万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1376、1377)ー福井県越前市 万葉大橋欄干―万葉集 巻十五 三七七〇、三七七六

―その1376―

●歌は、「味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ」である。

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福井県越前市 万葉大橋欄干万葉歌碑プレート(狭野弟上娘子)

●歌碑(欄干プレート)は、福井県越前市 万葉大橋欄干にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安治麻野尓 屋杼礼流君我 可反里許武 等伎能牟可倍乎 伊都等可麻多武

       (狭野弟上娘子 巻十五 三七七〇)

 

≪書き下し≫味真野(あじまの)に宿れる君が帰り来(こ)む時の迎へをいつとか待たむ

 

(訳)味真野に旅寝をしているあなたが、都に帰っていらっしゃる時、その時のお迎えの喜びを、いつと思ってお待ちすればよいのでしょうか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)やどる【宿る】自動詞:①旅先で宿を取る。泊まる。宿泊する。②住みかとする。住む。一時的に住む。③とどまる。④寄生する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

 

 この歌については前稿ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1375)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1377―

●歌は、「今日もかも都なりせば見まく欲り西の御馬屋の外に立てらまし」である。

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福井県越前市 万葉大橋欄干万葉歌碑プレート(中臣宅守

●歌碑(欄干プレート)は、福井県越前市 万葉大橋欄干にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆家布毛可母 美也故奈里世婆 見麻久保里 尓之能御馬屋乃 刀尓多弖良麻之

      (中臣宅守 巻十五 三七七六)

 

≪書き下し≫今日(けふ)もかも都なりせば見まく欲(ほ)り西の御馬屋(みまや)の外(と)に立てらまし

 

(訳)今日あたりでも、都にいるのだったら、逢いたくって、西の御馬屋の外に佇(たたず)んでいることだろうに。(同上)

(注)みまや【御馬屋/御厩】:貴人を敬ってその厩(うまや)をいう語。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注の注)西の御馬屋:宮中の右馬寮。二人はここでよく逢ったのであろう。(伊藤脚注)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1355⑥)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 万葉集目録に従って、娘子と宅守の歌群を対比させてみよう。

 

狭野弟上娘子               中臣宅守

別れに臨みて、娘子、悲嘆しびて作る歌四首  宅守が作る歌十四首

娘子、京に留まりて悲傷しびて作る歌九首   配所に至りて、宅守が作る歌十四首

娘子が作る歌八首              宅守が作る歌十三種

娘子が和へ贈る歌二首            宅守、更に贈る歌二首

                      宅守、花鳥に寄せ、

思いを陳べて作る歌七首

          ※字数の関係で「中臣朝臣宅守」を「宅守」と表記しています。

 

 三七七〇歌は「娘子が作る歌八首」、三七七六歌は「宅守、更に贈る歌二首」の歌群にある。

 

 三七七〇歌は、娘子が「悲傷しびて」の気持ちから一転、時の経過とともに「時の迎へをいつとか待たむ」と早く逢いたい、待っていなくてはいけないのと、焦りの気持ちが強くなっていく、いわば焦燥感の増す歌へと転換点にある歌である。

 

 これに対して、宅守の方は、ある意味淡々と「都なりせば・・・西の御馬屋(みまや)の外(と)に立てらまし」と詠っている。今は叶わぬ仮定を立て間接的に娘子への思いを伝えようとしている。

 かかる、情熱的に思いを発露する女性にとっては、男性側の少し距離を置いた客観的な事象等から内に秘めた思いを告げるのは、思いの情熱度は同じであったも、女性にとっては物足りなくもどかしく思うのであろう。こういった男女の機微が巧みに詠われている。

 こういった点からもフィクションとして見る考えもあるようである。

 しかし、当事者の歌であると思うし信じたいと思う悲恋の歌群である。

 

 

 羽咋市の北陸スコールのために大幅に計画を変更せざるをえなくなったせいで、宿は福井駅近くにとっているので、味真野苑の散策で切り上げ福井駅方面に引き返すことになる。

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万葉大橋

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万葉大橋(浅水川の銘板)



 

 

 万葉大橋欄干は、事前にグーグルマップのストリートビューで何度も確認していた。ホテルに向かう途中見馴れた光景が目の前に。車を交通の妨げにならない所に停め、欄干のプレートの歌を撮影したのである。

  ちょうど集団下向途上の小学生が通り過ぎている。三人ほどが立ちどまり、「何を撮っているのですか」と質問される。「万葉集の歌だよ」と答える。

 「万葉集だって」と叫びながら先の集団に追い付こうと走り出す。

 万葉集に反応してくれただけでなんだかうれしい気持ちになる。

 

味真野地区というのは、この万葉大橋の下を流れる文室川(浅水川)と鞍谷川によって作られた扇状地に位置するそうである。

 

 古い文献やブログなどには「越前の里」とあり「万葉の里」との関連が理解できなかったのであるが、いろいろ検索していると、レファレンス協同データベース(レファ協)に「福井県越前市にある万葉の里味真野苑が整備された経緯」について次のように記載されているのが見つかった。参考になるので引用させていただきます。

 「福井県では1971年(昭和46)から『越前の里』開発構想の一環として、武生市(現越前市)の味真野地区に広がる文化遺跡や古墳などの整備計画を立てた。まず、鞍谷御所跡の近くに観光レクレーションの基地となる味真野苑を計画した。

72年(昭和47)3月の『福井県長期構想』では、余暇の利用形態が従来の物見遊山的な「見る観光」から体験・活動といった『する観光』へ変化し、今後も観光・レクレーションへの需要が飛躍的に増大するとの見通しから、県内および隣接県との間の周遊性・滞留性をもたせた広域観光ルートの設定、観光・レクリェーション地帯の開発整備、歴史的環境と各種産業の利用などがうたわれた。(中略)越前の里・若狭の里などの施設整備も進められた。

73年(昭和48)4月に郷土資料館が着工し、74年(昭和49)6月1日、味真野苑の一角に『武生市越前の里郷土資料館』が完成した。その後、2004年(平成16)には、味真野にゆかりの深い万葉集の恋の歌を中心に展示するため、『万葉のロマンと恋の歌』をコンセプトに『万葉の里味真野苑資料館 万葉館』としてリニューアルオープンしている。」

 

 戦略のグレシャムの法則ではないが、万葉歌碑に追われ、その歴史的、風土的背景をも踏まえたアプローチがいつものことながら手薄になってしまう。反省、反省、反省の万葉歌碑巡りである。

 またまた万葉集に笑われた思いである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「レファレンス協同データベース」(レファ協HP)

★「グーグルマップのストリートビュー