万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その870,871)―豊前国府跡公園万葉歌の森(2,3)―万葉集 巻三 三二八、巻十 二三一五

―その870―

●歌は、「あをによし奈良の都は咲く花のにほうがごとく今盛りなり」である。

 

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豊前国府跡公園万葉歌の森(2)万葉歌碑(小野老)

●歌碑は、豊前国府跡公園万葉歌の森(2)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有

               (小野老 巻三 三二八)

 

≪書き下し≫あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

 

(訳)あをによし奈良、この奈良の都は、咲き誇る花の色香が匂い映えるように、今こそまっ盛りだ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

三二八から三三七歌までの歌群は、小野老が従五位上になったことを契機に大宰府で宴席が設けられ、その折の歌といわれている。ここでは、題詞のみ記載してその構成をみてみる。

 この歌群の歌は、すべてブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介している。

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三二八歌 

 大宰少弐(だざいのせうに)小野老朝臣(をののおゆのあそみ)が歌一首

 

三二九、三三〇歌

 防人司佑(さきもりのつかさのすけ)大伴四綱(おほとものよつな)が歌二首

 

三三一から三三五歌

 帥(そち)大伴卿(おほとものまへつきみ)が歌五首

 

三三六歌

 沙弥満誓(さみまんぜい)、綿(わた)を詠む歌一首 造筑紫観音寺別当、俗姓は笠朝臣麻呂なり

 

三三七歌

 山上憶良臣(やまのうえのおくらのおみ)、宴(うたげ)を罷(まか)る歌一首

 

 小野老の三二八歌に関して、中西 進氏は、その著「万葉の心」(毎日新聞社)のなかで、「この歌も、遠い大宰府で幻想されたものであった。咲く花のにおうように美しい奈良、この華麗な色彩が幻想の色どりである。これは天平文化の爛熟のもたらしたもので、五位以上の者の瓦葺き、赤と白に塗った邸宅のつらなる光景は、文字どおり、におう花のようだったろう。(中略)幻想の中によむことによって、『万葉集』は華麗な美を添えることになったのだ。」と書かれている。

 

 

 

―その871―

●歌は、「あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば」である。

 

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豊前国府跡公園万葉歌の森(3)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、豊前国府跡公園万葉歌の森(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足引 山道不知 白牫牱 枝母等乎ゞ乎 雪落者  或云 枝毛多和ゝゝ

      (柿本人麻呂歌集 巻十 二三一五)

 

 ≪書き下し≫あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿(しらかし)の枝もとををに雪の降れれば  或いは「枝もたわたわ」といふ

 

(訳)あしひきの山道のありかさえもわからない。白橿の枝も撓(たわ)むほどに雪が降り積もっているので。<枝もたわわに>(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たわたわ【撓 撓】( 形動ナリ ):たわみしなうさま。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

 左注は、「右柿本朝臣人麻呂之歌集出也 但件一首 或本云三方沙弥作」<右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。ただし、件(くだり)の一首は、或本には「三方沙弥(みかたのさみ)が作」といふ>である。

 件(くだり)の一首は、二三一五歌をさしている。

 

 三方沙弥については、伝未詳である。「コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus」を見ても、「?-? 飛鳥(あすか)時代の歌人。『万葉集』に『園臣生羽(そののおみ-いくは)の女(むすめ)を娶(ま)きて』や,『妻苑臣を恋ひて作る歌』と,藤原房前(ふささき)の代作者としてよんだ歌がある。三形沙弥ともかく。」と書かれているだけである。

豊前国府あるいは大宰府と何らかの接点があるのか、先のブログの沙弥満誓と関連があるのかと検索してみたが、結局わからなかった。

 

三方沙弥(三形沙弥)の歌は、万葉集には七首収録されている。

内訳は、

題詞「三方沙弥、園臣生羽(そののおみいくは)が女(むすめ)を娶(めと)りて、幾時(いくだ)も経ねば、病に臥(ふ)して作る歌三首」の一二三から一二五歌、

左注「・・・三方沙弥、妻園臣(そののおみ)に恋ひて作る歌なり といふ。・・・」の一〇二七歌、歌碑の二三一五歌、

左注「・・・三形沙弥、贈左大臣藤原北卿(ふづはらのきたのまへつきみ)が語(ことば)を承(う)けて作り詠む。・・・」の四二二七、四二二八歌、

の計七首である。

これらの歌はすべて、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その198)」で紹介している。

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二三一五歌に「白橿の枝」とあったが、「かし」はポピュラーであり、万葉集では結構詠まれていると考えていたが、三首しか収録されていない。

國學院大學デジタルミュージアムの「万葉神事語事典」に次のように記されている。長いが引用させていただく。

橿(かし)「『樫』は材質が堅いことから作られた国字。万葉集では『橿実』(9-1742)とあり、『橿」字は『和名抄』にカシと訓むとある。しかし、『橿』は本来、モチノキ、またはマユミを表わす字であった。カシは、ブナ科コナラ属の常緑高木の総称で、日本にはアラカシ、ウバメガシ、アカガシ、シラガシ、ウラジロガシなどの種類がある。暖地に生え、晩春から初夏に花を咲かせる。葉は革のような硬さをもち、長楕円形ないし披針形で、一つの節に一枚ずつ生じ、互いに方向を異にしている。雌雄同株で、初夏、雄花はひも状の穂について垂れ下がる。秋に実るカシの木実は、ナラの木実とともに団栗(どんぐり)と呼ばれる。材質が堅いカシは木炭や弓矢などさまざまに用いられていた。『橿実之』(9-1742)は『独りかも寝む』の『独り』を導く枕詞である。カシの木の実は一殻に中身が一個しかないことから、独り寝を導く枕詞に用いられたと考えられるが、他に用例がなく、高橋虫麻呂の独創にかかる枕詞とも考えられる。また、カシは道具の素材として使われているだけでなく、信仰の対象でもあった。斉明天皇和歌山県白浜温泉への行幸の時に額田王が作った歌(1-9)では、神聖な『可新』の木を歌っている(→厳橿)。紀の垂仁天皇25年条には、倭姫命天照大神磯城の厳橿の本に鎮座させ祀ったという記事を載せる。記にも雄略天皇が赤猪子のためにうたった歌謡に、御諸の『厳橿がもと』とあり、神の社にある神聖なカシの木が忌みはばかられるように近寄りがたい乙女と述べ、巫女のようなタブー的存在を象徴する木として考えられる。大脇由紀子』

 

二三一五歌、額田王の九歌ならびに高橋虫麻呂の一七四二歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その492)に紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

 

万葉歌碑を訪ねて(その869)―京都(みやこ)郡みやこ町 豊前国府跡公園万葉歌の森―万葉集 巻六 一〇四三

あけましておめでとうございます

コロナ禍での年明けを迎えました。

コロナの終息を祈りつつ。

本年もよろしくお願いいたします

 

昨年11月15日から18日まで4泊5日で大宰府をメインに万葉歌碑めぐりを行った。

本年は、そのシリーズの歌碑めぐりブログからスタートである。

 

 京都から一気に九州までというのは、行って行けないことはないが、安全を考え、往きは、宇部、帰りは尾道と中継地を計画に組み込み、メインの大宰府は3日目に設定した。

 

 15日は予定どおり宇部泊、2日目の16日の計画は、

福岡県京都郡みやこ町 豊前国府政庁址➡北九州市小倉北区 貴布祢神社北九州市小倉北区 勝山公園北九州市戸畑区 夜宮公園➡北九州市八幡区 岡田宮➡遠賀郡芦屋町 国民宿舎マリンテラス芦屋横魚見公園➡博多、である。

 

 万葉歌碑めぐりをして万葉集に接する機会が増えるにつれ、大宰府は何としても訪れてみたいという思いに駆られる。

 いろいろと言われてはいるが、ゴーツートラベルが背中を押したことは間違いがない。

 夢の大宰府である。

 

 

 

●歌は、「たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ」である。

 

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豊前国府跡公園万葉歌の森万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、京都(みやこ)郡みやこ町 豊前国府跡公園万葉歌の森(1)にある

 

●歌をみていこう。

 

◆霊剋 壽者不知 松之枝 結情者 長等曽念

               (大伴家持 巻六 一〇四三)

 

≪書き下し≫たまきはる命(いのち)は知らず松が枝(え)を結ぶ心は長くとぞ思ふ

 

(訳)人間の寿命というものは短いものだ。われらが、こうして松の枝を結ぶ心のうちは、ただただ互いに命長かれと願ってのことだ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)たまきはる【魂きはる】分類枕詞:語義・かかる理由未詳。「内(うち)」や「内」と同音の地名「宇智(うち)」、また、「命(いのち)」「幾世(いくよ)」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)「松が枝を結ぶ」:無事・安全を祈る呪的行為のひとつ

 

題詞は、「同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首」<同じき月の十一日に、活道(いくぢ)の岡(をか)に登り、一株(ひともと)の松の下に集ひて飲む歌二首>である。

(注)活道岡:久邇京付近の岡

 

 久邇京跡から北東約7kmの、お茶畑が広がる和束に活道が丘公園がある。そこには、大伴家持の四七六歌の歌碑がある。

 

 四七六歌をみてみよう。

 

◆吾王 天所知牟登 不思者 於保尓曽見谿流 和豆香蘇麻山

             (大伴家持 巻三 四七六)

 

≪書き下し≫我(わ)が大君(おほきみ)天(あめ)知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束(わづか)杣山(そまやま)

 

(訳)わが大君がここで天上をお治めになろうとは思いもかけなかったので、今までなおざりに見ていたのだった、この杣山(そまやま)の和束山(わづかやま)を。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舎人大伴宿祢家持作歌六首」<十六年甲申(きのえさる)の春の二月に、安積皇子(あさかのみこ)の薨(こう)ぜし時に、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持が作る歌六首>である。

 

 四七六歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その183)」で紹介している。

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 もう一首の市原王の歌もみてみよう。

 

◆一松 幾代可歴流 吹風乃 聲之清者 年深香聞

                (市原王 巻六 一〇四二)

 

≪書き下し≫一つ松幾代(いくよ)か経(へ)ぬる吹く風の声(おと)の清きは年深みかも

 

(訳)この一本(ひともと)の松は幾代を経ているのであろうか。吹き抜ける風の音がいかにも清らかなのは、幾多の年輪を経ているからなのか。(同上)

(注)「風の声」・「年深み」は、漢語「風声」・「年深」の翻読語。

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その263)」で紹介している。

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 なぜ京都(みやこ)郡みやこ町と言われるようになったか気になる所である。

 みやこ観光まちづくり協会HPに、「『みやこ』の由来」について次のように書かれている。

 「『日本書紀』の景行天皇紀にこのような記述があります。『天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣、興行宮而居、故號其處曰京也』 意味は、景行天皇が九州に来られた際、仮の御殿を建てて滞在された。天皇がしばらく住まわれた場所なので、この地は『みやこ』と呼ばれるようになった、というもので、これが『京都郡』『みやこ町』の名前の由来です。」

 

 豊前国府跡公園については、「みやこ町HP」に「奈良時代になって豊前国に設置された国の役所跡を公園として整備。豊前国府の所在地をめぐり諸学説がありましたが、昭和59年からの発掘調査で豊津地区の国作に所在していたことが確定したのです。

府域は数百メートル四方に広がり、国庁には中央から赴任してきた国司豊前国の政治を執り行っていました。調査で東脇殿跡をはじめ、太宰府系瓦・硯・陶磁器など、役所跡を示す奈良・平安時代の遺物が数多く出土しています。

平成17年2月23日、福岡県指定文化財になりました。」と書かれている。

 

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万葉歌の森

 遺跡の建物の柱跡を整備した公園の北西部に「万葉歌の森」があった。ここに10基の万葉歌碑が建てられている。

 公園は、完全に独占状態で静かな万葉歌碑巡りのスタートであった。

 

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豊前国府政庁址説明案内板

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「みやこ町HP」

★「みやこ観光まちづくり協会HP」

万葉歌碑を訪ねて(その866,867,868)―射水市港町 奈呉の浦大橋、高岡市太田 つまま公園、道の駅 雨晴―万葉集 巻十九 四一五〇、巻十九 四一五九、巻十七 三九五四

―その866―

●歌は、「朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唱ふ舟人」である。

 

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射水市港町 奈呉の浦大橋(4)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑(プレート)は、射水市港町 奈呉の浦大橋(4)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その819)」で紹介している。

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◆朝床尓 聞者遥之 射水河 朝己藝思都追 唱船人

               (大伴家持 巻十九 四一五〇)

 

<書き下し>朝床(あさとこ)に聞けば遥けし射水川(いみずかは)朝漕(こ)ぎしつつ唄(うた)ふ舟人

 

(訳)朝床の中で耳を澄ますと遠く遥かに聞こえて来る。射水川、この川を朝漕ぎして泝(さかのぼ)りながら唱(うた)う舟人の声が。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 奈呉の浦大橋には、その863から866までに見てきたように4つの万葉歌碑が欄干に配されているのである。



 

 

―その867―

●歌は、「磯の上のつままを見れば根を延へて年深くあらし神さびにけり」である。

 

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つまま公園万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、高岡市太田 つまま公園にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、直近ではブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その838)」で紹介している。

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◆礒上之 都萬麻乎見者 根乎延而 年深有之 神佐備尓家里

              (大伴家持 巻十九 四一五九)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うへ)のつままを見れば根を延(は)へて年深くあらし神(かむ)さびにけり

 

(訳)海辺の岩の上に立つつままを見ると、根をがっちり張って、見るからに年を重ねている。何という神々しさであることか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)としふかし【年深し】( 形ク ):何年も経っている。年老いている。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)あらし 分類連語:あるらしい。あるにちがいない。 ※なりたち ラ変動詞「あり」の連体形+推量の助動詞「らし」からなる「あるらし」が変化した形。ラ変動詞「あり」が形容詞化した形とする説もある。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

題詞は、「過澁谿埼見巌上樹歌一首  樹名都萬麻」<澁谿(しぶたに)の埼(さき)を過ぎて、巌(いはほ)の上(うへ)の樹(き)を見る歌一首   樹の名はつまま>である。

 

この四一五九歌から四一六五歌までの歌群の総題は、「季春三月九日擬出擧之政行於舊江村道上属目物花之詠并興中所作之歌」<季春三月の九日に、出擧(すいこ)の政(まつりごと)に擬(あた)りて、古江の村(ふるえのむら)に行く道の上にして、物花(ぶつくわ)を属目(しょくもく)する詠(うた)、并(あは)せて興(きよう)の中(うち)に作る歌>である。

 

 他の六首をみてみよう。

 

題詞は、「世間無常歌一首幷短歌」<世間(よのなか)の無常を悲しぶる歌一首幷(あは)せて短歌>である。

(注)山上憶良の八〇四、八〇五歌を踏まえて詠っている。

 

 

◆天地之 遠始欲 俗中波 常無毛能等 語續 奈我良倍伎多礼 天原 振左氣見婆 照月毛 盈▼之家里 安之比奇能 山之木末毛 春去婆 花開尓保比 秋都氣婆 露霜負而 風交 毛美知落家利 宇都勢美母 如是能未奈良之 紅能 伊呂母宇都呂比 奴婆多麻能 黒髪變 朝之咲 暮加波良比 吹風能 見要奴我其登久 逝水能 登麻良奴其等久 常毛奈久 宇都呂布見者 尓波多豆美 流渧 等騰米可祢都母

                (大伴家持 巻十九 四一六〇)

  ▼は、「呉」の「口」が「日」である。「盈▼之家里」で「満ち欠けしけり」と読む

 

 

≪書き下し≫天地(あめうち)の 遠き初めよ 世間(よのなか)は 常なきものと 語り継(つ)ぎ 流らへ来れ 天(あま)の原(はら) 振り放(さ)け見れば 照る月も 満ち欠(か)けしけり あしひきの 山の木末(こぬれ)も 春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露(つゆ)霜(しも)負(お)ひて 風交(まじ)り もみち散りけり うつせみも かくのみならし 紅(くれなゐ)の 色もうつろひ ぬばたまの 黒髪変(かは)り 朝の咲(ゑ)み 夕(ゆふへ)変らひ 吹く風の 見えぬがごとく 行く水の 止(と)まらぬごとく

 常もなく うつろふ見れば にはたづみ 流るる涙 留(とど)めかねつも

 

(訳)天地の始まった遠き遥かなる時代の初めから、この俗世は常無きものだと、語り継ぎ言い伝えてきたものだが・・・。そのとおり、天空遠く振り仰いで見ると、照る月も満ちたり欠けたりしてきた。山々の梢(こずえ)も、春が来ると花は咲き匂うものの、秋ともなれば、冷たい露を浴びて、風交じりに色づいた葉がはかなく散る。この世の人の身もみんなこれと同じでしかないらしい。まさに、紅(くれない)の頬もたちまち色褪(あ)せ、黒々とした髪もまっ白に変わり、朝の笑顔も夕方には消え失せ、吹く風が見えないように、流れ行く水が止まらないように、あっけなく物すべてが移り変わって行くのを見ると、にわたずみではないが、溢(あふ)れ流れる涙は、止めようにも止めるすべがない。(同上)

(注)流らへ来たれ:ずっと言い伝えてきているが。

(注)ながらふ 自動詞:(一)【流らふ】流れ続ける。静かに降り続ける。 ※上代語。

参考⇒下二段動詞の「流る」に反復継続の意を表す上代の助動詞「ふ」の付いたものかという。「ふ」は、ふつう四段動詞に付いて四段に活用するが、下二段動詞に付いて下二段に活用するのは異例のことである。(学研)

(注)にはたづみ【行潦・庭潦】名詞:雨が降ったりして、地上にたまり流れる水。

(注)にはたづみ【行潦・庭潦】分類枕詞:地上にたまった水が流れることから「流る」「行く」「川」にかかる。(学研)

 

 

◆言等波奴 木尚春開 秋都氣婆 毛美知遅良久波 常乎奈美許曾  <一云 常无牟等曾>

               (大伴家持 巻十九 四一六一)

 

≪書き下し≫言(こと)とはぬ木すら春咲き秋づけばもみち散(ぢ)らくは常をなみこそ  <一には「常なけむとぞ」といふ>

 

(訳)物言わぬ木でさえ、春は花が咲き、秋ともなれば色づいて散るのは、物なべて常というものがないからだ。<物なべて、常でありようがないということなのだ>(同上)

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◆宇都世美能 常<无>見者 世間尓 情都氣受弖 念日曽於保伎 <一云 嘆日曽於保吉>

               (大伴家持 巻十九 四一六二)

 

≪書き下し≫うつせみの常なき見れば世間(よのなか)に心つけずて思ふ日ぞ多き <一には「嘆く日ぞ多き」といふ>

 

(訳)この世の人の身の常とてないのを見ると、こんな無常な世に心をかかわらせないでいたい、だが、物思いに耽(ふけ)る日ばかりが重なる。<嘆く日ばかりが重なる>(同上)

(注)こころつく【心尽く】分類連語:気がもめる。さまざまに思い悩む。 ※「つく」は上二段の自動詞。(学研)

 

 

 

題詞は「豫作七夕歌一首」<予(あらかじ)め作る七夕(しちせき)の歌一首>である。

 

◆妹之袖 和礼枕可牟 河湍尓 霧多知和多礼 左欲布氣奴刀尓

               (大伴家持 巻十九 四一六三)

 

≪書き下し>妹(いも)が袖(そで)我れ枕(まくら)かむ川の瀬に霧(きり)立ちわたれさ夜更(よふ)けぬとに

 

(訳)あのいとしい人の袖、その袖を私は枕にして寝よう。川の渡り瀬に、霧よ一面に立ち渡っておくれ。夜が深くなってしまわないうちに、(同上)

(注)夜更(よふ)けぬとに:夜が更けてしまわぬうちに。夜霧にまぎれて一刻も早く織姫のもとへ行きたいという心か。「と」は外。

 

 

題詞は、「慕振勇士之名歌一首 并短歌」<勇士の名を振(ふる)はむことを慕(ねが)ふ歌一首 幷(あは)せて短歌」である。

 

◆知智乃實乃 父能美許等 波播蘇葉乃 母能美己等 於保呂可尓 情盡而 念良牟 其子奈礼夜母 大夫夜 無奈之久可在 梓弓 須恵布理於許之 投矢毛知 千尋射和多之 劔刀 許思尓等理波伎 安之比奇能 八峯布美越 左之麻久流 情不障 後代乃 可多利都具倍久 名乎多都倍志母

               (大伴家持 巻十九 四一六四)

 

≪書き下し≫ちちの実の 父の命(みこと) ははそ葉(ば)の 母の命(みこと) おほろかに 心尽(つく)して 思ふらむ その子なれやも ますらをや 空(むな)しくあるべき 梓弓(あづさゆみ) 末(すゑ)振り起し 投矢(なげや)持ち 千尋(ちひろ)射(い)わたし 剣(つるぎ)大刀(たち) 腰に取り佩(は)き あしひきの 八(や)つ峰(を)踏(ふ)み越え さしまくる 心障(さや)らず 後(のち)の世(よ)の 語り継ぐべく 名を立つべしも

 

(訳)ちちの実の父の命も、ははそ葉の母の命も、通り一遍にお心を傾けて思って下さった、そんな子であるはずがあろうか。されば、われらますらおたる者、空しく世を過ごしてよいものか。梓弓の弓末を振り起こしもし、投げ矢を持って千尋の先を射わたしもし、剣太刀、その太刀を腰にしっかと帯びて、あしひきの峰から峰へと踏み越え、ご任命下さった大御心のままに働き、のちの世の語りぐさとなるよう、名を立てるべきである。(同上)

(注)ちちのみの【ちちの実の】分類枕詞:同音の繰り返しで「父(ちち)」にかかる。(学研)

(注)ははそばの【柞葉の】分類枕詞:「ははそば」は「柞(ははそ)」の葉。語頭の「はは」から、同音の「母(はは)」にかかる。「ははそはの」とも。(学研)

(注)おほろかなり【凡ろかなり】形容動詞:いいかげんだ。なおざりだ。「おぼろかなり」とも。(学研)

(注)や 係助詞《接続》種々の語に付く。活用語には連用形・連体形(上代には已然形にも)に付く。文末に用いられる場合は活用語の終止形・已然形に付く。 ※ここでは、文中にある場合。(受ける文末の活用語は連体形で結ぶ。):①〔疑問〕…か。②〔問いかけ〕…か。③〔反語〕…(だろう)か、いや、…ない。(学研) ここでは、③の意

(注)空しくあるべき:無為に過ごしてよいものであろうか。ここまで前段、次句以下後段。(伊藤脚注)

(注)さしまくる心障(さや)らず:御任命下さった大御心に背くことなく。「さし」は指命する意か。「まくる」は「任く」の連体形。(伊藤脚注)

(注の注)まく【任く】他動詞:①任命する。任命して派遣する。遣わす。②命令によって退出させる。しりぞける。(学研) ここでは①の意

(注の注)さやる【障る】自動詞:①触れる。ひっかかる。②差し支える。妨げられる。(学研)

 

 

◆大夫者 名乎之立倍之 後代尓 聞継人毛 可多里都具我祢

              (大伴家持 巻十九 四一六五)

 

≪書き下し≫ますらをは名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね

 

(訳)ますらおたる者は、名を立てなければならない。のちの世に聞き継ぐ人も、ずっと語り伝えてくれるように。(同上)

 

 四一六四、四一六五歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その607)で紹介している。

 ➡ 

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つまま公園歌碑説明案内板

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つまま公園

 

―その868―

●歌は、「馬並めていざ打ち行かな渋谿の清き磯廻に寄する波見に」である

 

●歌碑は、道の駅 雨晴にある。

 

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道の駅「雨晴」万葉歌碑(大伴家持

●歌をみていこう。

この歌は、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その847)」で紹介している。

 ➡ 

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◆馬並氐 伊射宇知由可奈 思夫多尓能 伎欲吉伊蘇未尓 与須流奈弥見尓

               (大伴家持 巻十七 三九五四)

 

≪書き下し≫馬並(な)めていざ打ち行かな渋谿(しぶたに)の清き礒廻(いそみ)に寄する波見(み)に

 

(訳)さあ、馬を勢揃いして鞭打ちながらでかけよう。渋谿の清らかな磯べにうち寄せる波を見に。(同上)

(注)渋谿:富山県高岡市太田(雨晴)の海岸。

 

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雨晴海岸

 

 2泊3日の越中万葉歌碑を訪ねてのシリーズがちょうど大晦日に終わりました。

 今年1年、拙いブログにおつきあいいただき、まことにありがとうございました。

 来年も頑張ってまいりますのでよろしくお願い申し上げます。

 

 明日からは、大宰府を中心としたシリーズを書いていきます。

 あたたかく見守っていただけたらと思っております。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組合)

 

※20230612 その866に奈呉の浦大橋欄干の歌碑4つの写真を追記

 

万葉歌碑を訪ねて(その863,864,865)―射水市港町 奈呉の浦大橋欄干―万葉集 巻十七 三九八七、巻十七 四〇〇一、巻十七 四〇一七

―その863―

●歌は、「玉櫛笥二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり」である。

 

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奈呉の浦大橋欄干(1)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑(プレート)は、射水市港町 奈呉の浦大橋欄干(1)にある。   

 

●歌をみていこう。

この歌は、「二上山の賦」の短歌の一首である。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その824)」で紹介している。

 ➡ 

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◆多麻久之氣 敷多我美也麻尓 鳴鳥能 許恵乃孤悲思吉 登岐波伎尓家里

               (大伴家持 巻十七 三九八七)

 

≪書き下し≫玉櫛笥(たまくしげ)二上山に鳴く鳥の声の恋(こひ)しき時は来にけり

 

(訳)玉櫛笥二上山に鳴く鳥の、その声の慕わしくならぬ季節、待ち望んだ時は、今ここにとうとうやって来た。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 

 

―その864―

●歌は、「立山に降り置ける雪の常夏に消ずてわたるは神ながらとぞ」である。

 

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奈呉の浦大橋欄干(2)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑(プレート)は、射水市港町 奈呉の浦大橋(2)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、「立山の賦」の短歌の一首である。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その826)」で紹介している。

 ➡ 

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◆多知夜麻尓 布里於家流由伎乎 登己奈都尓 見礼等母安可受 加武賀良奈良之

               (大伴家持 巻十七 四〇〇一)

 

≪書き下し≫立山(たちやま)に降り置ける雪を常夏(とこなつ)に見れども飽かず神(かむ)からならし

 

(訳)立山に白々と降り置いている雪、この雪は夏の真っ盛りの今、見ても見ても見飽きることがない。神の品格のせいであるらしい。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)-から【柄】接尾語:名詞に付いて、そのものの本来持っている性質の意を表す。「国から」「山から」  ※参考後に「がら」とも。現在でも「家柄」「続柄(つづきがら)」「身柄」「時節柄」「場所柄」などと用いる。(学研)

 

 

 

―その865―

●歌は、「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」である。

 

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奈呉の浦大橋欄干(3)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、射水市港町 奈呉の浦大橋(3)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、家持が、天平二十年正月の二十九日に作った四首のうちの一首である。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その860)」で紹介している。

 ➡ 

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◆東風<越俗語東風謂之安由乃可是也> 伊多久布久良之 奈呉乃安麻能 都利須流乎夫祢 許藝可久流見由

                (大伴家持 巻十七 四〇一七)

 

≪書き下し≫あゆの風(かぜ)<越の俗の語には東風をあゆのかぜといふ> いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣(つり)する小舟(おぶね)漕(こ)ぎ隠(かく)る見(み)ゆ

 

(訳)東風(あゆのかぜ)<越(こし)の土地言葉で、東風を「あゆの風」という>が激しく吹くらしい。奈呉の海人(あま)たちの釣する舟が、今まさに浦風(うらかぜ)に漕ぎ隠れて行く。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 

奈呉の浦大橋は、奈呉の海沿いの県道240号線の瀟洒な橋である。欄干には4か所万葉歌碑(プレート)が設けられている。

 

万葉集には、「奈呉」を詠んだ歌が八首収録されている。

他の七首もみてみよう。

 

◆奈呉能安麻能 都里須流布祢波 伊麻許曽婆 敷奈太那宇知氐 安倍弖許藝泥米

               (秦忌寸八千嶋 巻十七 三九五六)

 

≪書き下し≫奈呉(なご)の海人(あま)の釣(つり)する舟は今こそば舟棚(ふなだな)打ちてあへて漕(こ)ぎ出(で)め

 

(訳)奈呉の浦の海人たちが釣りをする舟は、今こんな時こそ舟の棚板を威勢よく叩いて、押し切って漕ぎ出すがよい。(同上)

(注)ふなだな【船枻・船棚】名詞:船の両舷(りようげん)に取り付けてある板。舟子が櫓(ろ)や櫂(かい)をあやつる所。(学研)

 

 

◆奈呉能安麻能 意吉都之良奈美 志苦思苦尓 於毛保要武可母 多知和可礼奈婆

               (大伴家持 巻十七 三九八九)

 

≪書き下し≫奈呉(なご)の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば             

 

(訳)奈呉の海の沖の白波、その波がひきもきらさずに立つように、ひっきりなしに思われることでしょう。旅立ってお別れしてしまったならば。(同上)

 

 

◆美奈刀可是 佐牟久布久良之 奈呉乃江尓 都麻欲妣可波之 多豆左波尓奈久 <一云 多豆佐和久奈里>

               (大伴家持 巻十七 四〇一八)

 

≪書き下し≫港風(みなとかぜ)寒く吹くらし奈呉の江に妻呼び交(かは)し鶴(たづ)多(さは)に鳴く <一には「鶴騒くなり」といふ>

 

(訳)川口の風が寒々と吹くらしい。奈呉の入江では、連れ合いを呼び合って、鶴がたくさん鳴いている。<鶴の鳴き立てる声がする>(同上)

(注)みなとかぜ【港風】:河口または港のあたりに吹く風。(goo辞書)

 

 

◆奈呉乃宇美尓 布祢之麻志可勢 於伎尓伊泥弖 奈美多知久夜等 見底可敝利許牟

               (田辺福麻呂 巻十八 四〇三二)

 

≪書き下し≫奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出(い)でて波立ち来(く)やと見て帰り来(こ)む

 

(訳)あの奈呉の海に乗り出すのに、どなたか、ほんのしばし舟を貸してください。沖合に漕ぎ出して行って、波が立ち寄せて来るかどうか見て来たいものです。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)奈呉の海:海は、家持の館から眼に入ったのであろう。山国の大和から来た福麻呂には珍しい景色に映ったのであろう。

(注)しまし【暫し】副詞:「しばし」に同じ。 ※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

◆奈美多氐波 奈呉能宇良未尓 余流可比乃 末奈伎孤悲尓曽 等之波倍尓家流

               (田辺福麻呂 巻十八 四〇三三)

 

≪書き下し≫波立てば奈呉の浦廻(うらみ)に寄る貝の間(ま)なき恋にぞ年は経(へ)にける

 

(訳)波が立つたびに奈呉の入江に絶え間なく寄って来る貝、その貝のように絶え間もない恋に明け暮れているうちに、時は年を越してしまいました。(同上)

(注)上三句は序。「間なき」を起こす。

 

 

 

◆奈呉能宇美尓 之保能波夜非波 安佐里之尓 伊泥牟等多豆波 伊麻曽奈久奈流

               (田辺福麻呂 巻十八 四〇三四)

 

≪書き下し≫奈呉の海に潮の早干(はやひ)ばあさりしに出でむと鶴(たづ)は今ぞ鳴くなる

 

(訳)この奈呉の海で、潮が引いたらすぐに餌を漁(あさ)りに出ようとばかりに、鶴(たず)は、今しきりに鳴き立てています。(同上)

 

 

四〇三二から四〇四四歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その843)」で紹介している。

 ➡ 

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◆安由乎疾 奈呉乃浦廻尓 与須流浪 伊夜千重之伎尓 戀度可母

               (大伴家持 巻十九 四二一三)

 

≪書き下し≫東風(あゆ)をいたみ奈呉(なご)の浦廻(うらみ)に寄する波いや千重(ちへ)しきに恋ひわたるかも

 

(訳)東風(あゆ)の風が激しく吹いて、奈呉の浦辺に幾重にもうち寄せる波、その波のように、いよいよしきりに恋しく思いつづけています。(同上)

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「goo辞書」

★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組合)

万葉歌碑を訪ねて(その860,861,862)―射水市桜町 高周波文化ホール(新湊中央文化会館)前大石川沿い、射水市八幡町 放生津八幡宮、射水市立町 大楽寺―万葉集 巻十七 四〇一八、巻十七 四〇一七

―その860―

●歌は、「港風寒く吹くらし奈呉の江に妻呼び交し鶴多に鳴く」である。

 

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高周波文化ホール(新湊中央文化会館)前大石川沿い万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、射水市桜町 高周波文化ホール(新湊中央文化会館)前大石川沿いにある。

 

●歌をみていこう。

 

◆美奈刀可是 佐牟久布久良之 奈呉乃江尓 都麻欲妣可波之 多豆左波尓奈久 <一云 多豆佐和久奈里>

               (大伴家持 巻十七 四〇一八)

 

≪書き下し≫港風(みなとかぜ)寒く吹くらし奈呉の江に妻呼び交(かは)し鶴(たづ)多(さは)に鳴く <一には「鶴騒くなり」といふ>

 

(訳)川口の風が寒々と吹くらしい。奈呉の入江では、連れ合いを呼び合って、鶴がたくさん鳴いている。<鶴の鳴き立てる声がする>(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)みなとかぜ【港風】:河口または港のあたりに吹く風。(goo辞書)

 

 二泊三日の越中万葉歌碑めぐりの最終日である。

高周波文化ホール➡放生津八幡宮➡大楽寺➡奈呉の浦大橋➡つまま公園➡道の駅「雨晴」と計画をたてる。帰宅するには、高速で約六時間は必須で休憩時間等を考えるとこれでもぎりぎりである。

 

歌碑は、新湊小学校のグランドと文化ホールの間の大石川沿い(小学校側)である。

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歌碑と歌の解説案内碑

 

 

 

―その861―

●歌は、「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」である。

 

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放生津八幡宮万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、射水市八幡町 放生津八幡宮にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆東風<越俗語東風謂之安由乃可是也> 伊多久布久良之 奈呉乃安麻能 都利須流乎夫祢 許藝可久流見由

                (大伴家持 巻十七 四〇一七)

 

≪書き下し≫あゆの風(かぜ)<越の俗の語には東風をあゆのかぜといふ> いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣(つり)する小舟(おぶね)漕(こ)ぎ隠(かく)る見(み)ゆ

 

(訳)東風(あゆのかぜ)<越(こし)の土地言葉で、東風を「あゆの風」という>が激しく吹くらしい。奈呉の海人(あま)たちの釣する舟が、今まさに浦風(うらかぜ)に漕ぎ隠れて行く。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)あゆ【東風】名詞:東風(ひがしかぜ)。「あゆのかぜ」とも。 ※上代の北陸方言。(学研)

 

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鳥居と社殿

 放生津八幡宮の裏は、富山湾であり、北西方向に奈呉の浦がある。

 

とやま観光ナビ(富山県観光公式サイト)によると。放生津八幡宮は、大伴宿祢家持が越中の国守として赴任した際、奈古之浦の風光明媚な景色に魅せられ、豊前の国(現在の北九州から大分北部)から宇佐八幡神を勧請して、奈呉八幡宮と称されたのが創始であると言われている。

 なんと、家持は、越中時代は神社まで創始しているのである。

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八幡宮説明案内板


 

放生津八幡宮の拝殿には、一対の木彫りの大きな狛犬が安置されていた。(江戸時代末期から明治時代初期に活躍した法土寺村<現在の射水市>出身の矢野啓通<やの たかみち>が製作)

 

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木彫りの狛犬

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木彫りの狛犬

 

 

ちょうど、歌碑周辺の樹木の雪対策がなされているところであった。

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松の雪対策


 

 

―その862―

●歌は、「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」である。

 

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大楽寺万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、射水市立町 大楽寺にある。

 

●この歌は、前稿(その860)と同じ歌である。

 

大楽寺についていろいろと検索したが、万葉集との接点は見いだせなかった。

 

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大楽寺

 

 

 

 「あゆの風」を詠んでいるのは、万葉集には四首収録されている。すべて家持の歌である。四〇一七歌以外の三首をみてみよう。

 

 

◆・・・安由能加是 伊多久之布氣婆 美奈刀尓波 之良奈美多可弥 都麻欲夫等 須騰理波佐和久 ・・・

               (大伴家持 巻十七 四〇〇六)

 

≪書き下し≫・・・東(あゆの)風 いたくし吹けば 港(みなと)には 白波(しらなみ)高み 妻呼ぶと 渚鳥(すどり)は騒(さわ)く ・・・

 

(訳)・・・海の方からあゆの風が激しく吹きつけるので、河口には白波が高く立って連れ合いを呼ぶとて洲鳥(すどり)は鳴き騒いでいるし、・・・「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)すどり【州鳥/×渚鳥】: 州(す)にいる鳥。シギ・チドリなど。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 この四〇〇六歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その835)」で紹介している。

 ➡ 

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◆安乎能宇良尓 餘須流之良奈美 伊夜末之尓 多知之伎与世久 安由乎伊多美可聞

               (大伴家持 巻十八 四〇九三)

 

≪書き下し≫英遠(あを)の浦に寄する白波いや増しに立ちしき寄せ来(く)東風(あゆ)をいたみかも

 

(訳)英遠の浦にうち寄せる白波、この白波は、いよいよ立ち増さって、あとからあとから寄せてくる。東風(あゆのかぜ)が激しいからであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)英遠の浦:氷見市の北端、阿尾の海岸。

(注)あゆ【東風】名詞:東風(ひがしかぜ)。「あゆのかぜ」とも。 ※上代の北陸方言。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この四〇九三歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その808)」で紹介している。

 ➡ 

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◆安由乎疾 奈呉乃浦廻尓 与須流浪 伊夜千重之伎尓 戀度可母 

                (大伴家持 巻十九 四二三一)

 

≪書き下し≫東風(あゆ)をいたみ奈呉(なご)の浦廻(うらみ)に寄する波いや千重(ちへ)しきに恋ひわたるかも

 

(訳)東風(あゆ)の風が激しく吹いて、奈呉の浦辺に幾重にも打ち寄せる波、その波のように、いよいよしきりに恋しく思いつづけています。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 

 

四〇一七から四〇二〇歌の左注は、「右四首天平廿年春正月廿九日大伴宿祢家持」<右の四首は、天平二十年の春の正月の二十九日、大伴宿禰家持>である。

 

四〇一九、四〇二〇歌をみてみよう。

 

◆安麻射可流 比奈等毛之流久 許己太久母 之氣伎孤悲可毛 奈具流日毛奈久

        (大伴家持 巻十七 四〇一九)

 

≪書き下し≫天離(あまざか)る鄙(ひな)ともしるくここだくも繁(しげ)き恋かもなぐる日もなく

 

(訳)遠く都離れた鄙の地というのもなるほどそのとおりで、こんなにもつのる都恋しさよ。奈呉(なご)というのに心なごむ日とてなく。(同上)

(注)もしるく【も著く】分類連語:予想どおりで。まさにそのとおりで。(学研)

(注)ここだく【幾許】副詞:「ここだ」に同じ。 ※上代語。 <ここだ【幾許】副詞

:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。(学研) ここでは②の意

(注)なぐる日もなく:心静まる日とてなく。

 

 

◆故之能宇美能 信濃(濱名也)乃波麻乎 由伎久良之 奈我伎波流比毛 和須礼弖於毛倍也

       (大伴家持 巻十七 四〇二〇)

 

≪書き下し≫越(こし)の海の信濃(しなの)<浜の名なり>の浜を行き暮(く)らし長き春日(はるひ)も忘れて思へや

 

(訳)越の海の信濃<浜の名である>の浜を、一日中歩き続けたが、こんなに長い春の一日でさえ、片時も妻のことを忘れてしまったりするものか。

(注)信濃の浜:高岡市伏木あたりの海岸か。

 

ゴーツークーポンもなんとか道の駅で使い切ることができた。

あわただしくも、充実した二泊三日の越中万葉歌碑めぐりであった。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組合)

★「いこまいけ高岡」

★「とやま観光ナビ」 (富山県観光公式サイト)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉歌碑を訪ねて(その858,859)―高岡市下関町 JR高岡駅前広場、高岡市和田上北島 荊波神社―万葉集 巻十九 四一四三、巻十八 四一三八

―その858-

●歌は、「もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花」である。

 

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JR高岡駅前広場万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、高岡市下関町 JR高岡駅前広場にある。

 

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家持と乙女二人のブロンズ像

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その823)」他で紹介している。

 ➡ 

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◆物部乃 八十▼嬬等之 挹乱 寺井之於乃 堅香子之花

              (大伴家持 巻十九 四一四三)

     ※▼は「女偏に感」⇒「▼嬬」で「をとめ」

 

≪書き下し≫もののふの八十(やそ)娘子(をとめ)らが汲(う)み乱(まが)ふ寺井(てらゐ)の上の堅香子(かたかご)の花

 

(訳)たくさんの娘子(おとめ)たちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井、その寺井のほとりに群がり咲く堅香子(かたかご)の花よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

 高岡いわせ野郵便局の次は、高岡駅である。

 北口駅前広場に、「大伴家持と乙女二人」のブロンズ像が建てられており、台座に歌碑(プレート)があった。

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万葉線の電車

 すぐ側を、万葉線の電車がゆっくりと進んでいく。ゆったりとした気分に。

 高岡駅は、高架駅になっている。2階のコンビニで、ドライブ中の眠気覚ましのするめやお菓子などを買うために立ち寄る。ゴーツートラベルを利用しているので、キャンペーンクーポンを使おうとしたが、なんとここでは取り扱っていないとのこと。クーポンを使うのも骨が折れる。

 次は、荊波神社である。

 

 

 

―その859―

●歌は、「藪波の里に宿借り春雨に隠りつつむと妹に告げめや」である。

 

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荊波神社万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、高岡市和田上北島 荊波神社にある。

 

●歌をみていこう。

 この歌は、巻十八の巻末歌である。

 

 題詞は、「縁檢察墾田地事宿礪波郡主帳多治比部北里之家 于時忽起風雨不得辞去作歌一首」<墾田地(こんでんぢ)を検察する事によりて、礪波(となみ)の郡(こほり)主帳(しゆちやう)多治比部北里(たぢひべのきたさと)が家に宿る。時に、たちまちに風雨起(おこ)り、辞去すること得ずして作る歌一首>である

(注)こんでん【墾田】:律令制下、新たに開墾した田。朝廷が公民を使役して開墾した公墾田と、有力社寺や貴族・地方豪族が開墾した私墾田がある。はりた。(weblio辞書 デジタル大辞泉) ここでは庶民の開墾した土地。

(注)主帳:郡の四等官。公文に関する記録等をつかさどる。

 

 

◆夜夫奈美能 佐刀尓夜度可里 波流佐米尓 許母理都追牟等 伊母尓都宜都夜

               (大伴家持 巻十八 四一三八)

 

≪書き下し≫薮波(やぶなみ)の里に宿(やど)借り春雨(はるさめ)に隠(こも)りつつむと妹(いも)に告(つ)げつや

 

(訳)薮波の里で宿を借りた上に、春雨に降りこめられていると、我がいとしき人に知らせてくれましたか。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)や 係助詞 《接続》種々の語に付く。活用語には連用形・連体形(上代には已然形にも)に付く。文末に用いられる場合は活用語の終止形・已然形に付く。:文末にある場合。

①〔疑問〕…か。②〔問いかけ〕…か。③〔反語〕…(だろう)か、いや、…ない。:。

weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) ここでは②の意

 

左注は、「二月十八日守大伴宿祢家持作」<二月の十八日に、守大伴宿禰家持作る>である。

 

 この歌の「妹」は家持の妻、坂上大嬢のことである。

 天平勝宝元年(749年)七夕以降十一月十一日まで四か月間の歌は収録されていない。この間、家持は、大帳使として都に上って、大嬢を伴って帰任したと考えられている。

 

 この歌は、巻十八の巻末歌であるが、続く巻十九の巻頭歌、四一三九歌から四一五三歌までの十五首は、天平勝宝二年三月一日から三日までの三日間で作っている。

新しい境地の歌を華麗な色彩を帯びたように明るく詠っていることに関して、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その819)」で、この時期に、家持の妻の坂上大嬢が越中に来たのではないか、さらに、翌年には都に帰れるという気持ちの充実感が相乗効果となっていることを書いている。

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tom101010.hatenablog.com

 

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荊波神社名碑

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荊波神社鳥居と参道

 

 

 家持が、妻坂上大嬢の実家(母は坂上郎女)に、大嬢が下向していることも踏まえて、贈った歌をみてみよう。

 

 題詞は、「為家婦贈在京尊母所誂作歌一首幷短歌」<家婦(かふ)の、京に在(いま)す尊母(そんぼ)に贈るために、誂(あとら)へらえて作る歌一首幷(あは)せて短歌>である。

(注)家婦:名〙 家の妻。また、自分の妻。家の中の仕事をする女の意でいう。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典) ここでは坂上大嬢のこと

(注)尊母:ここでは、坂上郎女のこと

(注)あとらふ 【誂ふ】他動詞:頼んで自分の思いどおりにさせる。誘う。(学研)

 

 

◆霍公鳥 来喧五月尓 咲尓保布 花橘乃 香吉 於夜能御言 朝暮尓 不聞日麻祢久 安麻射可流 夷尓之居者 安之比奇乃 山乃多乎里尓 立雲乎 余曽能未見都追 嘆蘇良 夜須家久奈久尓 念蘇良 苦伎毛能乎 奈呉乃海部之 潜取云 真珠乃 見我保之御面 多太向 将見時麻泥波 松栢乃 佐賀延伊麻佐祢 尊安我吉美   <御面謂之美於毛和>

               (大伴家持 巻十九 四一六九)

 

≪書き下し≫ほととぎす 来鳴く五月(さつき)に 咲きにほふ 花橘(はなたちばな)の かぐはしき 親の御言(みこと) 朝夕(あさよひ)に 聞かぬ日まねく 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にし居(を)れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けくなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉(なご)の海人(あま)の 潜(かづ)き取るといふ 白玉(しらたま)の 見が欲(ほ)し御面(みおもわ) 直(ただ)向(むか)ひ 見む時までは 松柏(まつかへ)の 栄(さか)えいまさね 貴(たふと)き我(あ)が君   <御面、みおもわといふ>

 

(訳)時鳥が来て鳴く五月に咲き薫(かお)る花橘のように、かぐわしい母上様のお言葉、そのお声を朝に夕に聞かぬ日が積もるばかりで、都遠く離れたこんな鄙の地に住んでいるので、累々と重なる山の尾根に立つ雲、その雲を遠くから見やるばかりで、嘆く心は休まる暇もなく、思う心は苦しくてなりません。奈呉の海人(あま)がもぐって採るという真珠のように、見たい見たいと思う御面(みおも)、そのお顔を目(ま)の当たりに見るその時までは、どうか常盤(ときわ)の松や柏(かしわ)のように、お変わりなく元気でいらして下さい。尊い我が母君様。<御面は「みおもわ」と訓みます>

(注)たをり【撓り】名詞:「たわ」に同じ。<たわ【撓】名詞:山の尾根の、くぼんで低くなっている部分。鞍部(あんぶ)。「たをり」とも。(学研)

(注)そら【空】名詞:気持ち。心地。▽多く打消の語を伴い、不安・空虚な心の状態を表す。(学研)

(注)まつかへの【松柏の】[枕]:松・カシワが常緑で樹齢久しいところから、「栄ゆ」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)貴き我が君:親や主君等を親しみ尊んで呼ぶ慣用表現。

 

反歌一首」もみてみよう、

 

◆白玉之 見我保之君乎 不見久尓 夷尓之乎礼婆 伊家流等毛奈之

               (大伴家持 巻十九 四一七〇)

 

≪書き下し≫白玉の見が欲し君を見ず久(ひさ)に鄙(ひな)にし居(を)れば生けるともなし

 

(訳)真珠のようにいつも見たくてならない懐かしい母君様なのに、お逢いすることもなく長いことこんな鄙の地のおりますと、生きた心地もいたしません。(同上)

(注)生るともなし:(「いけ」は四段動詞「いく(生)」の命令形、「と」は、しっかりした気持の意の名詞) 生きているというしっかりした気持がない。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 

 神社の前の通りから立山連峰の雪が望めた。

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立山連峰の雪遠望

 本日の予定はここで終わり、ホテルに戻ることにした。越中万葉満喫の一日であった。

 

 

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神社由来説明案内板

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組合)

             

万葉歌碑を訪ねて(その857)―高岡市野村 いわせ野郵便局―万葉集 巻十九 四二四九

●歌は、「石瀬野の秋萩しのぎ馬並めて初鳥猟だにせずや別れむ」である。

 

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高岡市野村 いわせ野郵便局万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、高岡市野村 いわせ野郵便局にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆伊波世野尓 秋芽子之努藝 馬並 始鷹獏太尓 不為哉将別

               (大伴家持 巻十九 四二四九)≪

 

≪書き下し≫石瀬野(いはせの)に秋萩(あきはぎ)しのぎ馬並(な)めて初(はつ)鳥猟(とがり)だにせずや別れむ

 

(訳)石瀬野で、秋萩を踏みしだき、馬を勢揃いしてせめて初鳥猟だけでもと思っていたのに、それすらできずにお別れしなければならないのか。(同上)

(注)石瀬野:富山県高岡市庄川左岸の石瀬一帯か。

(注)しのぐ【凌ぐ】他動詞①押さえつける。押しふせる。②押し分けて進む。のりこえて進む。③(堪え忍んで)努力する。(学研) ここでは②の意

(注)とがり【鳥狩り】名詞:鷹(たか)を使って鳥を捕らえること。「とかり」とも。(学研)

 

 四二四八、四二四九歌の題詞は、「以七月十七日遷任少納言 仍作悲別之歌贈貽朝集使掾久米朝臣廣縄之舘二首」<七月の十七日をもちて、少納言(せうなごん)に遷任(せんにん)す。よりて、悲別の歌を作り、朝集使掾(てうしふしじよう)久米朝臣廣縄(くめのあそみひろつな)が館(たち)に贈(おく)り貽(のこ)す二首>である。

 

<◆書簡>既滿六載之期忽値遷替之運 於是別舊之悽心中欝結 拭渧之袖何以能旱 因作悲歌二首式遺莫忘之志 其詞曰

 

≪書簡書き下し≫すでに六載(ろくさい)の期(き)に満ち、たちまちに遷替(せんたい)の運(とき)に値(あ)ふ。ここに、旧(ふる)きを別るる悽(かな)しびは、心中に欝結(むすぼ)ほれ、渧(なみた)を拭(のご)ふ袖(そで)は、何をもちてか能(よ)く旱(ほ)さむ。よりて悲歌二首を作り、もちて莫忘(ばくぼう)の志を遺(のこ)す。その詞に曰はく、

(注)六載(ろくさい)の期(き):ここでは、足掛け六年の意

(注)むすぼほる【結ぼほる】自動詞:①(解けなくなるほど、しっかりと)結ばれる。からみつく。②(露・霜・氷などが)できる。③気がふさぐ。くさくさする。④関係がある。縁故で結ばれる。(学研)ここでは①の意

 

もう一首の方もみてみよう。

 

◆荒玉乃 年緒長久 相見氐之 彼心引 将忘也毛

                (大伴家持 巻十九 四二四八)

 

≪書き下し≫あらたまの年の緒(を)長く相見(あひみ)てしその心引(こころび)き忘らえめやも

 

(訳)長い年月の間、親しくおつきあいいただいた、その心寄せは、忘れようにもわすれられません。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より))

(注)相見(あひみ)てしその心引(こころび)き:親しくお付き合いいただいたご好意

(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。  ⇒なりたち推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

左注は、「右八月四日贈之」<右は、八月の四日に贈る>である。

 

 

 旧二上まなび交流館を後にして、途中小矢部川を渡り、南東方向約10分で、高岡いわせの郵便局に到着する。「野村第五」交差点の南東角に、交差点に向かって歌碑は建てられていた。

 

 お別れの鷹狩もしないでと鷹狩に触れているが、なんと家持は、鷹を飼っていたのである。鄙での悶々とした思いを鷹狩で気分をはらしていたのがわかる石瀬野と鷹狩にちなんだ歌があるのでみてみよう。

 

 題詞は、「八日詠白太鷹歌一首幷短歌」<八日に、白き大鷹(おほたか)を詠(よ)む歌一首幷(あは)せて短歌>である。

(注)おほたか【大鷹】名詞:①雌の鷹。雄よりも体が大きく、「大鷹狩り」に用いる。

②「大鷹狩り」の略。雌の鷹を使って冬に行う狩り。(学研)

 

 

◆安志比奇乃 山坂超而 去更 年緒奈我久 科坂在 故志尓之須米婆 大王之 敷座國者 京師乎母 此間毛於夜自等 心尓波 念毛能可良 語左氣 見左久流人眼 乏等 於毛比志繁 曽己由恵尓 情奈具也等 秋附婆 芽子開尓保布 石瀬野尓 馬太伎由吉氐 乎知許知尓 鳥布美立 白塗之 小鈴毛由良尓 安波勢理 布里左氣見都追 伊伎騰保流 許己呂能宇知乎 思延 宇礼之備奈我良 枕附 都麻屋之内尓 鳥座由比 須恵弖曽我飼 真白部乃多可

                (大伴家持 巻十九 四一五四)

 

≪書き下し≫あしひきの 山坂越えて 行きかはる 年の緒(を)長く しなざかる 越(こし)にし住めば 大君(おほきみ)の 敷きます国は 都をも ここも同(おや)じと 心には 思ふものから 語り放(さ)け 見放(さ)くる人目(ひとめ) 乏(とも)しみと 思ひし繁(しげ)し そこゆゑに 心なぐやと 秋(あき)づけば 萩(はぎ)咲きにほふ 石瀬野(いはせの)に 馬(うま)だき行きて をちこちに 鳥踏(ふ)み立て 白塗(しらぬり)の 小鈴(をすず)もゆらに あはせ遣(や)り 振り放(さ)け見つつ いきどほる 心のうちを 思ひ延べ 嬉(うれ)しびながら 枕付まくらづ)く 妻屋(つまや)のうちに 鳥座(とぐら)結(ゆ)ひ 据(す)ゑてぞ我が飼ふ 真白斑(ましらふ)の鷹(たか) 

 

(訳)険しい山や坂を越えてはるばるやって来て、改まる年月長く、山野層々と重なって都離れたこの越の国に住んでいると、大君の治めておられる国であるからには、都もここも違わないと心では思ってみるものの、話をして気晴らしをし合って心を慰める人、そんな人もあまりいないこととて、物思いはつのるばかりだ。そういう次第で、心のなごむこともあろうかと、秋ともなれば、萩の花が咲き匂う石瀬野に、馬を駆って出で立ち、あちこちに鳥を追い立てては、鳥に向かって白銀の小鈴の音もさわやかに鷹を放ち遣(や)り、空中かなたに仰ぎ見ながら、悶々(もんもん)の心のうちを晴らして、心嬉しく思い思いしては、枕を付けて寝る妻屋の中に止まり木を作ってそこに大事に据えてわれらが飼っている、この真白斑(ましらふ)の鷹よ。(同上)

(注)しなざかる 分類枕詞:地名「越(こし)(=北陸地方)」にかかる。語義・かかる理由未詳。(学研)

(注)さく【放く・離く】〔動詞の連用形に付いて〕(ア)〔「語る」「問ふ」などに付いて〕気がすむまで…する。…して思いを晴らす。(イ)〔「見さく」の形で〕遠く眺める。はるかに見やる。(学研)

(注)馬だく:馬をあやつる

(注)をちこち【彼方此方・遠近】名詞:あちらこちら。(学研)

(注)ふみたつ【踏み立つ】他動詞:地面を踏み鳴らして鳥を追い立てる。(学研)

(注)しらぬり【白塗り】名詞:白く彩色したもの。白土を用いたり銀めっきをしたりする。(学研)

(注)ゆら(に・と)副詞:からから(と)。▽玉や鈴が触れ合う音を表す。(学研)

(注)あはせ遣り:獲物の鳥を目指して手に据えた鷹を放ちやり。

(注)いきどほる【憤る】自動詞:①胸に思いがつかえる。気がふさぐ。②腹を立てる。怒る。(学研) ここでは①の意

(注)とぐら【鳥座・塒】名詞:鳥のとまり木。鳥のねぐら。(学研)

 

 

◆矢形尾能 麻之路能鷹乎 尾戸尓須恵 可伎奈泥都追 飼久之余志毛

               (大伴家持 巻十九 四一五五)

 

≪書き下し≫矢形尾(やかたを)の真白(ましろ)の鷹をやどに据ゑ掻(か)き撫(な)で見つつ飼はくしよしも

 

(訳)矢形尾の真白な鷹、この鷹を家の中に据えて、撫でたり見入ったりしながら飼うのはなかなかよいものだ。(同上)

 

万葉集には、鷹を詠んだ歌は六首が収録されているが、すべて家持の歌である。鄙びた越中で、鷹狩に興じ気分転換を図っていたとは、家持の一側面を見たように思える。越中生活は家持のスケールを大きくさせたと言っても過言ではない。都に戻り、幾多の試練に耐えていけたのも越中生活があったからであろう。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組合)