万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1096)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(56)―万葉集 巻十七 四〇一六

●歌は、「婦負の野のすすき押しなべ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(56)万葉歌碑<プレート>(高市黒人

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(56)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆賣比能野能 須ゝ吉於之奈倍 布流由伎尓 夜度加流家敷之 可奈之久於毛倍遊

             (高市黒人 巻十七 四〇一六)

 

≪書き下し≫婦負(めひ)の野のすすき押しなべ降る雪に宿借る今日(けふ)し悲しく思ほゆ

 

(訳)婦負(めひ)の野のすすきを押し靡かせて降り積もる雪、この雪の中で一夜の宿を借りる今日は、ひとしお悲しく思われる。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)婦負(めひ)の野:富山市から、その南にかけての野。

 

 この歌に歌われている「すすき」については、漢字では「芒」、国字では「薄」と書く。文学的には花穂の姿が獣の尾に似ていることから「尾花」と称されれる。万葉集では十五首ほど詠まれている。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その350)」で紹介している。

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 題詞は、「高市連黑人歌一首 年月不審」<高市連黒人が歌一首 年月審らかにあらず>である。

 

 左注は、「右傳誦此歌三國真人五百國是也」<右、この歌を伝誦するは、三国真人五百国(みくにのまひといほくに)ぞ>である。

 

 この歌の前に収録されている四〇一一から四〇一五歌は、題詞「放逸(のが)れたる鷹(たか)を思ひて夢(いめ)見(み)、感悦(よろこ)びて作る歌一首 幷(あは)せて短歌」である。

 四〇一一歌では、「・・・さ慣(な)らへる鷹(たか)はなけむと心には思ひほこりて笑(ゑ)まひつつ・・・」「・・・三島野をそがひに見つつ二上(ふたがみ)の山飛び越え雲隠り翔(かけ)り去(い)にき・・・」(これほど手慣れた鷹は他にはあるまいと、心中得意になってほくそ笑みながら・・・)楽しみにしていた鷹なのに(三島野をうしろにしながら、二上の山を飛び越えて、雲に隠れて飛んで・・・)逃げてしまった(憤りを隠した)悲しみと、夢に間もなく見つかるとのお告げがあったという喜びという(恨みをのぞいた)歌を詠っているのである。

 

 歌碑(プレート)の四〇一六歌は、家持が鷹を失った悲しみを披歴した場に置いてその悲しみに応じて唱ったものと考えられている。

 

万葉集には、鷹を詠んだ歌は六首が収録されているが、すべて家持の歌である。

上述の、題詞「放逸(のが)れたる鷹(たか)を思ひて夢(いめ)見(み)、感悦(よろこ)びて作る歌一首 幷(あは)せて短歌」の四〇一一から四〇一四歌の四首と次にあげる二首である。

家持は、鄙びた越中で、鷹狩に興じ気分転換を図っていたのである。逃げた鷹の名前は「大黒」というが、しばらくして「白き大鷹」を飼っていたようである。

この鷹について詠んだ歌をみてみよう。

 

題詞は、「八日詠白太鷹歌一首幷短歌」<八日に、白き大鷹(おほたか)を詠(よ)む歌一首幷(あは)せて短歌>である。

(注)おほたか【大鷹】名詞:①雌の鷹。雄よりも体が大きく、「大鷹狩り」に用いる。②「大鷹狩り」の略。雌の鷹を使って冬に行う狩り。(学研)

 

 

◆安志比奇乃 山坂超而 去更 年緒奈我久 科坂在 故志尓之須米婆 大王之 敷座國者 京師乎母 此間毛於夜自等 心尓波 念毛能可良 語左氣 見左久流人眼 乏等 於毛比志繁 曽己由恵尓 情奈具也等 秋附婆 芽子開尓保布 石瀬野尓 馬太伎由吉氐 乎知許知尓 鳥布美立 白塗之 小鈴毛由良尓 安波勢理 布里左氣見都追 伊伎騰保流 許己呂能宇知乎 思延 宇礼之備奈我良 枕附 都麻屋之内尓 鳥座由比 須恵弖曽我飼 真白部乃多可

                (大伴家持 巻十九 四一五四)

 

≪書き下し≫あしひきの 山坂越えて 行きかはる 年の緒(を)長く しなざかる 越(こし)にし住めば 大君(おほきみ)の 敷きます国は 都をも ここも同(おや)じと 心には 思ふものから 語り放(さ)け 見放(さ)くる人目(ひとめ) 乏(とも)しみと 思ひし繁(しげ)し そこゆゑに 心なぐやと 秋(あき)づけば 萩(はぎ)咲きにほふ 石瀬野(いはせの)に 馬(うま)だき行きて をちこちに 鳥踏(ふ)み立て 白塗(しらぬり)の 小鈴(をすず)もゆらに あはせ遣(や)り 振り放(さ)け見つつ いきどほる 心のうちを 思ひ延べ 嬉(うれ)しびながら 枕付まくらづ)く 妻屋(つまや)のうちに 鳥座(とぐら)結(ゆ)ひ 据(す)ゑてぞ我が飼ふ 真白斑(ましらふ)の鷹(たか) 

 

(訳)険しい山や坂を越えてはるばるやって来て、改まる年月長く、山野層々と重なって都離れたこの越の国に住んでいると、大君の治めておられる国であるからには、都もここも違わないと心では思ってみるものの、話をして気晴らしをし合って心を慰める人、そんな人もあまりいないこととて、物思いはつのるばかりだ。そういう次第で、心のなごむこともあろうかと、秋ともなれば、萩の花が咲き匂う石瀬野に、馬を駆って出で立ち、あちこちに鳥を追い立てては、鳥に向かって白銀の小鈴の音もさわやかに鷹を放ち遣(や)り、空中かなたに仰ぎ見ながら、悶々(もんもん)の心のうちを晴らして、心嬉しく思い思いしては、枕を付けて寝る妻屋の中に止まり木を作ってそこに大事に据えてわれらが飼っている、この真白斑(ましらふ)の鷹よ。(同上)

(注)しなざかる 分類枕詞:地名「越(こし)(=北陸地方)」にかかる。語義・かかる理由未詳。(学研)

(注)さく【放く・離く】〔動詞の連用形に付いて〕(ア)〔「語る」「問ふ」などに付いて〕気がすむまで…する。…して思いを晴らす。(イ)〔「見さく」の形で〕遠く眺める。はるかに見やる。(学研)

(注)馬だく:馬をあやつる

(注)をちこち【彼方此方・遠近】名詞:あちらこちら。(学研)

(注)ふみたつ【踏み立つ】他動詞:地面を踏み鳴らして鳥を追い立てる。(学研)

(注)しらぬり【白塗り】名詞:白く彩色したもの。白土を用いたり銀めっきをしたりする。(学研)

(注)ゆら(に・と)副詞:からから(と)。▽玉や鈴が触れ合う音を表す。(学研)

(注)あはせ遣り:獲物の鳥を目指して手に据えた鷹を放ちやり。

(注)いきどほる【憤る】自動詞:①胸に思いがつかえる。気がふさぐ。②腹を立てる。怒る。(学研) ここでは①の意

(注)とぐら【鳥座・塒】名詞:鳥のとまり木。鳥のねぐら。(学研)

 

短歌もみてみよう。

 

◆矢形尾能 麻之路能鷹乎 尾戸尓須恵 可伎奈泥都追 飼久之余志毛

               (大伴家持 巻十九 四一五五)

 

≪書き下し≫矢形尾(やかたを)の真白(ましろ)の鷹をやどに据ゑ掻(か)き撫(な)で見つつ飼はくしよしも

 

(訳)矢形尾の真白な鷹、この鷹を家の中に据えて、撫でたり見入ったりしながら飼うのはなかなかよいものだ。(同上)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その857)」で紹介している。

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 家持は、しなびた越中の地で歌の勉強や中国文学に勤しみ、鷹狩をして「鷹を放ち遣(や)り、空中かなたに仰ぎ見ながら、悶々(もんもん)の心のうちを晴らして」、やが鷹のように、大和の地へ舞い戻るのである。

 しかしそこに家持を待ち受けていたものは・・・。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

 

 

 

 

 

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その1095)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(55)―万葉集 巻三 四三四

●歌は、「風早の美穂の浦みの白つつじ見れどもさぶしなき人思へば」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(55)万葉歌碑<プレート>(河辺宮人)

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(55)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「和銅四年辛亥河邊宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首」<和銅四年辛亥(かのとゐ)に、河辺宮人(かはへのみやひと)、姫島(ひめしま)の松原の美人(をとめ)の屍(しかばね)を見て、哀慟(かな)しびて作る歌四首>である。

(注)和銅四年:711年

(注)姫島:ここは、紀伊三穂の浦付近の島

 

◆加座皤夜能 美保乃浦廻之 白管仕 見十方不怜 無人念者 <或云見者悲霜 無人思丹>

               (河辺宮人 巻三 四三四)

 

≪書き下し≫風早(かざはや)の美穂(みほ)の浦みの白(しら)つつじ見れどもさぶしなき人思へば <或いは「見れば悲しもなき人思ふに」といふ>

 

(訳)風早の三穂(みほ)の海辺に咲き匂う白つつじ、このつつじは、いくら見ても心がなごまない。亡き人のことを思うと。<見れば見るほどせつない。亡き人を思うにつけて>(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)かざはや【風早】:風が激しく吹くこと。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)三穂:和歌山県日高郡美浜町三尾

 

 この歌ならびに、他の三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その707)」で紹介している。

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河辺宮人の名前は、巻二 二二八、二二九歌にも見られる。

河辺宮人と云うのは伝未詳であるが、伊藤氏は脚注で「物語上の作者名か」と書かれている。

 

標題は、「寧樂宮」であり、題詞は、「和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫嶋松原見嬢子屍悲嘆作歌二首」<和銅四年歳次(さいし)辛亥(かのとゐ)に、河辺宮人(かはへのみやひと)姫島(ひめしま)の松原にして娘子(をとめ)の屍(しかばね)を見て悲嘆(かな)しびて作る歌二首>である。

(注)和銅四年:711年

(注)さいじ【歳次】:《古くは「さいし」。「歳」は歳星すなわち木星、「次」は宿りの意。昔、中国で、木星が12年で天を1周すると考えられていたところから》としまわり。とし。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)姫島:淀川河口の島の名か。

 

 

◆妹之名者 千代尓将流 姫嶋之 子松之末尓 蘿生萬代尓

                 (河辺宮人 巻二 二二八)

 

≪書き下し≫妹(いも)が名は千代(ちよ)に流れむ姫島の小松(こまつ)がうれに蘿生(こけむす)すまでに

 

(訳)このいとしいお方の名は、千代(ちよ)万代(よろずよ)に流れ伝わるであろう。娘子にふさわしい名の姫島の小松が成長してその梢(こずえ)に蘿(こけ)が生(む)すまでいついつまでも。(同上)

(注)千代に流れむ:漢籍に「名ハ世ニ流ル」などがある。その影響を受けた表現。

 

 

◆難波方 塩干勿有曽祢 沈之 妹之光儀乎 見巻苦流思母

                (河辺宮人 巻二 二二九)

 

≪書き下し≫難波潟(なにはがた)潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも

                                         

(訳)難波潟(なにわがた)よ、引き潮などあってくれるな。ここに沈んだいとしいお方のみじめな姿を見るのはつらいことだから。(同上)

(注)難波潟:干満の差が激しく干潟が多いことで有名。

(注)沈みにし:入水した。失恋ゆえか。

 

 

 標題「寧樂宮」について、巻二の部立「挽歌」の標題(天皇代標示)をみてみると、

近江大津宮御宇天皇代(九一から一〇二歌)、明日香清御原御宇天皇代(一〇三から一〇四歌)、藤原宮御宇天皇代(一〇五から一四〇歌)、後岡本宮御宇天皇代(一四一から一四六歌)、近江大津宮御宇天皇代(一四七から一五五歌)、明日香清御原御宇天皇代(一五六から一六二歌)、藤原宮御宇天皇代(一六三から二二七歌)、寧樂宮(二二八から二三四歌)となっている。

神野志隆光氏は、その著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」(東京大学出版会)の中で、伊藤 博氏の「寧樂宮」の標題とそのもとにある歌は追補されたものだとし、「『御宇天皇代』という表現によってこれらの標題はすべて過去視されたものであるということができる。『寧樂宮』はそれ一つだけが現代的呼称だということである。」との考えを支持し、「『寧樂宮』は、『―宮御宇天皇代』と違って閉じ込められていないのだと、伊藤の言をうけとめたいと思います。巻三、四は巻一、二と重ねながらその先に『寧樂宮』を延伸してゆくのですが、巻六において、やはり、そのひらかれた『寧樂宮』を展開していって閉じるのだと、巻末部をこれと対応させて見るべきだと考えるのです。」と書かれている。

 万葉集を歴史の時間軸で捉えつつその時間軸上の意味合いについても考察することの重要性を課題として与えられたような気がする。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉)」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

万葉歌碑を訪ねて(その1094)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(54)―万葉集 巻三 三九五

●歌は、「託馬野に生ふる紫草衣に染めいまだ着ずして色に出にけり」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(54)万葉歌碑<プレート>(笠女郎)

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(54)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「笠女郎贈大伴宿祢家持歌三首」<笠女郎(かさのいらつめ)、大伴宿禰家持に贈る歌三首>である。

 

◆託馬野尓 生流紫 衣染 未服而 色尓出来

                  (笠女郎 巻三 三九五)

 

≪書き下し≫託馬野(つくまの)に生(お)ふる紫草(むらさき)衣(きぬ)に染(し)めいまだ着ずして色に出(い)でにけり

 

(訳)託馬野(つくまの)に生い茂る紫草、その草で着物を染めて、その着物をまだ着てもいないのにはや紫の色が人目に立ってしまった。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)託馬野:滋賀県米原市朝妻筑摩か。

(注)「着る」は契りを結ぶことの譬え

(注)むらさき【紫】名詞:①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。古くから「武蔵野(むさしの)」の名草として有名。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

陸奥之 真野乃草原 雖遠 面影為而 所見云物乎

                 (笠女郎 巻三 三九六)

 

≪書き下し≫陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを

 

(訳)陸奥の真野の草原、この草原は遠くの遠くにある地でございますが、面影としてはっきり見えると世間では言っているのではありませんか。なのにあなたはどうして見えてくれないのですか。(同上)

(注)真野:福島県南相馬市真野川流域。

 

◆奥山之 磐本菅乎 根深目手 結之情 忘不得裳

                (笠女郎 巻三 三九七)

 

≪書き下し≫奥山の岩本(いはもと)菅(すげ)を根(ね)深(ふか)めて結びし心忘れかねつも

 

(訳)奥山の岩かげに生い茂る菅、その菅の根をねんごろに結び合ったあの時の気持ちは、忘れようとも忘れられません。(同上)

(注)上四句は深く契りを交わす譬え、

 

 深く契りを交わした恋の絶頂期ともいうべき過程が情熱的に詠われている。淡々と情景描写でもって比喩しつつその心情の熱さをにじませているのである。

 

 このような女性であるが、家持は別れている。

次にとりあげるが、笠女郎は家持に二十四首もの歌を贈っている。それを万葉集に収録しているのは、うがった見方をすれば、家持は別れの正当性を二十四首の歌を収録することによってアピールしているのだろうか。防人の歌の場合、「拙劣の歌は取り載せず」としていたが、歌としての価値を認めつつ、それを前に押し出して言わんといたのであろうか。

 そうすると、万葉集とは、と考えさせられる。

 なぜ二十四首もの歌を収録する必要があったのか考えるためにあえて本稿で二十四首の歌すべてを取り上げたのである。

 

 題詞「笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首」<笠女郎、大伴宿禰家持に贈る歌廿四首>では、恋の成熟の後、やがて別れにいたるまでの心情の変化が見て取れる。

 全二十四歌をみてみよう。

 

 

◆吾形見 ゝ管之努波世 荒珠 年之緒長 吾毛将思

                 (笠女郎 巻四 五八七)

 

≪書き下し≫我(わ)が形見(かたみ)見つつ偲はせあらたまの年の緒(を)長く我(あ)れも偲はむ

 

(訳)さしあげた私の形見の品、その品を見ながら思い出してください。長井年月をいつまでもいつまでも、私もあなたを思いつづけておりましょう。(同上)

 

 

◆白鳥能 飛羽山松之 待乍曽 吾戀度 此月比乎

                 (笠女郎 巻四 五八八)

 

≪書き下し≫白鳥(しらとり)の飛羽山(とばやま)松(まつ)の待ちつつぞ我(あ)が恋ひわたるこの月ごろを

 

(訳)白鳥の飛ぶ飛羽山の松ではありませんが、おいでを待ちながら私は慕いつづけております。この何か月もの間を。(同上)

 

 

◆衣手乎 打廻乃里尓 有吾乎 不知曽人者 待跡不来家留

                   (笠女郎 巻四 五八九)

 

≪書き下し≫衣手(ころもで)を打廻(うちみ)の里にある我(わ)れを知らにぞ人は待てど来(こ)ずける

 

(訳)打廻(うちみ)の里にいる私なのに、ご存じないので、あの方はいくら待っても来られなかったのだなあ。(同上)

(注)ころもでの【衣手の】分類枕詞:①袂(たもと)を分かって別れることから「別(わ)く」「別る」にかかる。②袖(そで)が風にひるがえることから「返る」と同音の「帰る」にかかる。③袖の縁で導いた「手(た)」と同音を含む地名「田上山(たなかみやま)」にかかる。(学研)

(注の注)衣を打つの意から、「打廻」の枕詞。

 

 

◆荒玉 年之經去者 今師波登 勤与吾背子 吾名告為莫

                 (笠女郎 巻四 五九〇)

 

≪書き下し≫あらたまの年の経(へ)ぬれば今しはとゆめよ我(わ)が背子(せこ)我(わ)が名告(の)らすな

 

(訳)年も経(た)ったことゆえ、今ならそうさしさわりはないなどと、めったにあなた、私の名を洩らさないで下さいね。(同上)

 

 

◆吾念乎 人尓令知哉 玉匣 開阿氣津跡 夢西所見

                 (笠女郎 巻四 五九一)

 

≪書き下し≫我(あ)が思ひを人に知るれか玉櫛笥(たまくしげ)開(ひら)きあけつと夢(いめ)にし見ゆる

 

(訳)胸の奥に秘めた私の思いを人に知られたせいなのでしょうか、心当りもないのに、大切な玉櫛笥の蓋(ふた)を開けた夢を見ました。(同上)

(注)理由なく櫛笥を開けると二人の仲が壊れるとされた。

 

 

◆闇夜尓 鳴奈流鶴之 外耳 聞乍可将有 相跡羽奈之尓

                   (笠女郎 巻四 五九二)

 

≪書き下し≫闇(やみ)の夜(よ)に鳴くなる鶴(たづ)の外(よそ)のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに

 

(訳)闇夜に鳴く鶴が、声ばかりで姿を見せないように、他人事(ひとごと)のようにお噂を聞いてばかりいるのであろうか。お逢いすることもないままに。(同上)

(注)上二句は序。「外のみに聞く」を起こす。

 

 

◆君尓戀 痛毛為便無見 楢山之 小松下尓 立嘆鴨

                     (笠女郎 巻四 五九三)

 

≪書き下し≫君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松(こまつ)が下(した)に立ち嘆くかも

 

(訳)君恋しさにじっとしていられなくて、奈良山の小松が下に立ちいでて嘆いております。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)「松」に「待つ」の意を懸ける。同じ奈良内に住ながら切なく待たねばならぬ意をこめる。

 

 

 ◆吾屋戸之 暮陰草乃 白露之 消蟹本名 所念鴨

                 (笠女郎 巻四 五九四)

 

≪書き下し≫我がやどの夕蔭草(ゆふかげくさ)の白露の消(け)ぬがにもとな思ほゆるかも

 

(訳)わが家の庭の夕蔭草に置く白露のように、今にも消え入るばかりに、むしょうにあの方のことが思われる。(同上)

(注)上三句は序。「消ぬがに」を起こす。作者の人恋う姿を連想させる。

(注)夕蔭草:夕日に照り映える草。

 

 

◆吾命之 将全牟限 忘目八 弥日異者 念益十方

                 (笠女郎 巻四 五九五)

 

≪書き下し≫我(わ)が命(いのち)の全(また)けむ限り忘れめやいや日に異(け)には思ひ増(ま)すとも

 

(訳)私の命が全うである限り、あの方を忘れることがあろうか。日増しにますます恋しさの募ってゆくことはあっても。(同上)

(注)ひにけに【日に異に】分類連語:日増しに。日が変わるたびに。(学研)

 

 

◆八百日徃 濱之沙毛 吾戀二 豈不益歟 奥嶋守

                   (笠女郎 巻四 五九六)

 

≪書き下し≫八百日(やほか)行(ゆ)く浜の真砂(まさご)も我(あ)が恋にあにまさらじか沖(おき)つ島守(しまもり)

 

(訳)通り過ぎるのに八百日もかかる浜の砂の数であっても、私の恋の重荷に比べればとてもかなうまいね。沖の島守よ、(同上)

(注)あに【豈】副詞:①〔下に打消の語を伴って〕決して。少しも。②〔下に反語表現を伴って〕どうして。なんで。 ⇒参考 中古以降は漢文訓読体にもっぱら用いられ、ほとんどが②の用法となった。(学研)

 

 

◆宇都蝉之 人目乎繁見 石走 間近君尓 戀度可聞

                 (笠女郎 巻四 五九七)

 

≪書き下し≫うつせみの人目(ひとめ)を繁(しげ)み石橋(いしばし)の間近

まち)き君に恋ひわたるかも

 

(訳)世間の人目が多いので、飛石の間(ま)ほどの近くにおられるあなたに、逢うこともなく恋い続けている私です。(同上)

(注)いはばしの【石橋の・岩橋の】分類枕詞:浅瀬に石を並べて橋と見立て、その飛び石の間隔が広かったり狭かったりすることから、「間(ま)」「近き」「遠き」などにかかる。(学研)

 

 

◆戀尓毛曽 人者死為 水<無>瀬河 下従吾痩 月日異

                 (笠女郎 巻四 五九八)

 

≪書き下し≫恋にもぞ人は死にする水無瀬(みなせ)川下(した)ゆ我(わ)れ痩(や)す月に日に異(け)に

 

(訳)恋の苦しみのためにだって人は死ぬことがあるものです。水無瀬川のように、人知れず私は痩せ細るばかりです。月ごと日ごと。(同上)

(注)みなせがは【水無瀬川】分類枕詞:水無瀬川の水は地下を流れるところから、「下(した)」にかかる。(学研)

 

 

◆朝霧之 欝相見之 人故尓 命可死 戀渡鴨

                  (笠女郎 巻四 五九九)

 

≪書き下し≫朝霧(あさぎり)のおほに相見(あひみ)し人故(ゆゑ)に命死ぬべく恋ひわたるかも

 

(訳)朝霧のようにおぼろげに見ただけなのに、私は死ぬほど激しく恋つづけているのです。(同上)

(注)あさぎりの【朝霧の】分類枕詞:朝霧が深くたちこめることから「思ひまどふ」「乱る」「おほ(=おぼろなようす)」などにかかる。(学研)

(注)おほなり【凡なり】形容動詞:①いい加減だ。おろそかだ。②ひととおりだ。平凡だ。 ※「おぼなり」とも。上代語。(学研)

 

 

◆伊勢海之 礒毛動尓 因流波 恐人尓 戀渡鴨

                 (笠女郎 巻四 六〇〇)

 

≪書き下し≫伊勢の海の礒もとどろに寄する波畏(かしこ)き人に恋ひわたるかも

 

(訳)伊勢の海の磯もとどろくばかりに寄せる波、その波のように恐れ多い方に私は恋い続けているのです。(同上)

(注)上三句は序。「畏き」を起こす。

(注)かしこし【畏し】形容詞:①もったいない。恐れ多い。②恐ろしい。恐るべきだ。③高貴だ。身分が高い。貴い。(学研)

 

 

 

◆従情毛 吾者不念寸 山河毛 隔莫國 如是戀常羽

                 (笠女郎 巻四 六〇一)

 

≪書き下し≫心ゆも我(あ)は思はずき山川(やまかは)も隔(へだ)たらなくにかく恋ひむとは

 

(訳)私はついぞ思ってもみませんでした。山や川を隔てて遠く離れているわけでもないのに、こんなに恋に苦しむことになろうとは。(同上)

(注)注)心ゆも:心の片端にさえも。打消しや反語を伴って用いる。

(注の注)ゆ 格助詞《接続》体言、活用語の連体形に付く。:①〔起点〕…から。…以来。②〔経由点〕…を通って。…を。③〔動作の手段〕…で。…によって。④〔比較の基準〕…より。 ⇒参考 上代の歌語。類義語に「ゆり」「よ」「より」があったが、中古に入ると「より」に統一された。(学研)

 

 

◆暮去者 物念益 見之人乃 言問為形 面景尓而

                   (笠女郎 巻四 六〇二)

 

≪書き下し≫夕されば物思(ものも)ひまさる見し人の言(こと)とふ姿面影にして

 

(訳)夕方になると、ひとしお物思いが募ってくる。前にお目にかかったお方の、物を問いかけて下さる姿が目の前にちらついて。(同上)

(注)こととふ【言問ふ】:①ものを言う。言葉を交わす。②尋ねる。質問する。③訪れる。訪問する。(学研)

 

 

◆念西 死為物尓 有麻世波 千遍曽吾者 死變益

                 (笠女郎 巻四 六〇三)

 

≪書き下し≫思ひにし死にするものにあらませば千(ち)たびぞ我(わ)れは死にかへらまし

 

(訳)恋の思いに人が死ぬものであったならば、私は千度も繰り返して死んでおりましょう。(同上)

(注)かへらふ【帰らふ・還らふ・反らふ】分類連語:①次々と(度々(たびたび))かえる。②繰り返す。③しきりに…する。 ⇒ なりたち 動詞「かへる」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」(学研)

 

 

◆劔大刀 身尓取副常 夢見津 何如之恠曽毛 君尓相為

                  (笠女郎 巻四 六〇四)

 

≪書き下し≫剣大刀(つるぎたち)身に取り添(そ)ふと夢(いめ)に見つ何なに)の兆(さが)ぞも君に逢はむため

 

(訳)剣の大刀を身に添えて持ったと夢に見ました。いったいこれは何の前兆なのでしょう。きっと男らしいあの方にお逢いできるからなのでしょう。(同上)

 

 

◆天地之 神理 無者社 吾念君尓 不相死為有

                 (笠女郎 巻四 六〇五)

 

≪書き下し≫天地(あめつち)の神に理(ことわり)なくはこそ我(あ)が思う君に逢はず死にせめ

 

(訳)天地を支配される神々にもし道理がなければ、その時こそ、お慕い申しているあの方に逢えないまま、死んでしまうことになりましょうか・・・。(同上)

 

 

◆吾毛念 人毛莫忘 多奈和丹 浦吹風之 止時無有

                   (笠女郎 巻四 六〇六)

 

≪書き下し≫(あ)我れも思ふ人もな忘れ多奈和丹浦吹く風のやむ時なかれ

 

(訳)私もこれほど思っている。あの人も私を忘れないでほしい。多奈和丹 海岸を吹きつける風のように、やむことなく思いつづけてほしい。(同上)

(注)多奈和丹:訓義未詳。

 

 

◆皆人乎 宿与殿金者 打礼杼 君乎之念者 寐不勝鴨

 

                    (笠女郎 巻四 六〇七)

 

≪書き下し≫皆人(みなひと)を寝よとの鐘(かね)は打つなれど君をし思へば寐寝(いね)かてぬかも

 

(訳)皆の者寝静まれ、という亥(い)の刻(こく)の鐘を打つのが聞こえてくるけれども、あなたのことを思と眠ろうにも眠れません。(同上)

(注)いねがてにす【寝ねがてにす】分類連語;寝付きにくくなる。 ⇒ なりたち 動詞「いぬ」の連用形+補助動詞「かつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の上代の連用形「に」+サ変動詞「す」からなる「いねかてにす」の濁音化。(学研)

 

 

◆不相念 人乎思者 大寺之 餓鬼之後尓 額衝如

                 (笠女郎 巻四 六〇八)

 

≪書き下し≫相(あひ)思(おも)はぬ人を思ふは大寺(おほてら)の餓鬼(がき)の後方(しりへ)に額(ぬか)づくごとし

 

(訳)私を思ってもくれない人を思うのは、大寺の餓鬼像のうしろから地に額(ぬか)ずいて拝むようなものです。(同上)

(注)餓鬼像:餓鬼道に堕ちた亡者の像。

(注)餓鬼の後方に額づくごとし:餓鬼像を背後から拝んでも効果がない。自嘲の戯れの中に絶望を見せる。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その2改)」で紹介している。

 ➡ 

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◆従情毛 我者不念寸 又更 吾故郷尓 将還来者

                 (笠女郎 巻四 六〇九)

 

<書き下し>心ゆも我(あ)は思はずきまたさらに我(わ)が故郷(ふるさと)に帰り来(こ)むとは

 

(訳)ついぞ思ってもみませんでした。またもや、私が昔住んだ里に帰ってこようなどとは。(同上)

(注)心ゆも:心の片端にさえも。打消しや反語を伴って用いる。

(注の注)ゆ 格助詞《接続》体言、活用語の連体形に付く。:①〔起点〕…から。…以来。②〔経由点〕…を通って。…を。③〔動作の手段〕…で。…によって。④〔比較の基準〕…より。 ⇒参考 上代の歌語。類義語に「ゆり」「よ」「より」があったが、中古に入ると「より」に統一された。(学研)

 

 

◆近有者 雖不見在乎 弥遠 君之伊座者 有不勝自

                 (笠女郎 巻四 六一〇)

 

≪書き下し≫近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかつましじ

 

(訳)近くにおれば逢えなくてもまだ堪えられますが、いよいよ遠くあなたと離れてしまうことになったら、とても生きてはいられないでしょう。(同上)

(注)かつましじ 分類連語:…えないだろう。…できそうにない。 ※上代語。 ⇒

なりたち 可能の補助動詞「かつ」の終止形+打消推量の助動詞「ましじ」(学研)

 

 六〇九、六一〇歌の左注は、「右の二首は、相別れて後に、さらに来贈(おく)る」である。これに対しては、さすがに家持もお義理のような返歌(六一一、六一二歌)を贈っている。

 六〇九から六一二歌のくだりは、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その14改)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「万葉の人びと」犬養 孝 著 (新潮文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉ゆかりの地を訪ねて~万葉歌碑めぐり~」 奈良市HP

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1093)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(53)―万葉集 巻十九 四一五九

●歌は、「磯の上のつままを見れば根を延へて年深くあらし神さびにけり」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(53)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(53)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆礒上之 都萬麻乎見者 根乎延而 年深有之 神佐備尓家里

              (大伴家持 巻十九 四一五九)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うへ)のつままを見れば根を延(は)へて年深くあらし神(かむ)さびにけり

 

(訳)海辺の岩の上に立つつままを見ると、根をがっちり張って、見るからに年を重ねている。何という神々しさであることか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)としふかし【年深し】( 形ク ):何年も経っている。年老いている。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)あらし 分類連語:あるらしい。あるにちがいない。 ※なりたち ラ変動詞「あり」の連体形+推量の助動詞「らし」からなる「あるらし」が変化した形。ラ変動詞「あり」が形容詞化した形とする説もある。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

題詞は、「過澁谿埼見巌上樹歌一首  樹名都萬麻」<澁谿(しぶたに)の埼(さき)を過ぎて、巌(いはほ)の上(うへ)の樹(き)を見る歌一首   樹の名はつまま>である。

 

この四一五九歌から四一六五歌までの歌群の総題は、「季春三月九日擬出擧之政行於舊江村道上属目物花之詠并興中所作之歌」<季春三月の九日に、出擧(すいこ)の政(まつりごと)に擬(あた)りて、古江の村(ふるえのむら)に行く道の上にして、物花(ぶつくわ)を属目(しょくもく)する詠(うた)、并(あは)せて興(きよう)の中(うち)に作る歌>である。

 

 この歌ならびに他の六首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その867)で紹介している。この歌碑の写真は、令和二年11月6日に富山県高岡市太田「つまま公園」で撮影したものである。

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 歌碑の碑文は言うに及ばず、設置されていた「碑文(歌意)」の説明板も腐食しており、撮影だけしておいた。

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歌碑の解説案内板

 写真を拡大してみると辛うじて読める。気になっていた、「つまま」の根が、海岸の松の根のようにごつごつと地表を這い「神々しい」雰囲気を持っているのかについて書かれているので、抜き書きしてみる。

「・・・この歌碑は、安政五年(一八五八)に太田村伊勢領の肝煎(きもいり)(村長)宗九郎(そうくろう)が建立したものとされ、高岡では、最も古い万葉歌碑である。宗九郎は、相当の学問があり万葉集にも関心が高く、特に、都萬麻(つまま)はタモノキであると推定して一本のタモノキとこの碑を置いたとされるが、永年の風食により碑の文字を判読するのは難しい。都萬麻は、クスノキ科の常緑高木で一般にもタモまたはタブノキと呼ぶイヌグスのこととされている。老木は根が盛り上がり神々しい姿である。このことから神聖な木として扱われることが多い・・・」

後半は、家持が越中国射水郡渋谷の崎で根を露出した見慣れない大樹に驚き、初めて聞く「都万麻」(つまま)の名に異郷の風土を感じ、この歌を詠い、眼前の光景が未来永劫に続くことを願って「都万麻」の歌を詠じたと書かれている。

 江戸時代に万葉歌碑を建立する人がいたことに驚かされる。

 

 

 これまでに巡った歌碑の中で、江戸、明治に建てられたものをあげて見る。

 

 「つまま」の歌碑より五十年ほど古く文化二年(1805年)に建てられた、新古今集の巻五、秋歌下に、題しらず柿本人麻呂の歌碑がある。この歌の元歌は、万葉集の巻十 二二一〇歌(柿本人麻呂歌集)「明日香川もみじ葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらむ」である。碑の裏に「文化2年歳次乙丑夏五月」と記されている。駒が谷の金剛輪寺の住職をしていた学僧の覚峰が文化二年(1805年)に建立したとある。

 場所は、大阪府羽曳野市駒が谷、竹内街道飛鳥川が交わるところの橋が月読橋であり、そこから50mほど上流にある。

 この歌、歌碑等についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(月読橋番外)」のなかで紹介している。

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滋賀県東近江市下麻生 山部神社境内には、山部赤人の「田子の浦ゆうち出て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」の大きな歌碑とこじんまりとしたたたずまいの「春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ 野をなつかしみ一夜寝にける」(巻八 一四二四歌)の歌碑がある。

 「山部赤人廟碑」の前にある。「山部赤人伝説」説明案内板によると、この一四二四歌の碑は明治十二年(1879年)に建てられたとある。

 これらに関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その417)」で紹介している。

 ➡ 

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 古い万葉歌碑を検索してみると行田市HP(行田市教育委員会)に次のように書かれている。

「浅間塚の上に鎮座している前玉(さきたま)神社の石段の登り口に高さ2mの一対の石燈籠が建っています。元禄10年(1697)10月15日、地元の埼玉村の氏子一同が奉献したもので、2基の竿に「万葉集」の「小埼沼」と「埼玉の津」の歌が美しい万葉仮名で陰刻されています。旧跡「小埼沼」の碑より56年前の建立で、万葉集に掲載された歌の歌碑としては、全国でも最も古いものの一つです。」

 (注)「前玉(さきたま)」は「埼玉」の語源と言われている。

 元禄十年(1697年)に灯篭に万葉歌を刻して奉納する学識等には頭が下がる思いである。 

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前玉神社の灯篭 「行田市HP(行田市教育委員会)より引用させていただきました。」

 

「こまえ観光ガイドHP」に「『万葉集』巻14の東歌の一首「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき」が刻まれた歌碑で、松平定信の揮毫になります。文化2年(1805)に猪方村字半縄(現在の猪方四丁目辺り)に建てられましたが、洪水によって流失しました。大正時代に玉川史蹟猶予会が結成されると、松平定信を敬慕する渋沢栄一らと狛江村の有志らが協力して、大正13年(1924)、旧碑の拓本を模刻して新碑が建てられました。」とある。

 

 何時か機会を見つけて、これらの古い歌碑を見て周りたいものである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「碑文(歌意)」 (高岡市太田つまま公園歌碑説明案内板)

★「行田市HP(行田市教育委員会)」

★「こまえ観光ガイドHP」

万葉歌碑を訪ねて(その1092)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(52)―万葉集 巻四 六七五

●歌は、「をみなえし佐紀沢に生ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(52)万葉歌碑<プレート>(中臣女郎)

●歌碑は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(52)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺可聞

                  (中臣女郎 巻四 六七五)

 

≪書き下し≫をみなえし佐紀沢(さきさわ)に生(お)ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも

 

(訳)おみなえしが咲くという佐紀沢(さきさわ)に生い茂る花かつみではないが、かつて味わったこともないせつない恋をしています。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)「をみなえし」:「佐紀」の枕詞。咲くの意。

(注)さきさわ(佐紀沢):平城京北一帯の水上池あたりが湿地帯であったところから

このように呼ばれていた。

(注)はなかつみ【花かつみ】名詞:水辺に生える草の名。野生のはなしょうぶの一種か。歌では、序詞(じよことば)の末にあって「かつ」を導くために用いられることが多い。芭蕉(ばしよう)が『奥の細道』に記したように、陸奥(みちのく)の安積(あさか)の沼(=今の福島県郡山(こおりやま)市の安積山公園あたりにあった沼)の「花かつみ」が名高い。「はながつみ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かつて【曾て・嘗て】副詞:〔下に打消の語を伴って〕①今まで一度も。ついぞ。②決して。まったく。 ⇒ 参考 中古には漢文訓読系の文章にのみ用いられ、和文には出てこない。「かって」と促音にも発音されるようになったのは近世以降。(学研)

 

六七五から六七九歌の歌群の、題詞は、「中臣女郎(なかとみのいらつめ)贈大伴宿祢家持歌五首」とある。

 この歌並びに他の四首すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その30改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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六七五から六七九歌の歌群の、題詞は、「中臣女郎(なかとみのいらつめ)贈大伴宿祢家持歌五首」とある。 他の四首もみてみよう。

 下記のとおり、「原文」・「書き下し」・「訳」の統一フォームで五首とも書き改めた。これをブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その30改)」にも反映させた。重複しますがご容赦願いたい、

 

 

◆海底 奥乎深目手 吾念有 君二波将相 年者経十万

                  (中臣女郎 巻四 六七六)

 

≪書き下し≫海(わた)の底奥(おき)を深めて我(あ)が思へる君には逢はむ年は経(へ)ぬとも

 

(訳)海の底のように心の奥底に秘めて私が思っているあの人には、きっと逢いたい。年月はどんなに経(た)とうとも(同上)

(注)わたのそこ【海の底】分類枕詞:海の奥深い所の意から「沖(おき)」にかかる。(学研)

 

 

春日山 朝居雲乃 欝 不知人尓毛 戀物香聞

                  (中臣女郎 巻四 六七七) 

 

≪書き下し≫春日山(かすがやま)朝居(ゐ)る雲のおほほしく知らぬ人にも恋ふるものかも

 

(訳)それにしても、人というものは、春日山に朝かかっている雲のように、見通しのない晴れぬ気持ちで、まだ見たこともない人に心を燃やすことがあるものだなあ。(同上)

(注)おほほし 形容詞:①ぼんやりしている。おぼろげだ。②心が晴れない。うっとうしい。③聡明(そうめい)でない。 ※「おぼほし」「おぼぼし」とも。上代語。(学研)

 

 

◆直相而 見而者耳社 霊剋 命向 吾戀止眼

                  (中臣女郎 巻四 六七八)

 

≪書き下し≫直(ただ)に逢ひて見てばのみこそたまきはる命に向(むか)ふ我(あ)が恋やまめ

 

(訳)じかにあの人に逢ってこの目でとらえてその時こそ、この命がけの恋もはおさまるのでしょうが・・・。はたしてそれができるかどうか。(同上)

(注)たまきはる【魂きはる】分類枕詞:語義・かかる理由未詳。「内(うち)」や「内」と同音の地名「宇智(うち)」、また、「命(いのち)」「幾世(いくよ)」などにかかる。(学研)

(注)いのちにむかふ【命に向かふ】分類連語:命に匹敵する。命がけである。(学研)

 

 

◆不欲常云者 将強哉吾背 菅根之 念乱而 戀管母将有

                  (中臣女郎 巻四 六七九)

 

≪書き下し≫いなと言はば強(し)ひめや我(わ)が背菅(すが)の根(ね)の思ひ乱れて恋ひつつもあらむ

 

(訳)いやだとおっしゃるのなら無理じいするものですか、あなた。長い菅の根のように思い乱れながらも、私はいつまでもお慕いすることにします。(同上)

(注)いな【否】感動詞:①いえ。いいえ。▽相手の問いに対して、それを否定するときに発する語。②いやだ。いいえ。▽相手の言動に対する不同意を表す語。(学研)

(注)すがのねの【菅の根の】分類枕詞:①すげの根が長く乱れはびこることから「長(なが)」や「乱る」、また、「思ひ乱る」にかかる。②同音「ね」の繰り返しで「ねもころ」にかかる。(学研)

 

 大伴家持の女性遍歴は有名である。笠女郎、山口女王、大神(おおみわ)女郎、河内百枝娘子(こうちのももえのおとめ)、巫部麻蘇娘子(かむなぎのへのまそのおとめ)、粟田女娘子(あわためのおとめ)、豊前国娘子大宅女(おおやけめ)、安都扉娘子(あとのとびらのおとめ)、丹波大女娘子(たにわのおおめのおとめ)他が家持に歌を贈っている。

 現在であれば、スキャンダラスな週刊誌並みの記事が万葉集には歌の形の告白で収録されている。

 家持は、万葉集の編纂に関与しているが、自分が贈った歌や返歌などはほとんど収録されていない。

 もてぶりと冷静な対応をアピールしているのか。

 正妻の坂上大嬢との歌のやり取りは、克明に収録しているから、大嬢をいかに愛していたかを相対的に効果的に情報操作をしていたのかもしれない。

 万葉集も考えてみれば、当時の情報伝達手段として考えられていたのであろう。

 日本書記、古事記の性格と万葉集の位置づけを考えれば面白くなってくる。

 この点については後日の課題としたい。

 

 話を元に戻して、中臣女郎は家持に、この五首を贈っている。まだ見ぬ家持を慕っている歌であるが、家持の方といえば、彼からの歌はなく極めてクールである。

 六七九歌「いなと言はば強(し)ひめや我(わ)が背菅(すが)の根(ね)の思ひ乱れて恋ひつつもあらむ」は、強烈なメッセージであるが。

 

 

「はなかつみ」について、春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『はなかつみ』は古来から難解植物の一つとされており『真菰(マコモ)』・『姫シャガ』・『葦(アシ)』・「野花菖蒲(ノハナショウブ)」・『赤沼あやめ』等の説がある。

 『姫シャガ』説は、福島県郡山市松尾芭蕉の『奥の細道』から採用し『安積沼跡(アサカヌマアト)に碑を建てている。

 『姫シャガ』は低い山地の林の下に自生する多年草で、葉は剣形で先がとがってり、一般的に知られている『著莪(シャガ)』より全体に小型できゃしゃである。(後略)」と書かれている。

 

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ヒメシャガ」(郡山市HPから引用させていただきました)

               

 五月二十八日に、平城宮跡界隈プチぶらりで撮影した歌碑の写真を掲載いたします。(二年ぶりに訪れました。)

 

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佐紀町水上池北万葉歌碑(中臣女郎)佐紀町20210528撮影


 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「萬葉集相聞の世界」 伊藤 博 著 (塙書房

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「郡山市HP」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1091)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(51)―万葉集 巻八 一四一八

●歌は、「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(51)万葉歌碑<プレート>(志貴皇子

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(51)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨

               (志貴皇子 巻八 一四一八)

 

≪書き下し≫石走(いはばし)る垂水(たるみ)の上(うへ)のさわらびの萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも

 

(訳)岩にぶつかって水しぶきをあげる滝のほとりのさわらびが、むくむくと芽を出す春になった、ああ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

注)いはばしる【石走る・岩走る】分類枕詞:動詞「いはばしる」の意から「滝」「垂水(たるみ)」「近江(淡海)(あふみ)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たるみ【垂水】名詞:滝。(学研)

 

 題詞は、「志貴皇子懽御歌一首」<志貴皇子(しきのみこ)の懽(よろこび)の御歌一首>とある。

この歌ならびに西陵に関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その28改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部訂正しております。ご容赦下さい。)

 ➡ 

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大阪府吹田市垂水町垂水神社の志貴皇子の歌碑については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その790,791)」で紹介している。

 ➡ 

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志貴皇子の子供には、万葉歌人湯原王、白壁皇子(後の光仁天皇)、春日王らがいるが、春日王ならびに湯原王の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1077)」で紹介している。

➡ 

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 光仁天皇については、コトバンク ブリタニカ国際大百科事典によると「第49代の天皇 (在位 770~781) 。名は白壁。施基親王 (春日宮天皇) の王子、天智天皇の孫」とある。

(注)施基は、万葉集では「志貴」と書かれている。

「即位し、宝亀改元。ここに皇位は天武系より天智の系統に移った。(中略)天皇道鏡を下野に流し,和気清麻呂らを召還した。不必要な令外官を停廃し,軍団と兵士の制を縮小するなど財政の緊縮に努め,綱紀の振粛を目的とし,奈良時代の政教の腐敗を改めることに努力した。(中略)陵墓は奈良市日笠町の田原東陵。」

 

  

 平成三十一年三月二十日、田原西陵や春日野町奈良県ヘリポート近くの志貴皇子の歌碑を訪ねた時、田原東陵はパスした。

 本日、思い立って、プチぶらりドライブで田原東陵と大和神社近くの山辺の道、萱生集落北入口近くの万葉歌碑(巻七 一〇八八)に行ってきたのである。

 こちらの歌碑も前回大和神社周辺の歌碑を巡った時、場所がわからず諦めたのであったが、いろいろと検索している時に偶然見つけたのである。ストリートビューでも確認できたのであった。

 

 県道80号(奈良名張線)の山道をくねくねと走り続ける。田原西陵前を通過、西陵から東へ4kmほどのところにあった。

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東陵への参道

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光仁天皇田原東陵 説明板

 前には田んぼが広がり、拝所まで一本の参道が異空間へのアクセスロードのようになっている。

 

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田原東陵遠望

 次の目的地、萱生集落北入口近くの万葉歌碑に向かう。ちょっとした峠越えである。細い薄暗い山道を慎重に走り、名阪道に入る。天理東ICから天理市を南へ。石上神社の前を通り目的地へ。

 歌碑近くのスペースに車を停める。

 

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山辺の道・萱生集落北入口近くの万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

 

 歌をみてみよう。

 

◆足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡

                 (柿本人麻呂歌集 巻七 一〇八八)

 

≪書き下し≫あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳にい雲立ちわたる

 

(訳)山川(やまがわ)の瀬音(せおと)が高鳴るとともに、弓月が岳に雲が立ちわたる。

(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)なへ 接続助詞 《接続》活用語の連体形に付く。:〔事柄の並行した存在・進行〕…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。 ※上代語。中古にも和歌に用例があるが、上代語の名残である。(学研)

 

 

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「波多子塚古墳」解説案内板

 スペースには、「波多子塚古墳」の案内板が建っている。四世紀前葉ころの古墳とある。山の辺の道であるから小高くなっており、そこから大和盆地が遠望できる。

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二上山遠望

 すぐ近くに「舟渡地蔵」が祀られているのでこちらもよってみた。こちらからは遠く二上山も遠望できた。

 

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「舟渡地蔵」

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「舟渡地蔵」説明案内板

「舟渡地蔵」の説明案内板には、「むかし萱生と竹之内両村で池堀りをしていたところ一枚の石に刻まれた二体のお地蔵さんが出てきました。

お寺へ移そうとしたら運ぶ人たちの足腰に痛みがおこり、さあ大変。

お地蔵さんのたたりかと思われましたが見晴らしの良いこの場所で丁重にお祀りし供養をすると、まあ不思議。痛みはすっかり治りました。

今も腰から下の病気にはこのお地蔵さんのご利益が受けられるとき。

「天理の昔ばなし」より・・・

地元では「ぽっくり地蔵」とも呼ばれ信仰を集めています。」と書かれている。

 

 

プチぶらりドライブの終わりは、天理IC近くのNピーナッツで、どっさり豆菓子を仕入れて帰ったのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典」

★「大和神社HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1090)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(50)―万葉集 巻七 一一五六

●歌は、「住吉の遠里小野の真榛もち摺れる衣の盛り過ぎゆく」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(50)万葉歌碑<ぷれーと>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(50)にある。


 

●歌をみていこう。

 

◆住吉之 遠里小野之 真榛以 須礼流衣乃 盛過去

               (作者未詳 巻七 一一五六)

 

≪書き下し≫住吉(すみのえ)の遠里小野(とほさとをの)の真榛(まはり)もち摺(す)れる衣(ころも)の盛(さか)り過ぎゆく

 

(訳)住吉の遠里小野の榛(はんのき)で摺染(すりぞ)めにした衣、その衣の色がしだいに褪(あ)せてゆく。ああ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)遠里小野:書き下しでは、「とほりをの」となっているが、大阪市住吉区には「遠里小野」という地名があり、「おりおの」と読む。

(注)ま-【真】接頭語:〔名詞・動詞・形容詞・形容動詞・副詞などに付いて〕①完全・真実・正確・純粋などの意を表す。「ま盛り」「ま幸(さき)く」「まさやか」「ま白し」。②りっぱである、美しい、などの意を表す。「ま木」「ま玉」「ま弓」(学研)

 

 万葉集には「榛(はんのき)」を詠んだ歌は十三首収録されている。この歌を含めすべてをブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その794-3)」で紹介している。

 ➡ 

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春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『はり(榛)』は幹が直立し、高木では20メートル程にもなる水田近くの湿地などを好む落葉高木の『ハンノキ』にことである。(中略)実と樹皮は多量のタンニンを含み、染料に用いられた。

 ハリを詠んだ万葉集歌中の十四首の内、八首が『摺り染め(スリゾメ)』を詠ったもので大切にされた木である。

 『摺り染め(スリゾメ)』は今では友禅(ユウゼン)の『型摺り染め(カタスリゾメ)』が有名だが、上代の『摺り染め(スリゾメ)』の方法は、型などは使用せず、葉や花を直接布に摺り付けて染めた物で、いわば『移染(ウツシゾメ)』の一種であったようだ。」と書かれている。

 

 

万葉集で詠われた「染め」、「色」、「顔料」などに関した歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その952)」で紹介している。

 

➡ 

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 7月3日、朝方まで雨が降っていたが、予報では午前中は曇り予報に変わっている。西大寺のデパートへの買い物ついでに平城宮跡ぶらり歩きをした。

 インスタグラムの投稿で復元整備工事の側面シートが撤去され、鉄骨の間から復元された「第一次大極殿院 南門」の姿が見られるとあったので、みてみたいと思ったからである。

 折り畳みの傘をバッグに入れ、買い物組と別れて平城宮跡へ。

 

 平城宮跡資料館前から大極殿方面に。右手前方に鉄骨で被われた南門が見えてくる。はやる心をおさえ、天雲の立ちこめた大極殿をカメラに収める。

 

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雨雲の大極殿

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鉄骨を通して見える南門

 聖武天皇「彷徨の五年」のなかで、恭仁京に建てられた大極殿は、ここ平城京から移築したのである。多分木津川の水路を利用したと考られるが、奈良万葉の時代のパワーに改めて感慨深く大極殿を見つめた。

 恭仁京大極殿址についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その182)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 工事現場には意外と近くまで行けるので、鉄骨に囲われているとはいえ、それなりの姿をカメラに収めることができた。

 

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姿を見せた南門

 

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鉄骨のなかの南門


 

 平城宮跡から、若草山三笠山)、春日山高円山をじっくり見てみた。

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若草山三笠山)、春日山高円山遠望

三笠山写真の右端の山の中腹にえぐれた感じの所が見えるが、あれが奈良大文字送り火の大文字火床である。

 

 奈良奥山ドライブウェイ(高円コース)頂上展望所には、家持の歌碑がある。

歌をみていこう。

 

◆多可麻刀能 秋野乃宇倍能 安佐疑里尓 都麻欲夫乎之可 伊泥多都良牟可

                (大伴家持 巻二十 四三一九)

 

≪書き下し≫高円の秋野の上(うへ)の朝霧(あさぎり)に妻呼ぶを鹿(しか)出で立つらむか

 

(訳)高円の秋の野面に立ちこめる朝霧、その霧の中に、今頃は妻呼ぶ牡鹿が立ち現われていることであろうか。(「万葉集 四」伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 四三一五から四三二〇歌の左注は、「右歌六首兵部少輔大伴宿祢家持獨憶秋野聊述拙懐作之」<右の歌六首は、兵部少輔(ひゃうぶのせうふ)大伴宿禰家持、独り秋野を憶(おも)ひて、いささかに拙懐(せつくわい)を述べて作る>である。

 

 此の六首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その37改)」で紹介している。

(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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 奈良市観光協会HPによると、コロナ禍ではあるが、今年も送り火の点火は行われるようである。次のように書かれている。「毎年恒例の『奈良大文字送り火』が春日大社境内 飛火野(慰霊祭・演奏会会場)、高円山(点火場所)で執り行われます。奈良大文字送り火は、戦没者慰霊を目的として1960年(昭和35年)に開始。現在は災害などで亡くなった方々も含めて慰霊を行うとともに、世界平和を祈る行事として毎年8月15日に催されています。

春日大社境内の飛火野では18:50より、春日大社の神官による神式慰霊祭が行われ、引き続き寺院約30ヶ寺の僧侶による仏式慰霊祭が執り行われます。「大」の文字の点火は20:00。平城宮跡奈良公園の浮見堂など、奈良市内の様々な場所からも見ることができます。※新型コロナウイルス感染拡大防止に伴い、内容が変更される場合があります。」

 

 宮跡外周路を歩いていると道端に「くそかずら」の花を見つけた。くそかずらについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1100)」で紹介する予定である。

 

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「くそかずら」の花

 万葉歌を頭に浮かべながらゆかりの地をプチぶらりするのもなかなかのものである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「奈良市観光協会HP」