万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2715)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―

●歌は、「やすみしし我ご大君の常宮と仕へ奉れる雑賀野ゆそがひに見ゆる沖つ島清き渚に風吹けば白波騒き潮干れば玉藻刈りつつ神代よりしかぞ貴き玉津島山(山部赤人 6-917)」

「沖つ島荒礒の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも(山部赤人 6-918)」である。

 

【玉津島・わかの浦(一)】

 「山部赤人(巻六‐九一七)(巻六‐九一八)(いずれも歌は、省略)万葉の“わかの浦”は、和歌山市南部の、観光地としてきこえた新和歌浦ではなくて、その東南の旧和歌浦である。・・・万葉のころ、海のない大和人(やまとびと)が紀ノ川筋をへて三日も四日もかかって、・・・大景にめぐりあえたときの喜びはどうだったのであろう。

 (巻七‐一二二二)(巻七‐一二一七)(いずれも歌は省略)と讃嘆の叫びをあげるのも無理はない。歌人山部赤人が名歌をのこすのも当然のことである。聖武天皇即位の年の神亀元年(七二四)に玉津島行幸があった。・・・雑賀野(さひがの)の離宮はいまの権現山の東方にあったらしく、その南方、いまの和歌浦町一帯は当時すべて海で、いま妹背山だけが入江の島としてのこっているが、船頭山・妙見山・雲蓋(うんがい)山・奠供(てんぐ)山・鏡山の丘陵も当時は海中の島であって、これが玉津島山であろう。・・・この長歌では“わが大君の永遠の御所としてお仕え申す雑賀野離宮からななめうしろの方に見える沖の島の清い渚(なぎさ)”のところでの、『風吹けば白波騒(さわ)ぎ』の満潮時と、『潮干(ふ)れば玉藻刈りつつ』の干潮時のこまやかな景を描いて、“神代からこんなにも貴い玉津島山の景よ”と、讃歌している。おそらく離宮での宴のときに朗唱された歌であろう。・・・反歌では、・・・長歌とは逆に、あくまでも鮮やかな実景として、第一の反歌では干潮時を、第二の反歌では満潮時を描いて長歌に照応した構成をつくりあげ、創作意識をゆたかに駆使している。・・・そこに作者の感覚的な自然のとらえ方があり、実景をそのまま写生するのにも増して、微妙な自然の動きへの陶酔と愛着が見られ、赤人の個性とわかの浦の明るくやさしい景観とはここでみごとにとけあっている。」(「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)

 

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 巻六 九一七ならびに巻六 九一八歌をみていこう。

■■巻六 九一七~九一九歌■■

 題詞は、「神龜元年甲子冬十月五日幸于紀伊國時山部宿祢赤人作歌一首幷短歌」<神亀(じんき)元年甲子(きのえね)の冬の十月五日に、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、山部宿禰赤人が作る歌一首幷せて短歌>である。

(注)神亀元年:724年

(注)幸(いでま)す時:聖武天皇行幸。十月五日出発、二十三日帰京。(伊藤脚注)

 

■巻六 九一七歌■

◆安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 背匕尓所見 奥嶋 清波瀲尓 風吹者 白浪左和伎 潮干者 玉藻苅管 神代従 然曽尊吉 玉津嶋夜麻

       (山辺赤人 巻六 九一七)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)ご大君(おほきみ)の 常宮(とこみや)と 仕(つか)へ奉(まつ)れる 雑賀野(さひかの)  そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚(なぎさ)に 風吹けば 白浪騒(さわ)き 潮干(ふ)れば 玉藻(たまも)刈りつつ 神代(かみよ)より しかぞ貴(たふと)き 玉津島山(たまつしまやま)

 

(訳)安らかに天下を支配されるわれらの大君、その大君のとこしえに輝く立派な宮として下々の者がお仕え申しあげている雑賀野(さいかの)に向き合って見える沖の島、その島の清らかなる渚に、風が吹けば白波が立ち騒ぎ、潮が引けば美しい藻を刈りつづけてきたのだ・・・、ああ、神代以来、そんなにも貴いところなのだ、沖の玉津島は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)やすみしし:「 我ご大君」(「我が大君」の転)の枕詞。「やすみしし云々」で歌い起す讃歌は、奈良朝廷歌人では赤人に限られる。(伊藤脚注)

(注の注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)とこみや【常宮】名詞:永遠に変わることなく栄える宮殿。貴人の墓所の意でも用いる。「常(とこ)つ御門(みかど)」とも。(学研)

(注)雑賀野:和歌山市南部、和歌の浦の北西に位置する一帯。(伊藤脚注)

(注)そがひ:背後。「沖つ島」(玉津島)は宮に面する時、背後に当たる。(伊藤脚注)

(注の注)そがひ【背向】名詞:背後。後ろの方角。後方。(学研)

(注)玉津島 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の和歌山県にある山。和歌の浦にある玉津島神社(玉津島明神)の背後にある、風景の美しい所とされた。古くは島であった。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その733)」で、玉津島神社境内万葉歌碑とともに紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

和歌山市和歌浦中 玉津島神社境内万葉歌碑(山部赤人 6-917) 20200819撮影



 

 

 

■巻六 九一八歌■

◆奥嶋 荒礒之玉藻 潮干滿 伊隠去者 所念武香聞

       (山部赤人 巻六 九一八)

 

≪書き下し≫沖つ島荒礒(ありそ)の玉藻(たまも)潮干(しほひ)満ちい隠(かく)りゆかば思ほえむかも

 

(訳)沖の島の荒磯(あらいそ)に生えている玉藻、この美しい藻は、潮が満ちて来て隠れていったら、どうなったかと思いやられるだろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)長歌の「潮干れば 玉藻刈りつつ」を承ける。(伊藤脚注)

(注)い 接頭語:動詞に付いて、意味を強める。「い隠る」「い通ふ」「い行く」。 ※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その734)」で紹介している。

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和歌山市和歌浦中 玉津島神社境内万葉歌碑(山部赤人 6-918(右)6-919(左)) 20200819撮影



 

 

 

 巻七 一二二二歌ならびに一二一七歌をみてみよう。

■巻七 一二二二歌■

◆玉津嶋 雖見不飽 何為而 褁持将去 不見人之為

        (藤原卿 巻七 一二二二)

 

≪書き下し≫玉津島(たまつしま)見れども飽(あ)かずいかにして包(つつ)み持ち行かむ見ぬ人のため

 

(訳)玉津島はいくら見ても見飽きることがない。どのようにして包んで持って行こうか。まだ見たことがない人のために。(同上)

 

一二一八から一一九五歌までの歌群の左注は、「右七首者藤原卿作 未審年月」<右の七首は、藤原卿(ふぢはらのまへつきみ)が作 いまだ年月審(つばひ)らかにあらず>である。

(注)藤原卿:不比等か。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その732)」で、 玉津島神社鳥居横万葉歌碑ならびに一二一八から一一九五歌までの七首とともに紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 

和歌山市和歌浦中 玉津島神社鳥居横万葉歌碑(藤原卿 7-1222) 2020819撮影



 

 

 

 

 

■巻七 一二一七歌■

◆玉津嶋 見之善雲 吾無 京徃而 戀幕思者

      (作者未詳 巻七 一二一七)

 

≪書き下し≫玉津島見てしよけくも我(わ)れはなし都に行きて恋ひまく思へば

 

(訳)玉津島の景色を見ても、嬉(うれ)しい気持ちに私はとてもなれない。都に帰ってから恋しくてならないだろうと思うと。(同上)

(注)よけく【良けく・善けく】:よいこと。 ※派生語。上代語。 ⇒なりたち形容詞「よし」の上代の未然形+接尾語「く」(学研)

(注)まく:…だろうこと。…(し)ようとすること。 ※派生語。語法活用語の未然形に付く。 ⇒なりたち推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その738)」で、片男波公園・万葉の小路万葉歌碑とともに紹介している。

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和歌山市和歌浦南 片男波公園・万葉の小路万葉歌碑(作者未詳 7-1215(右)7-1217(左)) 20200819撮影

 

 

 

歌の解説案内板 20200819撮影



 

 

玉津島神社鳥居と拝殿 20200819撮影



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」