女郎 巻四 六七五)

 

≪書き下し≫をみなえし佐紀沢(さきさわ)に生(お)ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも

 

(訳)おみなえしが咲くという佐紀沢(さきさわ)に生い茂る花かつみではないが、かつて味わったこともないせつない恋をしています。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)をみなへし【女郎花】名詞:「佐紀(現奈良市北西部・佐保川西岸の地名)」にかかる枕詞。(weblio辞書 Wiktionary<日本語版>)

(注)さきさわ(佐紀沢):平城京北一帯の水上池あたりが湿地帯であったところから

このように呼ばれていた。

(注)はなかつみ【花かつみ】名詞:水辺に生える草の名。野生のはなしょうぶの一種か。歌では、序詞(じよことば)の末にあって「かつ」を導くために用いられることが多い。「はながつみ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かつて【曾て・嘗て】副詞:〔下に打消の語を伴って〕①今まで一度も。ついぞ。②決して。まったく。 ⇒ 参考 中古には漢文訓読系の文章にのみ用いられ、和文には出てこない。「かって」と促音にも発音されるようになったのは近世以降。(学研)

 

 六七五から六七九歌の歌群の、題詞は、「中臣女郎(なかとみのいらつめ)贈大伴宿祢家持歌五首」とある。

 この歌並びに他の四首すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その30改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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◆姫押 生澤邊之 真田葛原 何時鴨絡而 我衣将服

                 (作者未詳 巻七 一三四六)

 

≪書き下し≫をみなへし佐紀沢(さきさわ)の辺(へ)の真葛原(まくずはら)いつかも繰(く)りて我(わ)が衣(きぬ)に着む

 

(訳)佐紀沢のあたりの葛の生い茂る野原、あの野の葛は、いつになったら糸に操(く)って、私の着物として着ることができるのだろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)をみなへし:「佐紀」にかかる枕詞

(注)上三句は少女の譬え。

 

 

一五三〇、一五三一歌の題詞は、「大宰諸卿大夫并官人等宴筑前國蘆城驛家歌二首」<大宰(だざい)の諸卿大夫(まへつきみたち)幷(あは)せて官人等(たち)、筑前(つくしのみちのくち)の国の蘆城(あしき)の駅家(うまや)にして宴(うたげ)する歌二首>である。

(注)蘆城(あしき):大宰府東南、約4kmの地。

 

◆娘部思 秋芽子交 蘆城野 今日乎始而 萬代尓将見

                  (作者未詳 巻八 一五三〇)

 

≪書き下し≫をみなへし秋萩(あきはぎ)交(まじ)る蘆城(あしき)の野(の)今日(けふ)を始めて万世(おろづよ)に見む

 

(訳)おみなえしと秋萩とが入り交じって咲いている蘆城の野よ、この野を今日を始めとしていついつまでもみよう。(同上)

 

 

題詞は、「石川朝臣老夫歌一首」<石川朝臣老夫(いしかはのあそみおきな)が歌一首>である。

 

◆娘部志 秋芽子折礼 玉桙乃 道去褁跡 為乞兒

                  (石川老夫 巻八 一五三四)

 

≪書き下し≫をみなへし秋萩折れれ玉桙(たまほこ)の道行(みちゆ)きづとと乞(こ)はむ子がため

 

(訳)おみなえしや萩の花を手折っておきなさい。旅のお土産(みやげ)はと言って、せがむいとしい人のために。(同上)

 

 

◆芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝▼之花

                  (山上憶良 巻八 一五三八)

   ▼は「白」の下に「八」と書く。「朝+『白』の下に『八』」=「朝顔

 

≪書き下し≫萩の花 尾花(をばな) 葛花(くずはな) なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふぢはかま) 朝顔の花

 

(訳)一つ萩の花、二つ尾花、三つに葛の花、四つになでしこの花、うんさよう、五つにおみなえし。ほら、それにまだあるぞ、六つ藤袴、七つ朝顔の花。うんさよう、これが秋の七種の花なのさ。(伊藤 博著「萬葉集 二」角川ソフィア文庫より)

 

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その62改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦ください。)

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◆姫部思 咲野尓生 白管自 不知事以 所言之吾背

                  (作者未詳 巻十 一九〇五)

 

≪書き下し≫をみなへし佐紀野(さきの)に生(お)ふる白(しら)つつじ知らぬこともち言はれし我(わ)が背(せ)

(訳)おみなえしの咲きにおうという佐紀野に生い茂る白つつじではないが、我が身のつゆ知らぬことで、人に言い騒がれたあの方よ。(同上)

(注)をみなへし:「佐紀野」の枕詞。

(注)上三句は序。「知らぬ」を起こす。

 

 

◆事更尓 衣者不揩 佳人部為 咲野之芽子尓 丹穂日而将居

              (作者未詳 巻十 二一〇七)

 

≪書き下し≫ことさらに衣(ころも)は摺(す)らじをみなへし佐紀野の萩ににほひて居らむ

 

(訳)わざわざこの着物は摺染めにはすまい。一面に咲き誇るこの佐紀野の萩に染まっていよう。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ことさらなり【殊更なり】形容動詞①意図的だ。②格別だ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)をみなへし 枕詞:「佐紀(現奈良市北西部・佐保川西岸の地名)」にかかる枕詞。(weblio辞書 Wiktionary)

(注)佐紀野:平城京北部の野

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(948)」で紹介している。

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◆吾郷尓 今咲花乃 娘部四 不堪情 尚戀二家里

                  (作者未詳 巻十 二二七九)

 

≪書き下し≫我(わ)が里に今咲く花のをみなへし堪(あ)へぬ心になほ恋ひにけり

 

(訳)この里に今まっ盛りに咲く花のおみなえし、そのおみなえしに、とても堪えがたい思いで、今なお恋い焦がれてしまっている。(同上)

(注)上三句は村の娘の譬え。

 

 

三九四三~三九五五歌の歌群の題詞は、「八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌」<八月の七日の夜に、守(かみ)大伴宿禰家持が館(たち)に集(つど)ひて宴(うたげ)する歌>である。越中の地で家持を歓迎する宴で、越中歌壇の出発点となったと言われている。

 

◆秋田乃 穂牟伎見我氐里 和我勢古我 布左多乎里家流 乎美奈敝之香物

               (大伴家持 巻十七 三九四三)

 

≪書き下し≫秋の田の穂向き見がてり我(わ)が背子がふさ手折(たお)り来(け)る女郎花(をみなへし)かも

 

(訳)秋の田の垂穂(たりほ)の様子を見廻りかたがた、あなたがどっさり手折って来て下さったのですね、この女郎花は。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)我が背子:客の大伴池主をさしている。

(注)ふさ 副詞:みんな。たくさん。多く。(学研)

 

 

◆乎美奈敝之 左伎多流野邊乎 由伎米具利 吉美乎念出 多母登保里伎奴

               (大伴池主 巻十七 三九四四)

 

≪書き下し≫をみなへし咲きたる野辺(のへ)を行き廻(めぐ)り君を思ひ出(で)た廻(もとほ)り来(き)ぬ

 

(訳)女郎花の咲き乱れている野辺、その野辺を行きめぐっているうちに、あなたを思い出して廻り道をして来てしまいました。(同上)

 

 

◆日晩之乃 奈吉奴流登吉波 乎美奈敝之 佐伎多流野邊乎 遊吉追都見倍之

               (秦忌寸八千嶋 巻十七 三九五一)

 

≪書き下し≫ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺(のへ)を行(ゆ)きつつ見(み)べし

 

(訳)ひぐらしの鳴いているこんな時には、女郎花の咲き乱れる野辺をそぞろ歩きしながら、その美しい花をじっくり賞(め)でるのがよろしい。(同上)

(注)をみなえし:三九四三、三九四四歌の女郎花を承ける

 

上記三歌を含む三九四三~三九五五歌の歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その335)」で紹介している。

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題詞は、「天平勝寶五年八月十二日二三大夫等各提壷酒 登高圓野聊述所心作歌三首」<天平勝宝五年の八月の十二日に、二三(ふたりみたり)の大夫等(まへつきみたち)、おのもおのも壺酒(こしゅ)を提(と)りて高円(たかまと)の野に登り、いささかに所心(おもひ)を述べて作る歌三首>である。

 

◆乎美奈弊之 安伎波疑之努藝 左乎之可能 都由和氣奈加牟 多加麻刀能野曽

                  (大伴家持 巻二十 四二九七)

 

≪書き下し≫をみなへし秋萩しのぎさを鹿(しか)の露別(わ)け鳴かむ高円の野ぞ

 

(訳)おみなえしや秋萩を踏みしだき、雄鹿がしとどに置く露を押し分け押し分け、やがて鳴き立てることであろう、この高円の野は。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 

 四三一五から四三二〇歌の歌群の左注は、「右の六首は、兵部少輔(ひやうぶのせうふ)大伴宿禰家持、独り秋野を憶(おも)ひて、いささかに拙懐(せつくわい)を述べて作る」である。

 

◆多可麻刀能 宮乃須蘇未乃 努都可佐尓 伊麻左家流良武 乎美奈弊之波母

               (大伴家持 巻二十 四三一六)

 

≪書き下し≫高円の宮の裾廻(すそみ)の野づかさに今咲けるらむをみなへしはも

 

(訳)高円の宮のあちこちの高みで、今頃盛んに咲いているであろう、あのおみなえしの花は、ああ。(同上)

(注)すそみ【裾回・裾廻】名詞:山のふもとの周り。「すそわ」とも。 ※「み」は接尾語。(学研)

(注)のづかさ【野阜・野司】名詞:野原の中の小高い丘。(学研)

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その37改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦ください。)

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 「をみなへし」で「佐紀」に懸る枕詞として使われているのは面白い。「佐紀」と「咲き」うまく結びつけたものである。おもしろいと自分の歌にも取り入れて歌に幅を持たしているところに万葉集の果たす役割が大きい。

万葉集は歌物語的娯楽性を有しつつ、歌のテキストとしての機能も果たしている。

漢字表記も「娘部志」、「姫部思」、「佳人部為」、「美人部師」と美しい女性を思わせるところがにくい。一字一音表記でも「乎美奈敝之」と「美」を使っているのは、書き手の気持ちが表れていて微笑ましく思えるのである。。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「みんなの趣味と園芸」 (NHK出版HP)

★「weblio辞書 Wiktionary<日本語版>」