万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1089)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(49)―万葉集 巻七 一三五九

●歌は、「向つ峰の若桂の木下枝取り花待つい間に嘆きつるかも」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(49)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(49)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆向岳之 若楓木 下枝取 花待伊間尓 嘆鶴鴨

               (作者未詳 巻七 一三五九)

 

≪書き下し≫向つ峰(むかつを)の若楓(わかかつら)の木下枝(しづえ)とり花待つい間に嘆きつるかも 

 

(訳)向かいの高みの若桂の木、その下枝を払って花の咲くのを待っている間にも、待ち遠しさに思わず溜息がでてしまう。((伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)むかつを【向かつ峰・向かつ丘】名詞:向かいの丘・山。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)上二句(向岳之 若楓木)は、少女の譬え

(注)下枝(しづえ)とり:下枝を払う。何かと世話をする意。

(注)花待つい間:成長するのを待っている間

 

万葉集には、桂を詠んだ歌は三首収録されている。実際の桂を詠ったのは、一三五九歌であり、次の二首は想像上の月の桂を詠っているのである。こちらもみてみよう。

 

 

◆目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責

               (湯原王 巻四 六三二)

 

≪書き下し≫目には見て手には取らえぬ月の内の桂(かつら)のごとき妹(いも)をいかにせむ    

 

(訳)目には見えても手には取らえられない月の内の桂の木のように、手を取って引き寄せることのできないあなた、ああどうしたらよかろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)月の内の桂(かつら):月に桂の巨木があるという中国の俗信

 

 

◆黄葉為 時尓成 月人 楓枝乃 色付見者

                (作者未詳 巻十 二二〇二)

 

≪書き下し≫黄葉(もみち)する時になるらし月人(つきひと)の桂(かつら)の枝(えだ)の色づく見れば 

 

(訳)木の葉の色づく時節になったらしい。お月さまの中の桂の枝が色付いてきたところを見ると。((伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)つきひと【月人】名詞:月。▽月を擬人化していう語。(学研)

  

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板には、「・・・詠まれている桂の木は想像上の植物で月の世界にあるという中国の伝説上の木で。高さ百丈(約300m)を越える得体の知れない巨樹、それが美しく黄葉するので秋の月は澄み渡るという・・・。」と書かれている。

 

 桂が詠われている三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その465)」でも紹介している。

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 月にある桂の木で作った楫で月の舟を漕ぐ若者を詠った歌もある。こちらもみてみよう。

        

◆天海 月船浮 桂楫 懸而滂所見 月人壮子

                 (作者未詳 巻十 二二二三)

 

≪書き下し≫天(あめ)の海に月の舟浮(う)け桂楫(かつらかじ)懸(か)けて漕(こ)ぐ見(み)ゆ月人壮士(つきひとをとこ)

 

(訳)天(あめ)の海に月の舟を浮かべ、桂の楫(かじ)を取り付けて漕いでいる。月の若者が。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かつらかじ〔‐かぢ〕【桂楫】:月にあるという桂の木で作った櫂(かい)。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 (注)つきひとをとこ【月人男・月人壮士】名詞:月。お月様。▽月を擬人化し、若い男に見立てていう語。(学研)

 

 月人壮士を詠った歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1024)」で紹介している。

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「かつら」奈良市神功万葉の小径で撮影

 

 コロナ禍であるので、万葉歌碑を訪ねて遠出することがかなわないので、関連する史跡などを買いものなどで外出したついでに、意識的に見てこようと思う。

 

 6月30日は、奈良鴻池グランド近くのFコーヒーのパンを買いにいった帰りに元正天皇陵に行ってきた。

 

なぶんけんブログ「(91)恭仁京遷都と平城京遷都」(奈良文化財研究所HP)によると、「740年、聖武天皇平城宮を離れ、恭仁宮(京都府木津川市)に遷都しました。しかし、恭仁京の完成を待たず744年には難波宮大阪市)、翌745年には紫香楽宮滋賀県甲賀市)に都を移しました。有名な大仏建立の詔は紫香楽宮で出され、建立が始まります。ところが同年には都を再び平城宮に戻します。これを「平城還都」とよんでいます。

 なぜこのように頻繁な遷都が繰り返されたのでしょう? 理由はよくわかっていません。

 740年に九州で起こった戦乱(藤原広嗣の乱)がきっかけとなったとする説が有力です。また、当時、聖武天皇の周辺には伯母の元正太上天皇橘氏のグループ、妻の光明皇后を中心とする藤原氏の二つの有力勢力が存在していました。恭仁宮のある山城国橘氏の拠点であり、紫香楽宮のある近江国藤原氏の地盤です。このように、天皇を取り巻く有力氏族の力関係が遷都に強く影響したとする説もあります。」と書かれている。

 この五年は、「彷徨の五年」と呼ばれている。

 

 田辺福麻呂が「寧楽の故郷を悲しびて作る歌一首 幷(あは)せて短歌」(一〇四七歌ならびに一〇四八、一〇四九歌)を詠っているが、伊藤 博氏は、その著 「万葉集 二」(角川ソフィア文庫)のこの歌の脚注で、「天平十三年(741年)七月十日、元正天皇が新都久邇に移る折りの詠か。」と書かれている。

  

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その83改)」で紹介している。

 

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 元正天皇は、母である元明天皇から、皇太子首(おびと:後の聖武天皇)が幼少の為、譲位された二代に渡る女帝である。日本書紀の完成、養老律令の監修、三世一身法を発布など律令体制の強化を図った。陵墓は奈良市奈良坂町の奈保山西陵である。

 

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元正天皇 奈保山西陵

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元正天皇 奈保山西陵元正天皇案内板

 

元正天皇の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて953)で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「なぶんけんブログ<(91)恭仁京遷都と平城京遷都>」 (奈良文化財研究所HP)

万葉歌碑を訪ねて(その1088)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(48)―万葉集 巻七 一一三三

●歌は、「すめろきの神の宮人ところづらいやとこしくに我れかへり見む」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(48)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(48)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆皇祖神之 神宮人 冬薯蕷葛 弥常敷尓 吾反将見

             (作者未詳 巻七 一一三三)

 

≪書き下し≫すめろきの神の宮人(みやひと)ところづらいやとこしくに我(わ)れかへり見む

 

(訳)代々の大君に仕えてきた大宮人たち、その大宮人たちと同じように、われらもいついつまでもやってきて、この吉野を見よう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ところずら〔‐づら〕【野老葛】[枕]① 同音の繰り返しで「常(とこ)しく」にかかる。② 芋を掘るとき、つるをたどるところから、「尋(と)め行く」にかかる。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

 

 一一三〇から一一三四歌の題詞は「吉野作」である。この五首すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その343)」で紹介している。

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 「ところづら」を詠んだ歌(こちらも枕詞として使われている)がもう一首あるのでみてみよう。

 

高橋虫麻呂の「見菟原處女墓歌一首幷短歌」<菟原娘子(うなひをとめ)が墓を見る歌一首 幷せて短歌>」である。

 

◆葦屋之 菟名負處女之 八年兒之 片生之時従 小放尓 髪多久麻弖尓 並居 家尓毛不所見 虚木綿乃 牢而座在者 見而師香跡 悒憤時之 垣廬成 人之誂時 智弩壮士 宇奈比壮士乃 廬八燎 須酒師競 相結婚 為家類時者 焼大刀乃 手頴押祢利 白檀弓 靫取負而 入水 火尓毛将入跡 立向 競時尓 吾妹子之 母尓語久 倭文手纒 賎吾之故 大夫之 荒争見者 雖生 應合有哉 宍串呂 黄泉尓将待跡 隠沼乃 下延置而 打歎 妹之去者 血沼壮士 其夜夢見 取次寸 追去祁礼婆 後有 菟原壮士伊 仰天 ▼於良妣 ▽地 牙喫建怒而 如己男尓 負而者不有跡 懸佩之 小劔取佩 冬尉蕷都良 尋去祁礼婆 親族共 射歸集 永代尓 標将為跡 遐代尓 語将継常 處女墓 中尓造置 壮士墓 此方彼方二 造置有 故縁聞而 雖不知 新喪之如毛 哭泣鶴鴨  

                  (高橋虫麻呂 巻九 一八〇九)

  •  ▼は「口へん+リ」=さけび
  •  ▽は「足へん+昆」=ふむ

 

≪書き下し≫葦屋(あしのや)の 菟原娘子の 八年子(やとせご)の 片(かた)生(お)ひの時ゆ 小放(をばな)り 髪たくまでに 並び居(を)る 家にも見えず 虚木綿(うつゆふ)の 隠(こも)りて居(を)せば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問(と)ふ時 茅渟(ちぬ)壮士(をとこ) 菟原(うなひ)壮士(をとこ)の 伏屋(ふせや)焚(た)き すすし競(きほ)ひ 相(あひ)よばひ しける時は 焼太刀(やきたち)の 手(た)かみ押(お)しねり 白真弓(しらまゆみ) 靫(ゆき)取り負(お)ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向(むか)ひ 競(きほ)ひし時に 我妹子(わぎもこ)が 母に語らくしつたまき いやしき我(わ)がゆゑ ますらをの 争(あらそ)ふ見れば 生(い)けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉(よみ)に待たむと 隠(こも)り沼(ぬ)の 下延(したは)へ置きて うち嘆き 妹が去(い)ぬれば 茅渟(ちぬ)壮士(をとこ) その夜(よ)夢(いめ)見 とり続(つつ)き 追ひ行きければ 後(おく)れたる 菟原(うなひ)壮士(をとこ)い 天(あめ)仰(あふ)ぎ 叫びおらび 地(つち)を踏(ふ)み きかみたけびて もころ男(を)に 負けてはあらじと 懸(か)け佩(は)きの 小太刀(をだち)取り佩(は)き ところづら 尋(と)め行きければ 親族(うから)どち い行き集(つど)ひ 長き代(よ)に 標(しるし)にせむと 遠き代に 語り継(つ)がむと 娘子墓(をとめはか) 中(なか)に造り置き 壮士墓(をとこはか) このもかのもに 造り置ける 故縁(ゆゑよし)聞きて 知らねども 新喪(にひも)のごとも 哭(ね)泣きつるかも

 

(訳)葦屋の菟原娘子(うないおとめ)が、八つばかりのまだ幼い時分から、振り分け髪を櫛上(くしあ)げて束ねる年頃まで、隣近所の人にさえ姿を見せず、家(うち)にこもりっきりでいたので、一目見たいとやきもきして、まるで垣根のように取り囲んで男たちが妻どいした時、中でも茅渟壮士(ちぬおとこ)と菟原壮士(うないおとこ)とが、最後までわれこそはとはやりにはやって互いに負けじと妻どいに来たが、その時には、焼き鍛えた太刀(たち)の柄(つか)を握りしめ、白木の弓や靫(ゆき)を背負って、娘子のためなら水の中火の中も辞せずと必死に争ったものだが、その時に、いとしいその子が母にうち明けたことには、「物の数でもない私のようなもののために、立派な男(お)の子が張り合っているのを見ると、たとえ生きていたとしても添い遂げられるはずはありません。いっそ黄泉の国でお待ちしましょう」と、本心を心の底に秘めたまま、嘆きながらこの子が行ってしまったところ、茅渟壮士はその夜夢に見、すぐさまあとを追って行ってしまったので、後れをとった菟原壮士は、天を仰いで叫びわめき、地団駄踏んで歯ぎしりし、あんな奴に負けてなるかと、肩掛けの太刀を身に着け、あの世まで追いかけて行ってしまった。それで、この人たちは身内の者が寄り集まって、行く末かけての記念にしようと、遠いのちの世まで語り継いでゆこうと、娘子の墓を真ん中に造り、壮士の墓を左と右に造って残したというその謂(い)われを聞いて、遠い世のゆかりもな人のことではあるが、今亡くなった身内の喪のように、大声をあげて泣いてしまった。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かたおひ【片生ひ】名詞:まだ十分に成長していないこと。また、その年ごろ。 ※「かた」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)はなり【放り】:少女の、振り分けに垂らしたまま束ねない髪。また、その髪形の少女。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)たく【綰く】他動詞:髪をかき上げて束ねる。(学研)

(注)うつゆふの【虚木綿の】「こもり」、「真狭(まさき)」、「まさき国」、「こもる」にかかる枕詞(weblio辞書 Wiktionary日本語版)

(注)てしか 終助詞:《接続》活用語の連用形に付く。〔自己の願望〕…したらいいなあ。…(し)たいものだ。 ※上代語。完了の助動詞「つ」の連用形に願望の終助詞「しか」が付いて一語化したもの。中古以降「てしが」。(学研)

(注の補)いぶせし 形容詞:①気が晴れない。うっとうしい。②気がかりである。③不快だ。気づまりだ。 ⇒ 参考 「いぶせし」と「いぶかし」の違い 「いぶせし」は、どうしようもなくて気が晴れない。「いぶかし」はようすがわからないので明らかにしたいという気持ちが強い。(学研)

(注)かきほ【垣穂】名詞:垣。垣根。(学研)

(注)ふせやたき【伏せ屋焚き】:「すすし」にかかる枕詞。(weblio辞書 Wiktionary日本語版)

(注)すすしきほふ【すすし競ふ】自動詞:進んでせり合う。勇んで争う。(学研)

(注)手かみ押しねり:柄頭を押しひねり

(注)ゆき【靫・靱】名詞:武具の一種。細長い箱型をした、矢を携行する道具で、中に矢を差し入れて背負う。 ※中世以降は「ゆぎ」。(学研)

(注)しづたまき【倭文手纏】分類枕詞:「倭文(しづ)」で作った腕輪の意味で、粗末なものとされたところから「数にもあらぬ」「賤(いや)しき」にかかる。 ※上代は「しつたまき」。(学研)

(注)ししくしろ【肉串ろ】:「熟睡(うまい)」、「黄泉(よみ)」にかかる枕詞。(weblio辞書 Wiktionary日本語版)

(注)こもりぬの【隠り沼の】分類枕詞:「隠(こも)り沼(ぬ)」は茂った草の下にあって見えないことから、「下(した)」にかかる。(学研)

(注)したばふ【下延ふ】自動詞:ひそかに恋い慕う。「したはふ」とも。(学研)

(注)菟原壮士いの「い」間投助詞:《接続》体言や活用語の連体形に付く。〔強調〕…こそ。とくにその。 ※上代語。 ⇒  参考主語の下に付く「い」を格助詞、副助詞「し」・係助詞「は」の上に付く「い」を副助詞とする説がある。(学研)

(注)きかみたけぶ:歯ぎしりしいきり立って

(注)もこ【婿】: 相手。仲間。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)ところずら〔‐づら〕【野老葛】【一】[名]トコロの古名。【二】[枕]:① 同音の繰り返しで「常(とこ)しく」にかかる。② 芋を掘るとき、つるをたどるところから、「尋(と)め行く」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)このもかのも【此の面彼の面】分類連語:①こちら側とあちら側。②あちらこちら。そこここ。(学研)

 

 田辺福麻呂の菟原娘子(うなひをとめ)伝説歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その562)」で紹介している。

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 大伴家持の菟原娘子(うなひをとめ)伝説歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その947)」で紹介している。

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 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『野老(トコロ)』は蔓性の雌雄異株の山野に生える多年草で別名『鬼野老(オニドコロ)』のこととも言われ『山の芋』にも似ている。老人にはヒゲがあり、海老(エビ)にもヒゲがある。トコロにもヒゲ根があるので海の老(エビ)に対し『野にある老』と書いて『トコロ』と読む。(後略)」と書かれている。

 埼玉県に「所沢」という地名があるが、元々は「野老澤」と書いていたという。

 

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「狭山丘陵いきものふれあいの里センター」HPより引用。させていただきました  

 

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所沢市の市標(所沢市HPより引用させていただきました)


所沢市のHPに、「市章は、所沢の地名の由来の一つともいわれているヤマノイモ科の多年生つる草の「野老(ところ)」の葉を図案化したものです。まわりはカタカナのワを3つあわせたもので、「和」をモットーにした市づくりを表しています。市旗として使う場合、旗の地色は白、市章部分は緑の染め抜きとされています。」と書かれている。

 

  

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 Wiktionary日本語版」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「所沢市HP」

★「狭山丘陵いきものふれあいの里センターHP」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1087)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(47)―万葉集 巻十六 三八八六

●歌は、「・・・あしひきの この片山の もむ楡を 五百枝 剥き垂れ 天照るや 日の異に干し 」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(47)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)


 

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(47)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆忍照八 難波乃小江尓 廬作 難麻理弖居 葦河尓乎 王召跡 何為牟尓 吾乎召良米夜 明久 若知事乎 歌人跡 和乎召良米夜 笛吹跡 和乎召良米夜 琴引跡 和乎召良米夜 彼此毛 命受牟跡 今日ゝゝ跡 飛鳥尓到 雖置 ゝ勿尓到 雖不策 都久怒尓到   東 中門由 参納来弖 命受例婆 馬尓己曽 布毛太志可久物 牛尓己曽 鼻縄波久例 足引乃 此片山乃 毛武尓礼乎 五百枝波伎垂 天光夜 日乃異尓干 佐比豆留夜 辛碓尓舂 庭立 手碓子尓舂 忍光八 難波乃小江乃 始垂乎 辛久垂来弖 陶人乃 所作▼乎 今日徃 明日取持来 吾目良尓 塩柒給 腊賞毛 腊賞毛

              (乞食者の詠 巻十六 三八八六)

         ▼は、「瓦+缶」で「かめ)である。

 

≪書き下し≫おしてるや 難波(なにわ)の小江(をえ)に 廬(いほ)作り 隠(なま)りて居(を)る 葦蟹(あしがに)を 大君召すと 何せむに 我(わ)を召すらめや 明(あきら)けく 我が知ることを 歌人(うたひと)と 我(わ)を召すらめや 笛吹(ふえふ)きと 我を召すらめや 琴弾(ことひき)きと 我を召すらめや かもかくも 命(みこと)受(う)けむと 今日今日と 飛鳥(あすか)に至り 立つれども 置勿(おくな)に至り つかねども 都久野(つくの)に至り 東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ 参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば 馬にこそ ふもだし懸(か)くもの 牛にこそ 鼻(はな)縄(づな)はくれ あしひきの この片山の もむ楡(にれ)を 五百枝(いほえ)剥(は)き垂(た)れ 天照るや 日の異(け)に干(ほ)し さひづるや 韓臼(からうす)に搗(つ)き 庭に立つ 手臼(てうす)に搗き おしてるや 難波の小江(をえ)の 初垂(はつたり)を からく垂り来て 陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を 今日(けふ)行きて 明日(あす)取り持ち来(き) 我が目らに 塩(しほ)塗(ぬ)りたまひ 腊(きた)ひはやすも 腊ひはやすも

 

(訳)おしてるや難波(なにわ)入江(いりえ)の葦原に、廬(いおり)を作って潜んでいる、この葦蟹めをば大君がお召しとのこと、どうして私なんかをお召しになるのか、そんなはずはないと私にははっきりわかっていることなんだけど・・・、ひょっとして、歌人(うたひと)にとお召しになるものか、笛吹きにとお召しになるものか、琴弾きにお召しになるものか、そのどれでもなかろうが、でもまあ、お召しは受けようと、今日か明日かの飛鳥に着き、立てても横には置くなの置勿(おくな)に辿(たど)り着き、杖(つえ)をつかねど辿りつくの津久野(つくの)にやって来、さて東の中の御門から参上して仰せを承ると、何と、馬になら絆(ほだし)を懸けて当たり前、牛なら鼻綱(はなづな)つけて当たり前、なのに蟹の私を紐で縛りつけたからに、傍(そば)の端山(はやま)の楡(にれ)の皮を五百枚も剥いで吊(つる)し、日増しにこってりお天道(てんと)様で干し上げ、韓渡りの臼で荒搗(づ)きし、庭の手臼(てうす)で粉々の搗き、片や、事もあろうに、我が故郷(ふるさと)難波入江の塩の初垂(はつた)り、その辛い辛いやつを溜めて来て、陶部(すえべ)の人が焼いた瓶を、今日一走(ひとつばし)りして明日には早くも持ち帰り、そいつに入れた辛塩を私の目にまで塗りこんで下さって、乾物に仕上げて舌鼓なさるよ、舌鼓なさるよ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)おしてるや【押し照るや】分類枕詞:地名「難波(なには)」にかかる。かかる理由未詳。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かもかくも 副詞:ああもこうも。どのようにも。とにもかくにも。(学研)

(注)ふもだし【絆】名詞:馬をつないでおくための綱。ほだし。(学研)

(注)さいずるや〔さひづる‐〕【囀るや】[枕]:外国の言葉は聞き取りにくく、鳥がさえずるように聞こえるところから、外国の意味の「唐(から)」、または、それと同音の「から」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)はつたり【初垂り】:製塩のとき最初に垂れた塩の汁。一説に、塩を焼く直前の濃い塩水。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)すえひと〔すゑ‐〕【陶人】:陶工。すえつくり。(weblio辞書 デジタル大辞泉) 堺市南部にいた須恵器の工人。

(注)腊(読み方 キタイ):まるごと干した肉。(weblio辞書 歴史民俗用語辞典)

 

 

 題詞は、「乞食者詠二首」<乞食者(ほかひひと)が詠(うた)ふ歌二首>である。

 

左注は、「右歌一首為蟹述痛作之也」<右の歌一首は、蟹(かに)のために痛みを述べて作る>である。

 

題詞にあるもう一首(三八八五歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その305)」に紹介している。

 ➡ 

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 万葉集巻十六の巻頭には「有由縁幷雑歌」とあるが、万葉集目録は「有由縁雑歌」<有由縁(ゆゑよし)ある雑歌(ざうか)>とある。前者の場合は、「有由縁幷せて雑歌」あるいは、「有由縁、雑歌を幷せたり」と、読まれ、「由縁」ある歌と雑歌を収録しているという標示と考えられる。後者の場合は、全体が、由縁有る雑歌を意味する。いずれにしても、他の巻と比べても特異な位置づけにあることがわかる。

 

 神野志隆光氏は、その著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」(東京大学出版会)の中で、巻十六についていくつかのグループに分けることができると書いておられる。

 

 Aグループ:題詞が他の巻と異なり物語的な内容をもつ歌物語の類(三七八六~三八〇五歌)

 Bグル―プ:同じく歌物語的ではあるが、左注が物語的に述べる類(三八〇六~三八一五歌)

 Ⅽグループ:いろいろな物を詠みこむように題を与えられたのに応じた類(三八二四~三八三四歌、三八五五~三八五六歌)

 Dグループ:「嗤う歌」という題詞をもつ類(三八四〇~三八四七歌、三八五三~三八五四歌)

 Eグループ:国名を題詞に掲げる歌の類(三八七六~三八八四歌)

 

 このグループに属さない歌は文字通り「有由縁(ゆゑよし)ある雑歌(ざうか)」である。

 仮に「その他グループ」としておこう。

歌碑(プレート)の三八八六歌などがこれに属する。

 

 

 Aグループから順に、これまで見て来た代表的な歌碑をとりあげてみよう。

 

■Aグループ

◆春去者 挿頭尓将為跡 我念之 櫻花者 散去流香聞 其一

                  (作者未詳    巻十六 三七八六)

 

≪書き下し≫春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散り行けるかも その一

 

(訳)春がめぐってきたら、その時こそ挿頭(かざし)にしようと私が心に思い込んでいた桜の花、その花ははや散って行ってしまったのだ、ああ。 その一 (同上)

(注)挿頭にせむ:髪飾りにしようと。妻にすることの譬え。

 

この歌は巻十六の巻頭歌である。

この歌ならびに、その二(三七八七歌)および歌の由縁となった物語についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その134改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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■Bグループ

◆事之有者 小泊瀬山乃 石城尓母 隠者共尓 莫思吾背

                 (作者未詳 巻十六 三八〇六)

 

≪書き下し≫事しあらば小泊瀬山(をばつせやま)の石城(いはき)にも隠(こも)らばともにな思ひそ我(わ)が背

 

(訳)私たちの仲に邪魔が入ろうものなら、恐ろしい小泊瀬(おばつせ)山の岸壁に閉じ籠るなら閉じ籠るでずっと一緒にいます。くよくよしないで。あなた。(同上)

(注)事:男女間の障害。

(注)小泊瀬:「泊瀬」は葬地として知られていた。「小」は接頭語。

(注)いはき【岩城/石城】① 岩で囲まれた、石のとりでのような所。岩窟(がんくつ) ② 棺を納める石室。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは①の意

 

左注は、「右傳云 時有女子 不知父母竊接壮士也 壮士悚惕其親呵嘖稍有猶預之意 因此娘子裁作斯歌贈與其夫也」<右は、伝へて云(い)はく、『あるとき、女子(をみなご)あり。父母(おや)に知らせず、竊(ひそ)かに壮士(をとこ)に接(まじは)る。壮士、その親の呵嘖(ころ)はむことを悚惕(おそ)りて、やくやくに猶予(たゆた)ふ意(こころ)あり。これによりて、娘子、この歌を裁作(つく)りて、その夫(つま)に贈り与ふ』といふ>である。

(注)かしゃく【呵責/呵嘖】[名](スル)厳しくとがめてしかること。責めさいなむこと。かせき。(コトバンク デジタル大辞泉

(注の注)悚惕    しょうてき :恐怖で震えること。恐れおののくこと。(辞典オンライン 国語辞典)

(注)やくやく:次第に、段々と。

(注)たゆたふ【揺蕩ふ・猶予ふ】自動詞:①定まる所なく揺れ動く。②ためらう。(学研)ここでは②の意

 

Aグループでは、由縁となった物語が題詞的に配置されていたが、Bグループでは、物語が左注に配置されている。

 

■Cグループ

◆刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 檜橋従来許武 狐尓安牟佐武

                  (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二四)

 

≪書き下し≫さし鍋(なべ)に湯沸(わ)かせ子ども櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より来(こ)む狐(きつね)に浴(あ)むさむ

 

(訳)さし鍋の中に湯を沸かせよ、ご一同。櫟津(いちいつ)の檜橋(ひばし)を渡って、コムコムとやって来る狐に浴びせてやるのだ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)さしなべ【銚子】:注ぎ口のある鍋。さすなべ。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ):持統・文武朝の歌人。物名歌の名人。

 

 題詞は、「長忌寸意吉麻呂歌八首」とある。

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて53改」」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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「長忌寸意吉麻呂歌八首」すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その380)」で紹介している。

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■Dグループ

◆寺ゝ之 女餓鬼申久 大神之 男餓鬼被給而 其子将播

                 (池田朝臣 巻十六 三八四〇)

 

≪書き下し≫寺々(てらでら)の女餓鬼(めがき)申(まを)さく大神(おほみわ)の男餓鬼(をがき)賜(たば)りてその子産(う)ませはむ

 

(訳)寺々の女餓鬼(めがき)どもが口々に申しとる。大神(おおみわ)の男餓鬼(おがき)をお下げ渡しいただき、そいつの子を産み散らしたとな。(同上)

(注)まをさく【申さく・白さく】:「まうさく」に同じ。 ※派生語。 ⇒参考「まうさく」の古い形。中古以降「まうさく」に変化した。 ⇒ なりたち動詞「まをす」の未然形+接尾語「く」(学研)

(注の注)まうさく【申さく】:申すことには。▽「言はく」の謙譲語。(学研)

(注)がき【餓鬼】① 《〈梵〉pretaの訳。薜茘多(へいれいた)と音写》生前の悪行のために餓鬼道に落ち、いつも飢えと渇きに苦しむ亡者。② 「餓鬼道」の略。③ 《食物をがつがつ食うところから》子供を卑しんでいう語。「手に負えない餓鬼だ」(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

(注)おほかみ【大神】名詞:大御神(おおみかみ)。神様。▽「神」の尊敬語。 ※「おほ」は接頭語。(学研)

(注)たばる【賜る・給ばる】他動詞:いただく。▽「受く」「もらふ」の謙譲語。 ※謙譲の動詞「たまはる」の変化した語。上代語。(学研)

 

  この歌の題詞は、「池田朝臣嗤大神朝臣奥守歌一首 池田朝臣名忘失也」<池田朝臣(いけだのあそみ)、大神朝臣奥守(おほみわのあそみおきもり)を嗤(わら)ふ歌一首 池田朝臣が名は、忘失せり>である。

 

この歌ならびに三八四一歌、題詞「大神朝臣奥守報嗤歌一首」<大神朝臣奥守が報(こた)へて嗤ふ歌一首>については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その13改)で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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■Eグループ

◆豊國 企玖乃池奈流 菱之宇礼乎 採跡也妹之 御袖所沾計武

(作者未詳 巻十六 三八七六)

 

≪書き下し≫豊国(とよくに)の企救(きく)の池なる菱(ひし)の末(うれ)を摘むとや妹がみ袖濡れけむ

 

(訳)豊国の企救(きく)の池にある菱の実、その実を摘もうとでもして、あの女(ひと)のお袖があんなに濡れたのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)企救(きく):北九州市周防灘沿岸の旧都名。フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』の小倉市の歴史の項に「律令制下では豊前国企救郡(きくぐん)の一地域となる。」とある。

(注)袖濡れえむ:自分への恋の涙で濡れたと思いなしての表現。

 

 題詞は、「豊前國白水郎歌一首」<豊前(とよのみちのくち)の国の白水郎(あま)の歌一首>である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その886)」で紹介している。

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 以上、代表的な歌をみても、巻十六は、特異な巻になっていることが理解できるのである。万葉集を「歌物語」的位置づけで見た場合、特別編とか別冊特集とかに相当するとみてもよいだろう。

 万葉集万葉集たる所以がここにもあるように改めて感じたのである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

万葉歌碑を訪ねて(その1086)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(46)―万葉集 巻二十 四五一二

●歌は、「池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を扱入れな」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(46)万葉歌碑<プレート>(大伴家持


 

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(46)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伊氣美豆尓 可氣佐倍見要氐 佐伎尓保布 安之婢乃波奈乎 蘇弖尓古伎礼奈

               (大伴家持 巻二十 四五一二)

 

≪書き下し≫池水(いけみづ)に影さえ見えて咲きにほふ馬酔木(あしび)の花を袖(そで)に扱(こき)いれな

 

(訳)お池の水の面に影までくっきり映しながら咲きほこっている馬酔木の花、ああ、このかわいい花をしごいて、袖の中にとりこもうではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)こきいる【扱き入る】他動詞:しごいて取る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 天平勝宝九年(757年)七月四日、橘奈良麻呂の変。八月十八日、天平宝字改元

 天平宝字元年(757年)十一月十八日、藤原仲麻呂の権勢をほしいままにした「いざ子どもたはわざなせそ天地の堅めし国ぞ大和島根は(四四八七歌)」の歌が収録されている。

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1011)」で紹介している。

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 ここから、万葉集の終焉に向かって一気に下って行くのである。

 或る意味、だらだらと宴会歌が続くのである。そこには、かつてのような前向きな、明日を夢見る気持ちはなく、かつての親しい仲間を失い、体制の中に捉われ懐古に浸る歌が多い。しかも、歌を準備するも奏上できなかったものも多い。家持のオーラが萎え、進み出て奏上する場の空気もないのであろう。

 順を追って、家持の歌をとりあげてみてみよう。

 

 

題詞は、「十二月十八日於大監物三形王之宅宴歌三首」<十二月の十八日に、大監物(だいけんもつ)三形王(みかたのおほきみ)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

◆安良多末能 等之由伎我敝理 波流多々婆 末豆和我夜度尓 宇具比須波奈家

                  (大伴家持 巻二十 四四九〇)

 

≪書き下し≫あらたまの年行き返(がへ)り春立たばまづ我が宿にうぐひすは鳴け

 

(訳)年が改まって新しい春を迎えたなら、まっ先に、このわれらの庭先で、鴬よ、お前は鳴くのだぞ。(同上)

 

 

題詞は、「廿三日於治部少輔大原今城真人之宅宴歌一首」<二十三日に、治部少輔(ぢぶのせうふ)大原今城真人が宅(いへ)にして宴する歌一首>である。

 

◆都奇餘米婆 伊麻太冬奈里 之可須我尓 霞多奈婢久 波流多知奴等可

                  (大伴家持 巻二十 四四九二)

 

≪書き下し≫月数(よ)めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか

 

(訳)月日を暦で数えてみると、まだ冬だ。とはいうものの、霞があたり一面にたなびいている。やはり季節の春が到来しているということなのか。(同上)

 

 

題詞は、「二年春正月三日召侍従竪子王臣等令侍於内裏之東屋垣下即賜玉箒肆宴 于時内相藤原朝臣奉勅宣 諸王卿等随堪任意作歌并賦詩 仍應 詔旨各陳心緒作歌賦詩  未得諸人之賦詩并作歌也」<二年の春の正月の三日に、侍従、豎子(じゆし)、王臣等(ら)を召し、内裏(うち)の東(ひがし)の屋(や)の垣下(かきもと)に侍(さもら)はしめ、すなわち玉箒(たまばはき)を賜ひて肆宴(しえん)したまふ。時に、内相藤原朝臣、勅(みことのり)を奉じ宣(の)りたまはく、「諸王(しよわう)卿(きやう)等(ら)、堪(かん)のまにま意のまにまに歌を作り、并(あは)せて詩を賦(ふ)せ」とのりたまふ。よりて詔旨(みことのり)に応え、おのもおのも心緒(おもひ)を陳(の)べ、歌を作り詩を賦(ふ)す。  いまだ諸人の賦したる詩、并せて作れる歌を得ず>

(注)二年:天平宝字二年(758年)

(注)じじゅう【侍従】名詞:天皇に近侍し、補佐および雑務に奉仕する官。「中務省(なかつかさしやう)」に所属し、定員八名。そのうち三名は少納言の兼任。のちには数が増える。中国風に「拾遺(しふゐ)」ともいう。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)じゅし【豎子・孺子】①未熟者。青二才。②子供。わらべ。:未冠の少年で宮廷に奉仕する者。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)かきもと【垣下】名詞:宮中や公卿(くぎよう)の家で催される饗宴(きようえん)で、正客の相手として、ともにもてなしを受ける人。また、その人の座る席。相伴(しようばん)をする人。「かいもと」とも。(学研)

(注)たまばはき【玉箒】名詞:①ほうきにする木・草。今の高野箒(こうやぼうき)とも、箒草(ほうきぐさ)ともいう。②正月の初子(はつね)の日に、蚕室(さんしつ)を掃くのに用いた、玉を飾った儀礼用のほうき。(学研)

(注)まにま【随・随意】名詞:他の人の意志や、物事の成り行きに従うこと。まま。※形式名詞と考えられる。連体修飾語を受けて副詞的に用いられる。(学研)

 

 

◆始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎

                (大伴家持 巻二十 四四九三)

 

≪書き下し≫初春(はつはる)の初子(はつね)の今日(けふ)の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺(ゆ)らぐ玉の緒

 

(訳)春先駆けての、この初春の初子の今日の玉箒、ああ手に取るやいなやゆらゆらと音をたてる、この玉の緒よ。(同上)

 

左注は、「右一首右中辨大伴宿祢家持作 但依大蔵政不堪奏之也」<右の一首は、右中弁大伴宿禰家持作る。ただし、大蔵の政(めつりごと)によりて、奏し堪(あ)へず>

 

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて325」で紹介している。

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◆水鳥乃 可毛能羽能伊呂乃 青馬乎 家布美流比等波 可藝利奈之等伊布

                 (大伴家持 巻二十 四四九四)

 

≪書き下し≫水鳥(みづどり)の鴨(かも)の羽色(はいろ)の青馬(あをうま)を今日(けふ)見る人は限りなしといふ

 

(訳)水鳥の鴨の羽のような青、そのめでたい青馬を今日見る人は、命限りもなしと言います。(同上)

(注)みづとりの【水鳥の】分類枕詞:水鳥の代表であることから「鴨(かも)」、および同音の地名「賀茂(かも)」に、また、水鳥の色や生態から「青葉」「立つ」「浮き(憂き)」などにかかる。「みづとりの鴨」(学研)

(注)上二句は序。「青」を起こす。

(注)あをうま【青馬】名詞:①毛色が淡い青色の馬。青みを帯びた灰色の馬。(学研)

 

左注は、「右一首為七日侍宴右中辨大伴宿祢家持預作此歌 但依仁王會事却以六日於内裏召諸王卿等賜酒肆宴給祿 因斯不」<右の一首は、七日の侍宴(じえん)のために、右中弁(うちうべん)大伴宿禰家持、預(あらかじ)めこの歌を作る。ただし、仁王会(にんわうゑ)の事によりて、かへりて六日をもちて内裏に諸王卿等を召して酒を賜ひ、肆宴して禄を給ふ。これによりて奏せず。>である。

(注)七日:正月七日、青馬の節会の日。

(注)仁王経を講じる法会が七日に行われることになったことをいう。

(注)かへりて【却りて】副詞:逆に。あべこべに。かえって。(学研) ここでは「変更して」の意。

 

 

題詞は、「六日内庭假植樹木以作林帷而為肆宴歌」<六日に、内庭にかりに樹木を植ゑて以(も)ちて林帷(りんゐ)と作(な)して、肆宴を為(な)したまふ歌一首>である。

 

◆打奈婢久 波流等毛之流久 宇具比須波 宇恵木之樹間乎 奈枳和多良奈牟

              (大伴家持 巻二十 四四九五)

 

≪書き下し≫うち靡く春ともしるくうぐひすは植木(うゑき)の木間(こま)を鳴き渡らなむ

 

(訳)草木一面に靡く、待ちにまった春がやって来たとはっきりわかるように、鴬よ、この植木の木の間を鳴き渡っておくれ、(同上)

(注)しるし【著し】形容詞:①はっきりわかる。明白である。②〔「…もしるし」の形で〕まさにそのとおりだ。予想どおりだ。(学研)

(注)なむ 終助詞:《接続》活用語の未然形に付く。〔他に対する願望〕…てほしい。…てもらいたい。 ⇒参考 上代には「なむ」と同じ意味で「なも」を用いた。「なん」とも表記される。(学研)

 

左注は、「右一首右中辨大伴宿祢家持 不奏」<右の一首は右中弁大伴宿禰家持 不奏>である。

 

 

題詞は、「二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十首」<二月に式部大輔(しきふのだいふ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろのあそみ)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌十首>である。

 

◆波之伎余之 家布能安路自波 伊蘇麻都能 都祢尓伊麻佐祢 伊麻母美流其等

                  (大伴家持 巻二十 四四九八)

 

≪書き下し≫はしきよし今日(けふ)の主人(あろじ)は礒松(いそまつ)の常にいまさね今も見るごと

 

(訳)慕わしく思う今日の宴の主人(あるじ)は、お庭の磯松のようにいつも変わらずにいて下さいませ。今もこうして拝見しているままに(同上)

(注)磯松:今見ている庭園の池の岸辺の松。「松」に「待つ」を懸け、変わらずに待っていてほしい意をこめる。

 

◆夜知久佐能 波奈波宇都呂布 等伎波奈流 麻都能左要太乎 和礼波牟須婆奈

                  (大伴家持 巻二十 四五〇一)

 

≪書き下し≫八千種(やちくさ)の花はうつろふときはなる松のさ枝(えだ)を我れは結ばな

 

(訳)折々の花はとりどりに美しいけれど、やがて色褪(いろあ)てしまう。われらは、永久(とわ)に変わらぬ、このお庭の松を結んで、主人(あるじ)の弥栄(いやさか)を祈ろう。(同上)

 

◆伎美我伊敝能 伊氣乃之良奈美 伊蘇尓与世 之婆之婆美等母 安加無伎弥加毛

                   (大伴家持 巻二十 四五〇三)

 

≪書き下し>君が家(いへ)の池の白波(しらなみ)礒(いそ)に寄せしばしば見とも飽(あ)かむ君かも

 

(訳)我が君のお庭の池の白波、その白波は今しきりに磯に寄せています、その寄せる波のように重ね重ね何度お見受けしても、見飽きるようなお方ではありません。(同上)

 

 

題詞は、「依興各思高圓離宮處作歌五首」<興に依りて、おのもおのも高円(たかまと)の離宮処(とつみやところ)を思ひて作る歌五首>である。

 

◆多加麻刀能 努乃宇倍能美也波 安礼尓家里 多々志々伎美能 美与等保曽氣婆

                  (大伴家持 巻二十 四五〇六)

 

≪書き下し≫高円(たかまと)の野の上(うへ)の宮は荒れにけり立たしし君の御代(みよ)還(とほ)そけば

 

(訳)高円の野の上の宮はすっかり人気なくなってしまった。ここにお立ちになった大君の御代が、遠のいて行くので。(同上)

 

◆波布久受能 多要受之努波牟 於保吉美乃 賣之思野邊尓波 之米由布倍之母

                (大伴家持 巻二十 四五〇九)

 

≪書き下し≫延ふ葛(くず)の絶えず偲はむ大君の見(め)しし野辺(のへ)には標(しめ)結(ゆ)ふべしも

 

(訳)這い広がる葛のように絶えることなく、お慕いしてゆこう。われらの大君の親しくご覧になったこの野辺には、標縄を張っておくべきだ。(同上)

 

 

歌碑(プレート)歌の題詞は、「属目山斎作歌三首<山斎(しま)を属目(しよくもく)して作る歌三首>である。三首は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(475)」で紹介している。

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題詞は、「二月十日於内相宅餞渤海大使小野田守朝臣等宴歌一首」<二月の十日に、内相(ないしやう)が宅(いへ)にして餞渤海大使(ぼっかいだいし)小野田守朝臣等(をののたもりあそみら)を餞(せん)する宴(うたげ)の歌一首>である。

 

◆阿乎宇奈波良 加是奈美奈妣伎 由久左久佐 都ゝ牟許等奈久 布祢波ゝ夜家無

            (大伴家持 巻二十 四五一四)

 

≪書き下し≫青海原(あをうなはら)風波(かぜなみ)靡(なび)き行(ゆ)くさ来(く)さつつむことなく船は早けむ

 

(訳)青海原、風波(かぜなみ)が静かに凪(な)いで果てもなく広がるその海原では、行も帰りも何のさわりもなく、船はすいすいと進むことでしょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆくさくさ【行くさ来さ】分類連語:行くときと来るとき。往復。 ※「さ」は接尾語。(学研)

(注)つつむ【恙む・障む】自動詞:障害にあう。差し障る。病気になる。(学研)

 

左注は、「右一首右中辨大伴宿祢家持 未誦之」<右の一首は右中弁大伴宿禰家持。 いまだ誦せず>である。

 

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その724)」で紹介している。

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 題詞は、「七月五日於治部少輔大原今城真人宅餞因幡守大伴宿祢家持宴歌一首」<七月の五日に、治部少輔大原今城真人が宅にして、「因幡守(いなはのかみ)大伴宿禰家持を餞する宴の歌一首>である。

 

◆秋風乃 須恵布伎奈婢久 波疑能花 登毛尓加射左受 安比加和可礼牟

      (大伴家持 巻二十 四五一五)

 

≪書き下し≫秋風の末(すゑ)吹き靡く萩(はぎ)の花ともにかざさず相(あひ)か別れむ

 

(訳)秋の風が葉末をそよそよと吹き靡かせる萩の花、その萩の花をともに髪に挿して楽しむこともできないまま、お互い、別れ別れになるのか。ああ。(同上)

(注)相か別れむ:「相別れむか」に同じ。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右一首大伴宿祢家持作之」<右の一首は、大伴宿禰家持作る>である。

 

 

 天平宝字元年(757年)十二月十八日の宴に参加して歌が収録されているのは、三形王、甘南備伊香真人、家持である。二十三日は家持、天平宝字二年(758年)正月三日は、家持であるが、奏し堪(あ)へず、である。続く二首も奏さずである。二月には、中臣清麻呂宅で宴が開かれ、四四九六から四五一三間での歌が収録されている。宴に参加し歌が収録されているのは、中臣清麻呂、市原王、甘南備伊香真人、大原今城真人、三形王と家持である。

 家持の交友関係は、このような政治の主流から外れた王族達であった。

 二月に渤海大使の餞別の宴の歌も詠われていない。

六月に家持は、因幡守に任じられる。かつて家持が赴任した越中守よりは格が低く、藤原仲麻呂による左遷人事であることは明らかであろう。

 

そして、天平宝字三年正月の、

「新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の今日(けふ)降う雪のいやしけ吉事(よごと」(四五一六歌)」で、万葉集は静かに幕を閉じているのである。

 

(このブログはまだまだ続けます!)

 

 

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馬酔木(庭に咲いているピンクの花)

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『馬酔木(アセビ)』は山野に自生する多年生の常緑低木で、本州から九州の乾燥した土地に分布する。アセビ、アセミ、アセボなどと呼ばれるが萬葉名『あしび』には一説に『木瓜(ボケ)』という異説もある。馬酔木は『足しびれ』・『悪し実』から名が付いたといわれ、馬がその葉を食べると酔ったようになる。(後略)」と書かれている。

 植物解説板には植物の名の由来が書かれているのがためになる。

 

万葉集で馬酔木が詠われている歌は十首収録されている。この歌を含めすべて、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その204)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

 

※20240404 四五一五歌追記

万葉歌碑を訪ねて(その1085)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(45)―万葉集 巻二 九四

●歌は、「玉櫛笥みもろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(45)万葉歌碑<プレート>(藤原鎌足

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(45)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆玉匣 将見圓山乃 狭名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之自  或本歌日玉匣三室戸山乃

               (藤原鎌足 巻二 九四)

 

≪書き下し≫玉櫛笥(たまくしげ)みもろの山のさな葛(かづら)さ寝(ね)ずはつひに有りかつましじ  或る本の歌には「たまくしげ三室戸山の」といふ

 

(訳)あんたはそんなにおっしゃるけれど、玉櫛の蓋(ふた)ならぬ実(み)という、みもろの山のさな葛(かずら)、そのさ寝ずは―共寝をしないでなんかいて―よろしいのですか、そんなことをしたらとても生きてはいられないでしょう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)たまくしげ【玉櫛笥・玉匣】名詞:櫛(くし)などの化粧道具を入れる美しい箱。 ※「たま」は接頭語。歌語。

(注)たまくしげ【玉櫛笥・玉匣】分類枕詞:くしげを開けることから「あく」に、くしげにはふたがあることから「二(ふた)」「二上山」「二見」に、ふたをして覆うことから「覆ふ」に、身があることから、「三諸(みもろ)・(みむろ)」「三室戸(みむろと)」に、箱であることから「箱」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 (注)さねかづら【真葛】名詞:つる性の木の名。びなんかずら ※古くは「さなかづら」とも。(学研)

(注)かつましじ 分類連語:…えないだろう。…できそうにない。 ※上代語。 ⇒ なりたち 可能の補助動詞「かつ」の終止形+打消推量の助動詞「ましじ」(学研)

 

 九四歌の題詞は、「内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首」<内大臣藤原卿、鏡王女に報(こた)へ贈る歌一首>である。

 

 鏡王女から藤原鎌足に贈った歌に報(こた)えた歌である、鏡王女の歌(九三歌)もみてみよう。

 

 九三歌の題詞は、「内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首」<内大臣藤原卿(うちのおほまへつきみふぢはらのまへつきみ)、鏡王女を娉(つまど)ふ時に、鏡王女が内大臣に贈る歌一首>である。

(注)つまどふ【妻問ふ】自動詞:「妻問(つまど)ひ」をする。

 

 ◆玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳

               (鏡王女 巻二 九三)

 

≪書き下し≫玉櫛笥(たまくしげ)覆(おほ)ひを易(やす)み明けていなば君が名はあれど我(わ)が名し惜しも

 

(訳)玉櫛笥の覆いではないが、二人の仲を覆い隠すなんてわけないと、夜が明けきってから堂々とお帰りになっては、あなたの浮名が立つのはともかく、私の名が立つのが口惜しうございます。(同上)

(注)玉櫛笥:ここでは「覆ひ」の枕詞になっている。

(注)-み 接尾語:①〔形容詞の語幹、および助動詞「べし」「ましじ」の語幹相当の部分に付いて〕(…が)…なので。(…が)…だから。▽原因・理由を表す。多く、上に「名詞+を」を伴うが、「を」がない場合もある。②〔形容詞の語幹に付いて〕…と(思う)。▽下に動詞「思ふ」「す」を続けて、その内容を表す。③〔形容詞の語幹に付いて〕その状態を表す名詞を作る。④〔動詞および助動詞「ず」の連用形に付いて〕…たり…たり。▽「…み…み」の形で、その動作が交互に繰り返される意を表す。(学研)

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『さなかずら』は『さねかずら』とも呼ばれ、山地に自生する雌雄異株のつる性の常緑木でる。実(ミ)のことを『サネ』と言うが、秋に熟す『サネ』の美しい蔓木(ツルボク)という意味から付いた名でる。現在は『実葛』と書き『サネカズラ』と呼ぶ人が多く、万葉集には両方の名で登場する。(中略)『実葛(サネカズラ)』が別名『美男葛(ビナンカズラ)』と呼ばれるのは、小枝をぬるま湯に一夜浸し、樹皮に含まれたトロリとした粘液を整髪料(ポマード)に使ったことからで、髪がカチカチに固まり効果が強い。」と書かれている。

 

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さなかずら・さねかずら(野田市HPより引用させていただきました)

 

 この九四歌を含む九一から九五歌の五歌は、同じ時のものではないが、「天智天皇と鏡王女」(九一、九二歌)、「鏡王女と藤原鎌足」(九三,九四歌)、「藤原鎌足采女」(九五歌)として一つの宮廷ロマンスの流れをまとめたものである、と伊藤 博氏は、その著「萬葉相聞の世界」(塙書房)の中で述べられている。

 

  九一から九五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その328)」で紹介している。

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 「さなかずら・さねかずら」を詠んだ歌は、万葉集では十首収録されている。こちらはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その731)」で紹介している。

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 鏡王女の歌は五首(九二、九三、四八九、一四一九、一六〇七歌)収録されている。ただし、四八九歌と一六〇七歌は重複収録となっている。これらについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その189)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「萬葉集相聞の世界」 伊藤 博 著 (塙書房

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物説明板」

★「野田市HP]

万葉歌碑を訪ねて(その1084)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(44)―万葉集 巻七 一三一一

●歌は、「橡の衣は人皆事なしと言ひし時より着欲しく思ほゆ」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(44)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(44)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆橡 衣人皆 事無跡 日師時従 欲服所念

                                   (作者未詳 巻七 一三一一)

 

≪書き下し≫橡(つるはみ)の衣(きぬ)は人(ひと)皆(みな)事なしと言ひし時より着欲(きほ)しく思ほゆ

 

(訳)橡染(つるばみぞ)めの着物は、世間の人の誰にも無難に着こなせるというのを聞いてからというもの、ぜひ着てみたいと思っている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)つるばみ【橡】名詞:①くぬぎの実。「どんぐり」の古名。②染め色の一つ。①のかさを煮た汁で染めた、濃いねずみ色。上代には身分の低い者の衣服の色として、中古には四位以上の「袍(はう)」の色や喪服の色として用いた。 ※古くは「つるはみ」。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ことなし【事無し】形容詞:①平穏無事である。何事もない。②心配なことがない。③取り立ててすることがない。たいした用事もない。④たやすい。容易だ。⑤非難すべき点がない。欠点がない。(学研) ここでは④の意 ➡「男女間のわずらわしさがない」の譬え

 

 「橡の衣」を身分の低い女性に喩え、身分違いのそのような気安い(着やすい)女性を妻にしたいと考えている男の歌である。日頃の思いと逆に逃避した心境であろうか。

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『つるはみ・つるばみ』は山林に多い落葉高木の「櫟(クヌギ)【椚・橡】」のことで、葉の形が細長くてクリに似ている。クヌギの名の由来は、国中が大切にする国木(クニギ)の意味だという。(中略)クヌギの実、すなわち『どんぐり』を包む『殻斗(カクト)』の煎じ汁で染めた庶民の布を『橡(ツルハミ)染め』と言い、色は鉄焙煎(テツバイセン)による紺黒色や黒ねずみ色で『橡(ツルバミ)色』とか『鈍(ニビ)色』と呼ばれている。」と書かれている。

 

 「橡」は万葉集では六首収録されている。この歌ならびに全六首はブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その597)」で紹介している。

 ➡ 

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「橡染め」とあるが、染め物の技術を詠み込んだ海石榴市の歌垣の歌碑が春日大社神苑萬葉植物園にある。歌をみてみよう。

 

◆紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十衢尓 相兒哉誰

                  (作者未詳 巻十二 三一〇一)

 

≪書き下し≫紫(むらさき)は灰(はい)さすものぞ海石榴市(つばいちの)の八十(やそ)の衢(ちまた)に逢(あ)へる子や誰(た)れ

 

(訳)紫染めには椿の灰を加えるもの。その海石榴市の八十の衢(ちまた)で出逢った子、あなたはいったいどこの誰ですか。(伊藤 博著「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は掛詞の序。「海石榴市」を起こす。紫染めには媒染剤に椿の灰を使う。

 (注)ちまた【巷・岐・衢】名詞:①道の分岐点。分かれ道。辻(つじ)。②町中の道。街路。③所。場所。 ※「道股(ちまた)」の意。(学研)

 

 「問答歌」であり、この歌と次の歌がセットになっている。

 

◆足千根乃 母之召名乎 雖白 路行人乎 孰跡知而可

                  (作者未詳 巻十二 三一〇二)

 

≪書き下し≫たらちねの母が呼ぶ名を申(まを)さめど道行く人を誰と知りてか

 

(訳)母さんの呼ぶたいせつな私の名を申してよいのだけれど、道の行きずりに出逢ったお方を、どこのどなたと知って申し上げたらよいのでしょうか。(同上)

 

 美しい「紫色」は、椿の灰汁をさしてこそ出来上がる。女も男と触れて美しくなれるのでですよ、お逢いできたあなたはどなたですか、と女を誘っているのである。染め物の技術を知った巧みな歌である。女の方もその意味が分かっているのであろう。女の方も、その気になって、「母が呼ぶ名」を答えたい(結婚承諾の意向が強い)が、男の名がわからない、と男に名を名乗ることを求めている。男が先に名乗るのがルールになっている。

 万葉集の巻一の巻頭歌で雄略天皇が、「菜摘ます子」に結婚を申し込むにあたり「我こそば告(の)らめ家をも名をも(私の方から先にうち明けようか、家も名も)」と詠っているがルール通りである。

 

 口説き文句もハイレベルで、相手も理解ができて紫に変わる意向を表に出している驚くべき歌である。

 

 桜井市金屋地区は、山辺の道と大和川、すなわち陸路と水路の交わる場所で古くから交通の要所であり歌垣も行われていた。海石榴市の名を遺す「海石榴市観音堂」がある。

この歌については、二年前に「海石榴市観音堂」ならびに「春日大社神苑萬葉植物園」を訪れた時のブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その59改、60改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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万葉集で詠われた「染め」、「色」、「顔料」などに関した歌についていくつかは、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その952)」で紹介している。

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 雄略天皇の巻頭歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その95改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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  あの広い春日大社神苑萬葉植物園に、陶板の歌碑(プレート)は数多くあれど、歌碑らしい歌碑は「三一〇一、三一〇二歌の歌碑」一基である。これが建てられているのは、歌垣の歌は民謡に近いもので、「口誦時代」の歌である。いわば万葉集の原点ともいえるからであろう。しかも染め物技術に関する、植物と人の生活に関わりが深い、しかも男と女の出逢いの歌という人の営みが歌いこまれた歌だからという理由かもしれない。

 

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春日大社神苑萬葉植物園万葉歌碑(作者未詳)

 二年前のブログを今読み返すと、歌碑ありきで、歌の解説をしている感じがする。万葉歌碑ならびに万葉植物にふれ万葉の世界に徐々に染め上げられているように思える。

 いい色に染めあがるように歌碑に触れていきたいものである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代の恋愛生活 万葉集の恋歌を読む」 古橋信孝 著 (NHKブックス

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その1083)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(43)―万葉集 巻八 一五三八)

●歌は、「萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(43)万葉歌碑<プレート>

●歌碑は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(43)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝▼之花

                  (山上憶良 巻八 一五三八)

   ▼は「白」の下に「八」と書く。「朝+『白』の下に『八』」=「朝顔

 

≪書き下し≫萩の花 尾花(をばな) 葛花(くずはな) なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふぢはかま) 朝顔の花

 

(訳)一つ萩の花、二つ尾花、三つに葛の花、四つになでしこの花、うんさよう、五つにおみなえし。ほら、それにまだあるぞ、六つ藤袴、七つ朝顔の花。うんさよう、これが秋の七種の花なのさ。(伊藤 博著「萬葉集 二」角川ソフィア文庫より)

 

 この歌については、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1027)」でそれぞれの花についても解説を加えている。

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 一五三七、一五三八歌の歌碑は、春日大社北参道にもある。こちらについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その61改、62改)」で紹介している。

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 春日大社について改めて調べてみよう。「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>(奈良県ビジターズビューローHP)」に次のように書かれている。

神護景雲二年(768年)、今の地に社殿が造営され、現在のような規模が整ったのは平安時代前期のこと。境内には、朱塗りのあでやかな社殿が立ち、古来より藤の名所としても有名。また、境内には春日大社国宝殿があり、国宝352点、重要文化財971点を含む約3000点を収蔵、公開している。皇室の尊崇に加えて、庶民の信仰も厚かったため、数多くの灯籠が奉納された。一之鳥居(重要文化財)から春日灯籠が並ぶ参道を行くと、春日大社神苑萬葉植物園がある。園内には万葉集に登場する草花約300種が植えられており、ゆかりの万葉歌が添えられている。背後の春日山を包む春日山原始林は、春日大社の社叢として保護されてきたことで、太古の姿を現在に伝える。(国の特別天然記念物に指定)1998年12月に『古都奈良の文化財』として世界遺産に登録された。」

春日大社HPに、「神山である御蓋山ミカサヤマ(春日山)の麓」に「奈良時代神護景雲二年(768年)、称徳天皇の勅命により(中略)御本殿が造営され」と書かれている。

 

奈良県HP「はじめての万葉集vol.18」に次のような記述がある。「(前略)春日大社の本殿は御蓋山(みかさやま)のふもとに建てられています。御蓋山は、春日山の手前にある左右対称のなだらかな笠(かさ)型の山で、禁足地(きんそくち)として今も守られている聖地です。その御蓋山は『万葉集』では『春日なる三笠の山』と詠まれており、春日の地を代表する山だったようです。若草山のことを後世に三笠山と呼んだために、現在では一般的に御蓋山と書き分けがなされています。ただし『万葉集』の三笠山を、現在の春日山御蓋山などの総称とする説もあります。」

 

 若草山を「三笠山」と後世に呼ぶようになったため、万葉集に詠まれている「春日なる三笠山」は「御蓋山(みかさやま)」と書き分けているのである。

 今まで、若草山三笠山と思い込んでいたので、春日大社の神山としては位置的にしっくりしないままであった。恥ずかしながら、今回調べて納得がいったのである。

 

 「御蓋山(みかさやま)」を詠んだ歌をみてみよう。

 

◆八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼将座 御子之嗣継 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 櫻花 木晩牢■鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀▲丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男壮鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思煎敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮将徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃真尓真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞

田辺福麻呂 巻六 一〇四七)

       ※ ■は「白」に「八」である、 ▲はやまへんに鬼である

 

≪書き下し≫やすみしし 我が大君の 高敷(たかし)かす 大和の国は すめろきの 神の御代(みよ)より 敷きませる 国にしあれば 生(あ)れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天(あめ)の下(した) 知らしまさむと 八百万(やほよろづ) 千年(ちとせ)をかねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 三笠の野辺(のへ)に 桜花(さくらばな) 木(こ)の暗隠(くれがく)り 貌鳥(かほどり)は 間(ま)なくしば鳴く 露霜の 秋去り来れば 生駒山 飛火(とぶひ)が岳に 萩の枝(え)を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響(とよ)む 山見れば 山も見が欲(ほ)し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)の うちはへて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの極(きは)み 万代(よろづよ)に 栄え行かむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代(あらたよ)の ことにしあれば 大君の 引きのまにまに 春花(はるはな)の うつろひ変はり 群鳥(むらとり)の 朝立ち行けば さす竹の 大宮人の 踏み平(なら)し 通ひし道は 馬もいかず 人も行かねば 荒れにけるかも

(訳)あまねく天下を支配されるわれらの大君が治められている日の本の国は、皇祖の神の御代以来ずっとお治めになっている国であるから、この世に現れ給う代々の御子が次々にお治めになるべきものとして、千年にも万年にもわたるとこしえの都としてお定めになったこの奈良の都は、陽炎の燃える春ともなると、春日山の麓の御笠の野辺で、桜の花の木陰に隠れて、貌鳥(かほどり)はとくに絶え間なく鳴き立てる。露が冷たく置く秋ともなると、生駒山の飛火が岳で、萩の枝をからませ散らして、雄鹿は妻呼び求めて声高く鳴く。山を見れば山も見飽きることがないし、里を見れば里も住み心地がよい。もろもろの大宮人がずっと心に思っていたことには、天地の寄り合う限り、万代ののちまでも栄え続けるであろうと、そう思っていた大宮であるのに、そのように頼りにしていた奈良の都であったのに、新しい御代(みよ)になったこととて、大君のお指図のままに、春の花が移ろうように都が移り変わり、群鳥が朝立ちするように人びとがいっせいに去って行ってしまったので、今まで大宮人たちが踏み平(な)らして往き来していた道は、馬も行かず人も通わないので、今はまったく荒れ放題になってしまった。(伊藤 博著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)やすみしし 【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている                   意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たかしく【たかしく】他動詞:立派に治める(学研)

(注)すめろき【天皇】:天皇。「すめろぎ」「すめらぎ」「すべらき」とも。(weblio古語辞書)

(注)かほとり【貌鳥・容鳥】鳥の名。未詳。顔の美しい鳥とも。            「かっこう」とも諸説ある。「かほどり」とも。(weblio古語辞書)

(注)とぶひがたけ【飛火が岳】:合図のための烽火台のある峰。

(注)しがらむ【柵む】他動詞:①からみつける。からめる。②「しがらみ」を作りつける。(weblio古語辞書)

(注)やそ【八十】名詞:八十(はちじゅう)。数の多いこと。(weblio古語辞書)

(注)とも【伴】名詞:(一定の職能をもって朝廷に仕える)同一集団に属する人々。(学研)

 

 

 題詞は、「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」<寧楽の故郷を悲しびて作る歌一首 并(あは)せて短歌>である。

(注)故郷:古京の意。

(注)天平十三年(741年)元正天皇恭仁京遷都を行った折に詠った歌か。

 

短歌もみてみよう。

 

◆立易 古京跡 成者 道之志婆草 長生尓異煎

                 (田辺福麻呂 巻六 一〇四八)

 

≪書き下し≫たち変り古き都となりぬれば道の芝草(しばくさ)長く生(お)ひにけり

 

(訳)打って変わって、今や古びた都となってしまったので、道の雑草、ああこの草も、丈高く生(お)い茂ってしまった。(同上)

(注)たちかわり〔‐かはり〕【立(ち)代(わ)り】[副]:代わる代わる。たびたび。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

◆名付西 奈良乃京之 荒行者 出立毎尓 嘆思益

                  (田辺福麻呂 巻六 一〇四九)

 

≪書き下し≫なつきにし奈良の都の荒れゆけば出(い)で立つごとに嘆きし増(ま)さる

 

(訳)すっかり馴染となった奈良の都が日ごとにあれすさんでゆくので、外に出で立って見るたびに、嘆きはつのるばかりだ。(同上)

(注)なつきにし:慣れ親しんだ

 

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その83改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。御容赦下さい。)

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 恭仁京はそれまでの都に比べ規模も小さく、短命な都(天平十二年から同十六年)であった。驚くことに、恭仁京大極殿の建物は、第一次平城京大極殿を移築したものであったという。(「恭仁京 よみがえる古代の都」<木津川市教育委員会発行パンフレット>)

 大伴家持は、天平十五年に「久邇(くに)の京を讃(ほ)める歌を詠っている。」

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その184)」で紹介している。

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 「御蓋山(みかさやま)」を詠んだ歌に戻って、あと二首みてみよう。

 

◆春日在 三笠乃山二 月船出 遊士之 飲酒坏尓 陰尓所見管

                 (作者未詳 巻七 一二九五)

 

≪書き下し≫春日にある御笠(みかさ)の山に月の舟出(い)づ 風流士(みやびを)の飲む酒坏(さかづき)に影は見えつつ

 

(訳)ここ春日の御笠の山に月の舟が出た。風流士(みやびお)の飲む酒坏に影を落としてさ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)春日にある御笠(みかさ)の山:春日山の前方にある一峯。

(注)みやびを【雅び男】名詞:風流を解する男。風流を好む男。風流人。(学研)

 

伊藤 博氏は、「春日有」の場合は、「かすがなる」と読み、「春日在」の場合は、「かすがにある」と読んでおられる。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その151)」で紹介している。

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もう一首みてみよう。

 

◆春日在 三笠乃山尓 月母出奴可母 佐紀山尓 開有櫻之 花乃可見

                   {作者未詳 巻十 一八八七)

 

≪書き下し≫春日(かすが)にある御笠(みかさ)の山に月も出(い)でぬかも 佐紀山(さきやま)に咲ける桜の花の見ゆべく

 

(訳)東の方春日に聳(そび)えるある御笠の山に早く月が出てくれないものか。西の方佐紀山に咲いている桜の花がよく見えるように。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 (注)佐紀山:奈良市佐紀町の北部一帯の山

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その4改)」で紹介している。

(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio古語辞書」

★「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>」 (奈良県ビジターズビューローHP)

★「はじめての万葉集vol.18」 (奈良県HP)

★「春日大社HP」

★「恭仁京 よみがえる古代の都」 (木津川市教育委員会発行パンフレット)