万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1966、1967、1968)―島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(4,5,6)―万葉集 巻四 六六九、巻五 八〇二、巻七 一二五七

―その1966―

●歌は、「あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(4)万葉歌碑<プレート>(春日王

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(4)である。                 

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「春日王歌一首 志貴皇子之子母日多紀皇女也」<春日王(かすがのおほきみ)が歌一首 志貴皇子の子、母は多紀皇女といふ>である。

(注)多紀皇女は、天武天皇の娘

 

◆足引之 山橘乃 色丹出与 語言継而 相事毛将有

         (春日王    巻四 六六九)

 

≪書き下し≫あしひきの山橘(やまたちばな)の色に出でよ語らひ継(つ)ぎて逢ふこともあらむ

 

(訳)山陰にくっきりと赤いやぶこうじの実のように、いっそお気持ちを面(おもて)に出してください。そうしたら誰か思いやりのある人が互いの消息を聞き語り伝えて、晴れてお逢いすることもありましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句「足引之 山橘乃」は序、「色丹出与」を起こす。(伊藤脚注)

 

 思う相手との距離感(実距離あるいは心理的距離)が何とか埋まらないだろうか、そのためにまず誰かに心根を少しでも吐露してください、そうすれば、という切なる気持ちを感じさせる。恋愛という当事者間の事案に第三者を登場させ、一見間接的に見えるが自分の気持ちを強く強く伝えようとしている。

 この心境と言うのは、通信手段が発達した現代においても「山橘の色に出で」ないと伝わらない。その瞬間を待ち望む恋愛心理的駆け引きのこの段階と言うのは万葉の時代も変わらないし、歌に詠み込む深さを山橘の実に比喩した言葉のアートに驚嘆させられる。

 

 「山橘」を詠んだ歌は、万葉集には五首収録されている。拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その664)」で紹介している。

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―その1967―

●歌は、「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆいづくより・・・」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(5)万葉歌碑<プレート>(山上憶良

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(5)である。                 

 

●歌をみていこう。

 

◆宇利波米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯堤葱斯農波由 伊豆久欲利

 

枳多利斯物能曽 麻奈迦比尓 母等奈可利堤 夜周伊斯奈佐農

        (山上憶良 巻五 八〇二)

 

≪書き下し≫瓜食(うりはめ)めば 子ども思ほゆ 栗(くり)食めば まして偲(しの)はゆ いづくより 来(きた)りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐(やすい)し寝(な)さぬ

 

(訳)瓜を食べると子どもが思われる。栗を食べるとそれにも増して偲(しの)ばれる。こんなにかわいい子どもというものは、いったい、どういう宿縁でどこ我が子として生まれて来たものなのであろうか。そのそいつが、やたら眼前にちらついて安眠をさせてくれない。(同上)

(注)まなかひ【眼間・目交】名詞:目と目の間。目の辺り。目の前。 ※「ま」は目の意、「な」は「つ」の意の古い格助詞、「かひ」は交差するところの意。(学研)

(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)

(注)やすい【安寝・安眠】名詞:安らかに眠ること。安眠(あんみん)。 ※「い」は眠りの意(学研)

 

 この歌については、奈良市神功4丁目 万葉の小径の歌碑とともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その477)」で紹介している。

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 この歌の歌碑では、日比野五鳳の書になる岐阜県安八郡神戸町役場玄関ロビーと鳥取県倉吉市国府 伯耆国分寺跡北側に立てられているのが特筆すべきものである。

岐阜県安八郡神戸町役場玄関ロビー(日比野五鳳書)と鳥取県倉吉市国府 伯耆国分寺跡北側

 

 

―その1968―

●歌は、「道の辺の草深百合の花笑みに笑みしがからに妻と言ふべしや」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(6)万葉歌碑<作者未詳)

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(6)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆道邊之 草深由利乃 花咲尓 咲之柄二 妻常可云也

       (作者未詳 巻七 一二五七)

 

≪書き下し≫道の辺(へ)の草深百合(くさふかゆり)の花(はな)笑(ゑ)みに笑みしがからに妻と言ふべしや

 

(訳)道端の草むらに咲く百合、その蕾(つぼみ)がほころびるように、私がちらっとほほ笑んだからといって、それだけでもうあなたの妻と決まったようにおっしゃってよいものでしょうか。(同上)

(注)くさぶかゆり【草深百合】:草深い所に生えている百合。 (weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)ゑむ【笑む】自動詞:①ほほえむ。にっこりとする。微笑する。②(花が)咲く。(学研)

(注)上三句は「笑みし」の譬喩。(伊藤脚注)

(注)からに 接続助詞《接続》活用語の連体形に付く。:①〔原因・理由〕…ために。ばかりに。②〔即時〕…と同時に。…とすぐに。③〔逆接の仮定条件〕…だからといって。たとえ…だとしても。…たところで。▽多く「…むからに」の形で。参考➡格助詞「から」に格助詞「に」が付いて一語化したもの。上代には「のからに」「がからに」の形が見られるが、これらは名詞「故(から)」+格助詞「に」と考える。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その715)」で紹介している。

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六六九歌の山橘のように、思い焦がれる方は、ちらっとでもと期待し、一二五七歌のようにちらっとが百合のように捉えて早合点してして良いものでしょうかと軽くたしなめられる。まさに掛け合いの歌のように味わい深い歌になっている。

 植物を観察し、それに自分の心情を重ね合わせて表現する感性にはただただ驚かされる。

  ブラボー、万葉歌である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

万葉歌碑を訪ねて(その1963,1964,1965)―島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(1,2,3)―万葉集 巻一 二十一、巻二 一八五、巻三 三七一、巻四 五三六

―その1963⁻

●歌は、「紫草のにほえる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(1)万葉歌碑<プレート>(大海人皇子

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

      (大海人皇子 巻一 二十一)

 

≪書き下し≫紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも

 

(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)紫草の:「にほふ」の枕詞(伊藤脚注)

(注)にほふ【匂ふ】自動詞:①美しく咲いている。美しく映える。②美しく染まる。(草木などの色に)染まる。③快く香る。香が漂う。④美しさがあふれている。美しさが輝いている。⑤恩を受ける。おかげをこうむる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは④の意

(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ⇒なりたち:推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 この歌については、幾度となく紹介してきている。今回は滋賀県蒲生郡竜王町雪野山大橋欄干の歌碑(プレート)とともに紹介してみよう。

 

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 「紫・紫草」を詠んだ歌は万葉集に十六首収録されている。その内十三首は二十一歌のように初句に詠われている。

 

■初句に詠われている歌からみてみよう。(訳)はすべて「『万葉集 一~四』伊藤 博 著 角川ソフィア文庫」によっている。

の糸をぞ我(わ)が搓(よ)るあしひきの山橘(やまたちばな)を貫(ぬ)かむと思ひて(作者未詳 巻七 一三四〇)

 

(訳)紫色の糸を、私は今一生懸命搓り合わせている。山橘の実、あの赤い実をこれに通そうと思って。

(注)「山橘(やまたちばな)を貫(ぬ)く」は、男と結ばれる譬え。(伊藤脚注)

 

の帯(おび)の結びも解きもみずもとなや妹(いも)に恋ひわたりなむ(作者未詳 巻十二 二九七四)

 

(訳)紫染めの帯の結び目さえ解くこともなく、ただいたずらにあの子に焦がれつづけることになるのか。

 

の粉潟(こかた)の海に潜(かづ)く鳥玉潜き出(で)ば我(わ)が玉にせむ(作者未詳 巻十六 三八七〇)

 

(訳)紫の粉(こ)ではないが、その粉潟(こかた)の海にもぐってあさる鳥、あの鳥が真珠を拾い出したら、それは俺の玉にしてしまおう。

(注)「潜(かづ)く鳥」は親の譬え。

(注)「玉」は女の譬え。

(注)「玉潜き出(で)ば」は、親が娘を無事育て上げて、の譬え。

 

(むらさき)の名高(なたか)の浦(うら)のなのりその礒に靡(なび)かむ時待つ我(わ)れを(作者未詳 巻七 一三九六)

 

(訳)名高の浦に生えるなのりその磯に靡く時、その時をひたすら待っている私なのだよ。

 

(むらさき)の名高(なたか)の浦の靡(なび)き藻の心は妹(いも)に寄りにしものを(作者未詳 巻十一 二七八〇)    

                    

(訳)紫の名高の浦の、波のまにまに揺れ靡く藻のように、心はすっかり靡いてあの子に寄りついてしまっているのに。

(注)上三句は序。「寄りにし」を起こす。

 

 

(むらさき)の名高(なたか)の浦(うら)の真砂地(まなごつち)袖のみ触れて寝ずかなりなむ(作者未詳 巻七 一三九二)

 

(訳)名高の浦の細かい砂地には、袖が濡れただけで、寝ころぶこともなくなってしまうのであろうか。

(注)まなご【真砂】名詞:「まさご」に同じ。 ※「まさご」の古い形。上代語。 ⇒まさご【真砂】名詞:細かい砂(すな)。▽砂の美称。 ※古くは「まなご」とも。「ま」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)真砂土は、愛する少女の譬えか。

 

 「紫の名高」の一三九六、二七八〇、一三九二歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その765)」で紹介している。

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紫草(むらさき)の根延(ねば)ふ横野(よこの)春野(はるの)には君を懸(か)けつつうぐひす鳴くも(作者未詳 巻十 一八二五)

(訳)紫草(むらさきぐさ)の根を張る横野のその春の野には、あなたを心にかけるようにして、鴬が鳴いている。

 

のまだらのかづら花やかに今日(けふ)見し人に後(のち)恋いむかも(作者未詳 巻十二 二九九三)

 

(訳)紫染めのだんだら縵(かずら)のように、はなやかに美しいと今日見たあの人に、あとになって恋い焦がれることだろうな。

 

の我が下紐の色に出でず恋ひかも痩(や)せむ逢よしもなみ(作者未詳 巻十二 二九七六)

 

(訳)紫染めの私の下紐の色が外からは見えないように、顔色にも思いを出せないまま、この身は恋ゆえに痩せ細ってゆくのでしょうか。お逢いする手立てもないので。

 (注)上二句は序。「色に出でず」を起こす

 

紫草(むらさき)は根をかも終(を)ふる人の子のうら愛(がな)しけを寝(ね)を終へなくに(作者未詳 巻十四 三五〇〇)

 

(訳)紫草は根を終えることがあるのかなあ。この俺は、あの女子(おなご)のいとしくってならない奴、あいつとの寝を終えてもいないのにさ。(同上)

(注)寝を終へなくに:あいつとの共寝を存分に尽くしていないのに。「根」と「寝」との語呂合わせに興じた歌。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1146)」で紹介している。

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(むらさき)は灰(はい)さすものぞ海石榴市(つばきち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に逢(あ)へる子や誰(た)れ紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十衢尓 相兒哉誰               (作者未詳 巻十二 三一〇一)

 

(訳)紫染めには椿の灰を加えるもの。その海石榴市の八十の衢(ちまた)で出逢った子、あなたはいったいどこの誰ですか。

(注)上二句は懸詞の序。「海石榴市」を起す。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その59改)」で紹介している。

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紫草(むらさき)を草と別(わ)く別(わ)く伏(ふ)す鹿の野は異(こと)にして心は同(おな)じ(作者未詳 巻十二 三〇九九)

 

(訳)紫草を他の草と区別しながら、紫草の上ばかりで伏す鹿ではないが、私とあなたとは寝る在所は異なっていても、心は一体なのです。

(注)上三句は序。「「野は異にして」を起す。

(注)「野」は住い。

 

 

■初句以外に「紫」が詠われている歌をみてみよう。

◆あかねさす野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る             (額田王 巻一 二〇)

 

(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。

(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。

(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。

(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。

(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その258)」で紹介している。

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◆託馬野(つくまの)に生(お)ふる紫草(むらさき)衣(きぬ)に染(し)めいまだ着ずして色に出(い)でにけり(笠女郎 巻三 三九五)

 

(訳)託馬野(つくまの)に生い茂る紫草、その草で着物を染めて、その着物をまだ着てもいないのにはや紫の色が人目に立ってしまった。

(注)託馬野:滋賀県米原市朝妻筑摩か。

(注)「着る」は契りを結ぶことの譬え

(注)むらさき【紫】名詞:①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。古くから「武蔵野(むさしの)」の名草として有名。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1710)」で紹介している。

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◆韓人(からひと)の衣(ころも)染(そ)むといふ(むらさき)の心に染(し)みて思ほゆるかも(麻田連陽春 巻四 五六九)

 

(訳)韓国の人が衣を染めるという紫の色が染みつくように、紫の衣を召されたお姿が私の心に染みついて、君のことばかりが思われてなりません。(同上)

(注)上三句は序。「心に染みて」を起こす。

(注)紫:三位以上の礼服の色

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その899)」で紹介している。

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―その1964―

●歌は、「水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(2)万葉歌碑<プレート>(日並皇子尊宮舎人)

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆水傳 磯乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨

     (日並皇子尊宮舎人 巻二 一八五)

 

≪書き下し≫水(みづ)伝(つた)ふ礒(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂(も)く咲く道をまたも見むかも

 

(訳)水に沿っている石組みの辺の岩つつじ、そのいっぱい咲いている道を再び見ることがあろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)いそ【磯】名詞:①岩。石。②(海・湖・池・川の)水辺の岩石。岩石の多い水辺。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)うらみ【浦廻・浦回】名詞:入り江。海岸の曲がりくねって入り組んだ所。「うらわ」とも。(学研)

(注)茂く>もし【茂し】( 形ク ):草木の多く茂るさま。しげし。(weblio辞書 三省堂大辞林 第三版)

 

題詞「皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二十三首」(一七一~一九三歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その502)」にて紹介している。

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―その1965―

●歌は、「意宇の海の川原の千鳥汝が鳴けば我が佐保川の思ほゆらくに(三七一歌)」ならびに「意宇の海の潮干の潟の片思に思ひや行かむ道の長手を(五三六歌)」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(3)万葉歌碑<プレート>(門部王)

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「出雲守門部王思京歌一首 後賜大原真人氏也」<出雲守(いづものかみ)門部王(かどへのおほきみ)、京を思(しの)ふ歌一首 後に大原真人の氏を賜はる>である。

 

◆飫海乃 河原之乳鳥 汝鳴者 吾佐保河乃 所念國

        (門部王 巻三 三七一)

 

≪書き下し≫意宇(おう)の海の川原(かはら)の千鳥汝(な)が鳴けば我(わ)が佐保川の思ほゆらくに)

 

(訳)意宇(おう)の海まで続く川原の千鳥よ、お前が鳴くと、わが故郷の佐保川がしきりに思いだされる。(同上) 

(注)おう【意宇・淤宇・飫宇】:島根県北東部にあった郡。ここに国府が置かれた。

(注)意宇(おう)の海:現在の島根県の中海か。

 

 門部王(かどへのおほきみ)は、奈良時代歌人で、風流侍従とよばれ、「万葉集」には歌が五首収録されている。天平十一年(739年)兄の高安王とともに大原真人の氏姓をあたえられる。長皇子の孫にあたるか。

(注)風流侍従:特別な職階で、学者等ではないが文化的貢献を任としていたと思われる。

 

 

題詞は、「門部王戀歌一首」<門部王が恋の歌一首>である。

 

◆飫宇能海之 塩干乃鹵之 片念尓 思哉将去 道之永手呼

      (門部王 巻四 五三六)

 

≪書き下し≫意宇(おう)の海の潮干の潟(かた)の片思(かたもひ)に思ひや行かむ道の長手(ながて)を

 

(訳)意宇の海の潮干の干潟ではないが、片思いにあの子のことを思いつめながら辿(たど)ることになるのか。長い長いこの道のりを。(同上)

(注)上二句は序。「片思」を起こす。

(注)ながて【長手】名詞:「ながぢ」に同じ。(学研)

(注の注)ながぢ【長道】名詞:長い道のり。遠路。長手(ながて)。「ながち」とも。(学研)

 

左注は、「右門部王任出雲守時娶部内娘子也 未有幾時 既絶徃来 累月之後更起愛心 仍作此歌贈致娘子」<右は、門部王(かどへのおほきみ)、任出雲守(いづものかみ)に任(ま)けらゆ時に、部内の娘子(をとめ)娶(めと)る。いまだ幾時(いくだ)もあらねば、すでに徃来を絶つ。月を累(かさ)ねて後に、さらに愛(うつく)しぶ心を起こす。よりて、この歌を作りて娘子に贈り致す。>である。

(注)幾時(いくだ)もあらねば:どれほどの時間もたたないのに。

 

両歌とも、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1261)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林 第三版」

万葉歌碑を訪ねて(その1962)―島根県松江市東出雲町 阿太加夜神社―万葉集 巻三 三七一

●歌は、「意宇の海の川原の千鳥汝が鳴けば我が佐保川の思ほゆらくに」である。

島根県松江市東出雲町 阿太加夜神社万葉歌碑(門部王)

●歌碑は、島根県松江市東出雲町 阿太加夜神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「出雲守門部王思京歌一首 後賜大原真人氏也」<出雲守(いづものかみ)門部王(かどへのおほきみ)、京を思(しの)ふ歌一首 後に大原真人の氏を賜はる>である。

 

◆飫海乃 河原之乳鳥 汝鳴者 吾佐保河乃 所念國

        (門部王 巻三 三七一)

 

≪書き下し≫意宇(おう)の海の川原(かはら)の千鳥汝(な)が鳴けば我(わ)が佐保川の思ほゆらくに)

 

(訳)意宇(おう)の海まで続く川原の千鳥よ、お前が鳴くと、わが故郷の佐保川がしきりに思いだされる。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より) 

(注)おう【意宇・淤宇・飫宇】:出雲国北東端の古地方名。現在の島根県松江・安来の両市、能義・八束の両郡にあたる。(広辞苑無料検索 日本国語大辞典

(注)意宇(おう)の海:ここは島根県の中海。(伊藤脚注)

(注)おもほゆ【思ほゆ】自動詞:(自然に)思われる。 ※動詞「思ふ」+上代の自発の助動詞「ゆ」からなる「思はゆ」が変化した語。「おぼゆ」の前身。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)思ほゆらくに:「思ほゆ」のク活用。

(注の注の注)【ク活用】:文語形容詞の活用形式の一。語尾が「く・く・し・き・けれ・○」と変化するもの。これに補助活用のカリ活用を加えて、「く(から)・く(かり)・し・き(かる)・けれ・かれ」とすることもある。「よし」「高し」など。連用形の語尾「く」をとって名づけたもの。情意的な意を持つものの多いシク活用に対し、客観的、状態的な意味を表すものが多い。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 

 門部王(かどへのおほきみ)は、奈良時代歌人で、風流侍従とよばれ、「万葉集」には歌が五首収録されている。天平十一年(739年)兄の高安王とともに大原真人の氏姓をあたえられる。長皇子の孫にあたるか。

(注)風流侍従:特別な職階で、学者等ではないが文化的貢献を任としていたと思われる。

 

 この歌をはじめ門部王の五首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1261)」で紹介している。

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門部王歌碑説明案内板

歌碑建設主旨銘文碑



 出雲国府跡については、「しまね観光ナビHP」に、「意宇川の左岸、意宇平野の中ほど南寄りにある出雲国総社六所神社のあたりが、奈良、平安時代出雲国庁のあった場所である。その付近一帯の条里制の名残りをとどめる水田が国府市街でもあったところである。・・・出雲国は令の規定で上国に属し、9郡からなっていた。『出雲国風土記』には出雲国庁と意宇郡家(おうぐうけ)、意宇軍団、黒田駅(くろだのうまや)の四つの役所が同じところにあったという。昭和43年(1968)から3年がかりの調査によって確かめられた遺構をもとにして、復元整備したのが今みられる出雲国庁である。溝によって区画された大規模な掘立柱建物は、出雲国の政治の中心地としての建物跡をしのぶことができる。調査によって出土した遺物には、桂根、須恵器などの食器類、硯(すずり)、木簡(もっかん)、墨書のある土器、玉作に用いた砥石(といし)、メノウ原石、屋根にふかれた瓦、和銅開宝などの貨幣もあった。出雲国国司として赴任した人には万葉の歌人門部王(かどべのおおきみ)や聖武天皇に寵愛された石川年足(いしかわとしたり)などがいた。国指定史跡。」と書かれている。

(注)六所神社:伊弊諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、と月夜見尊つきよみのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、大巳貴尊(おおなむちのみこと)が祀られ、この六神を主祭神としているところから六所神社の名がついたといわれる。意宇(いう)平野のほぼ中央にあり、律令時代、出雲国の総社であった。・・・意宇六社(おうろくしゃ)の一つ。(しまね観光ナビ)

(注の注)意宇六社:熊野大社、眞名井神社、揖夜神社、六所神社、八重垣神社、神魂神社

 

 

 この歌碑のある「阿太加夜神社」の主祭神である「阿陀加夜奴志多岐喜比賣(あだかやぬしたききひめ)命」の名前に由来すると言われている。阿太加夜神社と松江城山稲荷神社との間で、10年毎に行われる伝統行事『ホーランエンヤ』は、日本三大船神事のひとつである。この神社のある地域は「出雲郷(あだかえ)と呼ばれている

 境内にある面足山(おもたるやま)には、「面足山万葉公園の碑」、「意宇の社(おうのやしろ)の碑」、「国引きの碑」などがある。

「面足山万葉公園の碑」

「意宇の社の碑」

「国引きの碑」




 

 

鳥取県米子市彦名町 粟嶋神社→島根県松江市 阿太加夜神社■

 阿太加夜(あだかや)神社の歌碑は、前回島根県歌碑巡りを行なった時に時間切れとなり撮り残した分である。

駐車場に車を停め、神社の境内に。境内を見わたしても歌碑らしいものが見当たらない。神殿の右手奥に伝統船神事『ホーランエンヤ』に使われる船が3隻保管されている。その近くの出入り口は閉ざされている。そこから意宇川に架かる小さな橋が見える。

阿太加夜神社・面足山万葉公園案内図

結局見つからず、駐車場の所まで引き返し境内側にある「阿太加夜神社・面足山(おもたりやま)万葉公園案内図」を参考に車で行こうとする。案内図の距離感と車での距離感が一致しない。「出雲郷橋」を渡ってしまいまた引き返すことに。「面足山(おもたりやま)」の「山」と言う文字に反応して「山」を探し求めていたのだが。

もう一度案内図を見直し、境内に。足での探索に切り替える。3隻の船の所を通り、閉ざされている出入り口に。閉ざされているが何とか通れる。ようやく門部王の歌碑に到着。「意宇の社(おうのやしろ)の碑」、「国引きの碑」も撮影し、「面足山万葉公園の碑」も見つけることが出来たのである。

門部王の歌碑の近くの木々に万葉歌を書いたプレートがぶら下げられている。これもカメラに収める。

阿太加夜神社楼門と社殿

社殿

神社由緒



自宅を3時に出て、鳥取市国府町中郷・因幡国庁跡→同町庁・史跡「万葉の歌碑」→同町町屋・袋川水辺の楽校→同町町屋・因幡万葉歴史館→倉吉市南昭和町・深田公園→倉吉市国府伯耆国分寺跡→米子市彦名町・米子水鳥公園駐車場→同町・粟嶋神社→島根県松江市 阿太加夜神社とかなりハードな歌碑巡りをして来たのである。

あとは益田市内のホテルまでのドライブである。

 

 山陰自動車道に入る時に、ナビに従って進入したのであるが、どうも様子が変である。何故か米子方面に向かっているのである。

結局、安来ICの出口で事情を話しUターンさせてもらう。初めての経験である。高速出入口に「出口を間違えたら次の出口で申し出て・・・」といった文言の看板が立てられているので、これに従い申し出てみた。手続きには時間がかかり、後続車が3台ほど待っていてくれている。申し訳ない気持ち。Uターン場所など細かく教えていただく。戻って来ると入り口には係の方が待っていて下さり、無事に浜田へ。ご迷惑をおかけいたしました。

 万葉歌碑巡りではいろいろな事を経験する。

 安全第一!

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「広辞苑無料検索 日本国語大辞典

★「しまね観光ナビHP」

万葉歌碑を訪ねて(その1961)―米子市彦名町 粟嶋神社―万葉集 巻一 三五五

●歌は、「大汝少彦名のいましけむ志都の石室は幾代経ぬらむ」である。

米子市彦名町 粟嶋神社万葉歌碑(生石村主真人)

●歌碑は、米子市彦名町 粟嶋神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經

      (生石村主真人 巻三 三五五)

 

≪書き下し≫大汝(おおなむち)少彦名(すくなびこな)のいましけむ志都(しつ)の石室(いはや)は幾代(いくよ)経(へ)ぬらむ

 

(訳)大国主命(おおくにぬしのみこと)や少彦名命が住んでおいでになったという志都の岩屋は、いったいどのくらいの年代を経ているのであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)おおあなむちのみこと【大己貴命】:「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神(おおくにぬしのかみ)の一名とされる。「出雲風土記」には国土創造神として見え、また「播磨風土記」、伊予・尾張・伊豆・土佐各国風土記逸文、また「万葉集」などに散見する。後世、「大国」が「大黒」に通じるところから、俗に、大黒天(だいこくてん)の異称ともされた。大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)。大汝神(おほなむぢのかみ)。大穴持命(おほあなもちのみこと)。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)少彦名命 すくなひこなのみこと:記・紀にみえる神。「日本書紀」では高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子、「古事記」では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子。常世(とこよ)の国からおとずれるちいさな神。大国主神(おおくにぬしのかみ)と協力して国作りをしたという。「風土記」や「万葉集」にもみえる。穀霊,酒造りの神,医薬の神,温泉の神として信仰された。「古事記」では少名毘古那神(すくなびこなのかみ)。(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)志都の石室:島根県大田市静間町の海岸の岩窟かという。(伊藤脚注)

(注の注)静之窟(しずのいわや):「静間川河口の西、静間町魚津海岸にある洞窟です。波浪の浸食作用によってできた大きな海食洞で、奥行45m、高さ13m、海岸に面した二つの入口をもっています。『万葉集』の巻三に『大なむち、少彦名のいましけむ、志都(しず)の岩室(いわや)は幾代経ぬらむ』(生石村主真人:おおしのすぐりまひと)と歌われ、大巳貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)2神が、国土経営の際に仮宮とされた志都の石室はこの洞窟といわれています。洞窟の奥には、大正4年(1915)に建てられた万葉歌碑があります。現在崩落により、立入禁止となっています。」(しまね観光ナビHP)

(注)けむ 助動詞《接続》活用語の連用形に付く。:①〔過去の推量〕…ただろう。…だっただろう。②〔過去の原因の推量〕…たというわけなのだろう。(…というので)…たのだろう。▽上に疑問を表す語を伴う。③〔過去の伝聞〕…たとかいう。…たそうだ。 ⇒語法:(1)名詞の上は過去の伝聞③の過去の伝聞の用法は、名詞の上にあることが多い。例「『関吹き越ゆる』と言ひけむ浦波」(『源氏物語』)〈「関吹き越ゆる」と歌に詠んだとかいう浦波が。〉(2)未然形の「けま」(上代の用法) ⇒参考:中世以降の散文では「けん」と表記する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは③の意

 この歌については、前稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1960)」で紹介している。

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米子市彦名町 米子水鳥公園駐車場→同町 粟嶋神社■

 米子水鳥公園駐車場から見た小高い山の頂上にある粟嶋神社の前の駐車場に車を停める。参道を進むと187段の参道石段が見えて来る。

鳥居と参道

187段の参道石段

 同神社の万葉歌碑を検索したが、歌碑そのものの写真は見つかるが、場所までは特定できていない。歌や「静の岩屋」からして、小高い山の神社の背後にある岩屋近くの厳しい所に歌碑があると想像してしまう。

社務所には誰もおられないので、貼り紙に従って神主さんのご自宅へ厚かましくも万葉歌碑の場所を教えてもらいに行く。

呼び鈴を押すと、品の良い、凛としたなかにやさしさを漂わせるご老婦人が出てこられた。

京都から万葉歌碑を目的に来た旨を話し、石段を上って社のどのあたりに行けば良いのかをお尋ねした。そこまでは行く必要はないですよと、にこやかに案内してくださる。何と、歌碑は、参道石段に向かって右手奥に立てられていたのである。

お礼を申し上げ、歌碑を撮影する。

 折角なので、足腰の悪い家内を下で待たせ、一人で石段を上る。きつい!きつい!歌碑巡りには石段上りがついてまわる。

 何とか上りきり息を切らせながら社殿に参拝する。

境内

参道脇に置かれている旧い狛犬


 下りようとすると独りで上って来られた地元の人らしい老婦人が「下に京都ナンバーの車がありましたが、京都からですか。」と聞かれる。

「そうです、よくここにはこられるのでか。」と尋ねる。

ここまで上って来られたのは、4回目で、足腰を鍛えたいので近所の人に相談したところ、ここの石段を教えてもらったそうである。雨の日には石段は滑りやすいから気を付けてと言われましたとも。最初は途中で引き返すことが多かったが、最近はなんとか上れるようになった、と、息を切らせながらお話になる。しばらく健康に関する石段談義におつきあいする。

 確かに石段は、摩耗して丸みを帯びている。注意をしながらゆっくり下りて行く。

 

 この粟嶋神社については、米子市観光協会HP 米子観光ナビに「標高38mの小高い丘・粟島は、米子水鳥公園からもほど近く。187段という長い石段を登りつめると、手に乗るほど小さい姿をした神様『少彦名命(すくなひこなのみこと)』を祀る『粟嶋神社』があります。

粟島は、今では米子市内と陸続きですが、江戸時代までは中海に浮かぶ小さな島でした。

いにしえより“神の宿る山"として信仰され、『伯耆風土記』によると、『少彦名命』が粟の穂に弾かれ、常世の国へ渡られたため、この地は粟島と名付けられたといいます。・・・粟島の洞穴は『静の岩屋(しずのいわや)』と呼ばれています。その昔、このあたりの漁師の集まりで、珍しい料理が出されましたが誰も気味悪がって食べず、ひとりの漁師が家に持ち帰りました。それを、何も知らない娘が食べてしまいました。その肉は、いつまで経っても寿命が来ないと言われている人魚の肉。人魚の肉を食べてしまった娘はいつまで経っても18歳のまま、寿命が来ません。やがて世をはかなみ、尼さんになって粟島の洞窟に入り、物を食べずに寿命が尽きるのを待ちました。とうとう寿命が尽きたときの年齢は八百歳。その後『八百比丘(はっぴゃくびく)』と呼ばれ、延命長寿の守り神として祀られるようになりました。」と書かれている。

参道脇の「粟嶋神社の自然と伝説」


 また、参道の脇にある「粟嶋神社の自然と伝説」には、上記の「八百比丘尼(やおびくに)の伝説」とともに「『米子』の地名発祥伝承の地」として粟嶋村に住む長者が88歳になって子供が授かり、その子孫が大いに繁栄したことから、縁起のいい「八十八の子」に因んで「米子」の地名となったという言い伝えがあることが記されいる。

 18、800、88と「八」絡みの言い伝えである。

「粟嶋神社」の謂れ



 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「米子観光ナビ」 (米子市観光協会HP)

★「しまね観光ナビHP」

★「粟嶋神社の自然と伝説」 (参道の脇解説案内板)

万葉歌碑を訪ねて(その1960)―米子市彦名町新田 米子水鳥公園―万葉集 巻三 三五五

●歌は、「大汝少彦名のいましけむ志都の石室は幾代経ぬらむ」である。

米子市彦名町新田 米子水鳥公園万葉歌碑(生石村主真人)

●歌碑は、米子市彦名町新田 米子水鳥公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經

      (生石村主真人 巻三 三五五)

 

≪書き下し≫大汝(おおなむち)少彦名(すくなびこな)のいましけむ志都(しつ)の石室(いはや)は幾代(いくよ)経(へ)ぬらむ

 

(訳)大国主命(おおくにぬしのみこと)や少彦名命が住んでおいでになったという志都の岩屋は、いったいどのくらいの年代を経ているのであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)おおあなむちのみこと【大己貴命】:「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神(おおくにぬしのかみ)の一名とされる。「出雲風土記」には国土創造神として見え、また「播磨風土記」、伊予・尾張・伊豆・土佐各国風土記逸文、また「万葉集」などに散見する。後世、「大国」が「大黒」に通じるところから、俗に、大黒天(だいこくてん)の異称ともされた。大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)。大汝神(おほなむぢのかみ)。大穴持命(おほあなもちのみこと)。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)少彦名命 すくなひこなのみこと:記・紀にみえる神。「日本書紀」では高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子、「古事記」では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子。常世(とこよ)の国からおとずれるちいさな神。大国主神(おおくにぬしのかみ)と協力して国作りをしたという。「風土記」や「万葉集」にもみえる。穀霊,酒造りの神,医薬の神,温泉の神として信仰された。「古事記」では少名毘古那神(すくなびこなのかみ)。(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)志都の石室:島根県大田市静間町の海岸の岩窟かという。(伊藤脚注)

(注の注)静之窟(しずのいわや):「静間川河口の西、静間町魚津海岸にある洞窟です。波浪の浸食作用によってできた大きな海食洞で、奥行45m、高さ13m、海岸に面した二つの入口をもっています。『万葉集』の巻三に『大なむち、少彦名のいましけむ、志都(しず)の岩室(いわや)は幾代経ぬらむ』(生石村主真人:おおしのすぐりまひと)と歌われ、大巳貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)2神が、国土経営の際に仮宮とされた志都の石室はこの洞窟といわれています。洞窟の奥には、大正4年(1915)に建てられた万葉歌碑があります。現在崩落により、立入禁止となっています。」(しまね観光ナビHP)

 

 この歌については、島根県大田市静間町 静之窟の歌碑説明案内板(崩落の為立ち入り禁止となっている)とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1342)」で紹介している。

 ➡ 

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 公益社団法人 鳥取県観光連盟HP「とっとり旅」に、「米子水鳥公園がある中海には国内で確認された42%の野鳥の種類が観測されています。山陰屈指の野鳥の生息地として観光スポットになっています。さらにこの米子水鳥公園にはコハクチョウが集団で冬を越すため、毎年約1000羽のコハクチョウが越冬しています。コハクチョウがみたいなら夕方がおすすめ、食事を終えたコハクチョウがねぐらとしている米子水鳥公園に帰ってきます。米子水鳥公園では、カモ類やサギ類・国の天然記念物であるマガン・ヒシクイオジロワシなどが観察でき、夏は水鳥の子育て(カイツブリカルガモ・バン)、オオヨシキリアマサギ、たくさんのイトトンボなどが観察できます。一年を通じて、水鳥をはじめ様々な生き物達の営みを観察できるのが米子水鳥公園です。」と書かれている。

サントリーHP「日本の鳥百科」より引用させていただきました。

 

倉吉市国府 伯耆国分寺跡→米子市彦名町 米子水鳥公園駐車場■

 米子水鳥公園駐車場へ。何と火曜日が定休日とあり入口にはロープが張られている。場外のスペースに車を停める。人っ子一人いないので独占状態。駐車場にある歌碑を撮影。歌碑の背後の小山の頂上に粟嶋神社の社殿の頂がみえる。この後粟嶋神社に行く予定にしているので、あそこまで上るのかと一瞬ビビッてしまう。

 簡単に昼食を済ませ粟嶋神社へと向かったのである。

側面に刻された訳

水鳥公園案内板



 

 水鳥公園の万葉歌碑の由来が知りたくていろいろ検索してもなかなかヒットしない。「資料 水鳥公園の歴史」が見つかったが、万葉歌碑に触れた箇所はなかった。何周年かの記念イベントの記事もみてみたがなかった。ちなみに米子水鳥公園は、平成 7 年 10 月にオープンしている。

 

 第1駐車場と粟嶋神社の位置関係は次のマップのとおりである。

米子水鳥公園第1駐車場(赤い印)そして東の方向に粟嶋神社

歌碑の横にある「粟嶋神社の自然と伝説」の碑



 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「とっとり旅」 (公益社団法人 鳥取県観光連盟HP)

★「しまね観光ナビHP」

★「日本の鳥百科」 (サントリーHP)

 

万葉歌碑を訪ねて(その1959)―鳥取県倉吉市国府 伯耆国分寺跡北側―万葉集 巻五 八〇二、八〇三

●歌は、「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆいづくより・・・(八〇二歌)」ならびに「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(八〇三歌)」である。

鳥取県倉吉市国府 伯耆国分寺跡北側万葉歌碑(山上憶良

●歌碑は、鳥取県倉吉市国府 伯耆国分寺跡北側にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆宇利波米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯堤葱斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曽 麻奈迦比尓 母等奈可利堤 夜周伊斯奈佐農

     (山上憶良 巻五 八〇二)

 

≪書き下し≫瓜食(うりはめ)めば 子ども思ほゆ 栗(くり)食めば まして偲(しの)はゆ いづくより 来(きた)りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐(やすい)し寝(な)さぬ

 

(訳)瓜を食べると子どもが思われる。栗を食べるとそれにも増して偲(しの)ばれる。こんなにかわいい子どもというものは、いったい、どういう宿縁でどこ我が子として生まれて来たものなのであろうか。そのそいつが、やたら眼前にちらついて安眠をさせてくれない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)まなかひ【眼間・目交】名詞:目と目の間。目の辺り。目の前。 ※「ま」は目の意、「な」は「つ」の意の古い格助詞、「かひ」は交差するところの意。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)

(注)やすい【安寝・安眠】名詞:安らかに眠ること。安眠(あんみん)。 ※「い」は眠りの意(学研)

 

 

 

◆銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母

      (山上憶良 巻五 八〇三)

 

≪書き下し≫銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに)まされる宝子にしかめやも

 

(訳)銀も金も玉も、どうして、何よりすぐれた宝である子に及ぼうか。及びはしないのだ。(同上)

(注)なにせむに【何為むに】分類連語:どうして…か、いや、…ない。▽反語の意を表す。 ※なりたち代名詞「なに」+サ変動詞「す」の未然形+推量の助動詞「む」の連体形+格助詞「に」(学研)

 (注)しかめやも【如かめやも】分類連語:及ぼうか、いや、及びはしない。※なりたち動詞「しく」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形+係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 八〇二、八〇三歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1934、1935)」で紹介している。

 ➡ 

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歌碑と歌の解説案内板(左は土屋文明の歌碑)

歌碑説明案内板




 

憶良が唐で詠んだ歌が、「日本人が外国で詠んだ最初の歌」である

山上憶良については、鳥取県HPに「奈良時代初期の下級貴族出身の官人であり、歌人として名高く、万葉集に80首の歌が収められている。・・・憶良は、42歳で遣唐使書記に抜擢され、貴族になったが、出世に恵まれず、54歳の時に上級官人になり、716年(霊亀2年)に57歳で初めての国司として、伯耆守に任命された。その後、726年(神亀3年)ごろに67歳で筑前守として赴任。その地で大宰府の長官に着任した大伴旅人大伴家持の父)と交流があったとされ、赴任4年後の730年(天平2年)に令和の典拠となった梅花の歌32首が詠まれた大伴旅人の邸宅で開かれた梅花の宴に出席している。

 筑前守を退官した後、733年(天平5年)に病気により74歳でその生涯を閉じたとされている・・・716年(霊亀2年)4月に伯耆国(現在の鳥取県中部・西部)の国守として赴任し、約5年間を伯耆の地で過ごしたとされる。伯耆国赴任中の歌は、確認されていないが、赴任した間に体験、見聞した伯耆の自然、文化がこの後の歌づくりに影響したと考えられている。後に因幡国(現在の鳥取県東部)の国守として万葉集の最後を飾る歌を詠んだ大伴家持も憶良の影響を強く受けていると言われ、憶良の『士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして(男子として、空しく人生を終わってよいものだろうか。万代の後まで語り継いでいくよう名を立てずに。)』に対して、大伴家持は『大夫は 名をし立つべし 後の世に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね(大夫はりっぱな名をたてるべきである。後の世に聞き継ぐ人もまた語り継ぐように。)』と追和したとされている。」と書かれている。

 

 上記にあるように、「42歳で遣唐使書記に抜擢され」遣唐使の一員として唐に渡り、日本へ帰国する折の送別の宴会で詠まれたという憶良の巻一 六三歌は、「日本人が外国で詠んだ最初の歌」(辰巳正明氏「山上憶良」<笠間書院>)である。

 六三歌をみてみよう。

 

題詞は、「山上臣憶良在大唐時憶本郷作歌」<山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(だいたう)に在る時に、本郷(ほんがう)を憶(おも)ひて作る歌>である。

(注)ほんがう【本郷】:①その人の生まれた土地。故郷。②ある郷の一部で、最初に開けた土地。③郡司の庁、また、郷役所のあった場所。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは①の意

 

◆去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武

       (山上憶良 巻一 六三)

 

≪書き下し≫いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴(おほとも)の御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ

 

(訳)さあ者どもよ、早く日の本の国、日本(やまと)へ帰ろう。大伴(おおとも)の御津の浜辺の松も、われらを待ち焦がれていることであろう。(同上)

(注)こども【子供・子等】名詞:①(幼い)子供たち。▽自分の子にも、他人の子にもいう。②(自分より)若い人たちや、目下の者たちに、親しみをこめて呼びかける語。 ⇒参考:「ども」は複数を表す接尾語。現代語の「子供」は単数を表すが、中世以前に単数を表す例はほとんど見られない。(学研)ここでは②の意

(注)御津:難波津。遣唐使の発着した港。(伊藤脚注)

 

 

 

倉吉市南昭和町 深田公園→倉吉市国府 伯耆国分寺跡■

 深田公園から約30分のドライブ。グーグルストリートビューを使って事前に場所を特定できたので簡単に見つけることができた。

 車を国分寺跡と法華寺畑遺跡跡の間のスペースに停め、歌碑と畑遺跡跡を巡った。

歌碑と国分寺跡、法華寺畑遺跡跡、国庁跡方面案内碑

法華寺畑遺跡



 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「山上憶良」 辰巳正明 著 (笠間書院

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「鳥取県HP」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1958)―鳥取県倉吉市南昭和町 深田公園―万葉集 巻五 八〇三

●歌は、「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」である。

鳥取県倉吉市南昭和町 深田公園万葉歌碑(山上憶良

●歌碑は、鳥取県倉吉市南昭和町 深田公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母

       (山上憶良 巻五 八〇三)

 

≪書き下し≫銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに)まされる宝子にしかめやも

 

(訳)銀も金も玉も、どうして、何よりすぐれた宝である子に及ぼうか。及びはしないのだ。(同上)

(注)なにせむに【何為むに】分類連語:どうして…か、いや、…ない。▽反語の意を表す。 ※なりたち代名詞「なに」+サ変動詞「す」の未然形+推量の助動詞「む」の連体形+格助詞「に」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 (注)しかめやも【如かめやも】分類連語:及ぼうか、いや、及びはしない。※なりたち動詞「しく」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形+係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 八〇二歌の題詞は、「子等を思ふ歌一首 幷せて序」である。八〇三歌は反歌として詠われている。序ならびに長・短歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1508)」で紹介している。1508では、八〇〇・八〇一歌(情苦)、八〇二・八〇三歌(愛苦)、八〇四・八〇五歌(老苦)の三群の歌を紹介している。

 

この歌については、直近では拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1935)」で紹介している。

 ➡ 

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国府町町屋 因幡万葉歴史館→倉吉市南昭和町 深田公園■

 万葉歌碑の撮影を終え因幡万葉歴史館をあとにして一路、伯耆国守であった山上憶良の歌碑を訪ね倉吉市へ向かったのである。約1時間のドライブである。

深田公園は倉吉市南昭和町のすずかけ通りに面した所を長辺とする三角形の形をしている。グーグルストリートビューで公園の周りを幾度となく探索したが事前には特定できなかった。

入口トイレ近くが本命ではないかと幾度となく探索したが、結局分からずじまいであった。

現地でスペースに車を停め、公園内を探索する。入り口近くを入念に探す。あるようでない。あとは、北西コーナーあたりの小山の木蔭あたりにあると見当をつけ、そちらに移動する。ありました。どっしりとした重厚感のある歌碑を見つけたのである。

木蔭の歌碑

 

因幡国大伴家持伯耆国山上憶良

 鳥取県HPには、「万葉の郷とっとりけんパンフレット」について、「鳥取県は、大伴家持山上憶良万葉歌人奈良時代にそれぞれ因幡国守、伯耆国守として赴任しており、万葉ゆかりの地が多くあることから、万葉歌人やゆかりの地を紹介しこれら文化資源の魅力発信を目的としたパンフレットをこのたび新規作成、発行しました。」と書かれている。

「万葉の郷とっとりけんパンフレット」には、①鳥取県万葉集ゆかりの地マップ、②

大伴家持の人物紹介、③因幡国のゆかりの地、④山上憶良の人物紹介、⑤伯耆国のゆかりの地、⑥門部王、柿本人麻呂の人物紹介、⑦ゆかりの万葉歌人年表、⑧万葉集の基礎知識、⑨万葉グルメ~奈良時代の食事、⑩鳥取県へのアクセスなどが紹介されている。

 そして、「鳥取県万葉集ゆかりの地マップ」には、「『万葉集』は、現存する日本最古の歌集といわれています。 主に7世紀前半から8世紀にかけて、天皇や貴族、防人、農民などさまざまな立場の人約460名(作者不詳除く)に詠まれた、4500首以上の和歌が収められています。編さんに関わったと言われるのは、758年(天平宝字2年)に因幡国(現在の鳥取県東部)の国守として赴任した万葉歌人大伴家持。家持が翌759年元日に因幡国庁で詠んだ新年を寿ぐ歌は万葉集の最後を飾っています。

 その頃からさかのぼること約30年の730年(天平2年)1月に、家持の父・大伴旅人は長官として赴任していた大宰府(今の福岡県太宰府市)の自宅で庭の梅を囲む宴を開きました。新元号『令和』は、その宴で詠まれた歌32首のまとまりを解説した万葉集巻5『梅花の歌三十二首并せて序』の一節から考案されました。この宴には716年(霊亀2年)から5年間、伯耆国(現在の鳥取県中西部)の国守を務めた山上憶良も出席していました。奈良時代鳥取県に赴任した二人の歌人は、『万葉集』に深く関わり、新元号『令和』ともつながっていたのです。

 このように鳥取県には『万葉集』ゆかりの地が多くあります。万葉集に込められた情景に思いをはせながら、ゆかりの地を訪ねてみませんか。」と書かれている。

「万葉の郷とっとりけんパンフレット」のP1.P2

 

因幡国伯耆国」の由来などについては、「フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」に各々次の様に書かれている。

 

因幡国

「いなば」の表記について、古くは『古事記』で「稲羽」、『先代旧事本紀』で「稲葉」と記される。その由来は定かでないが、稲葉神社(鳥取市立川)では、社名を因幡国の名称の由来と伝える。

なお「イナバ」(稲葉、因幡、印旛、印葉、稲羽)の固有名詞は、山陰道の稲葉国造、同国法美郡の稲羽郷・稲葉山のほか、大和国天理市の稲葉、美濃国厚見郡稲葉山(三野後国造の中心領域で、式内社物部神社も鎮座)、や「天孫本紀」の印葉という者(武諸隅命の孫とされる)、「国造本紀」の久努国造の祖・印播足尼(伊香色男命の孫とされる)などに見える。

 

伯耆国

藤原宮跡から出土した戊戌年文武天皇2年・698年)6月の年月が記された木簡に、「波伯吉国」とある。7世紀代の古い表記を多く残す『古事記』では、これと別の伯伎国という表記が見える。平安時代編纂だがやはり古い表記を残す『先代旧事本紀』には、波伯国造が見える。 伯耆国風土記によると手摩乳、足摩乳の娘の稲田姫を八岐大蛇が喰らおうとしたため、山へ逃げ込んだ。その時母が遅れてきたので姫が「母来ませ母来ませ」と言ったことから母来(ははき)の国と名付けられ、後に伯耆国となったという。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」

★「万葉の郷とっとりけんパンフレット」 (鳥取県HP)