万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1957)―鳥取市国府町町屋 因幡万葉歴史館―万葉集 巻二十 四五一六

●歌は、「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」である。

鳥取市国府町町屋 因幡万葉歴史館万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、鳥取市国府町町屋 因幡万葉歴史館にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首」<三年の春の正月の一日に、因幡(いなば)の国(くに)の庁(ちやう)にして、饗(あへ)を国郡の司等(つかさらに)賜ふ宴の歌一首>である。

(注)三年:天平宝字三年(759年)。

(注)庁:鳥取県鳥取市にあった。(伊藤脚注)

(注)あへ【饗】名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる:食事のもてなし。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)あへ【饗】:国守は、元日に国司・郡司と朝拝し、その賀を受け饗を賜うのが習い。(伊藤脚注)

 

◆新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰

       (大伴家持 巻二十 四五一六)

 

≪書き下し≫新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の今日(けふ)降る雪のいやしけ吉事(よごと)

 

(訳)新しき年の初めの初春、先駆けての春の今日この日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、佳(よ)き事よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上四句は実景の序。「いやしけ」を起す。正月の大雪は豊年の瑞兆とされた。(伊藤脚注)

(注)よごと【善事・吉事】名詞:よい事。めでたい事。(学研)

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作之」<右の一首は、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。

 

伊藤 博氏は同歌の脚注で「将来への予祝をこめるこの一首をもって万葉集は終わる。天皇と娘子との成婚を通して御代の栄えを与祝する巻一の巻頭歌に応じて、万葉集が万代の後までもと伝わることを祈りながら、ここに据えられたらしい。」と、さらに、「この時、家持、従五位上、四二歳。以後、数奇な人生をたどって、延暦四年(785年)八月二十八日に、中納言従三位、六八歳をもって他界。その間、いくつか歌詠をなしたらしい。だが、万葉集最終編者と見られる家持は、万代予祝の右の一首をもって、万葉集を閉じた。」と書かれている。

 

 家持は、天平宝字二年(758年)因幡国守として赴任している。因幡国で詠った歌はこれ一首のみが万葉集に収録されている。

 ちなみに、天平十八年(746年)から天平勝宝三年(751年)まで越中国守として越中に赴任した時は、二百二十首と家持生涯の歌四百八十五首の半数に近い歌を詠んでいる。

 「しなざかる越(こし)」で。望郷や妻恋しさの気持ちを紛らわせるために、中国文学を学び、歌の勉強に励んだからであろう。

 天平勝宝九年(757年)の橘奈良麻呂の変の外に身を置いたものの因幡への赴任は、左遷以外のなにものでもない。

 さらに藤原仲麻呂にとって都合のよい淳仁天皇(じゅんにんてんのう)が立たれたことは、家持を絶望の底に叩き落したにも等しい出来事であった。

 

この四五一六歌に関して、犬養 孝氏は、その著「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で次の様に述べられている。

 「・・・因幡というところへ行って、はじめて迎えるお正月でしょう。自分のこの頃を思えば、せめてことしだけでもよいことがあってくれよという深い祈りがある・・・そして家持はきっとこの雪の日に奈良の雪を思い出したのでしょう。ことに十三年前、天平十八年(746年)のお正月は、奈良でも雪が降って、たいへん楽しかったんですね。・・・葛井連諸会(ふじいのむらじもろあい)・・・が、<新(あらた)しき年の始めに豊(とよ)の年しるすとならし雪の降れるは(巻十七 三九二五)>と詠んだ。おそらく家持はそれを思い出したのではないでしょうか。人間というものは苦しいときには苦しくなかった日が回想されるものですね。だから、家持は十三年前の、あんな日もあったっけな、と葛井連諸会が・・・詠んだのが蘇(よみがえ)っているのではないかと思います。それがここに『新しき年の始めの初春の』という言葉にあらわれてくるのではないかと思います。」

 

 葛井連諸会の三九二五歌ならびに家持の三九二六歌については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1706)」で紹介している。

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 四五一六歌は、巻二十の巻末歌であり、万葉集最終歌である。各巻の巻末歌をみてみよう。

 

■巻一~巻四の巻末歌■

 ➡ 

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■巻五~巻八の巻末歌■

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■巻九~巻十二の巻末歌■

 ➡ 

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■巻十三~巻十六の巻末歌■

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■巻十七~巻二十の巻末歌■

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国府町町屋 袋川水辺の楽校→同 因幡万葉歴史館■

 袋川水辺の楽校を巡り終え因幡万葉歴史館駐車場に到着したのは8時15分ころであった。ゲートボールを楽しむ方々が次々に車が止めグランドに向かわれる。

駐車場から見た歴史館

 歴史館の開場まで30分以上ある。この日は、島根県浜田市内に泊まる予定にしている。これからの予定を考えると、少しでも早く次の万葉歌碑に行きたい気持ちに駆られる。

駄目元で、係りの方に事情を話し、お願いをしてみることに。有り難いことに万葉歌碑の撮影のみということで許可を頂けたのである。

早速、教えていただいた庭に入らせていただき歌碑を撮影する。じっくり万葉歴史館を見て周り知識を蓄えるべきであるのに、歌碑、歌碑、歌碑にとりつかれているような感じである。

 係の方にお礼を申し上げ次の予定地、鳥取県倉吉市南昭和町 深田公園に向かったのである。

 

同館について、公益社団法人 鳥取県観光連盟HP「とっとり旅」に「因幡地方の民俗芸能ををテーマにした歴史館。万葉時代の衣食、文化、因幡に伝わる『麒麟獅子舞』や『因幡の傘踊り』の映像公開、鳥取市国府町ゆかりの万葉歌人大伴家持』の生涯を垣間見ることが出来るホールなど、因幡地方の古代の歴史や文化、民俗芸能が一堂に会した館です。高さ30mの展望塔や回遊式の庭園もあります。毎年、大伴家持にちなんだ『万葉集朗唱の会』のイベントや『因幡の傘踊りの祭典』などが行われています。万葉衣裳の試着(館内)、自転車無料貸し出し受付もあります。」と書かれている。

因幡万葉歴史館入口



 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「公益社団法人 鳥取県観光連盟HP」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1955,1956)―鳥取市国府町町屋 水辺の楽校―万葉集 巻二十 四五一六、巻十 一九四四

―その1955―

●歌は、「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」である。

 

鳥取市国府町町屋 水辺の楽校万葉歌碑(大伴家持

 

●歌碑は、鳥取市国府町町屋 水辺の楽校にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首」<三年の春の正月の一日に、因幡(いなば)の国(くに)の庁(ちやう)にして、饗(あへ)を国郡の司等(つかさらに)賜ふ宴の歌一首>である。

(注)三年:天平宝字三年(759年)。

(注)庁:鳥取県鳥取市にあった。(伊藤脚注)

(注)あへ【饗】名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる:食事のもてなし。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)あへ【饗】:国守は、元日に国司・郡司と朝拝し、その賀を受け饗を賜うのが習い。(伊藤脚注)

 

◆新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰

       (大伴家持 巻二十 四五一六)

 

≪書き下し≫新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の今日(けふ)降る雪のいやしけ吉事(よごと)

 

(訳)新しき年の初めの初春、先駆けての春の今日この日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、佳(よ)き事よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上四句は実景の序。「いやしけ」を起す。正月の大雪は豊年の瑞兆とされた。(伊藤脚注)

(注)よごと【善事・吉事】名詞:よい事。めでたい事。(学研)

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作之」<右の一首は、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。

 

 この歌については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1953)」で紹介している。

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―その1956―

●歌は、「藤波の散らまく惜しみほととぎす今城の岡を鳴きて越ゆなり」である。

鳥取市国府町町屋 水辺の楽校万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、鳥取市国府町町屋 水辺の楽校にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆藤浪之 散巻惜 霍公鳥 今城岳▼ 鳴而越奈利

   ▼「口(くちへん)+リ」である。「今城岳▼」=今城の岡を

       (作者未詳 巻十 一九四四)

 

≪書き下し≫藤波の散らまく惜しみほととぎす今城の岡を鳴きて越ゆなり

 

(訳)藤の花の散るのを惜しんで、時鳥が今城の岡の上を鳴きながら越えている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ふぢなみ【藤波・藤浪】名詞:藤の花房の風に揺れるさまを波に見立てていう語。転じて、藤および藤の花。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注 参考)ふぢなみの【藤波の・藤浪の】( 枕詞 )① 藤のつるが物にからまりつくことから「(思ひ)まつはる」にかかる。 ② 「ただ一目」にかかる。かかり方未詳。枕詞とはしない説もある。③ 波の縁語で、「たつ」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)今城の岡:所在未詳。「今来」を匂わすか。(伊藤脚注)

 

 この歌については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1954)」で紹介している。

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鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」→同町町屋 袋川水辺の楽校■

 先達のブログには、河川敷公園・水辺の楽校として家持歌(巻20-4516)と作者未詳歌(巻10-1944)の歌碑が紹介されていた。

いろいろと検索したがヒットせずじまいであった。閉鎖になったのだろうと勝手に想像していた。

 因幡国庁跡ならびに史跡「万葉の歌碑」を見終えたがまだ8時前であった。次の予定は、因幡万葉歴史館であるが、開場は9時である。

 

 時間があるので駄目元で「河川敷公園・水辺の楽校」を尋ねることにしたのである。ナビを頼りに現地に向かったのである。

 

「桜づつみ 水辺の楽校」の看板

 堤防に突き当たる感じのナビの案内どおりに車を進める。左手にちょっとした車を停められるスペースがあった。そこに「桜づつみ 水辺の楽校」の看板が立っている。川辺を見わたすと川沿いの小径には石碑らしいものが点在している。

「袋川 水辺の楽校」の碑

川の方に下りて行くと「袋川 水辺の楽校」の石碑があった。(流れている川の名前が袋川であると知ったのは帰宅後の検索による)

 歌碑をひとつひとつ見て周り、漸く石碑群のなかに万葉集の二基を見つけたのである。

 

 「水辺の楽校」というのは聞き慣れない言葉であった。検索してみると、国土交通省HPに「水辺の楽校プロジェクト」として次の様に書かれている。

 「人間と環境の関わりについての理解を深め、豊かな人間性を育んでいくために、市民団体や河川管理者、教育関係者などが一体となって、地域の身近な水辺における環境学習や自然体験活動を推進するため、国土交通省文部科学省環境省の3省が連携して、『「子どもの水辺」再発見プロジェクト』に取り組んでいます。 この取組に対し国土交通省では、子どもが安全に水辺に近づけ、環境学習や地域交流などの活動を推進するために必要な、親水護岸などのハード整備を『水辺の楽校』プロジェクトとして実施し支援するものです。」

 万葉歌碑巡りのおかげで、初めて「水辺の楽校」なるものを知り得たのである。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「国土交通省HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1954)―鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」―万葉集 巻十 一九四四

●歌は、「藤波の散らまく惜しみほととぎす今城の岡を鳴きて越ゆなり」である。

鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」の歌碑(作者未詳)

●歌碑は、鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆藤浪之 散巻惜 霍公鳥 今城岳▼ 鳴而越奈利

   ▼「口(くちへん)+リ」である。「今城岳▼」=今城の岡を

       (作者未詳 巻十 一九四四)

 

≪書き下し≫藤波の散らまく惜しみほととぎす今城の岡を鳴きて越ゆなり

 

(訳)藤の花の散るのを惜しんで、時鳥が今城の岡の上を鳴きながら越えている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ふぢなみ【藤波・藤浪】名詞:藤の花房の風に揺れるさまを波に見立てていう語。転じて、藤および藤の花。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注 参考)ふぢなみの【藤波の・藤浪の】( 枕詞 )① 藤のつるが物にからまりつくことから「(思ひ)まつはる」にかかる。 ② 「ただ一目」にかかる。かかり方未詳。枕詞とはしない説もある。③ 波の縁語で、「たつ」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)今城の岡:所在未詳。「今来」を匂わすか。(伊藤脚注)

 

 この歌については、奈良県吉野郡大淀町今木 蔵王権現堂(泉徳寺)仁王門横の歌碑と共にブログ「万葉歌碑を訪ねて(その766)」で紹介している。

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奈良県吉野郡大淀町今木 蔵王権現堂(泉徳寺)仁王門横歌碑の大淀町教育委員会による解説案内板

 この案内板によると、「今城の岡は、今木付近の丘という今木峠越えは、飛鳥から吉野へ抜ける道の中で、西寄りの迂回路ではあるが、最も緩やかな道筋である。」と書かれている。

 

 一方、因幡万葉歴史館HPの「周辺情報 大伴家持歌碑(鳥取市指定文化財)」では、「・・・

万葉集の研究家としても著名な歌人・国文学者の佐佐木信綱が詠んだ『ふる雪のいやしけ吉事ここにしてうたひあけけむ 言ほきの歌』の歌碑と、万葉集の中から因幡三山のうちの今木山を詠み込んだともいわれる『藤波の散らまくおしみほととぎす今木の丘を鳴きて越えゆなり』の歌碑が昭和39年に建立されています。・・・」と書かれている。

(注)因幡三山:因幡三山(いなばさんざん)は鳥取平野の南部、鳥取県鳥取市国府町周辺にある甑山、今木山、面影山の3つの山の通称で、因幡国庁を中心に三方に位置する。形の美しい山が3つ並び立つ様が大和三山を思わせるため、鳥取市国府町高岡出身の川上貞夫が『因幡のふるさと - 国府町の歴史と文化』(1968年)に「因幡三山 国府町には、大和三山を彷彿とさせる三つの山があります。面影(俤)山・今木山・甑(こしき)山がそれであります」(P159)と書いたことに由来する。(weblio辞書 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 )

 

 いずれもそれなりの言い分があり、万葉へのロマンを掻き立ててくれる。

 

ほととぎすは156首、藤・藤波は26首(うち 藤波18首)詠われている。

 土田將雄氏「万葉集における霍公鳥の歌」(慶應義塾大学学術情報リポジトリ)を参考に、「霍公鳥と藤浪」が歌われている歌を探してみると、一九四四、一九九一、三九九三、四〇四二、四〇四三、四一九二、四一九三の七首が収録されている。これらについては、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その205)」で紹介している。

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 「藤」は藤でも「時じき藤」を詠った家持の歌をみてみよう。

 

題詞は、「大伴宿祢家持攀非時藤花幷芽子黄葉二物贈坂上大嬢歌二首」<大伴宿祢宿禰家持、時じき藤の花、幷(あは)せて萩の黄葉(もみじ)の二つの物を攀(よ)じて、坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)に贈る歌二首>である。

 

◆吾屋前之 非時藤之 目頰布 今毛見壮鹿 妹之咲容乎

        (大伴家持 巻八 一六二七)

 

≪書き下し≫我がやどの時じき藤のめづらしく今も見てしか妹(いも)が笑(ゑ)まひを

 

(訳)我が家の庭の季節はずれに咲いた藤の花、この花のように、珍しくいとしいものとして今すぐでも見たいものです。あなたの笑顔を。(同上)

(注)ときじ【時じ】形容詞:①時節外れだ。その時ではない。②時節にかかわりない。常にある。絶え間ない。※参考上代語。「じ」は形容詞を作る接尾語で、打消の意味を持つ。(学研)

(注)ゑまひ【笑まひ】名詞:①ほほえみ。微笑。②花のつぼみがほころぶこと。(同上)

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板には、「『ときじふじ』は本州静岡県より西・四国・九州各地の山林で見られるマメ科の蔓性落葉低木の『ナツフジ』のことである。蔓は右巻きで真夏の頃に藤に似た薄黄緑の長さ12~15センチの白い花房をつけ、長さ1.3~1.5センチの蝶形花を多数開かせ、盆栽用としても人気がある。

 

『ときじき』とは『時ならぬ』と言う意味の古語で、普通の藤は春に咲くがこの藤は真夏に小ぶりの花が咲くので『時期外れ(ジキハズレ)の藤』ということで『非時藤トキジフジ』、別名『土用(ドヨウ)藤』と名付けられた。」と書かれている。

 ちなみに、「一般にいう『フジ』は『ノダフジ』で、花房は垂れ、長さ30~90cm。ノダは大阪の地名でむかしのフジの名所であったからという。蔓が左巻のものは『ヤマフジ・ノフジ』であり、5~6月に開花する。」(野草図鑑 つる植物の巻 長田武政 著・長田喜美子 写真 <保育社>)

 

 単なる時期外れに咲いた藤と思っていたが、別の種類の藤なのである。

 

この一六二七歌については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1161)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「野草図鑑 つる植物の巻」 長田武政 著・長田喜美子 写真 (保育社

★「万葉集における霍公鳥の歌」 土田將雄氏稿 (慶應義塾大学学術情報リポジトリ

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio辞書 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」

★「因幡万葉歴史館HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1953)―鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」―万葉集 巻二十 四五一六

●歌は、「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」である。

鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」の歌碑(大伴家持

●歌碑は、鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首」<三年の春の正月の一日に、因幡(いなば)の国(くに)の庁(ちやう)にして、饗(あへ)を国郡の司等(つかさらに)賜ふ宴の歌一首>である。

(注)三年:天平宝字三年(759年)。

(注)庁:鳥取県鳥取市にあった。(伊藤脚注)

(注)あへ【饗】名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる:食事のもてなし。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)あへ【饗】:国守は、元日に国司・郡司と朝拝し、その賀を受け饗を賜うのが習い。(伊藤脚注)

 

◆新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰

       (大伴家持 巻二十 四五一六)

 

≪書き下し≫新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の今日(けふ)降る雪のいやしけ吉事(よごと)

 

(訳)新しき年の初めの初春、先駆けての春の今日この日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、佳(よ)き事よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上四句は実景の序。「いやしけ」を起す。正月の大雪は豊年の瑞兆とされた。(伊藤脚注)

(注)よごと【善事・吉事】名詞:よい事。めでたい事。(学研)

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作之」<右の一首は、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。

 

伊藤 博氏は同歌の脚注で「将来への予祝をこめるこの一首をもって万葉集は終わる。天皇と娘子との成婚を通して御代の栄えを与祝する巻一の巻頭歌に応じて、万葉集が万代の後までもと伝わることを祈りながら、ここに据えられたらしい。」と、さらに、「この時、家持、従五位上、四二歳。以後、数奇な人生をたどって、延暦四年(785年)八月二十八日に、中納言従三位、六八歳をもって他界。その間、いくつか歌詠をなしたらしい。だが、万葉集最終編者と見られる家持は、万代予祝の右の一首をもって、万葉集を閉じた。」と書かれている。

大伴家持の歌碑案内案内板

史跡「万葉の歌碑」説明案内板

 

 天平勝宝二年の正月二日に、家持は越中国守として国庁で饗を給い宴で詠っている。この歌もみてみよう。

 題詞は、「天平勝寶二年正月二日於國廳給饗諸郡司等宴歌歌一首」<天平勝宝(てんびやうしようほう)二年の正月の二日に、国庁(こくちょう)にして饗(あへ)を諸(もろもろ)の郡司(ぐんし)等(ら)に給ふ宴の歌一首>である。

(注)天平勝寶二年:750年

(注)国守は天皇に代わって、正月に国司、群詞を饗する習いがある。

 

◆安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等里天 可射之都良久波 知等世保久等曽

       (大伴家持 巻十八 四一三六)

 

≪書き下し≫あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りてかざしつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ

 

(訳)山の木々の梢(こずえ)に一面生い栄えるほよを取って挿頭(かざし)にしているのは、千年もの長寿を願ってのことであるぞ。(同上)

(注)ほよ>ほや【寄生】名詞:寄生植物の「やどりぎ」の別名。「ほよ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作」<右の一首は、守大伴宿禰家持作る>である。

 

 この歌については、高岡市伏木古国府 勝興寺越中国庁碑とともに、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その822)」で紹介している。

 ➡ こちら822

高岡市伏木古国府 勝興寺にある越中国庁碑(この裏面に四一三六歌が刻されている)



高岡市伏木古国府 勝興寺越中国庁碑裏面に刻された四一三六歌

 

 

■■■11月8日~11日鳥取・島根・山口・岡山万葉歌碑巡り全旅程■■■

 2022年11月8日から鳥取、島根、山口、岡山と全国旅行支援を利用して3泊4日の万葉歌碑巡りをおこなった。

 万葉集に関心がある以上、因幡伯耆の国は是が非でも行って見たいと思っていたからである。さらに島根は前回県立万葉公園の「人麻呂展望広場」で2基、「石の広場」の家持の歌碑を撮り忘れていたのでリベンジしたいと思っていた。山口県角島大橋もいつかはと考えていた。廃校になっているが角島の角島小学校にも万葉歌碑がある。願ったり叶ったりである。

 全旅程は次の通りである。

 

■■11月8日自宅→鳥取→島根■■

≪旅程≫自宅→鳥取市国府町中郷 因幡国庁跡→同町庁 大伴家持の歌碑→同町町屋 袋川水辺の楽校→同町町屋 因幡万葉歴史館→倉吉市南昭和町 深田公園→倉吉市国府 伯耆国分寺跡→米子市彦名町 米子水鳥公園駐車場→同町 粟嶋神社→島根県松江市 阿太加夜神社→益田市内ホテル

 

■■11月9日島根→山口■■

≪旅程≫益田市ホテル→島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社→益田市高津町 県立万葉公園→同市西平原町 鎌手公民館→同市喜河弥町 ふれあい広場→下関市内ホテル

 

■■11月10日山口→岡山■■

≪旅程≫下関市内ホテル→角島小学校(廃校)→神田小学校(廃校)→毘沙の鼻→倉敷市内ホテル

 

■■11月11日岡山→自宅■■

≪旅程≫倉敷市内ホテル→岡山市南区西紅陽台干拓記念碑→マービーふれあいセンター→自宅

 

 

 

■自宅→鳥取市国府町中郷 因幡国庁跡■

 自宅を3時に出発。順調なドライブで、途中での仮眠や休憩も十分にとることができた。7時30分ごろ因幡国庁跡に到着。朝日を浴びながら正殿跡・後殿跡を見て周る。そして南門跡まで朝の散歩と洒落込む。この地を大伴家持が歩いていたと考えると感慨深いものがある。

因幡国庁跡

因幡国庁跡正殿・後殿説明案内板

南門跡





鳥取市国府町中郷 因幡国庁跡→同町庁 史跡「万葉の歌碑」■

 因幡国庁跡の次は、史跡「万葉の歌碑」である。

 

 因幡万葉歴史館HPに、「大伴家持歌碑(鳥取市指定文化財)」について、次の様に書かれている。

国府町庁(ちょう)の集落の一角に大正11(1922)年9月建立されました。歌碑には『天平宝字三年春正月一日於因幡国庁賜饗国郡司等之宴歌一首【新年之始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家余其騰】(あらたしきとしのはじめのはつはるのきようふるゆきのいやしけよごと)右一首守大伴宿禰家持作之』と、万葉集の最後を飾る大伴家持の歌が刻まれています。この歌には、『新しい年の初めにあたって、きれいな雪が降りつづいている。この雪のように美しい良い年でありますように』という家持の思いが込められています。

また、同地には万葉集の研究家としても著名な歌人・国文学者の佐佐木信綱が詠んだ『ふる雪のいやしけ吉事ここにしてうたひあけけむ 言ほきの歌』の歌碑と、万葉集の中から因幡三山のうちの今木山を詠み込んだともいわれる『藤波の散らまくおしみほととぎす今木の丘を鳴きて越えゆなり』の歌碑が昭和39年に建立されています。建立年代は違いますが、これら3碑は鳥取市指定文化財となっています。

なお、平成9年には平安時代因幡国司を務めた在原行平の歌碑が近くに建立されました。」

左から「作者未詳 一九四四歌」、「家持 四五一六歌」、「佐々木信綱」の歌碑




 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「因幡万葉歴史館HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1952)―徳島県鳴門市 人丸神社―万葉集 巻七 一三〇一

●歌は、「海神の手に巻き持てる玉ゆゑに磯の浦みに潜きするかも」である。

徳島県鳴門市 人丸神社万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌碑は、徳島県鳴門市 人丸神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆海神 手纒持在 玉故 石浦廻 潜為鴨

       (柿本人麻呂歌集 巻七 一三〇一)

 

≪書き下し≫海神(わたつみ)の手に巻き持てる玉ゆゑに礒の浦(うら)みに潜(かづ)きするかも

 

(訳)海の神が手に巻きつけている真珠であるのに、そんな真珠を採ろうと、私は岩の多い海辺で水に潜(もぐ)っている。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)わたつみ【海神】名詞:①海の神。②海。海原。 ⇒参考:「海(わた)つ霊(み)」の意。「つ」は「の」の意の上代の格助詞。後に「わだつみ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)玉:親の秘蔵する娘の譬え。(伊藤脚注)

(注)潜(かづ)きするかも:真珠を採ろうと潜る。女を手に入れようと苦労することの譬え。(伊藤脚注)

 

神社等の由来

「人丸神社」名碑

鳥居と参道

社殿



 

 人丸神社(ひとまるじんじゃ)については、「フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」に「徳島県鳴門市里浦町里浦に鎮座する神社。」でその歴史は、「この地は元々、柿本人麻呂が船を寄せたと伝わる場所で、島根県益田市の高津柿本神社兵庫県明石市柿本神社とともに柿本人麻呂を祀る日本三社の一つに挙げられている。」と書かれている。

島根県益田市の高津柿本神社兵庫県明石市柿本神社にも行ったことがある。それぞれの歌碑をみてみよう。

 

島根県益田市の高津柿本神社

同神社には、2021年10月21日に訪れている。

 

島根県益田市の高津柿本神社の歌碑

 題詞は、「柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首」<柿本朝臣人麻呂、石見(いはみ)の国に在りて死に臨む時に、自(みづか)ら傷(いた)みて作る歌一首>である。

 

◆鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有

       (柿本人麻呂 巻二 二二三)

 

≪書き下し≫鴨山(かもやま)の岩根(いはね)しまける我(わ)れをかも知らにと妹(いも)が待ちつつあるらむ

 

(訳)鴨山の山峡(やまかい)の岩にして行き倒れている私なのに、何も知らずに妻は私の帰りを今日か今日かと待ち焦がれていることであろうか。(同上)

(注)鴨山:石見の山の名。所在未詳。

(注)いはね【岩根】名詞:大きな岩。「いはがね」とも。(学研)

(注)まく【枕く】他動詞:①枕(まくら)とする。枕にして寝る。②共寝する。結婚する。※②は「婚く」とも書く。のちに「まぐ」とも。上代語。(学研)ここでは①の意

(注)しらに【知らに】分類連語:知らないで。知らないので。 ※「に」は打消の助動詞「ず」の古い連用形。上代語。(学研)

 

 

島根県益田市の高津柿本神社の社殿

島根県益田市の高津柿本神社の鳥居と参道石段

 島根県益田市の高津柿本神社ならびに歌碑については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1330)」で紹介している。

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次に兵庫県明石市柿本神社をみてみよう。

兵庫県明石市柿本神社

 同神社には、2020年7月2日に訪れている。歌碑は二基ある。

明石市人丸町 柿本神社の歌碑(二五五歌)

 題詞「柿本朝臣人麻呂羇旅歌八首」<柿本朝臣人麻呂が羇旅の歌八首>(二四九から二五六歌)の一首である。

◆天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見  一本云家門當見由

       (柿本人麻呂 巻三 二五五)

 

≪書き下し≫天離(あまざか)る鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石(あかし)の門(と)より大和島(やまとしま)見ゆ  一本には「家のあたり見ゆ」といふ。

 

(訳)天離る鄙の長い道のりを、ひたすら都恋しさに上って来ると、明石の海峡から大和の山々が見える。(同上)

(注)明石の門(読み)あかしのと:明石海峡のこと。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

明石市人丸町 柿本神社の歌碑(二三五歌)

 題詞は、「天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首」<天皇(すめらみこと)、雷(いかづち)の岳(おか)に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首>である。

(注)天皇持統天皇か。天武天皇とも文武天皇ともいう。

 

◆皇者 神二四座者 雷之上尓 廬為流鴨 

       (柿本人麻呂 巻三 二三五)

 

≪書き下し≫大王(おほきみ)は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上(うへ)に廬(いほ)らせるかも

 

(訳)天皇は神であらせられるので、天雲を支配する雷神、その神の上に廬(いおり)をしていらっしゃる。(同上)

(注)いほる 【庵る・廬る】:仮小屋を造って宿る。

 

 

明石市人丸町 柿本神社の社殿

明石市人丸町 柿本神社の鳥居と参道石段

明石市人丸町 柿本神社ならびに歌碑については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その608,609」で紹介している。

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人麻呂の生誕地と伝えられている葛城市柿本の柿本神社もみてみよう。

■葛城市柿本 柿本神社

 葛城市HPには、葛城市柿本は、人麻呂の生誕地と伝えられ、人麻呂を祀る柿本神社があると次の様に書かれている。

「葛城市柿本は、『万葉集』の代表的な歌人柿本人麻呂と深い縁があります。人麻呂の生誕地と伝えられ、人麻呂を祀る柿本神社は、宝亀元(770)年に人麻呂を改葬し、その傍らに社殿を建てたのが始まりと言われています。なお、柿本神社は他に天理市兵庫県明石市島根県益田市など全国にあります。

人麻呂の生没年は明らかではありませんが、『万葉集』と『石見国風土記(いわみこくふどき)』によると、七代の天皇に仕え、石見国島根県)に赴いていたことが分かります。本市柿本には人麻呂の屋敷があったとされる場所があり、『石見田(いわみだ)』と呼ばれています。人麻呂は、『万葉集』に多数の優れた歌を残しています。特に長歌では、皇族をたたえる歌や死を悼む歌、また妻への思いを詠んだ相聞歌があり、雄大で荘重な歌風です。抒情歌人として高い成熟度を示し、万葉歌人の第一人者とされ、現在では歌聖とあがめられています。」

葛城市柿本 柿本神社の歌碑

◆春楊 葛山 發雲 立座 妹念

           (柿本人麻呂歌集 巻十一 二四五三)

 

≪書き下し≫春柳(はるやなぎ)葛城山(かづらきやま)に立つ雲の立ちても居(ゐ)ても妹(いも)をしぞ思ふ

 

(訳)春柳を鬘(かずら)くというではないが、その葛城山(かつらぎやま)に立つ雲のように、立っても坐っても、ひっきりなしにあの子のことばかり思っている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)春柳(読み)ハルヤナギ:①[名]春、芽を出し始めたころの柳。②[枕]芽を出し始めた柳の枝をかずらに挿す意から、「かづら」「葛城山(かづらきやま)」にかかる。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)上三句は序、「立ち」を起こす。

 

 人麻呂歌集の「略体」の典型と言われる歌で、「春楊葛山發雲立座妹念」と各句二字ずつ、全体では十字で表記されている

葛城市柿本 柿本神社鳥居と社殿

 葛城市柿本 柿本神社ならびに歌碑については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その433)」で紹介している。

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眉山ロープウェイ山頂駅近く→徳島県鳴門市「人丸神社」■

 眉山公園から約1時間のドライブである。住宅地のはずれにある。鳴門こども園の隣である。コンパクトな造りの社殿近くに歌碑は建てられている。

ここで淡路島・徳島万葉歌碑巡りは終了である。

予定通り、帰路、神戸淡路鳴門自動車道の緑PAに立ち寄り、玉ねぎを買い込んだのである。



 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」

★「葛城市HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1951)―徳島市眉山町 眉山ロープウェイ山頂駅近く―万葉集 巻六 九九八

●歌は、「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山懸けて漕ぐ舟泊り知らずも」である。

徳島市眉山町 眉山ロープウェイ山頂駅近くの万葉歌碑(船王)

●歌碑は、徳島市眉山町 眉山ロープウェイ山頂駅近くにある。

 

●歌をみていこう。

 

◆如眉 雲居尓所見 阿波乃山 懸而榜舟 泊不知毛

       (船王 巻六 九九八)

 

≪書き下し≫眉(まよ)のごと雲居(くもゐ)に見ゆる阿波(あは)の山懸(か)けて漕(こ)ぐ舟泊(とま)り知らずも

 

(訳)眉のように雲居はるかに横たわる阿波(あわ)の山、その山を目指して漕いで行く舟は、さて今夜、どこに泊まることやら。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)眉のごと:眉のように横に長く。三五三一。(伊藤脚注)

(注)ごと【如】:①…のように。…のよう。▽連用形「ごとく」と同じ用法。②…のようだ。▽終止形「ごとし」と同じ用法。 ※参考 (1)活用語の連体形や、助詞「の」「が」に付く。(2)上代から中古末ごろまで和文系の文章に用いられた。⇒ごとし(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)まゆ【眉】名詞:①まゆげ。細い三日月形のものをたとえていうこともある。②牛車(ぎつしや)の屋形の前後にある軒。▽張り出しているさまが「眉」に似るところから。 ⇒参考:「まよ」の変化した語。平安時代の女性は、成人後は眉を抜いたり剃(そ)ったりして、その跡に眉墨で細い三日月形の眉をかいた。(学研)

(注)阿波の山:四国徳島の山。西方遥かに見える山を阿波の山と見たもの。(伊藤脚注)

(注)かく【懸く・掛く】他動詞:目標にする。目ざす。(学研)

 

左注は、「右一首船王作」<右の一首は船王(ふなのおほきみ)が作>である。

(注)船王(ふなのおほきみ):舎人皇子の子。淳仁天皇の兄。(伊藤脚注)

 

 九九七から一〇〇二歌の題詞は、「春の三月に、難波の宮に幸(いでま)す時の歌六首」である。

(注)聖武天皇行幸。:天平六年(734年)三月十日出発、十九日帰京。(伊藤脚注)

 

 九九七から一〇〇二歌については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その793)」で紹介している。

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伊藤 博氏は脚注で「眉のごと:眉のように横に長く。三五三一。」と書かれている。この三五三一歌をみてみよう。

 

◆伊母乎許曽 安比美尓許思可 麻欲婢吉能 与許夜麻敝呂能 思之奈須於母敝流

       (作者未詳 巻十四 三五三一)

 

≪書き下し≫妹(いも)をこそ相見(あひみ)に来(こ)しか眉引(まよび)きの横山(よこやま)辺(へ)ろの鹿猪(しし)なす思へる

 

(訳)俺は愛(う)いやつに逢いに来ただけなんだ。なのに、人のことを、あの子の眉(まゆ)でもあるまいが、横山あたりをうろつく鹿猪かなんぞのように思いおって。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)まよびきの【眉引きの】分類枕詞:低い山の稜線(りようせん)が、眉墨(まゆずみ)で書いた眉の形に似ていることから「横山」にかかる。(学研)

 この歌は、娘の母親に毒づく男の歌である。(伊藤脚注)

 

三五三一歌の「まよびき(眉引き)」は、「眉墨(まゆずみ)でかいた眉。」のことである。上代語で、後には「まゆびき」といわれた。(学研)

 

 「眉を掻く」と想う人に逢えるという呪術的なことが万葉時代には信じられていたようである。「眉を掻く」と「眉引き」を詠った、大伴坂上郎女大伴家持の歌がある。これをみてみよう。家持十六歳の時の歌である。

 

題詞は、「同坂上郎女初月歌一首」<同じき坂上郎女が初月(みかづき)の歌一首>である。

 

◆月立而 直三日月之 眉根掻 氣長戀之 君尓相有鴨

       (大伴坂上郎女 巻六 九九三)

 

≪書き下し≫月立ちてただ三日月(みかづき)の眉根(まよね)掻(か)き日(け)長く恋ひし君に逢へるかも

 

(訳)月が替わってほんの三日目の月のような細い眉(まゆ)を掻きながら、長らく待ち焦がれていたあなたにとうとう逢うことができました。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)三日月の眉:漢語「眉月」を踏まえる表現。三日月を詠題とする宴歌故の趣向であろう。(伊藤脚注)

(注)眉根掻く:眉がかゆいのは思う人に逢える前兆とされた。娘大嬢の気持ちを寓しているか。(伊藤脚注)

 

 

 家持の歌をみてみよう。

 

 題詞は、「大伴宿祢家持初月歌一首」<大伴宿禰家持(おほとものすくねやかもち)が初月(みかづき)の歌一首>である。

 

◆振仰而 若月見者 一目見之 人乃眉引 所念可聞

      (大伴家持 巻六 九九四)

 

≪書き下し≫振り放(さ)けて三日月(みかづき)見れば一目(ひとめ)見し人の眉引(まよび)き思ほゆるかも

 

(訳)遠く振り仰いで三日月を見ると 一目見たあの人の眉根がしきりに思われます。(同上)

(注)まよびき【眉引き】名詞:眉墨(まゆずみ)でかいた眉。 ※後には「まゆびき」とも。上代語。(学研)

(注)三句以下、坂上大嬢への思いを寓しているか。(伊藤脚注)

 

 郎女ならびに家持の歌については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その7改、8改)」で紹介している。「眉根を掻く」といったような俗言についてはその8改でふれている。

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徳島県阿南市那賀川社会福祉会館」→眉山ロープウェイ山頂駅近く■

 眉山山頂公園の駐車場に到着。現地の案内地図と先達のブログの言語情報を照らし合わてパコダの南にある歌碑をめざす。結構な上り坂である。

眉山公園案内図」

 

天気は完全に回復している。ようやく辿り着く。山頂からの徳島市内の光景に癒されこれまでの疲れが吹っ飛ぶ。

徳島市内遠望

パゴダ

 

 

 歌碑は、パゴダちかくにある広場に立てられている。公園入口近くに「イノシシ注意」という看板があったが、歌碑がイノシシのように見えるので思わず笑ってしまった。

 「眉山」については、徳島県観光協会HP「徳島県観光情報サイト 阿波ナビ」で、徳島市のシンボル 眉山」として次の様に紹介されている。

 「徳島県の県庁所在地、徳島市の川といえば、もちろん大河『吉野川』。そして、山といえば『眉山』。『眉の如雲居に見ゆる阿波の山かけてこぐ舟泊知らずも』万葉の歌人“船王”によって万葉集にも詠まれた眉山は、どの方向から見ても『眉』の形をしていることから、眉の山『眉山』(びざん)と呼ばれ、古く万葉の昔から今に至るまで、徳島市のシンボルとして親しまれ続けています。・・・山頂は眉山公園として整備され、 さまざまな山頂施設もあります。」さらに、「眉山の山頂駅のすぐ上の広場にある『パゴダ』のすぐ近くには、眉山を歌った万葉集の歌碑もあります。」とも紹介されている。

徳島市のシンボル「眉山」(徳島県観光協会HP「徳島県観光情報サイト 阿波ナビ」)より引用させていただきました。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「『古代の恋愛生活』 万葉集の恋歌を読む」 (NHKブックス

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「徳島県観光情報サイト 阿波ナビ」 (徳島県観光協会HP)

 

万葉歌碑を訪ねて(その1950)―徳島県阿南市 那賀川社会福祉会館―万葉集 巻八 一四一八

●歌は、「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」である。

徳島県阿南市 那賀川社会福祉会館前万葉歌碑(志貴皇子

●歌碑は、徳島県阿南市 那賀川社会福祉会館にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「志貴皇子懽御歌一首」<志貴皇子(しきのみこ)の懽(よろこび)の御歌一首>である。

 

◆石激 垂見之上野 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨

         (志貴皇子 巻八 一四一八)

 

≪書き下し≫石走(いはばし)る垂水(たるみ)の上(うえ)のさわらびの萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも

 

(訳)岩にぶつかって水しぶきをあげる滝のほとりのさわらびが、むくむくと芽を出す春になった、ああ(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)いはばしる【石走る・岩走る】自動詞:水がしぶきを上げながら岩の上を激しく流れる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)いはばしる【石走る・岩走る】分類枕詞:動詞「いはばしる」の意から「滝」「垂水(たるみ)」「近江(淡海)(あふみ)」にかかる。(学研)

 

 

 この歌については、志貴皇子歌六首とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1216)」で紹介している。      

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この歌について、「奈良県HP はじめての万葉集vol.36」で、「春のよろこび」と題して次の様に紹介されている。

 「寒い冬が終わり、日差しが暖かく感じられるようになると、人間だけでなく動植物たちもどこかほっとしているような気がします。冬眠から目覚めたり、新芽が出たりすることから、そう感じるのかもしれません。この歌は、そんな春の訪れを祝福するような歌です。滝のほとりでワラビを見つけ、ああ、もう春になったんだなあ、と実感し感動したようです。

 ワラビはシダ植物の一種で、まだ葉が開く前の若芽を摘んで、春の山菜として食用にします。わらびもちも、もともとはワラビの根から採ったデンプンで作ったことからその名が付きました。ただし、ワラビのデンプンは精製に手間がかかり原料も少ないことから、現代では本ワラビ粉を使ったわらびもちはなかなか味わえない高級品といえます。

 この歌の題には『志貴皇子の懽(よろこ)びの御歌』とあります。『懽』という文字は、平安時代の辞書である『類聚名義抄(るいじゅうみょうぎしょう)』にヨロコフとよまれていて、春の到来を喜ぶ歌であったとみられます。歌を詠んだ時の状況はよく分かっていませんが、新春を祝う宴席で詠まれたのではないかともいわれています。

 志貴皇子は、天智天皇の皇子の一人で、政治的な面では目立った活躍はしませんでしたが、そのぶん歌の名手として高く評価されていたといわれます。七七〇年に六男の白壁王(しらかべのおおきみ)が天皇光仁(こうにん)天皇)になったことから、死後五十年以上たって※春日宮御宇天皇と追尊されました。

 この歌が巻八の冒頭に位置しているのは、『万葉集』が編さんされた奈良時代から見て古い時代の春の名歌だからというだけでなく、そんな時代背景も影響を及ぼしていたのかもしれません。

※「かすがのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと」と読みます。」

 

 志貴皇子は、「春日宮天皇 田原西陵」に、光仁天皇は、「光仁天皇 田原東陵」にそれぞれ祀られている。

田原西陵については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その28改)」で、田原東陵については、「同(その1091)」で紹介している。

 

 田原西陵

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 田原東陵

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 この歌は、巻八の巻頭歌である。各巻の巻頭歌については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1822~1826)」で紹介している。

 ■巻一~巻四   巻頭歌

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 ■巻五~巻八   巻頭歌

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 ■巻九~巻十二  巻頭歌

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 ■巻十三~巻十六 巻頭歌

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 ■巻十七~巻二十 巻頭歌

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■慶野松原「国民宿舎慶野松原荘」→徳島県阿南市那賀川社会福祉会館」■

 慶野松原を後にして、鳴門大橋を渡り四国へ。予定では1時間ほどで着くはずが、徳島市小松島市といった主要都市を通るので、渋滞に巻き込まれ2時間ほどかかってしまった。 

 ナビ通り到着するも「勤労青少年ホーム」である。歌碑らしいものは見当たらない。事務所で尋ねてみると、職員の方がわざわざ外にまで出てきていただき、社会福祉会館の建物と行き方を教えていただく。なんとすぐ近くであるが、事務所前の抜け道のような道らしからぬ道からである。ようやく会館に到着。

 このように時間をかけはるばるとやって来たのであるから、ある意味ポピュラーな歌でなく、ご当地ゆかりの歌碑であったらな、と思う。しかし、ここにあるのは万葉歌碑である。贅沢は言えない。

 正面の前庭に歌碑は建てられていた。

那賀川社会福祉会館

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「はじめての万葉集vol.36」 (奈良県HP)