万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑巡り(その1097)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(57)―万葉集 巻六 一〇四八

●歌は、「たち変り古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(57)万葉歌碑<プレート>(田辺福麻呂

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(57)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆立易 古京跡 成者 道之志婆草 長生尓異煎

                 (田辺福麻呂 巻六 一〇四八)

 

≪書き下し≫たち変り古き都となりぬれば道の芝草(しばくさ)長く生(お)ひにけり

 

(訳)打って変わって、今や古びた都となってしまったので、道の雑草、ああこの草も、丈高く生(お)い茂ってしまった。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)たちかわり〔‐かはり〕【立(ち)代(わ)り】[副]:代わる代わる。たびたび。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 一〇四七から一〇四九歌の歌群の題詞は、「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」<寧楽の故郷を悲しびて作る歌一首 并(あは)せて短歌>である。

(注)故郷:古京の意。

 

 この歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1083)」で紹介している。

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 この歌群の前に、題詞「傷惜寧樂京荒墟作歌三首  作者不審」<寧楽(なら)の京の荒墟(くわうきよ)を傷惜(いた)みて作る歌三首 作者審らかにあらず>の一〇四四から一〇四六歌の歌群が収録されている。

(注)寧楽の京の荒墟:天平十二年(740年)から同十七年奈良遷都まで古京と化したのである。

 聖武天皇の「彷徨の五年」と呼ばれる時期である。

 

こちらもみてみよう。

 

◆紅尓 深染西 情可母 寧樂乃京師尓 年之歴去倍吉

                 (作者未詳 巻六 一〇四四)

 

≪書き下し≫紅(くれなゐ)に深く染(し)みにし心かも奈良の都に年の経(へ)ぬべき

 

(訳)紅に色深く染まるように都に深くなじんだ気持ちのままで、私はこれから先、ここ奈良の都で年月を過ごせるのであろうか。(同上)

(注)紅:ベニバナのことである。花は紅色の染料に、種子は食用油にと利用価値の高い植物であった。別名を「呉藍(くれあい)」という。呉の国から来た藍を意味する。

 

 

◆世間乎 常無物跡 今曽知 平城京師之 移徙見者

                  (作者未詳 巻六 一〇四五)

 

≪書き下し≫世間(よのなか)を常(つね)なきものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば

 

(訳)世の中とはなんとはかないものなのかということを、今こそ思い知った。この奈良の都がひごとにさびれてゆくのをみると。(同上)

 

 

◆石綱乃 又變若反 青丹吉 奈良乃都乎 又将見鴨

                 (作者未詳 巻六 一〇四六)

 

≪書き下し≫岩つなのまたをちかへりあをによし奈良の都をまたも見むかも

 

(訳)這(は)い廻(めぐ)る岩つながもとへ戻るようにまた若返って、栄えに栄えた都、あの奈良の都を、再びこの目で見ることができるであろうか。(同上)

(注)岩綱【イワツナ】:定家葛の古名、岩に這う蔦や葛の総称(weblio辞書 植物名辞典)

(注の注)「石綱(イワツナ)」は「石葛(イワツタ)」と同根の語で岩に這うツタのことだが、延びてもまた元に這い戻ることから「かへり」にかかる枕詞となる、(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著)

(注)をちかへる【復ち返る】自動詞:①若返る。②元に戻る。繰り返す。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 奈良の都が突然廃都となり、伊勢行幸の後に恭仁京遷都となるが、作者未詳とはいえ、この三首に見られる、無常観、虚無感ははかりしえない。

 

 「彷徨の五年」の当事者の歌をみてみよう。

 聖武天皇の歌である。

 

◆妹尓戀 吾乃松原 見渡者 潮干乃滷尓 多頭鳴渡

              (聖武天皇 巻六 一〇三〇)

 

≪書き下し≫妹(いも)に恋ひ吾(あが)の松原見わたせば潮干(しほひ)の潟(かた)に鶴(たづ)鳴き渡る

 

(訳)あの子に恋い焦がれて逢える日を我(あ)が待つという吾(あが)の松原、この松原を見わたすと、潮が引いた干潟に向かって、鶴が鳴き渡っている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いもにこひ【妹に恋ひ】( 枕詞 ):妹に恋い「我(あ)が待つ」の意から、地名「吾(あが)の松原」にかかる。 (weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

題詞は、「天皇御製歌一首」<天皇(すめらみこと)の御製歌一首>である。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その423)」で紹介している。

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さらに随行した家持が、関の仮宮で詠った歌もみてみよう。

 

◆河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 妹之手本師 所念鴨

               (大伴家持 巻六 一〇二九)

 

≪書き下し≫河口(かはぐち)の野辺(のへ)に廬(いほ)りて夜(よ)の経(ふ)れば妹(いも)が手本(たもと)し思ほゆるかも

 

(訳)河口の野辺で仮寝をしてもう幾晩も経(た)つので、あの子の手枕、そいつがやたら思われてならない。(同上)

 

題詞は、「十二年庚辰冬十月依大宰少貮藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首」<十二年庚辰(かのえたつ)の冬の十月に、大宰少弐(だざいのせうに)藤原朝臣廣嗣(ふぢはらのあそみひろつぐ)、謀反(みかどかたぶ)けむとして軍(いくさ)を発(おこ)すによりて、伊勢(いせ)の国に幸(いでま)す時に、河口(かはぐち)の行宮(かりみや)にして、内舎人(うどねり)大伴宿禰家持が作る歌一首>である。

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その399)」で紹介している。

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 一般の人々は、都が転々とする絶望感、虚無感、無常観の中で悲痛な歌を詠っているのに対し、当事者は「妹に恋ひ吾の松原見わたせば」とか「妹が手本し思ほゆるかも」などと詠ているのである。

 万葉の時代から、日本の社会というのは、懐の広く深い社会であったのだろう。万葉集の収録も超寛大な気持ちから行われていたのかもしれない。

 ああ、万葉集とは・・・。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「weblio辞書 植物名辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉