【甘南備伊香登場、いえいえ磯(石)でなくては】
「ここで登場したのが、甘南備伊香(なむなびのいかご)という人物です。彼はこういう主張をします。
(巻二十の四五〇二)(歌は省略)
『梅の花散る春、長い日中見ても見ても見飽きないのは、庭池の磯(石)かもしれませんぞ!』と歌いました。『そりゃね、花より松でしょうよ、長生きなのは。でもね、石はもっともっと長生き、長寿を寿ぐのだったら石じゃなくちゃあいけません』という声が聞こえてきそうな歌です。これでは、市原王の歌も、家持の歌もかたなしです。」(「万葉集の心を読む」 上野 誠著 角川ソフィア文庫より)
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巻二十の四五〇二歌をみていこう。
■巻二十 四五〇二歌■
◆烏梅能波奈 左伎知流波流能 奈我伎比乎 美礼杼母安加奴 伊蘇尓母安流香母
(甘南備伊香真人 巻二十 四五〇二)
≪書き下し≫梅の花 咲き散る春の 長き日を 見れども飽(あ)かぬ 礒にもあるかも
(訳)梅の花のしきりに散る春の一日、こんなに長い一日のあいだ中、見ても見ても見飽きることのない、お庭の池の磯でございます。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
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(注)磯:四五〇〇の「梅の花」と前歌の「松」を承け、双方に気を使いながら、松の磯をほめている。(伊藤脚注)
左注は、「右一首大蔵大輔甘南備伊香真人」<右の一首は大蔵大輔(おほくらのだいふ)甘南備伊香真人(かむなびのいかごのまひと)>
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1226)」で、加古郡稲美町 稲美中央公園万葉の森万葉歌碑<プレート>(甘南備伊香真人 20-4513)ならびに万葉集に収録されている甘南備伊香の歌四首とともに紹介している。
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20211005撮影
【家持三度目の登場、形勢不利で話題転換】
「花は美しいが色あせるもの、色あせないのは松だが、石は永遠だ、と展開されてきたことを受けて、家持は、ならば……と歌います。
(巻二十の四五〇三)(歌は省略)
家持は、苑池(えんち)の石積みすなわち『磯』から、池に目を転じます。・・・『磯に寄せる波のように、何度お会いしても飽きることがないのは、清麻呂様でございますよ』と家持は歌い継いだのです。相手に隙あらばチクリと刺す。チクリと刺されて形勢不利とあらば、話題を転換して作戦変更。そうしながら、清麻呂の長寿を寿いでゆくのです。まるで、その寵愛(ちょうあい)を競い合うかのように。」(同上)
巻二十の四五〇三歌をみていこう。
■巻二十 四五〇三歌■
◆伎美我伊敝能 伊氣乃之良奈美 伊蘇尓与世 之婆之婆美等母 安加無伎弥加毛
(大伴家持 巻二十 四五〇三)
≪書き下し>君が家(いへ)の 池の白波(しらなみ) 礒(いそ)に寄せ しばしば見(み)とも 飽かむ君かも
(訳)我が君のお庭の池の白波、その白波は今しきりに磯に寄せています、その寄せる波のように重ね重ね何度お見受けしても、見飽きるようなお方ではありません。(同上)
(注)上三句は実景の序。「しばしば」を起す。前歌の下二句を承け、主人そのものをほめる歌。(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1086)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」