―その2019―
●歌は、「たらちねの母がその業る桑すらに願へば衣に着るといふものを」である。
●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(25)である。
●歌をみてみよう。
◆足乳根乃 母之其業 桑尚 願者衣尓 著常云物乎
(作者未詳 巻七 一三五七)
≪書き下し≫たらちねの母がその業(な)る桑(くは)すらに願(ねが)へば衣(きぬ)に着るといふものを。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(訳)母が生業(なりわい)として育てている桑の木でさえ、ひたすらお願いすれば着物として着られるというのに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)なる【業る】自動詞:生業とする。生産する。営む。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典
(注)母の反対がゆえにかなえられない恋を嘆く女心を詠っている。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1052)」で紹介している。
➡
「なりはひ【生業】」をweblio古語辞典 学研全訳古語辞典で検索してみると、「名詞:①農業。農作。また、その作物。②職業。家業。生業(せいぎよう)。 ※『はひ』は接尾語」である。本来は、「業(なり)」一字で意味をなすものであった。
「業(なり)」を詠った歌をいくつかみてみよう。
■八〇一歌■
◆比佐迦多能 阿麻遅波等保斯 奈保ゝゝ尓 伊弊尓可弊利提 奈利乎斯麻佐尓
(山上憶良 巻五 八〇一)
≪書き下し≫ひさかたの天道(あまじ)は遠しなほなほに家に帰りて業(なり)を為(し)まさに
(訳)天への道のりは遠いのだ。私の言う道理を認めて、すなおに家に帰って家業に励みなさい。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)あまぢ【天路・天道】名詞:①天上への道。②天上にある道。(学研)ここでは①の意
(注)なり【業】名詞:生活のための仕事。家業。なりわい。多く、自然生産的な農業にいう。(学研)
■一六二五歌■
題詞は、「大伴宿祢家持報贈歌一首」<大伴宿禰家持が報(こた)へ贈歌一首>である。
◆吾妹兒之 業跡造有 秋田 早穂乃蘰 雖見不飽可聞
(大伴家持 巻八 一六二五)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が業(なり)と作れる秋の田の早稲穂(わさほ)のかづら見れど飽(あ)かぬかも
(訳)あなたが仕事として取り入れた秋の田、その田の早稲穂でこしらえた縵は、いくら見ても見飽きることがありません。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)業と作れる:仕事として作った。「業」は生業。(伊藤脚注)
(注)わさほ【早稲穂】名詞:早稲(わせ)(=早く実る稲)の穂。(学研)
■三八六五歌■
山上憶良の作ではないかとも言われている「筑前国志賀白水郎歌十首」の一首である。
◆荒雄良者 妻子之産業乎波 不念呂 年之八歳乎 将騰来不座
(山上憶良 巻十六 三八六五)
≪書き下し≫荒雄らは妻子(めこ)の業(なり)をば思はずろ年(とし)の八年(やとせ)
を待てど来まさず
(訳)あの荒雄は、妻子の暮らしむきなど思ってもみないのだ。長の年月、待てど暮らせど、ちっとも帰って来ては下さらぬ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)妻子の業をば思はずろ:妻子の暮らしむきなど考えてもみないのだ。ロは断定の終助詞が。間投助詞とも。(伊藤脚注)
■四三六四歌■
◆佐伎牟理尓 多々牟佐和伎尓 伊敝能伊牟何 奈流弊伎己等乎 伊波須伎奴可母
(若舎人部広足 巻二十 四三六四)
≪書き下し≫防人(さきむり)に立たむ騒(さわ)きに家の妹(いも)が業(な)るべきことを言はず来(き)ぬかも
(訳)防人に出で立とうとする騒ぎにとり紛れて、家の子の農事の手だて、ああ
その手だてについて何も言わないで来てしまったっけなあ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)業るべきこと:農業に関する諸注意。伊藤脚注
四三六三(略)と四三六四歌の左注は、「右二首茨城郡若舎人部廣足」<右の二首は茨城(うばらき)の郡(こほり)若舎人部廣足(わかとねりべのひろたり)>である。
「なりはひ【生業】」の「はひは接尾語」であると、weblio古語辞典 学研全訳古語辞典には、書かれていたが、「はひ(わい)」の用例がほかにないか検索してみた。
「weblio辞書 デジタル大辞泉」に「くさわい〔はひ〕【種はひ】《『わい』は接尾語「わう」の連用形から》:①物事をひき起こす原因。たね。②種類。品々。③興味をひくたねとなるもの。趣。」とあった。
他は、方言や一人称の「わい」などであり、事例にはヒットしなかった。
ご存じの方がいらっしゃればお教えいただきたい。
―その2020―
●歌は、「秋さらば移しもせむと我が蒔きし韓藍の花を誰れか摘みけむ」である。
●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(26)にある。
●歌をみていこう。
◆秋去者 影毛将為跡 吾蒔之 韓藍之花乎 誰採家牟
(作者未詳 巻七 一三六二)
≪書き下し≫秋さらば移(うつ)しもせむと我(わ)が蒔(ま)きし韓藍(からあゐ)の花を誰(た)れか摘(つ)みけむ
(訳)秋になったら移し染めにでもしようと、私が蒔いておいたけいとうの花なのに、その花をいったい、どこの誰が摘み取ってしまったのだろう。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)からあゐ【韓藍】〘名〙:① (外来の藍の意。その紅色の花汁をうつし染めに用いたところから) 植物「けいとう(鶏頭)」の古名。《季・秋》② 美しい藍色。 [補注](①について) 異説として、鴨頭草(つきくさ)(=露草(つゆくさ))とする説、呉藍(くれない)(=紅花(べにばな))とする説などがあるが、上代の用例による、種子をまいて、秋に紅色の花が咲き、うつし染めにするという条件には、露草、紅花ともに合致しない。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注)移しもせむ:移し染めにしようと。或る男にめあわせようとすることの譬え。(伊藤脚注)
(注)誰(た)れか摘(つ)みけむ:あらぬ男に娘を捕えられた親の気持ち。(伊藤脚注)
「からあゐ」は万葉集では四首が収録されている。これらの歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1166)」で紹介している。
➡
「やまあゐ【山藍】」〘名〙: トウダイグサ科の多年草。本州、四国、九州の山地の樹林下に生える。高さ三〇センチメートルぐらい。葉は長柄をもち対生。葉身は長楕円形で縁に鈍い鋸歯(きょし)がある。春、葉腋から淡黄緑色の単性花を穂状につけた花序を出す。果実は球形で径約六ミリメートル。古くは葉をしぼった液で、新嘗会の小忌衣(おみごろも)を染めるなど藍染料に用いた。漢名に山靛をあてる。やまい。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
「植物で見る万葉の世界」(國學院大學「万葉の花の会」発行)によると、「やまあゐ」は、日本古来の青の色であるが、「青とはいってもその色は薄く、中国や朝鮮半島から渡来した蓼藍による、濃い色合いの染色とは趣を異にしていた。ヤマアイの称は染色等のために栽培される外来の藍に対して野生の藍の意味でいったものという」と書かれている。
ヤマアイは万葉集では高橋虫麻呂の一七四二歌のみにみられる。一七四二歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1033)」他で紹介している。
➡
―その2021―
●歌は、「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」である。
●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(27)である。
●歌をみていこう。
この歌は、万葉集巻八の巻頭歌である。
題詞は、「志貴皇子懽御歌一首」<志貴皇子(しきのみこ)の懽(よろこび)の御歌一首>である。
◆石激 垂見之上野 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
(志貴皇子 巻八 一四一八)
≪書き下し≫石走(いはばし)る垂水(たるみ)の上(うえ)のさわらびの萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも
(訳)岩にぶつかって水しぶきをあげる滝のほとりのさわらびが、むくむくと芽を出す春になった、ああ(同上)
志貴皇子は天智天皇の皇子で、後に我が子が光仁天皇として即位したので、天皇の称号が贈られて、春日宮天皇、あるいは田原天皇とも呼ばれている。
この歌については、春日宮天皇田原西陵の歌碑とともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その28改)」紹介しているで。
➡
光仁天皇の田原東陵については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1091)」で紹介している。
➡
志貴皇子の六首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1216)」で紹介している。
➡
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」(國學院大學「万葉の花の会」発行)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」